囂々たる社会
輿論のうちにこの凄惨極まる日記を発表するに当っては、まず当時の受けた衝撃なり
戦慄なりを、実感そのまま読者にお伝えすることが必要であろうと思われる。そしてそれらの感情を読者に受け取ってもらうためには、まずこの日記の発見された当時の情況や、その前後の顛末を述べることがもっとも早道と考える。
諸君も御承知のとおり、
葡領西
阿弗利加アンゴラと
白耳義領コンゴーとは、年中国境紛争の絶え間もない植民地であった。というのは、両国とも各々植民地経営にはさしたる卓抜なる手腕を有せず、本国から派遣している官吏また怠惰であって行政乱脈を極め、綱紀はいっこう振粛していないところへ持ってきて、この近辺一帯は土人密輸の本場と謳われ、ことにアンゴラの首府ロアンダの北方サンサルバドルよりコンゴーのマタディ港へ通ずるコンゴー盆地条約による自由地帯付近は密輸のもっとも
激甚なるところとして注目を
惹いているのであったが、なにぶんにも国境付近は
蜿蜒たる大山脈つらなり、加うるにコンゴー南東部を限る大密林が進出してきているので、その警戒なぞは到底限りある官憲の力の及ぶところではないのであった。そして大規模の密輸が発覚すると、たちまちこの国境画定が両国当事者を騒がせていたのであったが、今も言うとおりその国境たるや、一九一二年、両国の本国委員たちがただ地図の上で線を引いたに止まり、現地実際においては獅子の
棲む無人の
荒野を走り、毒蛇の巣くう
灌木草原地帯を貫き、あるいは大密林、山領重畳たる高山の頂を縫い、到底これを実際に画測すべくもないものであった。
したがって従来しばしば、国境は実測の上これを改訂すべく両国当事者間の議に上っていたのであったが、なにぶんにも場所が欧州政局の中心に遠く、
辺陬熱帯
瘴癘の蛮地であって、これを画測するにも容易ならざる歳月と費用とを要すべく、加うるに多大の危険と戦わねばならず、すなわち議には上っていても実行すべくあまり多大の負担を要するために、いつもそのまま、本国政府の無気力と、植民地官吏の怠惰とを表白して、
沙汰やみとなっていたのであった。そして過去十六、七年来、しばしば国境監視隊員の間に発砲流血の惨事を
惹起しつつ、
荏苒今日に至ったものであったが、一九三四年突然コンゴー総督府側よりの強硬なる提議があって、葡領アンゴラ側またこれに応じ、大規模なる現地測量隊を出し、五年の後ブリュッセルにおいて画定すべき両国々境画定委員会への下準備調査をすることとなったのであった。この現地測量隊として、アンゴラ政府の派遣せるものは、技師二十六人、技手以下測量人夫三百八十人、充分なる食糧と準備を整え、約十八班に分れて、中央国境唯一の土人町ビイサウを基点として約一カ年半の予定をもって、東西
蜿蜒千五百
哩の国境画定測量に従事することとなったのであった。
私はもともと
葡萄牙人ではなかったが当時ベンゲラの町に滞在中であって、バングボロ湖の水源地方測量を終えて帰ったばかりのところであり、欧州へ引き揚げるのには今少し働いて金を貯えた後に戻りたいという心持であったから、この調査隊は相当危険も大きい代りには待遇もかなりによく、一年半の後には相当
纏まった金を握って欧州へ帰ることができるであろうという希望が、私をして、この調査隊の測量技師を志願させることとなったのであった。そして私は首尾よく選抜せられて、第十二班の班長として、ビイサウの東方さらに九百余哩、第三班と第八班の測量区画の中間、通称オジュラノ高山地方というところを受け持つこととなったのであった。
これが、私がこの不思議なる日記を発見したアンゴラ国境調査隊へ加わっていた理由なのであったが、この熱帯下無人の地域の調査が、いかに困苦
艱難を極めたものであったか、そしていくたび猛獣毒蛇の危害のために全班員二十三名が危険に
曝されたかということなぞは事新しく言うだけ余計なことであろうから、ここにはこの日記に関係のない調査隊の活動なぞということは一切省略して申し上げぬこととしようが、ともかく、いよいよオジュラノ高山を
囲繞する大密林地域の測量もほぼ終わりかけて
||ということは、やがて、私の志願した仕事も予定の約一カ年半の期間をほぼ終わりかけていた頃、ということになるのであったが
||現地の事情に通ぜぬ委員たちが、ただ地図の上へ盲滅法に線を引いただけの
迂愚を笑いつつ、自分たちの一年有半労苦の結晶たる測量図の整理を急いでいた頃には、すでに、熱帯風土病である
黒死病のために班員中七名の土人人夫を失い、猛獣のため三名を失い、
馬匹は六頭を
斃され、残る班員の大多数も
髯ぼうぼうとして山男のごとく、被服は、汗と
塵、垢に
塗れて破れ裂け、補給の道もなく、皮膚は一年有余にわたる灼熱の太陽に
燬かれてアンゴラ土人となんの変わりもないくらいにこげ切っていた。
もしこれが政府の仕事でなかったならば、到底これほどまでに完全なる測量図もできなかったであろうと思われるほどに、その困苦は言語に絶して
烈しいものであった。幸いに政府の仕事であったればこそ三カ月に一度ずつ、首府ロアンダを発してこれら十八班全部をめぐって食糧の補給、郵便物の連絡をつけてくれる
行嚢班があったばっかりに、わずかにそれに慰められて、仕事を継続し得られたのであったが
······。
さてそこで、ちょうどその日記を発見したという当日の出来事に移るのであったが、それは私たちの班がオジュラノ高山をめぐる連嶺の一つボラマ連山密林の奥約七十
哩ばかりの盆地にキャンプを移動して、ここを本部として付近七、八哩を毎日測量していた時のことであった。もはやこの付近一帯を測量すれば
||詳しく言えば東経十九度三分南緯八度四分に達しさえすれば、東方より進出して来る第八班と合隊し得べく、あと二十日間ばかりの努力と思えばまことに気も軽く、仕事の完成にも一層張り切っていたのであったが、ちょうどその日も私は七、八人の人夫相手に朝からキャンプを出て、二、三哩奥の密林中を測量していたのであったが、仕事に熱中しているうちにいつか時間の経つのも忘れて、もう時刻は午後の二時三時頃にもなっていたであろうか。
先刻から目標にして紅白の
向桿を立てて
佇ませておいた土人のニストリが動揺して、
経緯儀を覗いている私の観測がどうしても付かなかった。ふだんから仕事熱心な真面目な土人であったし、もしかすると、この辺に多いといわれるバンタ毒蛇でも足
許にいたのかなと眺めているうちに、今度はさらに第二視標のジアンドロという土人の
向桿も烈しく震え出してきた。
「おうい、どうしたのだ! ニストリ! 何かそこにいたのか!」
と、私が大声を出した瞬間であった。ニストリの
向桿もジアンドロの
向桿も見る間にそこにぶっ倒れて、
叢から飛び出した野獣のように、狂気した二人が私のほうへとんで来た。血の気もないほどに
蒼褪め切って、しかも口も利けぬくらいにブルブルと手足を震わせているのであった。
「何事が起こったというのだ! ジアンドロ! お前までも!」
と言ってもそのジアンドロまでがただ無言で私の
袖を引いて、あっちあっちと言わぬばっかりに指さしているのであった。ともかく二人の様子で、よほどただならぬことが起こったと私にも直観されたので、私もすぐに拳銃を引き抜いて用心しながら二人の後について行った。ニストリの
向桿を立てていた地点は、私が
経緯儀を据えていたところから九十ヤードの距離、ジアンドロの佇んでいたところは、さらに三、四十ヤードの距離であったが、烈しい上り
勾配の地勢であった。そしてここまで来て見るとあたりの密林もだいぶ
疎らになって、ニストリのいたところからさらにジアンドロのいたところまではハッキリ足許までも見渡せるくらいに打ち開けていたが、二人の土人が眼をまるくして指さしているのも道理、それは密林が疎らになったのではなく、この辺一帯無風の熱帯下でありながら何物の仕業か、その辺一面の大樹は根こそぎ
薙ぎ倒されているのであった。一抱えもありそうな
樫や
胡桃の大樹、
山毛欅の大樹、原生マホガニイやパリサンダーの大樹等人力をもってしたならば、到底一日や二日では倒せそうもないくらいの大樹が、まだ折れ口も生々しく、木の香をプンプンさせながら薙ぎ倒されているのであった。しかも、その近辺の勁草はいずれも踏み
躙られ、柔らかい地膚の中へめり込ませられて、何さまここでよほどの強力なものが大格闘を演じたと見らるべきものであった。
「
類人猿です! ハムラ、類人猿です」
と土人二人は震え上りながら指さした。ハムラとは隊長といった風のアンゴラ土人語であり、ポンゴーというのは、同じくゴリラのことを土語ではかく言って恐れ
戦いているのであった。
「何?
