夏の
日のことでありました。
汽車の
運転手は、
広い
野原の
中にさしかかりますと、
白い
着物を
着た
男が、のそりのそりと
線路の
中を
歩いているのを
認めました。
このあたりには
人家もまれであって、
右を
見ても
左を
見ても、
草の
葉がきらきらと、さながらぬれてでもいるように、
日の
光に
照らされて
光っていました。また、
遠近にこんもりとした
林や
森などが、
緑色のまりを
転がしたようにおちついていて、せみの
声が
聞こえていました。
白い
男を
見ると、
運転手は、ハッと
思って、あわただしく
警笛を
鳴らしました。なぜなら、
汽車がちょうど
全速力を
出して
走っていたからであります。
しかし、
白い
男は
平気で、やはり
線路の
内側を
歩いていました。もうすこし
早く、これを
見つけたら、こんなに
運転手は、あわてることもなかったのでしょうけれど、このあたりはめったに
人の
通るところでなし、
安心をして、
彼は
前方に
見える
遠い
国境の
山影などをながめて、その
山の
頂に
飛んでいる
雲のあたりに
空想を
走らせていたのであります。
白い
影は、もう、二十
間······十
間······すぐ
目の
前に
迫りました。
運転手は
大急ぎで
進行をしている
汽車を
止めました。その
反動で、どうしたはずみにか、
列車は
大脱線をしてしまいました。おりよく、それが
貨車であったからたいした
負傷者はなかったけれど、
貨車は
幾台となく
壊れて、
田の
中に
埋まったり、
堤防の
上に
転覆したりして、たいへんな
騒ぎになりました。
運転手は、
負傷をしました。そして、うめきながら、
白い
着物を
着た
大男をひき
殺したと
告げました。
それで、みんなは、
汽車の
転覆の
原因が、
人をひき
殺そうとしたため、
急いで
汽車を
止めたのにあったことを
知りました。それにしても、こんな
大事件をひき
起こした
男は、どうなったかといって、みんなは、
汽罐車の
下をのぞいてみました。そこには
白い
着物を
着た
男がひき
砕かれて
血みどろになっているだろうと
思いましたのに、なんの
姿もありませんでした。
「
白い
男なんて、いないじゃないか?」
「どこにも
人間はおろか、ねこ一ぴきだってひかれていはしないじゃないか。」
みんなは、こう
口々にいいました。そして、これはまさしく
運転手が、むだ
目を
見たのだといいました。
あくる
日の
町の
新聞には、
運転手がむだ
目を
見たために、
貨物列車を
脱線さしてしまったことを
大きく
書いていました。そして、
運転手は、このごろ、
神経衰弱にかかっていたということもつけくわえて
報道しました。
すると、ここに、
白い
着物を
着た
大男が、その
後も
真昼ごろ、のそりのそりと
線路の
上を
歩いているのを
見たというものがありました。なんでも、その
人の
話によると、
雲をつくばかりの
大男であったというのでした。
こうした
奇怪な
話は、これまでに、二
度めであります。この
鉄道線路は、
西南から
走って、この
野原の
中でひとうねりして、それからまっすぐに
北方へと
無限に
連なっているのでした。
この
前この
地方に、
稀有な
暴風が
襲ったことがあります。そのときは、
電信柱をかたっぱしから
吹き
倒してしまいました。
高い
木は
折れ、
家は
倒れ、
橋は
流れてしまったので、じつに、
天地は
真っ
暗になったのであります。
人々は、そのときの
恐ろしかったことをいまでも
記憶しています。やはり、その
当座、一つのうわさがたちました。
なんでも、
暴風は、
黒い
太い
棒になってうずを
巻いて
過ぎていった。あの
暴風がくる
前、
灰色の
着物を
着た、
見上げるばかりの
大男が、この
鉄道線路の
上をのそりのそりと
歩いていたのを、
見たものがあったというのであります。
それで、このたびも
運転手が、
白い
着物を
着た
