それは、
春の
遅い、
雪の
深い
北国の
話であります。ある
日のこと
太郎は、おじいさんの
帰ってくるのを
待っていました。
おじいさんは三
里ばかり
隔たった、
海岸の
村へ
用事があって、その
日の
朝早く
家を
出ていったのでした。
「おじいさん、いつ
帰ってくるの?」と、
太郎は、そのとき
聞きました。
すっかり
仕度をして、これから
出てゆこうとしたおじいさんは、にっこり
笑って、
太郎の
方を
振り
向きながら、
「じきに
帰ってくるぞ。
晩までには
帰ってくる
······。」といいました。
「なにか、
帰りにおみやげを
買ってきてね。」と、
少年は
頼んだのであります。
「
買ってきてやるとも、おとなしくして
待っていろよ。」と、おじいさんはいいました。
やがておじいさんは、
雪を
踏んで
出ていったのです。その
日は、
曇った、うす
暗い
日でありました。
太郎は、いまごろ、おじいさんは、どこを
歩いていられるだろうと、さびしい、そして、
雪で
真っ
白な、
広い
野原の
景色などを
想像していたのです。
そのうちに、
時間はだんだんたってゆきました。
外には、
風の
音が
聞こえました。
雪が
霰が
降ってきそうに、
日の
光も
当たらずに、
寒うございました。
「こんなに
天気が
悪いから、おじいさんは、お
泊まりなさるだろう。」と、
家の
人たちはいっていました。
太郎は、おじいさんが、
晩までには、
帰ってくるといわれたから、きっと
帰ってこられるだろうと
堅く
信じていました。それで、どんなものをおみやげに
買ってきてくださるだろうと
考えていました。
そのうちに、
日が
暮れかかりました。けれど、おじいさんは
帰ってきませんでした。もうあちらの
野原を
歩いてきなさる
時分だろうと
思って、
太郎は、
戸口まで
出て、そこにしばらく
立って、
遠くの
方を
見ていましたけれど、それらしい
人影も
見えませんでした。
「おじいさんは、どうなさったのだろう? きつねにでもつれられて、どこへかゆきなされたのではないかしらん?」
太郎は、いろいろと
考えて、
独りで、
心配をしていました。
「きっと、
天気が
悪いから、
途中で
降られては
困ると
思って、
今夜はお
泊まりなさったにちがいない。」と、
家の
人たちは
語り
合って、あまり
心配をいたしませんでした。
しかし
太郎は、どうしても、おじいさんが、
今晩泊まってこられるとは
信じませんでした。
「きっと、おじいさんは、
帰ってきなさる。それまで
自分は
起きて
待っているのだ。」と、
心にきめて、
暗くなってしまってからも、その
夜にかぎって、
太郎は、
床の
中へ
入って
眠ろうとはせずに、いつまでも、ランプの
下にすわって
起きていたのでした。
いつもなら、
太郎は
日が
暮れるとじきに
眠るのでしたが、
不思議に
目がさえていて、ちっとも
眠くはありませんでした。そして、こんなに
暗くなって、おじいさんはさぞ
路がわからなくて
困っていなさるだろうと、
広い
野原の
中で、とぼとぼとしていられるおじいさんの
姿を、いろいろに
想像したのでした。
「さあ、お
休み、おじいさんがお
帰りになったら、きっとおまえを
起こしてあげるから、
床の
中へ
入って、
寝ていて
待っておいで。」と、お
母さんがいわれたので、
太郎は、ついにその
気になって、
自分の
床にはいったのでありました。
しかし、
太郎は、すぐには
眠ることができませんでした。
外の
暗い
空を、
吹いている
風の
音が
聞こえました。ランプの
下にすわっているときも
聞こえた、
遠い、
遠い、
北の
沖の
方でする
海の
鳴る
音が、まくらに
頭をつけると、いっそうはっきりと
雪の
野原の
上を
転げてくるように
思われたのであります。
しかし、
太郎は、いつのまにか、うとうととして
眠ったのであります。
彼は、
