はるか、
北の
方の
国にあった、
不思議な
話であります。
ある
日のこと、その
国の
男の
人たちが
氷の
上で、なにか
忙しそうに
働いていました。
冬になると、
海の
上までが一
面に
氷で
張りつめられてしまうのでした。だから、どんなに
寒いかということも
想像されるでありましょう。
夜になると、
地球の
北のはてであったから、
空までが、
頭の
上に
近く
迫って
見えて、
星の
輝きまでが、ほかのところから
見るよりは、ずっと
光も
強く、
大きく
見えるのでありました。その
星の
光が
寒い
晩には
凍って、
青い
空の
下に、
幾筋かの
銀の
棒のように、にじんでいるのが
見られたのです。
木立は
音を
立てて
凍て
割れますし、
海の
水は、いつのまにか、
動かなくとぎすました
鉄のように
凍ってしまったのであります。
そんなに、
寒い
国でありましたから、みんなは、
黒い
獣の
毛皮を
着て、
働いていました。ちょうど、そのとき、
海の
上は
曇って、あちらは
灰色にどんよりとしていました。
すると、たちまち
足もとの
厚い
氷が二つに
割れました。こんなことは、めったにあるものでありません。みんなは、たまげた
顔つきをして、
足もとを
見つめていますと、その
割れ
目は、ますます
深く、
暗く、
見るまに
口が
大きくなりました。
「あれ!」と、
沖の
方に
残されていた、三
人のものは
声をあげましたが、もはやおよびもつかなかったのです。その
割れ
目は、
飛び
越すことも、また、
橋を
渡すこともできないほど
隔たりができて、しかも
急流に
押し
流されるように、
沖の
方方へだんだんと
走っていってしまったのであります。
三
人は、
手を
挙げて、
声をかぎりに
叫んで、
救いを
求めました。
陸の
方に
近い
氷の
上に
立っているおおぜいの
人々は、ただ、それを
見送るばかりで、どうすることもできませんでした。
たがいにわけのわからぬことをいって、まごまごしているばかりです。そのうちに、三
人を
乗せた
氷は、
灰色にかすんだ
沖の
方へ、ぐんぐんと
流されていってしまいました。みんなは、ぼんやりと
沖の
方を
向いているばかりで、どうすることもできません。そのうちに、三
人の
姿は、ついに
見えなくなってしまいました。
あとで、みんな
大騒ぎをしました。
氷がとつぜん二つに
割れて、しかもそれが、
箭を
射るように
沖の
方へ
流れていってしまうことは、めったにあるものでない。こんな
不思議なことは、
見たことがない。それにしても、あの
氷といっしょに
流されてどこかへいってしまった三
人を、どうしたらいいものだろうと
話し
合いました。
「いまさらどうしようもない。この
冬の
海に
船を
出されるものでなし、
後を
追うこともできないではないか。」と、あるものは、
絶望しながらいいました。
みんなは、うなずきました。
「ほんとうにしかたがないことだ。」といいました。しかし、五
人のものだけが
頭を
振りました。
「このまま
仲間を、
見殺しにすることができるものでない。どんなことをしても、
救わなければならない。」と、それらの
人々はいいました。
すると、おおぜいの
中の、あるものは、
「
今度のことは、この
国があってから、はじめてのことだ。
人間業では、どうすることもできないことだ。」といったものがあります。
なるほど、そのものがいうとおりだと
思ったのでしょう。みんなは、
黙って
聞いていました。
「みんながゆかなければ、
俺たち五
人のものが
助けにゆく。」と、五
人は
叫びました。
ちょうど、この
国には、
赤いそりが五つありました。このそりは、なにかことの
起こったときに、
犬にひかせて、
氷の
上を
走らせるのでした。
夜の
中に、五
人のものは、
用意にとりかかりました。
食べるものや、
着るものや、その
他入り
用のものをそりの
中に
積み
込みました。そして、
夜の
明けるのを
待っていました。その
夜は、いつにない
寒い
夜でしたが、
夜が
明けはなれると、いつのまにか、
海の
上には
昨日のように、一
面氷が
張りつめて
光っていたのです。
五
人のものは、それぞれ
赤いそりに
乗りました。そして、二、三
匹ずつの
犬が、一つのそりをひくのでした。
昨日行方不明になった、三
人のものの
家族や、たくさんの
群集が、五つの
赤いそりが、
捜索に
出かけるのを
見送りました。
「うまく
探してきてくれ。」と、
見送る
人々がいいました。
「
北のはしの、はしまで
探してくる。」と、五
人の
男たちは
叫びました。
いよいよ
別れを
告げて、五つの
赤いそりは、
氷の
上を
走り
出ました。
沖の
方を
見やると、
灰色にかすんでいました。ちょうど、
昨日と
同じような
景色であったのです。みんなのものの
胸の
中には、いい
知れぬ
不安がありました。そのうちに、
赤いそりは、だんだん
沖の
方へ
小さく、
小さくなって、しまいには、
赤い
点のようになって、いつしか、それすらまったくかすんでしまって、
見えなくなったのであります。
「どうか
無事に
帰ってきてくれればいいが。」と、みんなは、
口々にいいました。そして、ちりぢりばらばらに、めいめいの
家へ
帰ってしまいました。
その
日の
昼過ぎから、
沖の
方は
暴れて、ひじょうな
吹雪になりました。
夜になると、ますます
風が
募って、
沖の
方にあたって
怪しい
海鳴りの
音などが
