掃除をしたり、お
「まあお入りなさい」彼は少し酒の氣の

「
「······さあ、實は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」
彼は起つて行つて、頼むやうに云つた。
「別にお話を聽く必要も無いが······」と三百はプンとした顏して呟きながら、澁々に
「······で甚だ恐縮な譯ですが、
「出來ませんな、斷じて出來るこつちやありません!」
斯う呶鳴るやうに云つた三百の、例のしよぼ/\した眼は、急に紅い焔でも發しやしないかと思はれた程であつた。で彼はあわてゝ、
「さうですか。わかりました。
「私もそりや、最初から貴方を車夫馬丁同樣の人物と考へたんだと、そりやどんな強い手段も用ゐたのです。がまさかさうとは考へなかつたもんだから、相當の人格を有して居られる方だらうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云ひなりになつて延期もして來たやうな譯ですからな、この上は一歩も假借する段ではありません。如何なる處分を受けても苦しくないと云ふ貴方の證書通り、私の方では直ぐにも實行しますから」
何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\氣味惡るく視

「······實に變な奴だねえ、さうぢや無い?」
やう/\三百の歸つた後で、彼は傍で聽いてゐた長男と顏を見交はして苦笑しながら云つた。
「······さう、變な奴」
子供も同じやうに悲しさうな苦笑を浮べて云つた。······
狹い庭の隣りが墓地になつてゐた。そこの今にも倒れさうになつてゐる古板塀に繩を張つて、朝顏がからましてあつた。それがまた非常な勢ひで蔓が延びて、先きを摘んでも/\わきから/\と太いのが出て來た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなつてゐる。その癖もう八月に入つてるといふのに、一向花が咲かなかつた。
いよ/\敷金切れ、滯納四ヶ月といふ處から家主との關係が斷絶して、三百がやつて來るやうになつてからも、もう

「なんだつてあの人はあゝ
「やつぱし僕達に引越せつて譯さ。なあにね、
膳の前に坐つてゐる子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい氣持で盃を甞め續けた。
無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持つて歸るから||といふ手紙一本あつたきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行つた二女のこと、また常陸の磯原へ避暑に行つてるKのこととKからは今朝も、二ツ島といふ小松の茂つたそこの磯近くの巖に、白い波の碎けてゐる風景の繪葉書が來たのだ。それには、「勿來關に近いこゝらはもう秋だ」といふやうなことが書いてあつた。それがこの三年以來の暑氣だといふ東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでゐる彼には、好い皮肉であらねばならなかつた。
「いや、Kは暑を避けたんぢやあるまい。恐らくは小田を勿來關に避けたといふ譯さ」
斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を發つた後で云つてゐた。それほど彼はこの三四ヶ月來Kにはいろ/\厄介をかけて來てゐたのであつた。
この三四ヶ月程の間に、彼は三四の友人から、五圓程宛金を借り散らして、それが返せなかつたので、すべてさういふ友人の方面からは小田といふ人間は封じられて了つて、最後にKひとりが殘された彼の友人であつた。で「小田は十錢持つと、澁谷へばかし行つてゐるさうぢやないか」友人達は斯う云つて蔭で笑つてゐた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから||と云つては、その度に五十錢一圓と
電燈屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあひ||いろんなものがやつて來る。
と云つて彼は何處へも訪ねて行くことが出來ないので、やはり十錢持つと、Kの澁谷の下宿へ押かけて行くほかなかつた。Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあてゝある。彼は電車の中で、今にも昏倒しさうな不安な氣持を感じながらどうか誰も來てゐないで呉れ······と祈るやうに思ふ。先客があつたり、後から誰か來合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入つた、一層壓倒された慘めな氣持にされて歸らねばならぬのだ||
彼は齒のすつかりすり減つた
「······K君||」
「どうぞ······」
Kは毛布を敷いて、空氣枕の上に執筆に疲れた頭をやすめてゐるか、でないとひとりでトランプを切つて占ひごとをしてゐる。
「この暑いのに······」
Kは斯う警戒する風もなく、笑顏を見せて迎へて呉れると、彼は初めてほつとした安心した氣持になつて、ぐたりと坐るのであつた。それから二人の間には、大抵次ぎのやうな會話が交はされるのであつた。
「······そりやね、今日の處は一圓差上げることは差上げますがね。併しこの一
「僕にも解らない······」
「君にも解らないぢや、仕樣が無いね。で、一體君は、さうしてゐて
「そりや
「フン、どうして君はさうかな。
Kは斯う云つて、口を噤んで了ふ。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんたうは泣き出すほかないと云つたやうな顏附になる。彼にはまだ本當に、Kのいふその恐ろしいものゝ本體といふものが解らないのだ。がその本體の前にぢり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたやうに刻々と陷沒しつゝある||そのことだけは解つてゐる。けれどもすつかり陷沒し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思ひがけない救ひの手が出て來るかも知れないのだし、また福運といふ程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑ゑずに
(魔法使ひの婆さんがあつて、婆さんは方々からいろ/\な種類の惡魔を生捕つて來ては、魔法で以て惡魔の通力を奪つて了ふ。そして自分の家來にする。そして滅茶苦茶にコキ使ふ。
これがKの、
「何と云つて君はヂタバタしたつて、所詮君といふ人はこの魔法使ひの婆さん見たいなものに見込まれて了つてゐるんだからね、幾ら逃げ