朝起きると、
入り
口に、
大きな
白い
羽の、
汚れてねずみ
色になった、いままでにこんな
大きな
鳥を
見たこともない、
鳥の
死んだのが、
壁板にかかっているのを
見てびっくりしました。
「これはなに?」と、
太郎は、
目を
円くして
問いました。
「これかい、これは
海鳥だ。
昨夜、おじいさんが、この
鳥に
乗って
帰ってきなすったのだ。」と、お
母さんはいわれました。
おじいさんが
帰ってきなすったと
聞いて、
太郎は
大喜びでありました。さっそく、おじいさんのへやへいってみますと、おじいさんは、にこにこと
笑って、たばこをすっていられました。
それよりも、
太郎は、どうして、
海鳥が
死んだのか、
聞きたかったのです。その
不審が
心にありながら、それをいい
出す
前に、おじいさんの
帰ってきなされたのがうれしくて、
「おじいさん、いつ
帰ってきたの?」と
問いました。
「
昨夜、
帰ってきたのだ。」と、おじいさんは、やはり
笑いながら
答えました。
「なぜ、
僕を
起こしてくれなかったのだい。」と、
太郎は、
不平に
思って
聞きました。
「おまえを
起こしたけれど、
起きなかったのだ。」と、おじいさんはいいました。
「うそだい。」と、
太郎は、
大きな
声をたてた。
すると、
同時に、
夢はさめて、
太郎は、
床の
中に
寝ているのでした。
おじいさんは、お
帰りなされたろうか? どうなされたろう? と、
太郎は、
目を
開けておじいさんのへやの
方を
見ますと、まだ
帰られないもののように、しんとしていました。
太郎は、
小便に
起きました。そして、
戸を
開けて
外を
見ますと、いつのまにか、
空はよく
晴れていました。
月はなかったけれど、
星影が
降るように、きらきらと
光っていました。
太郎は、もしや、おじいさんが、この
真夜中に
雪道を
迷って、あちらの
広野をうろついていなさるのではなかろうかと
心配しました。そして、わざわざ
入り
口のところまで
出て、あちらを
見たのであります。
いろいろの
木立が、
黙って、
星晴れのした
空の
下に、
黒く
立っていました。そして、だれが
点したものか、
幾百
本となく、ろうそくに
火をつけて、あちらの
真っ
白な、さびしい
野原の
上に、一
面に
立ててあるのでした。
太郎は、きつねの
嫁入りのはなしを
聞いていました。いまあちらの
野原で、その
宴会が
開かれているのでないかと
思いました。もし、そうだったら、おじいさんは、きつねにだまされて、どこへかいってしまいなされたのだろうと
思って、
太郎は、
熱心に、あちらこちらの
野原の
方を
見やっていました。
ろうそくの
火は、
赤い、
小さな
烏帽子のように、いくつもいくつも
点っていたけれど、
風に
吹かれて、べつに
揺らぎもしませんでした。
太郎は、
気味悪くなってきて、
戸を
閉めて
内へ
入ると、
床の
中にもぐり
込んでしまいました。
ふと
太郎は、
目をさましますと、だれかトントンと
家の
戸をたたいています。
風の
音ではありません。だれか、たしかに
戸をたたいているのです。
「おじいさんが、
帰ってきなすったのだろう。」と、
太郎は
思いましたが、また、
先刻、
野原に
赤いろうそくの
火がたくさん
点っていたことを
思い
出して、もしやなにか、きつねか
悪魔がやってきて、
戸をたたくのではなかろうかと、
息をはずませて
黙っていました。
すると、この
音をききつけたのは、
自分一人でなかったとみえて、お
父さんか、お
母さんかが
起きなされたようすがしました。
ランプの
火はうす
暗く、
家の
中を
照らしました。まだ、
夜は
明けなかったのです。しかし、
真夜中を
過ぎていたことだけは、たしかでした。
そのうちに、
表の
雨戸の
開く
音がすると、
「まあ、どうして、いま
時分、お
帰りなさったのですか?」と、お
父さんがいっていなさる