類人猿?」
「ハムラ、そちらへ行ってはいけません! 危ない! 類人猿は恐ろしいです」
と、一歩踏み込もうとしている私の袖を捉えて、ほとんど顔色を変えんばかりにして、土人たちは私を引き留めた。何事が起こったのかとほかの仕事に従事してその辺にい合わせた土人たち五、六人も、ちょうど、その時まわりを取り囲んで来たが、類人猿と聞くと同時にことごとく顔色を変えて逃げ腰をした。この辺はもはやコンゴー南東部を北ローデシヤ国境方面へ限る大密林の連続地帯であったからもちろん
類人猿の
徘徊することになんの不思議もなかったが、しかし今まではその恐ろしさを話にだけ聞いていて、実際は目撃したこともなかった類人猿の棲息地帯を知らず識らずのうちにいよいよ
衝いていたのかと思うと、一瞬私の血も凍りつかんばかりの寒気を感じたのであった。
「ハムラ! もう仕事もこれでおしまいです! 類人猿がいたのではとてもこれ以上奥へは踏み込めません!」
と、震えながらジアンドロが言った。ゴリラの醜悪なあの面貌を恐れるのか、あるいはゴリラを忌み嫌う父祖以来の伝統が、その血の中に
沁み込んでいるのか、アンゴラ土人の類人猿を恐れることは獅子、虎、バンタ毒蛇、豹にもまさっているのであった。
「何を言うのだ! 類人猿ぐらいが恐ろしくてこんなところで仕事ができるか!」
と私は一喝したが、しかし私とてもこの付近にあの
膂力すぐれた類人猿が潜んでいると知っては、もちろん背筋を冷汗が走るのを禁じ得なかった。そして握りしめていた拳銃の引金に、いとど力の
籠ってくるのを覚えたが、土人らの手前弱みを見せるわけにはゆかぬと思ったから、しいて何気ない体を装って、さらに二足三足歩を踏み出した途端、思わず私は
竦然として立ち止まった。
「ハムラ
······ハムラ
······あすこに
······あすこに
······白人の女の足が見えています」
と、ニストリが途切れ途切れに指さした彼方の
叢の陰から、紛れもない白人の女の足が
······しかもまだ年若い婦人の素足が、片一方大腿部から突き出しているのを見たからであった。
「ハムラ、止めて下さい、止めて! 側へ行ったら大変なことになります。類人猿は何をしでかして私たちを恐ろしい目に遭わせるかわかりません」
と、口々に騒ぎ立てている土人を制止して、私は近づいて行ってみたが、一眼見ると同時に思わず
呀っ! と叫んで顔を
掩わずにはいられなかった。そこに倒れていたのは、若い白人婦人の屍体であった。しかも心持右側を下にして
俯っ
伏し加減に眼を閉じているその屍体は、房々と渦巻いた金髪は乱れて地上に長く波うって、右腕は付根から

ぎとられていた。そして左足も

ぎとられているとみえて、鮮血はすでにドス
黝く
辺一帯の草の葉を染め、
斑々として地上一面にこびりついていた。しかも閉じたその
眼、軽く結んだ
豊艶な唇のあたり、熱帯の灼熱せる太陽に蒸されてすでに紫斑を呈しながらも生前の美しさが
偲ばれて今にも
楚々として
微笑み出すかと疑われんばかりの姿であった。
「ハムラ、恐ろしいことです。みんな
類人猿の仕業です! 類人猿のしたことに違いありません」
と、さすがに心ない土人たちの眼にも、この
無残たらしさだけは正視することができなかったとみえて、いずれも顔を
背けながら口々に
喚き立てた。もちろん土人たちに教えられずとも、類人猿にあらずして何者がかくまでも惨酷なる
殺戮をなし得たであろう。その屍体をそのままにしている点から言っても、鋭い爪のあとから見ても、凄まじい
嗜虐的な殺しかたから見ても、この婦人を襲うたものが獅子や虎のごとき単なる食肉性の猛獣ではなくて、最も人間に近いゴリラに相違ないことは深く私にも
頷かれたが、しかも、この人煙皆無の地に
||最も近き土人部落すらも、九百
哩の重畳たる密林の幾峻嶮を越えたビイサウの町のみであるこの人跡未踏の地に、どうしてこういう美しい白人婦人の姿が見受けられたのであろうか。
葡領アンゴラは最も白人の少ないところであって、ロアンダ、ベンゲラの海岸都会地方においてすらも、白人の住するものは近々数千人にすぎなかった。いわんや婦人にいたっては
寂々寥々たるものであった。いわんや殊にこんな花恥ずかしき美婦人においてをや! そして
寡聞にして私は自分がベンゲラ滞在中には、いまだ白色婦人の行方不明になった事件のあったのを聞いたことがなかった。しかも旅行者として見ればその同伴者のないことも不思議なれば、馬匹食糧等のあたりに散乱しているものもないことが、いかに考えてみても解せぬ謎であった。
まるで白昼にまぼろしを描いているような気持で、なおも私は茫然としてその場に佇んでいたが、ちょうどその途端であった。
「ハムラ! ハムラ! こういうものが落ちていました
······」
と、その辺を眺めていた土人が、一冊の帳簿らしいものを拾い上げて来た。おそらく死ぬ間際まで、この婦人の手放さなかったものであろうか。羊皮の表紙に一杯ドス黝い血がこびりついて、六
吋に四吋ぐらいの
合判の帳面であったが、綴糸はきれて
頁はバラバラになっていた。生前つけていた婦人の日記帳と見えて、中には日付の下に英文でビッシリと何か丹念に書きつけてあった。一目で屍体となっているこの婦人が、英国婦人である身の上を物語っていたが、頁がどのくらい散逸しているものか、そして中には英文でどういうことが書きつけてあるものか、そんなことを調べている間もなく、
「ハムラ! こんなものも落ちていました」
と、さらにもう一人の土人人夫が妙なものを差し出して来た。
阿弗利加樫の二枚の板であったが、どう見てもやはり婦人の持ち物としか思われず、しかもそれは何と考えてみても、三号ぐらいの大きさの油絵のスケッチ板としか思われぬものであった。しかしそこに描かれてある絵というものは、絵か線か、見ようによっては何かを描こうとした線のようでもあれば、また見ようによっては、他の
写生板をつくるために、ただ木炭をペタペタとなすりつけたものとしか思われぬような、なんとも言えぬ奇異な物象の描かれた二枚の板であった。
私は
凝乎とこの謎の板を眺めていたが、署名もない頁の抜けた日記帳と、こんなスケッチ板とのみでは、この屍体の素性を探るべく何らの手懸りになるものでもなかった。私はさっきから、私の顔とこの凄惨な屍体とを等分に見較べながら
戦きつつ遠巻きにして
犇めいている土人たちに言いつけて、さらにその付近一帯をできるだけ綿密に捜させてみたが、これ以外には別段何の落ち散らばっているものとてもなかった。ただそうした捜索の結果として今一つ判明したことは、この婦人の屍体からさらに十二、三ヤードばかり離れた東方の個所に、数本の木が烈しくひし折られて、雑草はねじ倒され、さらにまた斑々とした血痕が残されて、そこで凄絶な格闘が行われたことを語っているのであった。しかも人煙離れたこの無人の境において、目前にこの屍体を眺め、そうした凄まじい格闘のあとを見ていると、熱帯の陽はそこに
赫々として輝き、白雲は
眩めかしく悠々と白光のうちに
泛んでいるにもかかわらず、密林は妖しげな
陰影をうつろわせて、天日もなんとなく
仄暗く、背筋からもう一度総毛立ってくるような気持が感ぜられてくるのであった。
しかしともかく、その素性もわからぬながらにこうして眼前に屍体がある以上は、これをいかに処置すべきかが今の問題なのであった。穴を掘ってここに埋めようかと思ったが、それはいかにも忍びぬことであった。よって私は、ひとまずここでその日の測量を切り上げてあたりの木を切ってこれを組み合せて急造の担架を
拵え、一応キャンプまで
搬んで、その上で、他の技手たちとも相談することに意を決したが、意外にも土人たちは急に強硬な反対を唱え出したのであった。彼らの言うところ、見るところではこうなのであった。
二匹のゴリラはここでこの婦人を争って、烈しい格闘を演じたのであった。そしてその二匹のゴリラのうち、いずれか一匹が勝って婦人を殺し、しかもそのゴリラは決して婦人の屍体を棄てて去ってしまったものではなく、たとえ屍体となっても、あくまでもこの婦人を自己のものとすべく、きっと夜になれば、またこの場所へ帰って来るに違いない。その場合に、もしこの場所の屍体を自分たちが搬んでしまっていたならば、必ずそのゴリラは憤怒して、自分たちのキャンプを襲うて来るに違いないというのであった。
「
莫迦な! そんな莫迦莫迦しい理屈がどこにある! 第一、二匹のゴリラがこの婦人を争ったなどという推測がどこからついてくる!」
と私は苦笑したが、
「ハムラ! こんなに凄まじく木をひし折ったり、草を
薙ぎ倒しているのは
類人猿の喧嘩の外にはございませんです」
と土人たちは真剣を面に表わして、そこの格闘の
痕を指さした。ゴリラ以外にこれだけの兇暴な振舞いのできぬことは私にも想像はついていたが、しかしこの格闘の痕を見ただけで、この婦人を争って二匹のゴリラが格闘したとは、私には想像し切れぬものがあった。ゴリラは憤怒すれば、一匹でもこれくらいの大あばれは
