明治座の一番目「
明智光俊誉乗切」は三幕にて、山崎合戦より唐崎の馬別れに終る。例の
通「真書太閤記」も一二節に芝居の衣をかけしまでにて、かたりに記せる修羅場の読切といへるには適すれども、むづかしき戯曲論など担ぎ出すべきものに非ず。しかし光俊を見するなら、坂本の宝物渡しまで見すれば少しは筋が通れど、馬別れだけでは
喰ひ足りずとは女子供までが申すなり。
序幕山崎街道立場の場は明智の雑兵の乱暴を
羽柴の侍が制する処なるが合戦中の事としては、百姓が
長閑気に酒を呑み女に
戯るるなど無理なる筋多し。
光秀陣中の場は光秀が死を決して斎藤大八郎の
諫を用ゐぬ処なるが、ここも双方共あまり先を見通し過ぎて
実らしからず。
小栗栖村一揆の場は明智の
落足を見する処なれど、光秀の
代に溝尾が出るまでなれば
殆無用に属す。
二幕目丹吾兵衛住家の場は光俊戦場を逃れて
旧明智の臣なる漁師丹吾兵衛を訪ひて、そこにかくまはれし明智の妾
菖蒲の方に明智の系図を渡す処なり。ここは時代中の世話場にて、「布引滝」九郎助住家の
俤あり。入江長兵衛が光俊を討たんため
贋狐憑となりて入込み、光俊が武士をやめむといひて菖蒲の方の
打擲に逢ふなど
在来の筋なり。物語や立廻りの都合はあれど、光俊がこのいそがしい中で一旦
鎧を脱ぎてまた
切にこれを着するは想像せられぬことなり。
三幕目湖水乗切の場は一幕とするほどの者でなきゆゑ、自然光俊が泣過ぎねばならぬ様になるはせんかたなし。何にせよ一番目中にて、これがこの世のといふ
白を三度使ふにても、この狂言の面白きを察すべし。即ち光秀と大八郎、光俊と半次郎、光俊と菖蒲の方なり。また本陣の光秀と丹吾宅の光俊が、出陣なさんといふも
可笑し。
市蔵の明智光秀は大志あれども徳望なき大将と見えたり。
丹吾兵衛は篤実なる老人と受取らる。
小団次の斎藤大八郎、諫言の
押手利きで、光秀と
気味合の別れも応へたり。
菊之助の長兵衛は難役を味
好くこなしたれど、人品が好すぎたり。
栄三郎の同女房もよし。
秀調の菖蒲の方は楽にして居たり。
福助の光俊臣林半次郎は御苦労なり。
菊五郎の光俊は
惣髪にて、金の新月の前立物ある
二谷といふ
兜を負ひ、紺糸
縅の
鎧、お約束の雲竜の陣羽織にて立派なり。人物も光俊は綿密家にてよく何事にも行届きし人の様に思はるる故、
其所には
箝りたり。物語は立派にて、心底を明さぬ
件も光俊の品位を保ちてよし。乗切を見せぬは利口物なり。馬を
撫恤る処にて、平手にて舌をこきてやり、次に
葦を抜いて馬の毛をこくなどいふ通をやりしは
好し。馬別れもあつけなきものをあれほどにこなしたるは先づ好し。この場の馬は人間を使はぬ故、足の工合など好く出来、口の内なども
旨く
拵へたり。
中幕「
和歌徳雨乞小町」は一幕なり。名は筋を
顕すとはこれ等をやいふならん。芝居にならぬものを芝居にするのは作者に非ず、福助に非ず、けだし
簀の
子にて薬火を燃す男なるべし。それ故にこそ電火
一閃するごとに拍手
湧くが如きなれ。ただ小町の
詞に和歌のために一命を捨つるは
憾なしとあるは利きたり。
福助の小町は女なれども道のために身を捧げて
毫も惜むことなく
凜として動かすべからざる気概見えて
頗る好し。
松助の大友左衛門、翫太郎の荒巻耳四郎は共に小町の雨乞を妨ぐる敵役なるが、
拵古風にて好し。
秀調の針妙水無瀬は小町の難義を救ふ役なるが、作者が
性の知れぬものを拵へしため、
奴小万が
戸迷ひをしたといふ形あり。
二番目「
新皿屋敷朧雨暈」は黙阿弥の作にて、「
播州皿屋敷」を世話に翻案し、肴屋の酒乱を加へたるものなるが、妙は前半にあらずして
却りて後半に存ず。
序幕芝神明桜茶屋の場は磯部家用人
岩上典蔵が主家を乱さんと
謀る筋を利かす。磯部邸弁天堂の場は愛妾お蔦が典蔵に
挑まれて難義せるを
浦戸紋三郎に救はれしが、折から弁天堂の灯籠の消えしため、典蔵に不義者なりと呼びかけらるる処なるが、原本に比すればやや理に
適へり。
二幕目お蔦部屋はお蔦が不義の疑を受けて召仕に