声が
聞こえました。つづいて、なにやらいっていなさるおじいさんの
声が
聞こえました。
「おじいさんだ。おじいさんが
帰ってきなさったのだ。」と、
太郎はさっそく、
着物を
着ると、みんなの
話している
茶の
間から
入り
口の
方へやってきました。
おじいさんは、
朝家を
出たときの
仕度と
同じようすをして、しかも
背中に、
赤い
大きなかにを
背負っていられました。
「おじいさん、そのかにどうしたの?」と、
太郎は、
喜んで、しきりに
返事をせきたてました。
「まあ、
静かにしているのだ。」と、お
父さんは、
太郎をしかって、
「どうして、いまごろお
帰りなさったのです。」と、おじいさんに
聞いていられました。
「どうしたって、もう、そんなに
寒くはない。なんといっても
季節だ。
早く
出たのだが、
道をまちがってのう。」と、おじいさんは、とぼとぼとした
足つきで、
内に
入ると、
仕度を
解かれました。
「
道をまちがったって、もうじき
夜が
明けますよ、この
夜中、どこをお
歩きなさったのですか?」
父も、
母も、みんなが、あきれた
顔つきをしておじいさんをながめていました。
太郎は、
心の
中で、おじいさんは、
自分の
思ったとおり、きつねにだまされたのだと
思いました。
やがてみんなは、
茶の
間にきて、ランプの
下にすわりました。すると、おじいさんはつぎのように、
今日のことを
物語られたのであります。
「
私は、
早く
家へ
帰ろうと
思って、あちらを
出かけたが、
日が
短いもので、
途中で
日が
暮れてしまった。
困ったことだと
思って、
独りとぼとぼと
歩いてくると、
星晴れのしたいい
夜の
景色で、なんといっても、もう
春がじきだと
思いながら
歩いていた。
海辺までくると、
雪も
少なく、
沖の
方を
見れば、もう
入り
日の
名残も
消えてしまって、
暗いうちに
波の
打つ
音が、ド、ドー、と
鳴っているばかりであった。ちょうど、そのとき、あちらに
人間が五、六
人、
雪の
上に
火を
焚いて、なにやら
話をしているようだった。
私は、いまごろ、なにをしているのだろう、きっと
魚が
捕れたのにちがいない。
家へみやげに
買っていこうと
思って、なんの
気なしに、その
人たちのいるそばまでいってみると、その
人たちは
酒を
飲んでいた。みんなは、
毎日、
潮風にさらされているとみえて、
顔の
色が、
火に
映って、
赤黒かった。そして、その
人たちの
話していることは、すこしもわからなかったが、
私がゆくと、みんなは、
私に、
酒をすすめた。つい
私は、二、三
杯飲んだ。
酒の
酔いがまわると、じつにいい
気持ちになった。このぶんなら、
夜じゅう
歩いてもだいじょうぶだというような
元気が
起こった。
私は、なにかみやげにする
魚はないかというと、その
中の
一人の
男が、このかにを
出してくれた。
銭を
払おうといっても
手を
振って、その
男はどうしても
金を
受け
取らなかった。
私は、
大がにを
背中にしょった。そして、みんなと
別れて、
一人で、あちらにぶらり、こちらにぶらり、
千鳥足になって、
広い
野原を、
星明かりで
歩いてきたのだ。」と、おじいさんは
話しました。
みんなは、
不思議なことがあったものだと
思いました。
「よく
星明かりで、
雪道がわかりましたね。」と、
太郎のお
父さんはいって、びっくりしていました。
「おじいさん、きっときつねにばかされたのでしょう。
野原の
中に、いくつもろうそくがついていなかったかい?」と、
太郎は、おじいさんに
向かっていいました。
「ろうそく? そんなものは
知らないが、
思ったより
明るかった。」と、おじいさんは、にこにこ
笑って、たばこをすっていられました。
「もらったかにというのは、どんなかにでしょう。」と、お
母さんはいって、あちらから、おじいさんのしょってきたかにを、