「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていふ
「厭だつて仕方が無いよ。僕等は食はずにや居られんからな。それに厭だつて云ひ出す段になつたら、そりや君の方の婆さんばかしとは限らないよ」
夕方近くになつて、彼は晩の米を買ふ金を一圓、五十錢と貰つては、歸つて來る。(本當に、この都會といふ處には、Kのいふその魔法使ひの婆さん見たいな人間ばかしだ!)と、彼は歸りの電車の中でつく/″\と考へる。||いや、彼を使つてやらうといふやうな人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪へ兼ねては、逃げ


處で彼は、今度こそはと、必死になつて三四ヶ月も石の下に隱れて見たのだ。がその結果は、やつぱし壁や巖の中へ封じ込められようといふことになつたのだ。······
Kへは氣の毒である。けれども彼には何處と云つて訪ねる處が無い。でやつぱし、十錢持つと、澁谷へ
處が最近になつて、彼はKの處からも、封じられることになつた。それは、Kの友人達が、小田のやうな人間を補助するといふことはKの不道徳だと云つて、Kを非難し始めたのであつた。「小田のやうなのは、つまり惡疾患者見たいなもので、それもある篤志な醫師などに取つては多少の興味ある
「一體貧乏といふことは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏といふものは、却て他人に謙遜な好い感じを與へるものだが、併し小田のはあれは全く無茶といふものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストヱフスキーでさへ、貧乏といふことはいゝことだが、貧乏以上の生活といふものは呪ふべきものだと云つてゐる。それは神の偉大を以てしても救ふことが出來ないから······」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亞文學通が云つた。
また、つい半月程前のことであつた。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日といふので、彼の處へも香奠返しのお茶を小包で送つて來た。彼には無論一圓といふ香奠を贈る程の力は無かつたが、それもKが出して置いて呉れたのであつた。Yの父が死んだ時、友人同志が各自に一圓づつの香奠を送るといふのも面倒だから、連名にして送らうではないかといふ相談になつて(彼はその席には居合せなかつたが)その時Kが「小田も入れといてやらうぢやないか、斯ういふ場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云つて、彼の名をも書き加へて、Kが彼の分をも負擔したのであつた。
それから四十九日が濟んだといふ翌くる日の夕方前、||丁度また例の三百が來てゐて、それがまだ二三度目かだつたので、例の

彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るゝかのやうに、そうつと注意深く鑵を引出して、

それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放つてゐる山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レツテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所といふもの、出來てゐたのであつた。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打つたかとしか思はれない、ひどい凹みであつた。やがて、當然、彼の頭の中に、これを送つた處のYといふ人間が浮んで來た。あの明確な頭腦の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して

「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違ひなからうからな、一々
それが當然の考へ方に違ひなかつた。併し彼は何となく自分の身が恥ぢられ、また悲しく思はれた。偶然とは云へ、斯うした物に紛れ當るといふことは、餘程呪はれた者の運命に違ひないといふ氣が強くされて||
彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使ひに行つてゝ留守だつたのを幸ひ、臺所へ行つて