易々たるものであった。
「いいえハムラ、類人猿はこんな綺麗な人間の女を決して殺しはしませぬ。可愛がって大切にします。けれども類人猿は大変に
嫉妬深いのです。怒って、殺したにちがいありません」
土人たちの頭は単純であった。彼らの言うことはその信であり、その信を破ることは、時としては彼らの凄い怒りを買うことになることを、私も知りすぎるほど知っていた。
「それほどまでにお前たちが言うのならば」
と到頭私も根気負けがした。「類人猿のことはお前たちのほうが俺よりもよく知っているのだから、お前たちがそうだと言えば何も俺には強いて反対するところもないのだが
······」
と私は口を
噤んでしまった。しかし今の私にとってはそんな理屈なぞはどっちでもいいことであった。私としては、今眼前にあるこの白人女性の不幸な屍体を、ただこのままに
放擲してキャンプへ引き揚げてしまうということが、情において何としても忍びぬことなのであった。
「ビスカ、お前はどう思う
······俺たちには火もあれば鉄砲もある。何の類人猿の一匹くらい、もし襲うてくれば、撃ち殺してしまうに造作もないが皆は危険だという。ビスカ、俺はお前の考えに従う! お前はどう思う?」
と私は土人頭のビスカの顔へ眼を移した。ビスカはこの一隊のうちでは一番に
年嵩の土人でもあり、多少の英語、
葡萄牙語にも通じ、みんなの信頼も克ち得ていれば、土人と白人との間にたって、すべてのことを取りしきっているいわば土人中の
知識人なのであったから、もちろん私はビスカだけは、私の意志に従ってみんなの恐怖をなだめ説得してくれることとばっかり考えていたのであったが、驚いたことには、この土人頭のビスカの私を
凝乎と
瞶めている
皺だらけの落ち
窪んだ眼も、静かに
否を表示して、私の意見に反対するように頭を振っているのであった。
「よし! ビスカ、仕方がない、お前の意見に従おう! では今夜一晩はこのままにしておいて、明日の朝来てみて何ともなかったならば、俺はこの屍体をキャンプまで搬んで行くぞ!」
と私は失われた威厳を取り戻すべく、クソ
忌々しい気持でそう言った。
そして、その一夜こそは、どんなに好奇の心を
躍らせながら、灯の
瞬くキャンプの中に、一同とともに眠られぬ一夜を明かしたことであったろうか。三つのキャンプの廻りには、燃やせるだけの
篝火を
焚いて、銃を持たせた土人の
不寝番を三人も立たせておいた。そして一同は
素破と言えば直ちに起き上れるように、
施条銃や拳銃を握りしめたまま、床についたのであったがもちろん眠れるものではなかった。その不思議な屍体の美婦人のことのみを語り合いつつ、ばさと木の葉の落ちる音にも胸
轟かせ、ただ黒暗々たる無人の密林盆地のうちに天も地も
沈々と更けゆく中に、寂寞身を切るような
阿弗利加奥地の奇異な一夜を明かしたことであったが、さて陽光のうららかに木々の
梢や葉を透かして射し込んできて、篝火の灰のみうずたかく、別段キャンプ付近に何事も起こらなかったのを見ると、緊張していただけに、昨日の出来事が自分ながら夢のような気がしてくるのであった。
が今日だけは各方面へ手分けして出かけることを止めて、一同が好奇心半分に、測量器具の代りに、銃をたずさえ、
怖じ恐れて、ともすれば逃げ腰をしている土人たちを叱りつけ、また四
哩ばかりの道を昨日の場所まで来てみて、さて驚いたことには! なるほど無智ではありながらも、
蒙昧ではありながらも、蛮地に育って生れ落ちるからゴリラの習性を聞かされて成長してきた土人の言は我を欺かずいかに眼を
瞠って見ても、昨日の婦人の屍体はすでに影も形も見えなかったのであった。ただあの屍体の横たわっていた場所には、それだけはゴリラにも用がなかったものと見えて、例の血みどろの日記帳と二枚のスケッチ板とのみが、そのまま夜露を受けていた。
もはや何らの疑いもなく確かに
昨夜のうちにゴリラは戻って来て屍体を搬び去ったに違いがないと思われる証拠には! 私が屍体の側に置いて行った二枚のスケッチ板中、殊に屍体のすぐ近くにあった一枚のほうは、確かに婦人を抱え上げる時に、ゴリラの足がかかったものと覚しく、板一面に泥がこびりついて、しかも手に取り上げて見ると驚くべし、厚み二
糎もある丈夫な
阿弗利加樫の板が、真ん中からピチンと二枚に折れていることであった。一同は言葉もなく、スケッチ板を眺め日記帳に眼を走らせている私の廻りを取り囲んで来たが、その時土人頭の老いたるビスカが静かにこんなことを
囁いた。
「ハムラ、類人猿の森へ踏み込んで来ている以上まだまだ気をつけなければなりませんが、しかしもう昨日の類人猿だけはこの辺にはおりませぬ。もう六十
哩も向うで木から木を伝わって、昨日の女の屍体を肩へかけて
翔っている頃でさあ! 類人猿は木さえ伝われば足の早いものだ。一晩で六十哩くらい走ることは造作ありませんです!」
さて読者諸君、以上がこの不思議な日記帳をどうして、どこで、いつ私が手に入れたかということの、極めて大体なる荒筋であった。これから何が書かれてあるか、この血まみれの日記帳を開くわけなのであるが、その前に一言しておきたいことは、今まで述べたことは、決してこの一篇の前置きではなく、この日記を開く上に必要欠くべからざる報告の構成主要部分を勤めているということなのである。
五月六日。なんという情ないことであろう。広大なる邸に住んで多くの侍僕を使い、人は一代の
碩学として称えてくれる。しかし
父様のお心の中の苦悶は、私の物心ついてこの方いまだ一日として消えたこともないのだ。思うまいと思う、聞くまいと思う。しかし、碩学として称えられる一面、父様の背には、永久に「偽りの碩学、世を欺ける碩学」という汚名がついて廻っているのだ。世の中の学者たちというものはなんという狭量な心の持主ばかりなのであろう。自分たちは何の冒険もなし得ず、その最愛なる妻を蛮地に失いもせで、ヌクヌクと幸福に暮していながら、自分たちにわからぬ新学説が世に出さえすれば、これをけなし付け、抹殺してしまうのだ。卑怯な学者たちは言う。ゲイレック博士は阿弗利加におけるゴリラの
解剖と
生態生研究だけで、もはや立派な大学者なのだ! 何を好んでゴリラ言語までを研究する必要があろうかと!
なんという浅はかな人たちなのであろう! ゴリラ言語までを研究し、遠き
第四紀氷河時代において、人類は猿類より出でゴリラより進化せる人猿同祖論に帰結するこそ父様
畢生の御研究なのだ。その確信のためにこそ、父様は六カ年も人も恐るる
密林蛮土に送り、私をエリオット小父様の許へ預け放しになさっておいて、あの苦心の研究をなさったのだ。ついに母様を熱帯病でお亡しになりながらも、あの尨大なる研究を完成なされたのだ。
それにもかかわらず、人は父様の幾多解剖上の発見のみを称揚して、その言語学上の発見を偽りなりとする。類人猿の脳量はマサラ・ブッシュマン族や山獄ダマラ族らと僅少の差にあり、歯、
細胞、
血清も各内蔵諸器官も
[#「各内蔵諸器官も」はママ]、あるいは感覚知覚系統も
妄覚、概念、記憶、観念連合、推理、想像等も人間と何らの差違ないことの学術的立証をなさったのは父様ではないか。そして世間はことごとくその研究の真なることを認め、父様のもたらされた実物標本によって、その価値を認識している。しかもその学者が研究を
遡らせて発表せる新学説だけは
||ゴリラ言語学の新発表だけは、そこに立証すべき生きたる標本のないために、これを虚偽なりとして抹殺し冷評する。
今日も父様のお留守中御書斎を整理しつつ、ふと、御著書
||父様の心血お注ぎになって、しかも学界をあげての冷評のうちに葬り去られた『
類人猿の心的能力』をとり上げて、父様が悄然としてお帰りになった、私が十二、三歳の頃のあの動物学会の日の痛ましい想い出がまざまざと胸によみがえってきて、思わず暗涙に
咽んだ。
私は学者ゲイレックの娘なのだ! 世間普通の女とは違う。意志を強く持ってどこまでも恵まれざる父様の研究の成果を信じていることにしよう。そして父様の御説のとおり
類人猿間には立派に体系づけられた言語が存在し、その
語根は前世紀
類人や
原始人、
第二直立猿人らが口にしたと思推し得られる古代セミティック
訛成転形語前の
語根と同一であったということを疑わずして信じていることにしよう。それが受難の学者の娘の態度なのだ。そして昔ダーウィン博士の娘もおそらくそうであったに違いはなかろうから私もどんなことをしても、父様の御研究が進んでゆくようにこれからはもっと全力を尽して父様をお助けしなくてはならない
······なぞといろいろ考える。それにしても、去年以来父様の考えていらっしゃる新しい研究方法はどうなっているのであろう。あの後なんとも
阿弗利加からは話がないし、これも立ち消えになってしまったのか、なぞと御書斎に頬杖を突きながら、それからそれへと取り留めもないことを考える。午後の三時、父様大学からお帰りになる。相かわらずムッツリとして御機嫌のよくないお顔!