家のもののいる
前に
持ってこられました。
見ると、それは、びっくりするほどの、
大きい、
真っ
赤な
海がにでありました。
「
夜だから、いま
食べないで、
明日食べましょう。」と、お
母さんはいわれました。
「なんという、
大きなかにだ。」といって、お
父さんもびっくりしていられました。
みんなは、まだ
起きるのには
早いからといって、
床の
中に
入りました。
太郎は、
夜が
明けてから、かにを
食べるのを
楽しみにして、そのぶつぶつといぼのさる
甲らや、
太いはさみなどに
気をひかれながら
床の
中に
入りました。
明くる
日になると、おじいさんは、
疲れてこたつのうちにはいっていられました。
太郎は、お
母さんやお
父さんと、おじいさんの
持って
帰られたかにを
食べようと、
茶の
間にすわっていました。お
父さんは
小刀でかにの
足を
切りました。そして、みんなが
堅い
皮を
破って、
肉を
食べようとしますと、そのかには、まったく
見かけによらず、
中には
肉もなんにも
入っていずに、からっぽになっているやせたかにでありました。
「こんな、かにがあるだろうか?」
お
父さんも、お
母さんも、
顔を
見合してたまげています。
太郎も
不思議でたまりませんでした。
おじいさんは、たいへんに
疲れていて、すこしぼけたようにさえ
見られたのでした。
「いったい、こんなかにがこの
近辺の
浜で
捕れるだろうか?」
お
父さんは、
考えながらいわれました。
海までは、一
里ばかりありました。それで、こんなかにをもらった
町へいって、
昨夜のことを
聞いてこようとお
父さんはいわれました。
太郎は、お
父さんにつれられて、
海辺の
町へいってみることになりました。
二人は
家から
出かけました。
空は、やはり
曇っていましたが、
暖かな
風が
吹いていました。
広い
野原にさしかかったとき、
「だいぶ、
雪が
消えてきた。」と、お
父さんはいわれました。
黒い
森の
姿が、だんだん
雪の
上に、
高くのびてきました。
中には
坊さんが、
黒い
法衣をきて
立っているような、一
本の
木立も、
遠方に
見られました。
やっと、
海辺の
町へ
着いて、
魚問屋や、
漁師の
家へいって
聞いてみましたけれど、だれも、
昨夜、
雪の
上に
火を
焚いていたというものを
知りませんでした。そして、どこにもそんな
大きなかにを
売っているところはなかったのです。
「
不思議なことがあればあるものだ。」と、お
父さんはいいながら、
頭をかしげていられました。
二人は、
海辺にきてみたのです。すると
波は
高くて、
沖の
方は
雲切れのした
空の
色が
青く、それに
黒雲がうずを
巻いていて、ものすごい
暴れ
模様の
景色でした。
「また、
降りた。
早く、
帰ろう。」と、お
父さんはいわれました。
二人は、
急いで、
海辺の
町を
離れると、
自分の
村をさして
帰ったのであります。
その
日の
夜から、ひどい
雨風になりました。
二日二晩、
暖かな
風が
吹いて、
雨が
降りつづいたので、
雪はおおかた
消えてしまいました。その
雨風の
後は、いい
天気になりました。
春が、とうとうやってきたのです。さびしい、
北の
国に、
春がやってきました。
小鳥はどこからともなく
飛んできて、こずえに
止まってさえずりはじめました。
庭の
木立も
芽ぐんで、
花のつぼみは、
日にまし
大きくなりました。おじいさんは、やはりこたつにはいっていられました。
「あのじょうぶなおじいさんが、たいそう
弱くおなりなされた。」と、
家の
人々はいいました。
ある
日、
太郎は、
野原へいってみますと、
雪の
消えた
跡に、
土筆がすいすいと
幾本となく
頭をのばしていました。それを
見ましたとき、
太郎は、いつか
雪の
夜に、
赤いろうそくの
点っていた、
不思議な、
気味のわるい
景色を
思い
出したのであります。