それから二三日經つて、彼はKに會つた。Kは彼の顏を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、
「君の處へも山本山が行つたらうね?」と訊いた。
「あ貰つたよ。さう/\、君へお禮を云はにやならんのだつけな」
「お禮はいゝが、それで別段異状はなかつたかね?」
「異状?······」彼にもKの云ふ意味が一寸わからなかつた。
「······だと別に何でもないがね、僕はまた何處か異状がありやしなかつたかと思つてね。······そんな話を一寸聞いたもんだから」
斯う云はれて、彼の顏色が變つた。||鑵の凹みのことであつたのだ。
それは、全く、彼にも想像にも及ばなかつた程、恐ろしい意外のことであつた。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた
「······K君そりや本當の話かね? 何でまたそれ程にする必要があつたんかね? 變な話ぢやないか。俺はYにも御馳走にはなつたことはあるが、金は一文だつて借りちやゐないんだからな······」
斯う云つた彼の顏付は、今にも泣き出しさうであつた。
「だからね、そんな、君の考へてるやうなもんではないつてんだよ、世の中といふものはね。もつともつと君の考へてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理といふものはね。······つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか
「併し俺には解らない、どうしてそんなYのやうな馬鹿々々しいことが出來るのか、僕には解らない」
「そこだよ、君に何處か知ら
今にも泣き出しさうに
············
眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寢てゐたのであつた。身體中そちこち蚊に喰はれてゐる。膳の上にも盃の中にも蚊が落ちてゐる。嘔吐を催させるやうな酒の臭ひ||彼はまだ醉の殘つてゐるふら/\した身體を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲團もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠つてゐた。
朝飯を濟まして、書留だつたらこれを出せと云つて子供に認印を預けて置いて、貸家搜しに出かけようとしてる處へ、三百が、格子外から聲かけた。
「家も
「これから搜さうといふんですがな、併し晩までに引越したらそれでいゝ譯なんでせう」
「そりや晩までゝ差支へありませんがね、併し餘計なことを申しあげるやうですが、引越しはなるべく涼しいうちの方が好かありませんかね?」
「併し兎に角晩までには間違ひなく引越しますよ」
「でまた餘計なことを云ふやうですがな、その爲めに私の方では如何なる御處分を受けても差支へないといふ證書も取つてあるのですからな、今度間違ふと、直ぐにも處分しますから」
三百は念を押して歸つて去つた。彼は晝頃までそちこち歩き

で彼はお晝からまた、日のカン/\照りつける中を、出て行つた。顏から胸から汗がぽたぽた流れ落ちた。クラ/\と今にも打倒れさうな疲れた頼りない氣持であつた。齒のすり滅つた下駄のやうになつた

で彼は何氣ない風を裝ふつもりで、扇をパチ/\云はせ、息の詰まる思ひしながら、細い通りの眞中を大手を振つてやつて來る見あげるやうな大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。
「オイオイ!」
······果して來た! 彼の耳がガアンと鳴つた。
「オイオイ!······」
警官は斯う繰返してものゝ一分もじつと彼の顏を視つめてゐたが、
「······忘れたか! 僕だよ······忘れたかね? ウヽ?······」
警官は斯う云つて、初めて相好を崩し始めた。
「あ君か! 僕はまた何物かと思つて吃驚しちやつたよ。それにしてもよく僕だつてことがわかつたね」
彼は相手の顏を見あげるやうにして、ほつとした氣持になつて云つた。
「そりや君、警察眼ぢやないか。警察眼の威力といふものは、そりや君恐ろしいものさ」
警官は斯う得意さうに笑つて云つた。
警官||横井と彼とは十年程前神田の受驗準備の學校で知り合つたのであつた。横井はその時分醫學專門の入學準備をしてゐたのだが、その時分下宿へ怪しげな女なぞ引張り込んだりしてゐたが、それから間もなく警察へ
横井はやはり警官振つた口調で、彼の現在の職業とか收入とかいろ/\なことを訊いた。
「君はやはり巡査かい?」
彼はそうした自分のことを細かく
「馬鹿云へ······」横井は斯う云つて、つくばつたまゝ腰へ手を