血みどろな
[#「血みどろな」はママ]日記は、強烈な熱帯の直射のためにすでに
血色素が変化して、
膠のように凝結して清水で洗ってみてもグリセリンで溶いてもいかんとも溶解が利かず、残念ながらこの後三十頁ばかりというものは一字を判読することもできなかったのであった。仕方がないから私はあとを読んでゆく。
九月二十九日。いよいよ待ちに待っていたゴリラが到着した。灰色の粗い毛に被われて見るも
獰猛な顔
······ と、いきなり日記はどこか蛮地あたりになってきている。前後の事情から察して、この凝血して判読の利かぬ部分が、英国から出発してアンゴラあたりへ来、いかにしてかゴリラを手に入れて、キャンプ生活にでも移っているところが記録されていたのであろうと想像せられた。ともかく、推察を交じえつつ全体の輪郭を作り上げて、私は眼を
晒していったのであった。
······そして見上げるようなゴリラの身長は七
呎三
吋、北西バンバデンガ境ムーラ河のほとりで深い陥し穴の中へ落ちていたのを、十四、五人の死傷者を出してやっと
生獲したのだということであった。
代金は三千パゴスタ、その外に馬背に積んだおびただしい煙草、アルコオル類、
燐寸、子供の玩具類を添えてこの人々は喜んで帰って行った。いずれも恐ろしい
兀鷹族なのだそうだが、アンゴラ土人とは違って、見るからに屈強そうな丈も高ければ体格も大きく
瀝青黒のような皮膚をしていかにも北西森の住人にふさわしい人々ばかりであった。全体では三、四百人の人たちを要したと土人のアガミは通訳してくれたが、ゴリラについて搬んで来た人々は、約五、六十人ばかりであった。
中には十四、五歳、頭は
兀鷹族特有の
椰子の油で固めた尖った縮れ毛をして、毒矢をたずさえた少年の眼が愛らしく私に映った。密林の中に育った純朴な民の一点汚れのない眼といえば、こういう瞳を指すのであろう。
ちょうど
菓子の一包みを持っていたから、さしまねいて、
「おいで! おいで!」
をして手に握らせてやった。どうするものかを知らぬ少年は私が笑いながらパラフィンの包紙を解いて口へ入れて見せたら、自分も真似をして口へ入れた。しかしこの文明人の菓子は、火食を知らぬ生肉を
啖い自然のままの木の実の味しか知らぬこの少年には、到底その味覚の複雑さが理解されなかったのであろう。驚いてペッペッといきなり
唾を吐いて逃げ出して行ってしまった。
ともかく一同は狂喜してさっそくこの獰猛な珍客に、アガミの教えてくれたとおりマフチャズという
兀鷹族の名前を与えた。マフチャズというのは「遠来の友」という意味の言葉だそうな。そしてさっそく
檻の補強をして
||その檻も
兀鷹族の搬んで来たのは丈夫なゼダ
蔓の三重檻であったが、この檻から移すことなぞはとても危険ででき得べくもなかったから、この蔓檻のまま、鉄のボールトを組んだ本檻を
拵えたのであった。父様のお部屋から三間ばかり隔たった例の
録音室とモニタリング
室との間へ据えて、これからいよいよ父様のいわゆる自然生のままの、生態研究への録音第一歩を踏み出すことになった。パッカースンはいよいよ交流高周波発電機の廻転を三千七百五十にして周波を五百サイクル、電圧を百ボルトに引き上げるべく、さっきからインターロック
電動機の手入れに忙しい。ウェンデルは元気づいてディスクのトービス機を引っぱり出して来た。そして
振動板の音域を二千サイクルにまで引き延ばすべくせっせと鼻唄交じりで録音室の
四周にモンク皮を吊り下げている。キャンプ内とみに活気を帯びてきた。夜一同で祝盃を挙ぐ。
残念ながら日記は再びここで中絶して続けて七、八枚ばかり引き

られていた。読み出せば、なんとなくこれから不思議な生活へはいることを暗示して、学術探検隊の一行かとも思われる
野営陣営内の喜びをありありと偲ばせていたが、なにせこう断続していたのでは、地点の概念も、その一行の目的もあらゆるものが一切私の想像に単なるヒントを与えるだけの役にしか立たず、なんとも言えぬ
落胆さを覚えてくるのであった。おまけに、北西バンバデンガ境ムーラ河のほとりといえば、ここからイラビジ河に沿うて峻嶮さらに千八百
哩も離れている。文中記載のゴリラを
生獲してこの一行に持ち込んだらしい
剽悍兀鷹族の一隊というのは、その千八百哩の彼方密林中に住んでいた土人種族にしても、一行のいたところがその密林地帯からどのくらいの距離にあったものか、今まで読んだところではとんと捕捉もつかぬのであった。
婦人としては、もちろん単なる自分の回顧のよすがなり、あるいは、備忘のためなりに
認めている日記であったから、第三者に説明的な書き方をする必要は少しもなかったのであろう。しかし今、私の求めるものは、第一、住んでいた地点であり、第二、この婦人がどういう身の上であったか、そしていかなる事情のもとに、この辺境へ入り込んでいたものであるか、その類人猿に襲われたまでの事情等々なのであった。
しかし途方に暮れて一服しながら、何気なくパラパラとめくった次の
頁あたりからは、だいぶ

られもせずかなりの長さで引き続いているように思われた。あるいは何らかの手懸りでも得られるか知らんと、私はまた無気味な血に手を触れぬよう用心しつつ、水洗いしつつ紙をめくり出したのであった。
十一月九日。いよいよ雨季にはいってきた。なんという物
侘しさだろう。明けても暮れても荒涼たる蛮土、そしてしとしとと小止みもなく降る雨。身体中の節々も溶けてしまいそうなくらい
懶い暑さ。今日ふとここへ来てから何日くらいになるだろうかと指を折ってみた。早いものだ。もう一年と二カ月にもなる。
倫敦の友達たちも、随分変わったろう。中にはもう結婚された方もあろう。子供のお母さんになられた方もあろう。そして私一人はと思うと、なんとも言えぬ淋しい気持がしてくる。ヴァイオリンなぞ弾いて気をまぎらわす。ふと気がつくと、ゴリラも
凝乎と、檻の中から顔をよせて、聞き
惚れている。
「マフチャズ! お前も退屈だわね。どうして世の中にお前のようなものがいるの? お前のようなものがいればこそ、父様はこうやって一生涯を棒に振って研究に熱中していらっしゃるし、私たちは倫敦へ帰ることもできないで、こんな山の中で日を暮していなければならないし
······」
と檻の側へ寄って
零したら、マフチャズも
凝乎と聴き耳を立てているように思われた。昼過ぎからマフチャズの檻の前でマフチャズの写生なぞをする。もう油絵を描きたくても
画布もないし、次便の来るまでには四カ月も間があるし。
······その間木炭だけしか書けないかと思うと心細くなる。しかし蛮土の恵みには木炭だけには事欠かぬ。土人のロサチの見つけて来たスアガという
柘植のような木を焼いたのは、立派な
木炭になる。パラシが
阿弗利加樫で沢山まるでヘルキュレス神でも使いそうな厚いスケッチ板は
拵えてくれたしこれだけにはなんの不自由もない。夜、些細なことで、コンラッドとジャクスンとが口喧嘩をして二人とも食事なかばに立ってしまう。しかも見ている人のほうでも、少しも気にかけぬ様子。湿熱とこの長雨とでは、人の気も
鬱屈して、みんなただ獣のように心が
荒んでしまう。しかも獣よりもなお悪いことは、荒んだ心の外に、男たちは年中喧嘩をして、そして
······私を見る眼ばかり鋭くギラつく。ゴリラは醜悪だ! しかし醜悪でもゴリラの檻の前で、絵を描いたりヴァイオリンを弾いている時だけが、私の一番に気の安まっている時だ。
十一月二十九日。久しぶりで土人女中のイスカーキが湯を立ててくれる。湯といっても正式の
浴槽なぞがあるわけではない。パラシの拵えた木の箱だ。まるでベツレヘムで
基督の産湯を使われた
厩槽そっくりの体裁だ。
しかし、それでもべとべとと身体に
纏りついた汗を流して、なんとも言えぬ爽快さを覚える。入浴の時はいつでもイスカーキを入り口に立てておいて入るのだが、今日も湯の中で
凝乎と
四肢を伸ばしていた時に、裏手の土を踏んだ
跫音を聞きつける。針のように敏感になっているこの頃の私の感じには、その音の聞き分けがすぐにできるから不思議だ! また誰かウロウロしているなと思った瞬間、私は怒りで全身が炎のように燃える。
「イスカーキ!」
と私の叫ぶ前に、土人の女の耳はもっと敏感であった。たちまちパッと飛び出して裏手で
揉み合う烈しい音がする。イスカーキの
罵り声が聞える。急いで着物を引っかけてあがる。イスカーキの突きつけている薄暗いカンテラの灯りに照らされて、すごすごと立ち去って行く姿は録音技師のウェンデルであった。しかもジロリと見たウェンデルの眼には、何の後悔も何の
羞恥もない。まるで野獣の眼だ。こうしたことが、一つ一つ婚約中のアランの心を刺激して、アランは執拗に結婚を迫ってくる。
しかも不思議だ。この頃では私の心は、アランの熱を冷ますようなことばかり言いたくなってくる。本当に不思議だ。これが、一年半の昔、倫敦であったならば私はどんなに喜んでアランの
囁きを受け入れたかもわからないのに
······みんな変わる。この湿熱と荒涼と長雨とではみんなまったく変わってしまうのだ。
十一月三十日。今朝イスカーキから聞いたが、
昨夜のことで技師のウェンデルとアランとが、烈しい争いをしたということであった。そしてアランはウェンデルのために左肩を烈しく傷つけられたとかいうことであった。本来なれば、婚約者のアランが怪我をしたと聞けば、私は無我夢中で駈けつけねばならないはずのものであった。しかし、そんなことを聞いても、今では別段どんな心持も起こらない。心がカサカサに荒んで、そんな感傷なぞはまったく私の心から吹き飛んでしまってるのだろう。そしてアランがウェンデルと争って怪我をした話は、父様のお耳にもはいっていたのであろう。今朝父様のお部屋へはいって行くと同時に、
「おい!」
と父様は恐ろしいお顔をして私を
睨みつけなさった。
「エミーラ、誰でも
儂の研究の邪魔をした奴は、儂の敵だということは知っているであろうな!」
「
············」
私は
凝乎と無言で父様のお顔を打ち仰ぐ。言いたいことは山ほどありながら、父様の研究の
静謐を乱すのは差し控えておこうとする心が、じきに頭を
擡げてこの頃ではどんなことにもすぐ我慢ができる。
「今ここでは、どいつもこいつも眼ばかり光らせて、野獣のようになっているということは、お前の眼にもわからんことはないだろう! なぜそんな
莫迦ものどもの眼の前で入浴なぞをする! 入浴なぞは、二月三月しなくても、そのために死んだ奴なぞは一人もおりはせん。少しは慎みなさい! まだまだ父様がこれから研究するにはどんなにか課程が
要ると思う。慣れてきたらゴリラは檻から出して、人間同様の放し飼いをするんじゃ! そして、それが済んだら、さらにあいつを山へ帰してやって、お前はそれを連れに行かねばならんのだ。父様の研究が今一歩で完成するかしないかというところで、お前はそんな
碌でもない種ばかりふり
撒いて、父様の仕事を挫折させるつもりか」