遺物分けする処なるが、
冗漫なれば今回の如く除きし方よし。
三幕目庭前古井戸の場はお蔦が不義の疑と、殿より預りし磯部家の重宝井戸の茶碗を典蔵盗み出して破壊し、その罪をお蔦に帰したるとに因り、酒乱の磯部
主計之助の怒強く、拷問の上なぶり殺になる処なり。ここが原本には
眼目の見せ場なるが、実に残酷の絶頂に達せるものにて、
一睨みごとに手を
拍つて喜ぶ見物すら下を向いて見ぬ位なれば、いくら出したくても出せなくなるは今の
間なり。
四幕目紋三郎宅の場は紋三郎が汚名を
被り自殺せんとするをお蔦の亡霊出でて留め、悪人の密書を渡す処なり。
五幕目芝片門前魚屋の場はお蔦の兄惣五郎がお蔦の死を歎き、気晴しにとて禁酒を破りて飲みし酒に酒乱となり、磯部の邸に暴れに行くといふ処、
六幕目磯部邸玄関の場は惣五郎が殿の非道を
罵りて暴れ廻る処、
庭先は惣五郎の酒
醒めて後悔せるとき主計之助出でその罪を謝する処、
神明祭礼の場は紋三郎が典蔵を縛する処なり。作者が初め父太兵衛の口より
平常はかういふ家業の者にも似合はず理窟をいつて
尤もらしいが、酒を飲むと人の
見界がなくなるから禁酒をさせ居るといふ筋を利かせ、さて禁酒を破る筋にも無理がなく、湯呑で一杯から二杯、三杯と増し、遂に
片口から二升
樽と段々に無法になる作り方好し。磯部の玄関にて
生酔本性違はぬ処を示し、吾太夫を
足蹴にするも面白し。酒醒めし件にてひどく
恐入らせ、ここへ詫に出る主計之助がやはり酒乱にて誤をなせりといふも照応して好し。もとより酔中の動作は菊五郎の腕にあれど、これを菊五郎に箝めて書いてやりたる作者も大に賞揚せざるべからず。けだし「魚屋宗五郎」は「幡随長兵衛」などと共に黙阿弥傑作の一に数へて、後世に伝ふるに足るべし。
小団次の磯部主計之助は相応にこなしたれど、書卸しの我童に及ばず。
三吉は新蔵より役者のよきだけの事なし。
市蔵の家老浦戸十左衛門はしつとりして、
璃寛の比に非ず。
菊之助の紋三郎は生真面目にて、我童の色気ありしに優れり。
栄三郎の召仕おなぎは部屋がなき故損な役廻りとなりたれど、松之助に劣らず。
松助の典蔵は先年通り極めて好く、
太兵衛はべらんめえ気質ありて寿美蔵より遥に好し。
蟹十郎の吾太夫は寿美蔵の師匠張より見好きも、
貫目に乏しく、
翫太郎の道庵は
適役にて好し。
小由の桜茶屋女房は松之助の
俤あれど、つんけんし過ぎたり。
秀調の宗五郎女房は国太郎と伯仲の
間にあり。
菊五郎のお蔦、
両吟の唄にて花道の出は目の
醒むるほど美しく、今度は
丸髷にて
被布を着られしためもあらんが、
容貌は先年より
立優れり。典蔵に
挑まれてびつくりしながら、愛敬を捨てず体よく断る処いかにも好し。気がつきて水を呑むとき両手で
柄杓を押へ、首を持つていく工合真に
逼り、白紙を出して
髷を
撫付くるも女の情にて受けたり。
斯様な色気のあるものになりては福助も及ばず、半四郎後一人なるべし。
宗五郎はいつもの大いなせでなく、堅気な道理の解つた男といふ腹ありて、親の腹立をなだめ「虫を殺して居ますのさ」といふ処
応へたり。おなぎの話を聞て黙つて涙を拭いて居り、だしぬけに「一杯ついでくれ」と湯呑を出し、それから何の
彼の理窟をつけては飲む処面白し。段々調子が荒つぽくなり、おなぎが留むると「飲ませねえ酒を何故持つて来た」とくつてかかる工合もよし。これから往く所があると
偏袒となり、着物の前をはだけ、酒樽をもつて暴れ出し、玄関にて
仲間どもを相手に打合ふ間、頭のぎりぎりより足の爪先まで
生酔ならぬ所なく、一挙手一投足もむだのなきは恐れ入つたものなり。吾太夫を足蹴にする処も、重左衛門に理窟をいふ処も
性がある様でない様な工合実に妙なり。理窟をいふ間で手を叩いて大きく笑つたり、説諭を聞く間で
生欠伸をしてこくりこくりと
居睡をするも好し。酒が醒めて恐入る
体も面白く、殿様の詫に心解け、空に向ひてお蔦を呼かけ「浮んでくれろ」といふ処は泣かせたり。(明治二十九年四月二十四日見物)