大男が、
線路内を
歩いているのを
見たといったことが、かならずしも、むだ
目ばかりでないといって、みんなに
不安を
抱かせたのです。
線路は
修繕されて、やがて
列車は、いままでのように
往復するようになりました。その
後になって、ふたたび
同じような
事件が
繰り
返されました。
もとより、これは、
別な
運転手で、もっと
年をとった
熟練な
男でありました。その
汽車には、
大臣とたくさんな
高等官が
乗っていました。この
野原にさしかかると、
汽車はしきりに
警笛を
鳴らしつづけましたが、
不意に、
停車場でもないのに
止まってしまったのです。
「どうしたのだ?」といって、みんなは、
客車の
窓から
頭を
出して、
外をのぞきました。
運転手や、その
他、
汽車の
勤務員は、
車内から
飛び
降りて、
前方の
汽罐車の
方に
向かって
駆けていきました。
「ひいたな?」と、
客車に
乗っている
人々は、
頭を
出して、その
方を
見ながらいいました。
また、一
等室からも、
大臣や、
高等官の
顔がちょっとばかり
現れました。しかしその
人たちの
顔は、じきに
引っ
込んでしまいました。けれど、
内部では、やはり
他の
客車に
乗っている
人たちと
同じようなことをいって、うわさをしていたにちがいありません。
「
不思議だ!」という
声が、あちらにも、こちらにも
起こりはじめました。
「いったい、どうしたことかな?」と、
大臣は
眉のあたりをしかめて、おそばのものにたずねました。おそばのものは、さっそく、
汽車の
監督を
呼んで、
子細をさらにたずねたのであります。
監督は
恐縮して、いまあった
事実を
答えました。
「
線路内を
歩いていくものがありますから、
笛を
鳴らしたのです。」
「その
笛の
音は
私も
聞いた。」と、シルクハットをかぶった
高等官はうなずきました。
「
歩いている
人間は、
耳が
聞こえないとみえて、いっこう
平気で、
汽車が
後からくるのを
気づかなかったのです。しかたがないものですから
汽車を
止めました。しかし、そのときは、もう
遅かったか、
歩いている
人間のそばまで
汽車が
走っていきました。」
「ひいてしまったのか? しかし、
前後の
事情を
聞けばしかたがないことだ。」と、
高等官はいいました。
「いえ、ところが、
線路の
上にも
血が
流れていず、またあたりにも、その
人間の
影が
見えないのです。」
「どんなようすをしていたのか?」
「やはり、
白い
着物を
着ていたといいます。」
こう
答えて、
監督は、
高等官の
顔を
仰ぎました。
「
最近、
汽車が
脱線したときも、それだったじゃないか。また、
運転手がむだ
目を
見たのではないか。」と、
高等官はいいました。
「
今度は、
二人も、三
人も、
白い
着物を
着た
男を
見たものがあるのです。」と、
監督は
頭をかしげながら
答えました。
おそばの
者は、このことを
大臣に
申しあげました。すると、
大臣は、
大きな
体をゆすって、
「このたびは、
脱線をしなくて、
命拾いをしたというものじゃ。」と、
驚いたような、
喜んだような
顔つきをしていいました。
大臣の
乗っていた
列車が、
途中不時の
停車をしたというので、また
問題になりました。そして、あくる
日の
町から
出る
新聞には、
運転手が、どうしてこのごろ、こうむだ
目を
見るのか?
気候の
変化で、もしくは、
過度の
労働でみんな
神経衰弱にかかっているのではないかという
疑いを
起こしていました。
その
後は、
汽車が
進行してくる
際に、たとえ
線路内に、
子供や
老人の
影を
見ましても、
運転手は
警笛を
鳴らさずに
進行をつづけることがありました。
「これも、きっとむだ
目であろう。」と、
彼らは
思ったからであります。
たちまち、
責任問題が
起こりました。
轢死者の
数が
著しく
増したからです。なぜ、
警笛を
鳴らさなかったか?
