雪の
降らない、
暖かな
南の
方の
港町でありました。
ある
日のこと、
一人の
娘は、その
町の
中を、あちらこちらと
歩いていました。しばらく
避寒に、こちらへやってきていたのですけれど、あまり
日数もたちましたので、お
父さんにつれられて、また
北の
方の
故郷へ
帰ろうとしました。その
前日のこと、
娘は、つぎには、いつくるかわからない、このなつかしい
町の
有り
様をよく
見ておこうと、こうして
歩いていたのであります。
町の
郊外には、
丘の
上に、
圃の
中に、オレンジが、
美しく、
西日に
輝いていました。
青黒い、
厚みのある
葉の
間から、
黄色い
宝石で
造られた
珠のように
見られました。また、
波の
静かな
港の
口には、いくつも
船が
出たり
入ったりしていました。
遠くへいく
汽船は、おっとりとうるんだ、
黄昏方の
空に、
黒い
一筋の
煙を
上げていました。そして、
高いほばしらの
頂には、
赤い
旗が、ちょうど
真っ
赤な
花のように
風にゆらめいていました。
娘には、それらの
景色は、
歩いているときは
目に
入らなかったのです。けれど、たびたび
見た
景色でありまして、
頭の
中に
残っていましたから、いつでも
思い
出しさえすれば、ありありと
目の
中に
映ってきました。
娘は、
北の
寒い
国に
帰ってからも
思い
出して、なつかしむにちがいありませんでした。
町の
中を
歩いている
娘は、ただこのとき、
汽笛の
音を
耳に
聞いたばかりです。それは、
港に
停まっている
汽船から
吹いた
笛の
音であります。
彼女は、この
笛の
音を
聞くと、これから
帰る
故郷の
景色を
目に
描きました。そして、
考えました。
「まだ、
私の
国は
寒いだろう。しかし、じきに
春になる。そうすれば、
花も
咲くし、いろいろの
鳥がやってくる!」
こう
思いますと、やはり、
胸の
中の
血潮は
躍ったのであります。いろいろの
鳥は、この
町の
空に、また
林の
中に
鳴いていました。しかし、この
小鳥も、いつかは、あの
北の
方の、
彼女の
故郷の
方へ
飛んでゆく
日があるのだと
思うと、
娘は、これらの
小鳥を
自分の
家の
裏にある
林の
中で、ふたたび
見る
日を
楽しみとせずにはいられませんでした。
「
私は、なにをお
土産に
買って
帰ったらいいだろうか。」と、
娘は、この
町で
製造されるいろいろな
品物や、また、お
菓子のようなものを
買い
集めました。そして、また、いつまでも
自分が
記念にして、しまっておくようなものが、なにか
見つからないものかと
思って、
町の
両側をながめながら
歩いていました。
すると
狭い
道の
上へ、
片側の
小さな
店先から、
紫色の
光線がもれてきて、ある
一ところだけ
紫色に
土の
上を
彩っていました。
娘は、その
光線がどこからどういうふうにもれてくるのであろうかと、
思わず、
店の
方へ
寄っていって、
色ガラスで
張られた
窓の
内部をのぞいてみました。
不思議にも、その
小さな
店は、
人形屋でありました。
奥のたなの
上に、いくつも
同じような
人形が
並べてありました。そして、そのそばで、
一人のおじいさんが、
筆をとって、
人形の
顔を
描いているのでありました。
おじいさんはランプの
下で、
人形の
目や、
鼻や、
口を
描いていました。そこで、いちいち
筆を
動かしては、
大きな
眼鏡をかけた
目で、じっと
人形の
顔をながめていました。
自分の
気にいると、さもうれしそうに、それを
丁寧に
箱の
中に
納めました。そして、つぎの
人形の
顔を
描きにかかったのです。もし、どこか
自分の
気にいらないところがあると、おじいさんは、いつまでもいつまでも
頭をかしげて、そのでき
損なった
人形の
顔をながめていましたが、しまいに
前のよくできたときとは
違って、
手荒に一
方の
箱の
中に
入れてしまいました。
娘は、
黙って、それを
見ていましたが、この
人形こそ
自分は
買って
帰って、
長い
間の
忘れがたい
記念にしようと
思いました。そこで、
彼女は
店先の
戸を
開けて、
中に
入りました。
「お
人形を
見せてくださいな。」と、
娘はいいました。
脊を
円くして、
人形の
顔を
描いていたおじいさんは、このとき
筆を
下に
置きました。そして
立ってきて、
娘の
前へ、たなの
上にあった二つの
箱を
下ろして
並べました。