聞こえたのであります。
その
明くる
日も、また、ひどい
吹雪でありました。五つの
赤いそりが
出発してから、
三日めに、やっと
空は、からりと
明るく
晴れました。
三
人の
行方や、それを
救いに
出た、五つの
赤いそりの
消息を
気づかって、
人々は、みんな
海辺に
集まりました。もとより
海の
上は、
鏡のように
凍って、
珍しく
出た
日の
光を
受けて
輝いています。
「ひどい
暴れでしたな。」
「それにつけて、あの三
人と、五つのそりの
人たちは、どうなりましたことでしょうか、しんぱいでなりません。」
群衆は、
口々にそんなことをいいました。
「
五日分の
食物を
用意していったそうです。」
「そうすれば、あと
二日しかないはずだ。」
「それまでに
帰ってくるでしょうか。」
「なんともいえませんが、
神に
祈って
待たなければなりません。」
みんなは、
気づかわしげに、
沖の
方を
見ながらいっていました。
沖の
方は、ただ、ぼんやりと
氷の
上が
光っているほか、なんの
影も
見えなかったのです。
とうとう、
赤いそりが
出てから、
五日めになりました。みんなは、
今日こそ
帰ってくるだろうと、
沖の
方をながめていました。
その
日も、やがて
暮れましたけれど、ついに、
赤いそりの
姿は
見えませんでした。
六日めにも、みんなは、
海岸に
立って、
沖の
方をながめていました。
「
今日は、もどってくるだろう?」
「
今日帰ってこないと、五つのそりにも
変わりがあったのだぞ。」
みんなは、
口々にいっていました。
しかし、
六日めにも
帰ってきませんでした。そして、
七日めも、
八日めも
······ついに
帰ってきませんでした。
「
捜しにいったがいいものだろうか、どうしたらいいものだろう
······。」
みんなは、
顔を
見合っていいました。
「だれが、こんどは
捜しにいくか。」と、あるものはいいました。
みんなは、たがいに
顔を
見合いました。けれど、
一人として、
自分がいくという
勇気のあるものはありませんでした。
「くじを
引いて
決めることにしようか。」と、ある
男はいいました。
「
俺は、
怖ろしくていやだ。」
「
俺もいくのはいやだ。」
「
············」
みんなは、
後退りをしました。それでついに、
救いに
出かけるものはありませんでした。みんなは、
口々にこういいました、
「これは
災難というものだ。
人間業では、どうすることもできないことだ。」
彼らは、そういって、あきらめていたのであります。
それから、
幾年もたってからです。
ある
日のこと、
猟師たちが、
幾そうかの
小舟に
乗って
沖へ
出ていきました。
真っ
青な
北海の
水色は、ちょうど
藍を
流したように、
冷たくて、
美しかったのであります。
磯辺には、
岩にぶつかって
波がみごとに
砕けては、
水銀の
珠を
飛ばすように、
散っていました。
猟師たちは
唄をうたいながら、
艪をこいだり、
網を
投げたりしていますと、
急に
雲が
日の
面をさえぎったように、
太陽の
光をかげらしました。
みんなは
不思議に
思って、
顔を
上げて、
空を
見上げようとしますと、
真っ
青の
海のおもてに、三つの
黒い
人間の
影が、ぼんやりと
浮かんでいるのが
見えたのです。その三つの
黒い
人間の
影には
足がありませんでした。
足のあるところは、
青い
青い
海の、うねりうねる
波の
上になっていて、ただ
黒坊主のように、三つの
影が、ぼんやりと
空間に
浮かんで
見えたのであります。
これを
見た、みんなのからだは、
急にぞっとして
身の
毛がよだちました。
「いつか
行方のわからなくなった、三
人の
亡霊であろう。」と、みんなは、
心でべつべつに
思いました。
「
今日は、いやなものを
見た。さあ、まちがいのないうちに
陸へ
帰ろう。」と、みんなはいいました。そして、
陸に
向かって、
急いで
舟を
返しました。
しかし、
不思議なことに、まだ
陸に
向かって、
幾らも
舟を
返さないうちに、どの
船も、なんの
故障がないのに、しぜんと
海にのみ
込まれるように、
音もなく
沈んでしまいました。
つぎの
話は、
寒い
冬の
日のことです。
海の
上は、あいかわらず、
銀のように
凍っていました。そして、
見わたすかぎり、なんの
物影も
目に
止まるものとてはありませんでした。
よく
晴れた、
寒い
日のことで、
太陽は、
赤く
地平線に
沈みかかっていました。
このときたちまち、その
遠い、
寂寥の
地平線にあたって、五つの
赤いそりが、
同じほどにたがいに
隔てをおいて
行儀ただしく、しかも
速やかに、
真一
文字にかなたを
走っていく
姿を
見ました。
すると、それを
見た
人々は、だれでも
声をあげて
驚かぬものはなかったのです。
「あれは、いつか、三
人を
捜索に
出た、五
人の
乗っていた
赤いそりじゃないか。」と、それを
見た
人々はいったのです。
「ああ、この
国に、なにか
悪いことがなければいいが。」と、みんなはいいました。
「あのとき、あの五
人のものを
救いに、だれもいかなかったじゃないか。」
「そして、あの
後、なにもお
祭りひとつしなかったじゃないか。」
みんなは、
行方のわからなくなった、
仲間に
対して、つくさなかったことが
悪いと、はじめて
後悔しました。
この
国にきたひとは、
黒い
人と
赤いそりのはなしを、
不思議な
事実として、だれでも
聞かされるでありましょう。