山の
上に、一
本の
木が
立っていました。
木はまだこの
世の
中に
生まれてきてから、なにも
見たことがありません。そんなに
高い
山ですから、
人間も
登ってくることもなければ、めったに
獣物も
上ってくるようなこともなかったのです。
ただ、
毎日聞くものは、
風の
音ばかりでありました。
木はべつに
話をするものもなければ、また
心をなぐさめてくれるものもなく、
朝から
夜まで、さびしくその
山の
上に
立っていました。
同じ
木でも、にぎやかな
都会の
中にある
公園にあったならば、
毎日、いろいろなものを
見、またいろいろな
音を
聞いたでありましょう。しかし、この
木はそんなことがなかったのであります。
夜になると、
遠くで
獣物のほえる
声と、
永久に
黙って
冷たく
輝く
星の
光と、いずこへともなく
駆けてゆく、
無情の
風の
音を
聞いたばかりであります。
しかし、この
木にただ一
度忘れがたい
思い
出があるのでありました。それは、ある
年の
夏の
夕暮れ
方のことであります。あんなに
美しい
雲を
見たことがありません。その
雲は、じつに
美しい
雲でした。にこやかに
笑っていました。
体には、
紅・
紫・
黄・
金・
銀、あらゆるまばゆいほどの
華やかな
色彩で
織られた
着物をまとっていました。
髪は、
長く、
黄金色の
波のようにまき
上がっていました。その
雲は、おそらく
大空の
年若い
女王でありましたでしょう。ゆうゆうと
空を
漂って、この
山を
過ぎるのでした。
木は、
魂まで、ぼんやりとして、ただ
夢心地になって、
空を
見上げていました。
「なんという
美しい
雲だろう。あんな
美しい
姿のものが、この
宇宙にはすんでいるのだろうか?」
と、
木は
思って、ながめていました。
すると、その
雲は、ちょうど
木の
立っている
山の
上にさしかかりました。
木は、
見上げれば、
見上げるほど
美しいので、
気も
遠くなるばかりでした。このとき、ちょうど、
鈴を
振るような、やさしい
声をして、
雲は
下を
見て、
「ああ、まっすぐないい
木だこと。
風にも、
雪にも
折れないで、よく
育ちましたね。ほんとうに
強い、
雄々しい
若い
木ですこと。どんなにこの
山の
上に一
人で
立っているのではさびしいでしょうね。しかし、
忍耐をしなければなりません。わたしは、また、きっと、もう一
度ここへやってきますよ。それまでは、
達者でいてください。いろいろのおもしろい
話や、
珍しいこの
世界じゅうでわたしの
見てきた
話をしてあげますよ。」と、
木に
向かって
雲はいいました。
木は、ほんとうに
夢とばかり
思ったのです。そして、このときばかりは、
自分ほど、
幸福なものは
世の
中にないと
思いました。いつまでも
木は、この
美しい
雲をば
見ていたかったのです。また、
翼があったら、
自分も
飛んで
雲の
後を
追って、いっしょに
旅をしたいと
思いました。しかし、
木には、もとよりそれができなかったのです。そのうちに、だんだん
雲の
姿は、
遠ざかってしまいました。
その
日から、
木は、この
雲の
姿を
忘れることができませんでした。そして、もう一
度ここへやってくるといった
雲の
言葉を
思い
出して、
毎日さびしい
日を
送っていました。
しかし、それからというものは、けっして、そのような
美しい
雲をば
木は、
見なかったのです。
夏も
去ってしまい、
秋にもなったけれど、この
美しい
雲は、ふたたび
目のとどくかぎり、
空に
姿を
現しませんでした。
木は、
深い、
深い、
愁いに
沈みました。
毎日、
山の
頂を
通る
雲は、
灰色の
物悲しいものばかりでありました。
木が、こうして
悲しみに
沈んでいましたとき、からすがやってきて、
「なんで、そんなに
悲しんでいるのですか?」と、
木に
向かって
聞いたのであります。
木は、
心の
中の
悲しみを
隠していることができませんでした。そして、からすが、さもしんせつにいってくれましたので、
木は
雲の
話をして、
「おまえさんは、
羽があって、
遠いところまで
旅をしなさるから、もし、その
雲をごらんになったら、
私に
教えてください。」と、
木はからすに
向かって
頼みました。すると、からすは、
「そうです。
私は、
海の
方へも
飛んでゆきます。また
広い
野原へも、ときには、
村へも
飛んでゆきます。けれど、このごろはどこへいっても、これと
同じ
曇った
空色で、かつてそんな
美しい
雲を
見たことがありません。
私も
気をつけていますが、もしつぐみがここにきましたら、よく
聞いてごらんなさい。あの
鳥は、
諸国を
飛びまわりますから
······。」と、
木に
向かっていいました。
哀れな
木立は、さも
頼りなさそうに
見えました。からすは、やがて
別れを
告げて
去ってしまいました。それから
幾日もたった
冬のはじめです。つぐみが、どこからかやってきて、この
木の
枝に
止まりました。
木は、からすのいったことを
忘れずに、さっそく
雲の
話をしました。
「つぐみさん、どこかでこんなような
雲をごらんになりましたか?」と、
木は、
鳥に
向かって
聞きました。
敏捷そうなつぐみは、
小さなくびをかしげながら、
考えていましたが、
「あ、
見ましたよ。それは、ここからは、たいそう
遠いところであります。
海を
越えて、あちらのにぎやかな
都会でありました。ある
日の
晩方、
私は、その
都会の
空を、
急いでこっちに
向かって
旅をしていますと、ちょうどあなたのおっしゃる
美しい
雲が、
都会の
空に
浮かんでいました。
下には、とがった
塔や、
高い
建物などが
重なり
合って、
馬車や、
自転車などが
往来の
上を
走っていました。そして、
街の
中は、たそがれかかって、
燈火が、ちらちらと
水玉のようにひらめいていました。」と、つぐみはいいました。
これを
聞いていた
木立は、
深いため
息をもらしました。
「いまは、そんなに
遠いところに、
雲はいってしまったのですか。」と、
木は、さびしさにたえられなかったけれど、
雲の
無事なのを
聞いて
安心いたしました。
「どうか、また、その
雲をごらんになったら、
私のことをよく
告げてください。」と、
木は、つぐみに
頼みました。
「きっと、あなたのことを
雲に
告げますよ。
私は、もう
明日はここを
去って、
遠くへゆきますから、また、どこかで、あの
雲を
見ますでしょう。」と、つぐみはいいました。
木は、またこのつぐみとも
別れなければなりませんでした。こうして、さびしく
山の
上に
一人いつまでも
残されたのであります。
それからも
毎日、
情ない
風は
木を
揺すりました。
雪は、
舞ってきて
枝にかかりました。そして、
明けても
暮れても、
灰色の
雲は、
頭の
上をゆきました。
いつになったら、
木は、あの
美しい
雲の
姿を
見るでありましょう。また、
夏がめぐってくるには、
長い
間があったのです。