そして、涙をあふらせながら見返している、私の視線とかち合うと父様はさも
忌々しげに、また
凝乎と書き物の筆をとり上げられた。これが実の娘の私に対する仕打ちなのであろうか。ちらと眺めたそこに、父様は今
yoo-hw 行
nwah 行の発音に取りかかっていらっしゃるようであった。この発音はゴリラの喜悦を表すものとして、かねてからの父様の持論であったが今その最も難物の喜悦の篇へさしかかっていらっしゃるところであったから、その
苛立たしさも手伝ってのことと思って、私は
凝乎と我慢をして部屋へ戻って来たが、部屋へ入るといきなり涙が滝のようにあふれ出してきた。
実の親子でありながら、親子はまるで敵のように
荒み切って、子は父の奴隷となり、父は研究の奴隷となり切っているのだ。そしてその研究は! ゴリラの言語の研究なのだ。父様の研究が完成すれば、その研究の副結果としては、あるいは将来、人間はゴリラと話ができるようになるかもしれぬ。いいや今現に私だって、
oo-oh 行や
ch-eu-y 行においてなら、ゴリラの意志も少しはわかるようになってきているのだ。しかしそうしてゴリラと話ができるようになったからとて、ゴリラに文明があるわけではなし、こんな研究なぞが人類にどんな貢献をもたらすことであろう。
厭だ! 厭だ! 学者の娘はつくづく厭だ! 人は決して学者の娘なぞに生れるものではない。
半年以前に、アランの言ったと同じようなことを書いたが、私にもいくらかアランの気持が
憑り移ってきたのかも知れぬ。夜あんまり淋しくなって、
凝乎と頬杖をついて考えていたら、イスカーキがのっそりとはいって来た。
「お嬢様! 来て見さっせ。イスカーキが湯殿のうしろに丈夫な柵を
結っといたで、もうこの柵を乗り越してはいって来る莫迦ものはねえだ。安心さっし」
と慰め顔に言った。無智な土人女よ! いくら柵を結っても、柵ぐらいはすぐに乗り越える。と私は苦笑したがその慰め顔のイスカーキを見ていると、なんとも知れず微笑みが涙と一緒に頬に上ってきて、思わずイスカーキの黒い大きな顔に頬
摺りしてしまった。
今の私には、黒い土人のイスカーキだけが、天にも地にもたった一人の心からの友達のような気がする。相かわらず雨が一瞬の休みもなく降って、家の前の大地はまるで小川か沼のように漫々と水を
湛えてしまった。
この沼を眺めながら、明日も
明後日も、そしてまだ乾季が来るまでこれから四月も五月も父様に叱られ叱られ日を暮してゆくのかと思ったら、つくづく心が暗くなってきた。この雨にみんなの心が腐る。父様の心も腐る。みんなジトジトジトジトと、底なしの沼に腐り込んでゆくのだ。
一月十日。夕方、マフチャズの檻の前で編物をしていたら凄まじい血相をした録音技師のウェンデルが部屋へはいって来た。マフチャズはめったに見慣れぬ顔がはいって来たので、喉の奥で低い
唸り声を立てながら、毛を怒らせていたが、ウェンデルはほとんど檻も眼に止らぬ様子でノッソリと立ちはだかっていた。
「どうなさったの、ウェンデル、何か御用なんですの?」
何のためにウェンデルがはいって来たかは、だいたい想像もついていたので、もうそれ以上は強いて相手にもせず、編物の手を続けていた。
「お嬢さん
······」
と
嗄れた声でウェンデルが呼んだ。そして、その大きな身体がいきなり
背後から
羽交締にしてしまった。
「ウェンデル、何をするのです! あんまり失礼な
真似をすると承知しませんよ! 早く離して下さい!」
「お嬢さん
······決して乱暴するのではないのです
······私は
······お嬢さんに向うともう口がきけなくなるのです! 聞いて下さい、お願いですから、私の言うことを聞いて下さい
······」
「用があったら面と向って言ったらいいでしょう! こんな失礼な真似をして」
私は身を

いた。
「まだ放しませんか! 父様を呼びますよ、イスカーキ、イスカーキ!」
途端に戸口に現れたイスカーキが
吃驚して姿を消したかと思うと、私は夢中でウェンデルの手を逃れようと
苛っていたから気もつかなかったが、突然ウェンデルの手が緩んで、やっと身のあがきが付いたと思った瞬間、地響き打ってウェンデルの身体が横倒しにそこへ倒れた。
息せき切ってとんで来たアランの真っ蒼な顔がそこに
喘いで、今しも烈しい一撃をウェンデルの
横鬢へくれたところであった。
「危ない、危ない! エミーラ、そっちへ
退いて!」
と、アランは
呻きつつウェンデルが起き上ってきたと見ると、たちまちまた身構えてウェンデルへ躍り
蒐った。
私はイスカーキと抱き合って室の一隅に避けていたが、再び凄まじい格闘がそこに展開された。もう一度怒り立ったアランの一撃が、ウェンデルの鼻柱へ飛んで、見る間にウェンデルの横鬢から小鼻へかけては醜く
青痣を拵えて
腫れ上った。そして額が破れて鼻からも口からも血がぽたぽたと止めどもなく床にしたたり落ちた。
その凄まじい格闘の中で、さっきから檻の中を行ったり来たりして猛っていたマフチャズが、突然ウォーと烈しい
咆哮を挙げて檻の鉄棒を掴んで揺すぶった。猛獣の血が人間の血を見て、烈しい野性を呼び醒まされたのであろう。
私は固くイスカーキと抱き合っていた身を解いて、そこを見廻したが初めて気がついてみると、戸口あたり一面にはさっきからみんなが押し合って、この凄まじい格闘を眺めているところであった。そしてその中には、父様の顔も交じっていた。ふと私と視線がかち合うと父様の眼は、烈しく私を非難するように険しい色を見せたがまたさりげなく二人のほうに注がれていた。
「さあ! みんなめいめい自分の仕事へ帰ったらどうだ!」
と父様の声に促されて、みんなはまた相かわらず無表情のまま、ぞろぞろと退散して行った。そしてマフチャズだけが、戦いの済んだ後でも昂奮の収まらぬ風で、いつまでもいつまでも檻の中を行きつ戻りつ、時々鉄棒を掴んでは、大きな声で咆哮していた。
何が起こっても無表情な世界
······そして一瞬の腹立たしさも過ぎ去ると、私もまたアランが勝ってよかったと思うでもなければ、ウェンデルがそれからどうしているかを知ろうという気持が起こるでもなく、私もまた無表情に檻の前でさっきからの編物の手を続けていた。雨の音ばかりが妙に耳に響いてくる。
ウェンデルばかりではない。一歩間違えばアランも、またそこに戸口に佇んで眺めていた人たちも、今のウェンデルと同じような人たちになるのであろう。遅くまで取り留めもないことを考えながら編物の手を運ぶ。
一月十三日。コンラッドがウェンデルの代りに、しきりに
録音室でアッチネーターの加減をしていた。
「ウェンデルは?」
と聞いてみたら、
「あの日っ限り姿は見えませんよ。私が代りをやっているんでさあ!」
とブッキラボーに怒ったように答えながら、妙に何か言いたげの様子で人の顔ばかり盗み見ている。
「そう
······」
と、私はさりげなく加減されてゆくマイクロフォンからの音声電波に聴き耳を立てていたが、ここにも私の気のせいか、第二のウェンデルの眼が潜んでいるような気持がした。
「先生はゴリラゴリラと、あのとおりゴリラにばかり夢中で、お嬢さんまでゴリラの相手ばっかりしていらっしゃる。
幸福な奴はゴリラばっかりだと、今ではみんながそう言ってますぜ!」
と到頭この第二のウェンデルの唇が言い出した。長居をしては
碌なこともないから、早々に私はこの部屋を出る。
「ウェンデルのしたことはよくなくても、その気持はわかるとみんなが言ってますぜ! 今に何かおっぱじまらなきゃ収まりませんぜ」
とコンラッドの、のぶとい声が
背後から追っかけてくる。私は聞き流しにして、そのまま部屋を出て来る。何が始まるというのだろう。明けても暮れても雨と暑さ、そしてこの
倦怠さと一日一日灰色に
乾干びてゆく心! こんな世界に、何が始まり得るというのだろう。ゴリラ言語が完成される前に、みんなが腐って、
湿め湿めと無表情に死んでゆくだけではないか。
二月二日。あれ以来私を見るアランの眼が、妙に
嫉妬らしい
尖げ尖げしいものに見えた。
「アランのやつ、この頃さっぱり仕事をせんで困る。何をブラブラしているのだか知らんが、まるで魂が抜けてしまったような工合で仕事が手についておらん。昨日も神経衰弱の気味だから、お前と自分だけは
倫敦へ帰らせてくれと莫迦なことを言いおった。帰りたくばいつでもさっさと帰れ! その代り
儂は帰りもせんし、またエミーラももう四、五年はここで暮すのだと言ったら、アランのやつ恨めしそうな眼をして儂を見ていたが、当分あんなものの言うことなぞを取り合っていてはいかんぞ! 少しはしっかりしているやつかと思っていたが、あれではお前との結婚も考えものだ」
と、父様もおっしゃっていらした。相かわらずそんな話なぞは、どちらでもいい、他人のようなつもりで私は聞いていたが、そのアランにとうとう掴まってしまった。私が書庫へはいって、探し物をしているところへこっそりと
跟けて来たのであった。
「この頃はなぜ僕をそう避けているんだ?」
と、のっそり近づいて来た姿は、なるほど父様の言われるとおりいくらか神経衰弱らしいものに思われた。
「別に避けてなんかいませんわ! でも貴方のお話は、今すぐ私には応じられぬお話ばっかりなんですもの、そんなお話なら、何度伺っても同じことじゃありませんか」
と、私もいくらか、からかい気味にこの
婚約者をあしらった。
「君はまったく変わった。昔の君はそんな思いやりのない人ではなかった。君は
······ね、エミーラ、きっとウェンデルが好きになったに違いないんだ!」
と、アランは頭を抱えてその辺をうろうろした。
「エミーラ、本当のことを言ってくれ。そうすれば僕はきっと諦めるから! 僕はもう君のことを考えてじっとしていると物狂わしくなってくる。エミーラ、君に少しでも昔の愛が残っていたら、お願いだ! どうか僕を安心させるために、
······僕をしっかりとした君の保護者にしてほしい」
と、しまいには、アランは私の前にひざまずいて、涙ぐまんばかりに掻き口説き出した。
「
············」
「ね、わかってくれたかい? エミーラ」
私には男のくせに、女の前に、ひれ伏さんばかりの態度や、最初の決心をもう意気地もなく翻して、結婚してくれと叫んでいるその言葉が情なく思われた。
「
······でも私たちの場合はもう結婚しているも同じことではありませんの」
と、しかし言葉だけは優しく、私はひざまずいているアランの肩に手をおいた。
「ね、お立ち上りなさいよ。男のくせにそんなに自分を卑屈にしてしまうものではありませんわ。それは、どうせゆくゆくは結婚するお互いなんですもの、ちゃんとここで結婚してもかまいませんよ」
「それでは、
······それでは
······エミーラ、君は承知してくれるのかい?」
「でも、今ああやって父様はお仕事で必死になっていらっしゃるところを、私自分の口からそんな呑気なことなんかは言えませんわよ。ですから貴方から頼んで下さい。父様さえいいとおっしゃれば、私には決して異存はありませんわ」