「見給へ、巡査のとは違ふぢやないか。帽子の徽章にしたつて僕等のは金モールになつてるからね······ハヽ、この劍を見よ! と云ひたい處さ」横井は斯う云つて、再び得意さうに廣い肩をゆすぶつて笑つた。
「さうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し變なやうでもあるし、何かと思つたよ」
「白服だからね、一寸わからないさ」
二人は斯んなことを話し合ひながら、しばらく肩を並べてぶら/\歩いた。で彼は「此際いい味方が出來たものだ」斯う心の中に思ひながら、彼が目下家を追ひ立てられてゐるといふこと、今晩中に引越さないと三百が亂暴なことをするだらうが、どうかならぬものだらうかと云ふやうなことを、相手の同情をひくやうな調子で話した。
「さあ······」と横井は小首を
「出來れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を搜さにやならんのだからね」
「併しそんな處に長居するもんぢやないね。結局君の不利益だよ」
彼の期待は
「さうかなあ······」
「そりやさうとも。······では大抵署に居るからね、遊びに來給へ」
「さうか。ではいづれ引越したらお知らせする」
斯う云つて、彼は張合ひ拔けのした氣持で警官と別れて、それから細民窟附近を二三時間も歩き

その翌日の午後、彼は思案に餘つて、横井を署へ訪ねて行つた。明け放した受附の室とは別室になつた奧から、横井は大きな
「どうかね、引越しが出來たかね?」
「出來ない。家はやう/\見附かつたが、今日は越せさうもない。金の都合が出來んもんだから」
「そいつあ
横井は彼の訪ねて來た腹の底を視透かしたかのやうに、むづかしい顏をして、その角張つた廣い顏から外へと跳ねた長い鬚をぐい/\と引張つて、飛び出た大きな眼を彼の額に据ゑた。彼は話題を他へ持つて行くほかなかつた。
「でも近頃は節季近くと違つて、幾らか閑散なんだらうね。それに一體にこの區内では餘り大した事件が無いやうだが、さうでもないかね?」
「いや、いつだつて同じことさ。ちよい/\これでいろんな事件があるんだよ」
「でも一體に大事件の無い處だらう?」
「がその代り、注意人物が澤山居る。第一君なんか初めとしてね······」
「馬鹿云つちや困るよ。僕なんかそりや健全なもんさ。唯貧乏してるといふだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもさう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも國家社會の爲めに貢獻したいと思つて、貧乏してやつてるんだからね。單に食ふ食はぬの問題だつたら、田舍へ歸つて百姓するよ」
彼は斯う額をあげて、調子を強めて云つた。
「相變らず大きなことばかし云つてるな。併し貧乏は昔から君の
「······さうだ」
二人は一時間餘りも斯うした取止めのない雜談をしてゐた。その間に横井は、彼が十年來續けてるといふ彼獨特の靜座法の實驗をして見せたりした。横井は椅子に腰かけたまゝでその姿勢を執つて、眼をつぶると、半分とも經たないうちに彼の上半身が奇怪な形に動き出し、
「······でな、斯う云つちや失敬だがね、僕の觀察した所ではだ、君の生活状態または精神状態||それはどつちにしても同じやうなもんだがね、餘程不統一を來して居るやうだがね、それは君、統一せんと
「······フム、さうかな。でそんな場合、直ぐ往來で繩をかけるといふ譯かね?」
「······なあんで、繩なぞかけやせんさ。そりやもう鐵の鎖で縛つたよりも確かなもんぢや。······貴樣は
「フム、そんなものかねえ」
彼は感心したやうに
「それでね、實は、君に一寸相談を願ひたいと思つて來たんだがね、どんなもんだらう、どうしても今夜の七時限り引拂はないと疊建具を引揚げて家を釘附けにするといふんだがね、何とか二三日延期させる方法が無いもんだらうか。僕一人だとまた何でもないんだが、二人の子供をつれて居るんでね······」
しばらくもぢ/\した後で、彼は斯う口を切つた。
「そりや君
警部の
「······いや君、併し、僕だつて君、それほどの大變なことになつてるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出來て歸つて居る、······そんなこんなでね、餘り閉口してるもんだからね。······」
「······さう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思つてるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまふんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな處に長居をするもんぢやないよ。それも君が今度が初めてだといふからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終ひにはひどい目に會はにやならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支拂ふ意志なくして他人の家屋に入つたものと認められても仕方が無いことになるからね。そんなことで
············
空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい臺所道具の一切を道具屋に賣拂つて、三百に押かけられないうちにと思つて、家を締切つて八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた
で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入つた。子供等には壽司をあてがひ、彼は酒を飮んだ。酒のほかには、今の彼に元氣を附けて呉れる何物もないやうな氣がされた。彼は貪るやうに、また非常に尊いものかのやうに、一杯々々味ひながら飮んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顏を、他人のものかのやうに放心した氣持で見遣りながら、彼は延びた頭髮を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしてゐた。そして何を考へることも、何を怖れるといふやうなことも、出來ない程疲れて居る氣持から、無意味な深い溜息ばかしが出て來るやうな氣がされてゐた。
「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
壽司を平らげてしまつた長男は、自分で讀んでは、斯う並んでゐる彼に云つた。
「よし/\、······エビフライ二||」
彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
しばらくすると、長男はまた云つた。
「よし/\、エダマメ二||それからお銚子······」
彼はやはり同じ調子で叫んだ。
やがて食ひ足つた子供等は外へ出て、鬼ごつこをし始めた。長女は時々
厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木を鼓いて、その後から十六七位の女がガチヤ/\三味線を鳴らし唄をうたひながら入つて來た。一人の醉拂ひが金を遣つた。手を振り腰を振りして、尖がつた狐のやうな顏を白く塗り立てたその踊り子は、時々變な斜視のやうな眼附きを見せて、扉と
幾本目かの銚子を空にして、尚頻りに盃を動かしてゐた彼は、時々無感興な眼附きを、踊り子の方へと向けてゐたが、「さうだ! 俺には全く、悉くが無感興、無感興の状態なんだな······」斯う自分に呟いた。
幾年か前、彼がまだ獨りでゐて、斯うした場所を飮み