被害者の
側では、こういって、
鉄道側を
非難いたしました。
白い
影は、
鉄道線路を
伝って、ついに
街の
方へやってきました。こんどは、
街のあちらこちらで、
白い
影のうわさが
盛んになりました。
「
今日、
向かいのご
隠居が、
取引所で、
白い
男がみんなの
中に
混じって
見物していたといわれました。それで、
昼過ぎからの
株がたいへんに
下がって、
大騒ぎだったそうですよ。」と、あるところでは、おかみさんが
近所の
人に
話をしていました。
「
白い
男ってなんでございますか?」
「
白い
着物を
着た、
気味の
悪い
男だそうですよ。」と、おかみさんは
答えました。
そこへ、ちょうど
隠居が
通りかかりました。
二人の
女は、おじいさんを
呼び
止めました。
「おじいさん、あんたは、
白い
男をごらんなさったのですか。」と、
一人の
女はたずねました。
「めっそうな、
私が
見たら、いまごろは
破産せんけりゃならん。
白い、
気味の
悪い
目つきをした
男が
見物人の
中に
混じって、じっとしていたということでな。なんでもその
男を
見たものは、みんな
株に
損をしたという
話じゃ。」と、おじいさんはいいました。
ある
日、
街の
四つ
角のところで、
電車と
自動車とが
衝突しました。
自動車はもはや
使用されないまでに
壊され、
電車もまた
脱線して、しばらくは、そのあたりは
雑踏をきわめたのであります。そして、
怪我人もできましたので、
電車と
自動車の
運転手は、
警察へいってしらべられることになりました。
「どうして、
衝突をしたのだ?」といって、
警官がききますと、
自動車の
運転手は、そのときのことを
思い
浮かべるような
目つきをして、
「
晩方でありました。
両側には、
燈火のついたころあいです。
電車の
停留場には、たくさん
人が
立っていました。
私は
注意をして、それらの
人たちを
避けながら
走っていますと、
目の
先へ、
小さな
白い
着物を
着たおじいさんが、ちょこちょこと
出てきたから、
私はとっさのことですし、たいそう
狼狽しました。その
前まで、そんな
老人が
歩いていることに
気づかなかったのです。
私はひくまいと
思って、
全速力で
脇の
方へそれますと、そのとたんにやってきた
電車と
衝突したのでした。」と
申しました。
「その
着物を
着た
老人はどうしたか?」と、
警官はききました。
「
不思議にも、その
間に
老人の
姿は
消えたように、どこへいってしまったものか
見えなくなりました。」と、
運転手は
答えました。
「おまえの
見た、
白い
着物を
着た
老人というのは、
大男ではなく
小さかったのか?」
警官は、これまで、
大きな
白い
男が、
影のように
線路の
上に
立って、
幾たびか
汽車を
脱線さしたり、また
止めたりしたといううわさを
聞いていましたから、いま
小さな
白い
男だと
聞いて、
異様に
感じたからであります。
「
私たちの
見たのは、
白い
小さなおじいさんでした。」と、
両方の
運転手は、はっきりと
答えました。
「いつ、そんなに
小さくなったのか?」と、
警官は、くびをかしげました。
「そのことは、
私たちに、わかりません。」と、
運転手は、おそるおそる
答えました。
この
白い
影が、この
町に
入ってきたことは、どんなにみんなの
生活の
上に
不安を
与えたでありましょう。ほんとうに、ペストや、コレラが
入ってきたよりもおそろしい、
防禦のできない
事実であったからであります。
しかし、
白い
影が、ある
人の
目に
見えて、ある
人の
目に
見えないという
理由はない。それを
見る
人は、
気候の
関係で、また
神経衰弱にかかったからではなかろうかというような
解釈をした
人がありましたが、
実際において、
気づく
人と
気づかない
人との
相違があるということに、ほぼ
輿論はきまったのであります。
そして、いちばん
困ったことには、なにか
自分の
不注意で、
失敗をしたものが、
白い
影を
見たからといって、ほんとうは、
見もしないのに、すべての
過失を
白い
影に
帰してしまったことでありました。
「
白い
影をつかまえることにしよう。」
町の
人々は、こう