「駄目だ! 駄目だ! 君はまだそんなことを言ってるのか! それでは駄目なんだ!」
と、アランは輝かせた眼を、また
落胆させて悄然とうなだれた。
「今の先生に、そんなことが言えるか言えぬものか、君が考えてくれたってすぐにわかりそうなもんじゃないか。僕はもう先生のなさっている仕事なぞに、何の興味も覚えていないんだ! なぜ僕はこんな研究に血道を挙げてきたか、自分でもさっぱりわからないんだ! こんなゴリラの言語なぞを完成したからとて、文明にどのくらいの貢献をするというんだ!」
みんな同じようなことを考えているものだと、私は
肚の中で
可笑しく思っていた。
「今の僕は、ただ君だけに引き摺られて、こんなところに止まっているんだ。その君は、僕にできないことを言い出してただ僕だけを困らせているんだ! お願いだ! エミーラ、僕と一緒に逃げておくれ! ね、お互いはまだ若いんだ! 青春をこんな蛮地で、ゴリラと一緒に暮す運命なんか、考えたって真暗になる!」
「それこそできない難題ではありませんの! 何のために逃げるんです。お互いに、父様の許して下さった立派な婚約者同士ではありませんの! 人目を忍んで逃げる必要なんか少しもありませんわ!」
「君にはわからないんだ! 何にも君にはわかってないんだ! 今に君に恐ろしいことが起こりそうで、僕は不安で不安でたまらないんだ!」
「いいえ、わからないことはありませんの! それが貴方の病気ですわ! そういう、起こりそうもない妙な恐怖観念なぞに捉えられているということが、きっと神経衰弱なのですわ。私から父様に頼んで、しばらくお仕事お休みになるといいわ」
「駄目だ! 君にはわからないんだ! 何にも君にはわかってないんだ。もしこれが今の僕の病気だとすれば、その病気をなおしてくれる唯一の君はそうやって僕を突っ放す! そういう無慈悲なことを言うのなら、エミーラ、僕はもう君には絶対に頼まない」
と、アランは、頭をかき

りながら、絶望したように私を
睨みつけて出て行った。
······しかしかまわない、私は自分の気持に忠実に、ただありのままを言ったにすぎないのだから、それで腹を立てたからとて仕方がないではないか。私にだって男の気持というものは想像できないこともないけれど、自分というものをまったく棄てて父様のために捧げようと決心している今、父様にそう言ってくれなくて何を私が自分勝手にできようというのだ! こんな場合に、そんな悠長な気持を起こしているアランのほうこそ
我儘なのだ! いいだろう、うっちゃっておけば、またそのうちにはアランも自分の言い出したことを恥じもすれば、また後悔もしてくれるだろう。私の言い方が、強かったならばその時謝っても済むことだ。
雨相かわらず烈し。蛮地の雨季にはほとほとうんざりする。よくこれで病気にならぬものだと、自分ながら感心する。
一月二十日。今日ふと片付け物をしていた時に、
鞄の底からブルヴェン製の口紅を見つけ出した。来る途中の船の中ででも使った残りであろう。しみじみと懐かしい気がして、思わず小指で唇に塗ってみた。そして鏡を見ながら
凝乎と考え
耽ったが、想えば
白粉、口紅、そして香水
······そうしたものに遠ざかってからすでに一年と七カ月。
阿弗利加の奥地で見つけ出したブルヴェンの口紅は、なんとも言えず昔懐かしい気がする。いつかグラスゴーへ旅行した時、
陋巷に窮死する老女優が、昔自分の使った口紅を毒々しく唇に塗りながら臨終を遂げる芝居を見たことがあったが、今の私もなんだかそれと一抹似た境涯にあるような気がして、思わず苦笑する。でもかまわない、この口紅のある限り、父様に目立たぬように毎日少しずつ付けていよう。これだけが、今の私の身についた欧州だもの。
二月八日。父様のお部屋で大きな
呶鳴り声が聞える。一人は父様のお声、もう一人はアランの声だ。また何かこないだのような下らぬことを持ち出して、父様に叱られているのだなと思ったが、別段に、私に関係したことでもないから知らん顔をしていることにする。が、声はいよいよ
尖ってくる。そして論争のうちに、
「お嬢様、ちょっといらしていただきたいと旦那様がお呼びになっていらっしゃいます
······」
とイスカーキが呼びに来た。
「無茶です。たとえ先生のなさることでも、まるでもう狂気の沙汰です。僕は絶対不賛成です」
「要らざるお
切匙だ!
儂が娘に言いつけることに君は何の権利があって
嘴をいれる! 黙って見ておればそれでよろしい」
「しかしそんな無茶なお話は、同国人として見ていられますか! 御自分の令嬢をまるで類人猿の見世物になさるようなものです。それが我々として見ていられますか!」
「儂のすることに何の権利があって君は
容喙すると、さっきから言ってるのに君にはわからんのか! いったいこの頃の君の態度は儂にはいささか腑に落ちん! 断っておくが、君は儂の一介の助手にすぎん。儂たち親子の問題に、君はこの頃いささか立ち入りすぎる嫌いがある!」
「私は先生に対しては助手であるかもしれません。しかし御令嬢のことに関しては、私は将来の夫たるべき婚約者の立場から、どうしても口を出さずにはいられないのです」
「気の毒だが君の婚約者という資格は取り消したのだ。なるほどある時代には公認したこともあった。しかし、いささか君を見損って、そういうことを口に出した軽率さを儂は後悔しておる。ともかく、取り消しだ! 君に通告するのを忘れていたから、今この機会にハッキリと言っておこう」
と父様は苦り切って言われた。そして私には、アランがそれっきり唇を噛んで、蒼白な顔色をしながら、身体をワナワナと
顫わせて黙り込んでいるのが見受けられた。
ともかく、白け切って二人の論争が一時終わったのを
機会に、私は、
「お呼びになりまして
······」
と進み出た。
「エミーラ! エミーラ! 君にはこんな無茶なことが! こんな無茶なことが
······たとえ先生のお言い付けだとて受けられるかい!」
と勢い込んで、アランが言った。
「君は黙っていればいいのだ! 娘には儂から話す」
と父様はアランを抑え付けて、私のほうへ向われた。
「エミーラ! 父様はお前に一つ頼みがある。お前も知ってのとおりお父様の研究も
nwah 行喜悦を終わって、もう一息のところなのだ! もう一息で父様の仕事にも一段落つくとなれば
||それがお前のたった一つの骨折りで解決するとなれば、まさかお前は父様の頼みを
厭だとは言うまいな。それをこの男はさっきからとやかく言っているのだが
······」
と父様はジロリと私を見上げられた。
「ええ、私にできますことならば、どんなことでもいたしますわ!」
とまさかにその時私も、父様のお頼みがそんな無茶なものであろうとは、夢にも思わなかったからであった。
「儂はやがてあのゴリラを檻から出そうと思っているのだ! お前も知ってのとおり、もうお前にはすっかりなつき切っている! 儂の研究の段取りから言っても一日も早くゴリラを檻から出して、なついているお前を媒介として、儂たちとなじんでもらわなくては困るのだ。そしてこのゴリラを森へ放って、その自然生態を研究したり録音したりするところに儂の今度の主眼があるのじゃから。そこで今儂のお前に頼みたいことは、檻から出す前に、一度このゴリラの最も大きな喜悦の刹那の叫音を録音したいと思っている。これが今の
yoo-hw 行の最高潮のところになるのだ! そこでその方法を研究してみたのだが、一つお前に上衣でも脱いで、ゴリラの檻の前で面白そうに踊ってもらいたいと思う! ゴリラの受けた反応には、必ず何か新しい発見なり、あるいは今までの研究なりを裏書きするようなものがあろうと思われる、どうだろう、エミーラ、父様の仕事を助けると思って一度そうやってもらえんか!」
私は二人の顔を見較べた。アランは
身悶えせんばかりに、目顔であらん限りに私に合図する。そして私には、この時ほど自分の
婚約者のアランを厭だと思ったことはなかった。父様の態度ももちろんよくはない。娘の意思も何も頭ごなしにして、まるで娘一人ぐらいは自分の研究の犠牲にもしかねまじき様子には、淡い反感と不快とを湧き立たせてくるところがあった。しかし、父様は世間知らずの学者なのだ。父様自身としてはそれでいい。少なくともこのハラハラしている神経質な臆病そうな、自分の所信さえも断行できないような意気地のない
||そのくせ父様の
背後に佇んで眼ばかり光らせながら、まるで私の夫か何かのように思い上っているアランの態度に較べれば、どのくらい男らしく胸がスッとするか知れない。たかが上衣を脱いで踊ってみせるくらい、そんなにハラハラするのならば、この卑屈な意気地のない男に鼻を明かせてやる上にも、私は父様のお頼みを容れようと考えたのであった。
「ではそれだけのことなのですね? それ以外には別にありませんのでしょう」
父様は頷かれる。アランの眼が光る。
「かまいませんわ
······たったそれだけのことなら。その代り録音は決してその室ではしない、隣りの室でするということさえ約束して下されば、父様のおっしゃるとおりにしますわ」
と私はわざとアランのほうなぞは見向きもせずに言った。
「そんな乱暴なことが
······できることかできないことか! エミーラ、考えてみたまえ! 君はきっと今に後悔する!」
「私後悔なんぞ決してしませんわ! 親の研究のためならば毒を飲む娘さえもあるんですもの、それくらいのことで済むのならば、別段何でもありませんわよ」
どうだ儂の娘は、君なぞの御心配はなくとも、このとおり儂の言うことには背かんのだ! と言わんばっかりに、ジロリと眼を挙げて父様はアランの顔を御覧になる。そして、
「よろしい! 用事というのはそれだけだ」
とおっしゃって、またくるりと机のほうへ向っておしまいになった。
それを
機会に、私も自分の部屋へ戻って来たが、
「エミーラ
······エミーラ!」
と、まだ
執拗く、アランは私の後方から追うて来る。わざと素知らぬ振りをして、私は自分の部屋へ戻って来た。
二月十日。昨日から隣室で録音の設備をするべく大勢でガタピシ大工さんをやっている。しかしマフチャズは一向気にも留めずに、黙って私のほうを
瞶めているだけだ。エミーラ、君はきっと後悔するだろう! とアランはあの時そう言った。しかし別段に私の心の中には後悔するような気持も起こらない。が、後悔はせぬが、考えるとなんともいえぬ憂鬱な気持がする。マフチャズの檻の前で、芸人みたいに踊ってみせるなんて
······でも、相手が人間でないから、まだ幾分は救われるようなものの。
マイクロフォンを出しておくだけで、あとはモニタリング
室全体防音装置の上からさらに全部の壁を一分の隙もないように板で二重囲いにすることを父様は御承知になった。そしてそのおつもりで、御自分で監督はなすっていらっしゃるが、安心がならぬから、私は、今日自分で検分する。
これなら、まあ大丈夫だろう。覗かれるのはいつぞやのウェンデル以来こりごりだ!