「さうだ、感興性を失つた藝術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもつと惡い人間の生活よりも、惡い生活だ。······それは實に惡生活だ!」
ポカンと眼を開けて無意味に踊り子の厭らしい踊りに見恍れてゐた彼は、彼等の出て行く後姿を見遣りながら、斯うまた自分に呟いたのだ。そして、「自分の子供等も結局あの踊り子のやうな運命になるのではないか知らん?」と思ふと、彼の頭にも、さうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて歸つたきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思はずにゐられなかつた。
「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない處から來たのだ。
「お父さんもう行きませうよ」
「もう飽きた?」
「飽きちやつた······」
幾度か子供等に催促されて、彼はやう/\腰をおこして、好い加減に醉つて、バーを出て電車に乘つた。
「何處へ行くの?」
「僕の知つてる下宿へ」
「下宿? さう······」
子供等は不安さうに、電車の中で幾度か訊いた。
澁谷の終點で電車を下りて、例の砂利を敷いた坂路を、三人はKの下宿へと歩いて行つた。そこの主人も
彼は帳場に上り込んで「實は妻が田舍に病人が出來て歸つてるもんだから、二三日置いて貰ひたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の樣子の尋常で無ささうなのを看て取つて、暑中休暇で室も明いてるだらうのに、空間が無いと云つてきつぱりと斷つた。併しもう時間は十時を過ぎてゐた。で彼は今夜一晩だけもと云つて頼んでゐると、それを先刻から傍に坐つて聽いてゐた彼の長女が、急に顏へ手を當てゝシク/\泣き出し始めた。それには年老つた主人夫婦も當惑して「それでは今晩一晩だけだつたら都合しませう」と云ふことにきまつたが、併し彼の長女は泣きやまない。
「ね、いゝでせう? それでは今晩だけこゝに居りますからね。明日別の處へ行きますからね、いいでせう? 泣くんぢやありません······」
併し彼女は、ます/\しやくりあげた。
「それではどうしても出たいの?
斯う云ふと、長女は初めて
で三人はまた、彼等の住んでゐた街の方へと引返すべく、十一時近くなつて、電車に乘つたのであつた。その邊の附近の安宿に行くほか、何處と云つて指して行く知合の家もないのであつた。子供等は腰掛へ坐るなり互ひの肩を凭せ合つて、疲れた鼾を掻き始めた。
「······が、子供等までも自分の
さうだ! それは確かに怖ろしいことに違ひない!
が今は唯、彼の頭も身體も、彼の子供と同じやうに、休息を欲した。