話をきめたのであります。そして、その
正体を
見とどけようと
思いました。
まだ
暑い、
夏の
時分、
野原を
白い
男がさまよっているときは、
大きな
雲つくばかりの
体でのそりのそりと、
真昼の
線路を
歩いたものであるが、
街に
入ってからは、
小男となって、
晩方から
夜にかけて、
多く
人混みの
中に
出かけるようになりました。それで、
捕らえることは
困難であったのです。しかし、だんだん
白地の
浴衣を
着る
人が
少なくなって、みんな
人々が
黒っぽい
着物を
着るようになってから、一
方では、やっと
白い
影を
捜すのに
都合がよくなりました。
幾日かたちましたけれど、まだ、
白い
男を
捕らえたものはありませんでした。なんでも、このごろは、
白い
男は、
月のいい
寒い
晩に、
町の
屋根から、
屋根を
伝わって、
星のように
飛んでいるのを
見たというものが、あちらこちらにありました。
「
地震があるのではなかろうか?」と、一
時は、こんなうわささえしたものがあった。また
夜はなるべく
外に
出ずに、
白い
影を
見ないものと、
早くから
戸を
閉めてしまうような
臆病者も
少なくはなかったのであります。
すると、こんどは、いままでとはまったく
違ったうわさがひろまりはじめました。
「
今年は、いままでにないことだ。
暴風もこず、
米はよくできて
豊年だ。
昔の
人の
話に、
白い
影が
入ってきた
年は
豊年だということだ。」というようなうわさがたちはじめると、
「
大河にかかっている
鉄橋の
根もとが
腐れていたのをこのごろ
発見した。
白い
影が
線路の
上を
歩いていたのは、それを
注意するためだった。」と、いうような
説が、
後から
後からつづいて
起こったのであります。
町の
新聞は、また
白い
影を
科学的に
批評をしていました。ある
理学士は、
白い
男のように
見えたのは、
水蒸気のどうかした
具合で、
人間の
形に
見えたのであろう。
秋から
冬にかけては、
毎夜のごとく、
月のいい
晩には、
白いもやがいろいろの
形で
立ち
上るものだ。また、
夏の
日、
野原で
見た、
白い
大男というのも、おそらく
同一の
現象で、
雲のようなものではなかろうかといって、なんでもなく、それを
解決していました。
最初、
白い
男を
見て、
汽車を
脱線さしたばかりでなく、
自分も
負傷した
運転手は、
神経衰弱から、むだ
目が
見えたのだと
判断されたものの、とにかく
汽車を
脱線さした
責任から
退職させられて、いまでは、
町に
近い
港の
汽船問屋に
勤めていたのであります。
もう
秋も
末のことでありました。
今夜にも、
冬がやってきそうに、
空の
色は
澄んで
海の
色はさえていました。
野原の
中の
林も
色づいて、こずえからは、
黄色い
葉がひとりでにこぼれるように、ほろほろと
落ちていました。また、
街の
並木の
葉は、たいてい
落ちつくしてしまって、
黒い
小枝の
先が
青い
空の
下に
細かく、
網の
目のように
透いて
見えていました。
この
港から、
南洋の
方へゆく
船は、
今夜出てゆくのが
今年じゅうの
最終でありましたが、あまりそれには
乗ってゆく
客もなかったのです。
夕陽は、
岡を
染め
街に
沈みかかっています。そのとき、
汽船の
待合室に、いつかの
運転手は、
一人の
不思議な
女をみとめました。
目の
美しい、
髪のちぢれた
娘が、
燃えるような
赤マントを
着て、たった
一人ベンチに
腰をかけて、
悲しそうな
目つきで、
海の
上をながめていたのです。そして、
娘は、
手の
中に、
小さい
真っ
白なねこを
抱いていました。
人が
近づくと、その
白いねこは
消えたように、マントの
下に
隠れてしまいました。そして、だれもそばにいなくなると、また、
真っ
白なねこは、
娘の
手の
中に
入って
遊んでいたのでした。
「この
町を
騒がした
白い
悪魔は、こいつでなかったか?」と、いつか
負傷した
運転手は、ふと
心に
思いました。そして、
今日、
船に
乗って
沖へ
出ていってしまったら、もうこの
町に
不安はなくなるだろうと
思いました
······。はたして、それからは、もう
白い
影を
見たものはありませんでした。