「さあ、どちらになさいますか。」といって、おじいさんは
聞きました。
娘は、二つの
箱の
中から
人形を
手に
取って
見くらべたのであります。一つの
箱には、「しあわせ
人形」と
書いてありました。そして、もう一つの
箱には、なんとも
書いてありませんでした。
「こちらのほうは、すこし
価が
高うございます。こちらのほうは、すこし
安うございます。」と、おじいさんはいって、「しあわせ
人形」と、
書いてある
箱の
中に
入っている
人形は
価が
高いのだといいました。
娘は、そのどちらも
手に
取り
上げて、よく
見ましたけれども、すこしも
顔や、
形に、ちがいはありませんでした。
「どこが、ちがっているのですか?」と、
彼女は、おじいさんにたずねました。
「この二つは、
見たところでは、どこもちがいはありません。ただ、
人形の
顔を
描いた
時分の
私の
気持ちです。『しあわせ
人形』と
書いてある
箱の
中にはいっている
人形は、その
顔を
描くときに、
私の
気持ちが
晴れ
晴れとしていましたから、そう
書いたのです。そして、もう一
方の
箱の
中に
入っている
人形の
顔を
描いたときには、なんとなく
私の
気持ちがもの
足らなさを
覚えていたから、
字の
書いてない
箱の
中に
納めたのです。」と、おじいさんは
答えました。
娘は、みょうなことをいうおじいさんも、あるものだと
思いました。
「そんなら、こちらのなにも
書いてない
箱の
中に
入っているお
人形さんは、
不しあわせな
人形なんですか。」と、
彼女は、おじいさんに
問いました。
おじいさんは、
大きな
眼鏡の
底から、
落ちくぼんだ
目を
輝かして、じっと
娘の
顔を
見ながら、「それは、
人間の
身の
上も、
人形の
身の
上も
同じことです。だれも
行く
末のことを
知るものがありません。ただ、
私が
人形の
顔を
描くときに、一
方は
気持ちよく、一
方は、なにか
心の
中にもの
足らなさを
感じていたというまでです。」と、おじいさんは
答えました。
娘は、
高いほうの
人形と、
安いほうの
人形と、二つ
買いました。そして、その
店から
出ました。
空の
色は、
水色がかって、
月がほんのりと
夢のように
浮かんで、
港の
町の
屋根を
照らしていたのです。
彼女は、二つの
人形の
幸福を
祈りながら
道を
歩いて
宿に
帰りました。
翌日の
晩には、もう、
娘は、
父といっしょに、
汽車の
中に
腰をかけていました。そして、あの
夢のように
美しい
港の
町は、すでに
遠く、あちらとなってしまったのです。
二日めの
夜は、
故郷の
家に
帰ってみんなと
話をしていました。まだ、
北の
国には、
雪が
地の
上に
積もっていました。
その
晩は、
若い
叔母さんも、
遊びにきておられて、
家の
中は
明るくにぎやかでありました。
娘は、二つの
人形を
叔母さんに
見せました。
「こちらが、しあわせの
人形よ、こちらは
不しあわせの
人形なのよ。だって、
叔母さんは、この二つが
同じには
見えないこと?」と、
娘はたずねました。
叔母さんは、二つの
人形を
手に
取り
上げて、
「まあ、かわいらしいお
人形だこと、ほんとうにいいお
人形さんなのね。二つ
同じなんでしょう。どうして、一つはしあわせの
人形で、一つは
不しあわせなの?」と、
叔母さんは
頭をかしげて
聞かれました。
「だって、
人形屋のおじいさんが、こちらは、しあわせで、こちらは、
不しあわせだといったのですもの。」
「そう、
私が、
着物を
造ってきてあげましょうね。」と、
叔母さんはいわれました。
二、三
日たつと、
叔母さんは、二つの
人形に
着物を
造って
持ってこられました。一つのは、
赤い
色の
勝ったちりめんで、一つのは
紫色がかったメリンスで
縫われていました。
「ちりめんがこれだけしかなかったの。だから、しあわせのお
人形さんに
着せて、こちらのはメリンスにしておいたのよ。またこんど、いい
布があったときに、
不しあわせのお
人形さんに、
着物を
造ってあげましょうね。」と、
叔母さんはいわれました。
二つ
人形を
並べておくと、
赤いちりめんの
着物を
着たほうがお
嬢さまに
見えて、
紫のメリンスの
着物を
着たほうがなんとなく、
腰元のように
見られたのでした。
また、しばらく
日数がたって、ある
夜のことでありました。
近所の
知った
家の
小母さんが、
子供を
連れて