二月十二日。今日ウェンデルの屍体が搬ばれて来た。何日雨に打たれてどこを
彷徨うていたのか、あの大きな男の頬も
悴け身体も
痩せて
髯ぼうぼうと、そして全身はふやけて見るも無残な姿であった。
男たちが屍体の始末をして、裏の納屋を抜けた密林の中へ埋葬してしまったから、私はその屍体をよくも見なかったが、あとで土人のフラゴが、その手にこんなものを握っていたと私にそうっと届けてくれた。
全身ポケットの中までも水浸しになった死後のことをおもんぱかったのであろう。手帳の紙を裂いて、それに鉛筆で書きつけて、小さく折り畳んで堅く堅く手に握っていたのだそうな。
俺は莫迦な男だ。俺の気持はそうでなかったが、心と反対のことをした。なぜそうしたのか、俺にもわからない。生きていればまだ俺は何かしそうだ。だから死んでゆくのだ。これでいいのだ!
ただそれだけのブッキラボーなものであった。
「莫迦な男!」
と私は舌打ちをした。
死ぬのならこんなことを書くにも及ばない。黙って死んでゆけばいいのにと思った。そして、
「棄てておしまい!」
とイスカーキに言い付けた。ウェンデルの遺書は窓の下で雨に打たれていた。ここではみんな雨に打たれるのだ。人の命も! そしてそれだけなのだ!
二月十五日。いよいよ今日だ!
「父様、この入口には父様が立ってて下さいますね
······」
「そんなことに懸念は要らん!
儂がちゃんと見張っててやる! いいか!」
私は父様の言葉を聞き流して
室へはいる。そして中からピイン! と錠をかける。
マフチャズは
凝乎と隅にうずくまったまま私のほうを見ている。
私は上衣を
脱ると同時に、できるだけ
艶かしいポーズをとって踊り出した。しかし、あれだけ調べておいたにもかかわらず、誰か覗いてはおらぬかと、私は板
掩いをかけた窓、
四周の壁が気になるだけで、マフチャズの表情なぞは少しも眼に留まらなかった。
やがて少しは気が落ち着いた。私は檻の前を行きつ戻りつ、右から左へ、左から右へと踊り廻る。マフチャズは、つと身を起こして鉄棒に掴まる。しきりに私のほうを眺めている。
マフチャズが大きな声で
咆えた! マフチャズの咆哮はだんだん大きくなる、何と
哮えているのか私にはただウォーッ! ウォーッ! とのみしか聞えてこぬ。父様は喜悦とおっしゃった。しかしこれが喜悦の叫びであろうか。私にはまるで怒っているとしか思われなかった。
マフチャズは烈しい勢いで、咆哮しながら、檻も破れんばかりにドシンドシンと身体をぶち付けながら、鉄棒を掴んで揺すぶる。そして幾度も幾度も私を捕まえんとするかのように、巨大な
掌が鉄棒の間から
閃く。
到頭恐ろしさに堪えやらずして、震えながら私は手早く上衣を
纏うと、何度か鍵穴に鍵を突っ込み損なった挙句、やっとのことで扉を開き、そこに待ちもうけていられたお父様の腕にもたれ込んだ。
そして私はイスカーキの持って来た冷たい
珈琲を息をもつかずに飲み下して、やっと獣の臭さ、息づまるような密閉した室の熱さ、そして魂も凍りつくばかりの戦慄から解放されて
吻っとしたことであったが、脇の下からはまだ冷たいものがたらたらと気味悪くしたたり落ちた。
しかし私の踊りは大成功であった。隣室の録音のほうへ駈けて行かれた父様は、やがて、満面の喜びを
湛えて戻ってこられたが、私の肩を叩いて躍り上るような上ずったお声であった。
「御苦労だった! 御苦労だった! エミーラ! 大成功だった! ほれ御覧! お前にはわかるまいが儂の持論と推理は見事に裏書きされた。
歓喜の最高潮に達した叫声は
I-ecgk Whoo-w ! だ。アイーが歓喜だ! それが語尾で
ch-in と変化する儂の言ったとおりだ! 最後に、グロルール、グロルールと
呻いている。これがお前に
媚びて、もっともっと踊れ! と言ってるわけなのだ! 御苦労! 御苦労! これでやっと第一期の研究も終わりだ! アランの
小童なぞが何と言おうと、これだけの成功を納めとれば、一つも文句を言うところはありやせん! 父様は衷心から感謝しとる! さあさあ、ゆっくりおやすみ!」
それを聞くと、私も今の自分の恐ろしさも消え果てて、充分酬いられたような気になって思わず
莞爾とした。
二月十八日。今日も終日あの咆哮と騒がしさが続く! ちょうどあの日から今日までまる三日間あの騒がしさが続くわけだ。今さらながら類人猿の
喜びの物凄さには驚歎する。この二、三日来、ほかの者が食事を持って行くと、食事を掴んでほうり付ける。怒って牙を
剥いて、側へも寄せ付けぬ。そして私が持ってゆくと、檻のふちへ身体をすり付けて私に
愛嬌を示す、もう一度私の踊りが見たいというのだろう。
以前からその様子がないではなかったがこれほどはっきり現れてくるとは思わなかった。父様は喜んでいらっしゃるだろう。やがて、充分に私の言い付けを聴くようになったら、檻の外へ出して、放し飼いにするとおっしゃってだったから、その日の近づくためにこの兆候をお喜びなすっていられるに違いない。
残念ながらここでこの日記は再び破り去られているのであった。大体が二
糎ばかりもある厚いノートであったからどのくらいが

りとられているのかはハッキリしないが、よほどの厚さを破り去られているらしいのであった。しかもそれはこの女主人公自らが破り去ったものではもちろんない。持ち歩いているうちにどこかへ見失い、あるいは格闘の際滅茶滅茶になったものに違いない。いずれにしても残念千万なことであるが致し方ない。
仕方なく日記は大分飛んでいるらしい次の
頁へ移ってゆく。
四月二十五日。檻から出した当時は、まことに恐ろしい気もした。その醜悪さ、恐ろしさ、魂も身につかぬ気もした。しかし慣れればこの生物と一緒にいることさえも、そう切実な恐怖ではなくなってくる。
「手をお出し」
と言えば、その手を私の掌へ載せてくる。
「違うのよ、そっちのお手よ」
と言えば、またその手を持ち替えて出す。
「その編棒を取って頂戴な!」
と言えば歩いて行って持って来てもくれる。そして誰かはいって来ると一瞬用心もするが、
「大丈夫ですよ! この人はお前を可愛がってくれる人なのですよ。何にも用心なんかすることはないんですよ」
と言えば、喉を鳴らしてその人を見上げながら安心している。この頃ではまったく私も安心だ!
世の中の人で、これほどまでにゴリラの心を得ている者はないだろう。そして、なによりも有難いことには、昼間マフチャズを出しておくために、そしてこの巨大な生物が私になついているために、マフチャズがまるで私の番犬同然の役目を勤めて、男たちは少しも私に
蒼蠅い眼遣いをしなくなってきたことだ! いいや、相かわらず蒼蠅い眼遣いはしているが、いつかのウェンデルのような、あんな失礼な真似はしなくなってきたことだ。
父様もそれを大変喜んでいらっしゃる! そしてやがて、このマフチャズが森へ行き野へ行って、自分の仲間への手引きをしてくれる日の来るのを、そして研究がいよいよ本格的に、第三期の完成へはいってくるのを喜んでいらっしゃる!
四月三十日。得がたい珍品だと、父様は大変お喜びなさった。マフチャズが絵を描いたのだ! 点か線かそれはわからない。昨日私がスケッチをしている側で欲しそうな様子をしていたから、私はマフチャズの顔を描きながらスケッチ板と木炭とを与えたが、私と向き合いながらマフチャズは私の顔を描くつもりなのだろう。私の顔を眺めては何か描く
······不思議な絵! 世界中にたった一つであろう、ゴリラの描いた絵!
そしてマフチャズは、なかなか何か描くのが好きなようだ! もっとスケッチ板も与え木炭も与えてやろう。でも、この頃では、ちょっとでも私が室の外へ出て行くと、すぐ毛を逆立てて機嫌を悪くするので、それには実際困る。大分
我儘になってきたようだ。
五月八日。この頃際立って私にわかってきたのは、ゴリラは、
嫉妬心が物凄く強いということだ。私が誰か外の男の人と話していることをとても嫌っているらしい。
「父様ですよ! マフチャズ! お前は父様に出していただいているのですよ! それになぜそんな眼をするのですよ」
とたしなめてやると、悪いことでもしたように下眼づかいをしているが、喉の奥を絶えずゴロゴロと鳴らしている。私にはよくわかる、これはゴリラの一番不快なしるしなのだ。
「どうも、
儂が来ると機嫌が悪くて困るな。エミーラ、お前からよく話しといてくれ」
と父様はお笑いになってすぐ出ていらっしゃるからいいが、外の男たち
||殊にこの頃から、私の部屋へはいって来るようになったアランには一番不快がる。仕事に興味を失っているアランには、こんなゴリラなぞにはもう何の関心もないのだろう。優しい言葉一つかけてやったこともないし、まるで眼中には入れておらぬ。もう少しなんとか態度を変えるようにアランに注意してやろう。
五月十五日。しばらく鳴りを潜めていたと思ったら、また今日も朝から父様とアランとは烈しい言い争いをしている。
こんなにも年をお取りになって、しかも研究で苦労をしていらっしゃる父様を、あんなに悩ませるかと思うと私はしみじみアランが憎らしくなる。父様から嫁げと改めて命令されても、アランにだけは私のほうから拒否したくなった。教養はなくてもガムシャラでも、死んだウェンデルのほうこそよっぽど男らしさがある、アランのような男は男性の屑だ!