遊びにこられました。
帰る
時分に
子供は
娘の
人形をしっかりつかんでいて
離しませんでした。
「これは、お
姉ちゃんの
大事な
人形さんだから、
坊が
持ってゆくのでないの。」と、
小母さんが、いくらいっても、
子供は
手から
人形を
離しませんでした。
「いいの、
小母さん、
貸してあげますから、
持っていらっしゃっていいの。」と、
娘はいいました。
「ほんとうに、すみませんね。あした、じきに
持ってきますから、どうか
貸してくださいね。」と、
小母さんはいわれました。
子供の
持っていたのは、
不しあわせのほうの
人形でありました。
子供をおぶって、
小母さんは
娘や、
彼女のお
母さんたちにあいさつをして、
家から
出てゆきました。
外には、
粉雪がさらさらと
降っていました。
小母さんは、もう
自分の
家へ
着かれたろうと
思われる
時分でした。
不意に
戸口で、げたに
着いている
雪をたたいたものがありました。だれかと
思うと、その
小母さんがもどってきました。
「まあ、
途中で、この
子供がお
人形さんを
落としたのですよ。いくら
探しても
見当たらないので、ここまでもどってきました。」といわれました。
「そんなら、
私が
探してきます。」と、
娘は
立ち
上がりました。
娘のお
母さんは、ちょうちんに
火をつけてくださいました。そして、
子供の
小母さんと
娘はいっしょに
連れだって、
人形を
探しに
出かけました。
「ほんとうに、すみませんね。」と、
小母さんは、
娘にわびられました。
「いいえ、すぐに
見つかってよ。」と、
娘は、
笑いながらいって
下を
向いて
歩いてゆきました。
すると、だれも
人の
通らない、
雪道の
上に、
不しあわせの
人形は
落ちていました。そして、もうその
顔の
上にも、
体の
上にも
粉雪のかかっているのが、ちょうちんの
光に
照らされて
見られました。
「ああ、ここにありました。」といって、
娘は
雪のかかった
人形を
拾いあげた。そして、
心の
中で、なんという
不しあわせの
人形だろうと
思いました。
そこで、
小母さんに
別れて、
彼女は、しっかりと
人形を
抱きながら
家にもどってきました。そればかりでなく、その
年の
夏には、
不しあわせの
人形は、たんすの
上から
落ちて、
片手を
折ってしまいました。
「どうして、このお
人形さんばかり
不しあわせなのでしょう?」と、
彼女は
怪しみました。
いつしか、
月日はたちました。いつか、
南の
方の
港の
町にいってから三
年めになりました。
冬が、またやってきましたときに、
「ちょうど、
子供の
学校も
休みだから、あの
町へいってこよう。」と、お
父さんはいわれました。そして、いっしょにゆかれるということを
聞いたときに、
彼女は、どんなに
喜んだでありましょう。
「ああ、またおじいさんのところへいって、
人形を
買いましょう。」と、こう
彼女は
思いました。そして、もうけっして、
不しあわせの
人形は
買うまいと
思いました。
南の
国の
町の
有り
様は、三
年前とすこしも
変わりはありませんでした。
港の
景色にも、
丘のながめにも
変わりはありませんでした。いろいろの
小鳥は、
林の
中にないていましたし、オレンジの
実は、やはり
黄色に
熟していました。
娘は、ある
日、その
町の
中を
歩いていました。いつかの
人形屋にゆこうと
思っていました。
晩方の
夢のようにかすんだ
空の
下を、
紫色の
光のさす
店を
探しながら
見覚えのある
路次に
入ってゆきました。
「ああ、あの
名人のおじいさんは
亡くなりましたよ。
気まぐれ
者で、
自分の
造った
人形にさえ、
好ききらいをつけた
人ですが
······もうあの
店はありません。いまでは、あの
人の
造ったものなら、どんな
壊れた
人形でも
大騒ぎをして、
旅の
人などは
集めてゆきます。」と、
町の
人は、
娘がおじいさんの
店を
問うたときにいいました。
彼女は、はじめて、あの
人形が、そんなにいいのであるかということを
知りました。
娘はこのことをお
父さんに
告げると、お
父さんも、
驚いた
顔をしました。そして、
彼女は、
自分の
家に
帰ったとき、二つの
人形を
同じ
箱の
中に
入れて、
大事に
飾ることにいたしました。このときから、
長い
間不しあわせであった
人形は、もう一つのしあわせ
人形と
同じように、しあわせになったのであります。