もし仮に私がこの
阿弗利加でこのまま一生を送るものとしたならば、私はむしろウェンデルを取るだろう。あの時は無茶な人だと思った。怒りもした。しかしウェンデルは決して私に乱暴する気があったのではない。ああしなければ私に話ができなかったから、ああいう態度をしたのだろう。
何の争いをしていたのだかわからないが、プンプンなさりながら父様が私のところへはいって来られた。
「あんな人間ではないと思っていたが、まったく見損っていた。どうしても帰してくれというから、この雨の中を帰れるものなら帰れと言っておいた。馬二頭と土人を二人付けて、ロアンダまで送らせるつもりだ! あいつのつもりでは、お前もなんとかして連れて帰ろうとしているらしいが、父様は、婚約を正式に今日限り解消したから、お前もそのつもりでいなさい。今日の様子では乱暴もしかねまじき様子だったが、何かふざけた真似でもするようだったら、すぐ父様を呼びなさい!」
とおっしゃった。
もちろん、今では私もまったく同じ意志なのだ! 私の前にでも現れたら、今度こそ私の口からも解消を宣告するつもりだ。
間もなく、アランは濡れそぼれた身体で私の室へはいって来た。私にも共に帰れという。
「厭です! 父様を助けて下さらない方なぞには、何の好意もありません! 私は女でもここに残って父様をどこまでもお助けします。貴方との結婚問題は、立派に私のほうから解消します」
とハッキリと私も言ってやった。
「ようし、親子して俺を
騙していたな! この恨みは必ず晴らしてやるからそう思え!」
と恐ろしい形相をして
睨みつけながら、どこかへ出て行ってしまった。あんな意気地のない人に、それだけの気力があるかしら!
日記はここまで来て、多くの余白を残しながら、急に途方もない大きな字になってきた。そして恐ろしく乱れを見せている。日付も何もない! 途端に、
呀っと私は吸い付けられたように行を
逐うた。見よ! このキャンプ陣営の中には物凄い
椿事が起こったのであった。
大変だ! 大変だ! アランが殺された。父様が殺された。みんな雨の中へ逃げてしまった。今夕七時、マフチャズを檻へ入れた途端、アランが私に躍り
蒐って来たがまだ錠を降ろしてなかったのでマフチャズがいきなり躍り出てアランに一撃をくれた。
「父様」
と叫んだ声で、父様も銃をとって、
「エミーラ危険だ! 逃げろ!」
とおっしゃって続けざまにマフチャズに発射されたが、マフチャズは父様を倒した。銃身は砕かれた。パッカースンも殺された。土人たちはみな逃げた。もう誰もいない。マフチャズは私から瞬時も眼を放さない。私は逃げることもできない。どうなるのだろう、マフチャズは今私のそばで、死骸の側でスケッチ板に何か描いている。
また五、六行飛んで、前よりも一層大きな、ほとんど一字でノート一杯になりそうな烈しく震えた字で、
私は逃げたけれどもマフチャズにまた捕まった。誰もいない。
寂寞身を切る、絶望だ! 父とアラン、パッカースンの屍体腐臭を発す。マフチャズ、傍で何か描いている
······あれほど、
馴れていたマフチャズは、逃げようとする私の気配を見て怒りを発する。私は殺されるかもしれない。
そしてこの日記はこの乱れを見せたままに終わっているが、死を遂げるまでの女主人公の運命が行間を伝わり字間を伝わって、
惻々として私の胸を打ってきた。凄絶、凄惨言語に絶する日記とは、おそらくかくのごとき日記を指すのであろう。
読み終わってあまりのことに私は
茫然としたのであった。しかし困ったことには前にも言ったとおりこの日記は、おそらくはこのエミーラなる女主人公が、初めは思い出を英国へ持ち帰るために毎日毎日克明に
認めていたものらしいだけに、どこに一つ署名もなければ、事件が起った場所がどこなのだか、そして父博士や婚約者の苗字も、どこに一つ手懸りとなるべきものもないのであった。
私はやがて英国へ持ち帰って、丁重にこの不幸なる女主人公はもちろん、その外の人々のためにも
回向をするつもりで、やがて
黙祷を捧げて涙を
拭いながら、この日記の巻を閉じたのであった。
その後二、三週間、所要の仕事も済ませて多大の困難を冒して首府ロアンダに引き揚げると、間もなく私は解散になったこの測量班を辞して、故郷の
蘇格蘭オバン市へと引き揚げて来たが、さてこの日記であった。今も言ったとおりただ世にも数奇を極めた、実に不思議極まる日記だとは思ったが、それだけのことで、肝心の名前もわからなければまた、前後の脈絡も呑み込めぬことでは大して私に興味の湧こうはずもなく、殊にあの凄惨な屍体のことを考えると、なんとも言えぬ不愉快な陰惨な思い出に打たれるために、なるべくそんな必要でもないことは、記憶の外へ逸し去るようにと努めていたから、この日記と例の不思議なスケッチ板なぞは、一層
筐底深く蔵していたのであったが、さて私が久方ぶりで、
長閑なローン湾の風光をほしいままにした故郷のオバン市で休養の日を送っていた時であった。
ふとその頃に、
倫敦タイムス紙やマンチェスター・ガーデアン紙、デリー・テレグラフ紙、クロニクル紙各紙の社会面を賑わしていたアンゴラ、ロアンダ特電の
出来事が眼に触れたのであった。各紙大同小異ではあったが、それを要約してみると大要左のごとき記事なのであった。
かねて再三報道せるごとく、有名なる動物組織学の
泰斗、前ケムブリッジ大学教授、ヴィルダー・ゲイレック博士一行の捜査のため倫敦大学派遣のエムメット・スティヴンス教授一行が
葡領アンゴラ、フィラ奥地方面の現地へ赴いたことは、既報したごとくであったが、同探検隊の精密なる現地探検の
甲斐もなく、同博士一行の足跡は
杳として何らの手懸りもなく、殊に該奥地地方は今やいよいよ雨季となり各河川湖沼は、ことごとく増水、もはや、到底詮すべきなきをもって、該探検調査隊一行も、近々捜査を打ち切りひとまず倫敦帰還を決行するに決定せる旨、本日該地より関係各方面へ入電ありたり
というロアンダ滞在ロイテル通信員よりの特電なのであった。そしてこれだけでは、何のことやらもちろん私には、その意味さえも捕捉できなかったし、その再三の報道というのも、おそらくは私がまだ英国へ引き揚げて来ぬ間の報道なのであったろうから、私のような最近の帰朝客には興味も持てぬ一通の外電にすぎなかったのであったが、ふとその時、私を飛び上らせるほど驚かせたのは、この電文の参照として掲げられた、新聞社の注記事だったのであった。
今回探検隊現地引き揚げのために、絶望視せられたヴィルダー・ゲイレック博士一行の人名左のごとし
として、一行に従った人々の名前、略歴が、
大々とした肖像入りで出ているのであった。
ヴィルダー・ゲイレック博士(五十八歳)前ケムブリッジ大学教授、動物組織学の
泰斗にして、一九一九年より同二五年にわたる間、
葡、
蘭領アンゴラ、サマザンカ地方において、夫人とともに類人猿解剖および言語の研究に従事。後、有名なる著書『
類人猿の心的能力』の一巻をもたらして、ゴリラ言語を学界に発表、
毀誉相半ばせり。当時夫人は該地において熱帯病を得て歿す。教授今回の挙も一に前著の改訂およびその完成にありと伝えらる。教授の生死不明は、その論敵たると否とを問わず学界挙げて痛歎するところにして、かくのごとき
碩学の逝去による英国学界への打撃は甚大なりと伝えらる。
エミーラ・ゲイレック嬢(二十五歳)教授令嬢にして、母夫人歿後は父教授を助けて、その家事を納め、かねて父教授の唯一の助手たり。かねて、父教授の助手アラン・エヴァンス学士と婚約の間なりしも、その結婚を延期して父教授と行を共にして今回の災に遭えるもの。有名なる美人にして温良貞淑、英国婦人の模範たる同嬢の災厄は、ことに各方面の同情を
惹き、文相タイソン・ヒルマー卿は今回の災厄公電達するや、閣議中なりしも特に
急遽ケムブリッジ大学に赴き、ゲイレック教授と最も親交厚き、同大学動物生態生学教授クレフトン・エリオット博士に深厚なる弔意を表したりと伝えらる。
フィラ奥地方面と言いサマザンカ地方と言いいずれも北ローデシヤ国境寄りの、私にとっては聞いたこともない中央東部大密林地方の地名なのであったがその時突然に私の頭を打ってきたのは、日記中のいくつかの文章であった
······父は
類人猿の研究さえ完成すればそれでいいと思っているのであろうか
······そして
······世の中で、類人猿の言語の研究なぞがどんな文明に貢献するものであろうか?
······等々。
「おう! 令嬢だった! あれがゲイレック博士の令嬢エミーラだったのだ!」
と私は夢中で
卓を
叩いた。自分ながら自分の顔色の変わったのが眼に見えるような気持であった。当時雲を掴むような気持で読んだあの日記中の出来事のいくつかが、今一つ一つ鮮明にハッキリとした意味をもって頭の中によみがえってくるのを感じたのであった。私は眼もはち切れんばかりにして、なおも新聞に食い入った。
アラン・エヴァンス氏(三十二歳)
と、その次の行は果して、日記中で熟知の、令嬢のエミーラに迫りそして研究に
憤懣を感じて、ついに類人猿の怒りを買って一撃の下に殺されたというあのアラン・エヴァンス青年の記事が出ているのであった。
アラン・エヴァンス氏(三十二歳)ヴィルダー・ゲイレック博士の忠実なる助手にして、長年同博士の薫陶下にあり。近く令嬢エミーラと結婚式を挙ぐべき段取りなりしも、今回の学術調査のため、その結婚を延期して、一行に赴きしもの。学内教授の後継者をもって目せられしだけに、この篤学なる青年の受難は同大学において痛く痛惜せらる。
学界のためその挙式を延ばして参加せるもの、は私を苦笑せしめたが、新聞はさらに引き続いて、電気技師ペリイ・パッカースン、録音技師ブラムレイ・ウェンデル以下一行中の重だった人たちの略歴を順次に掲げていた。そして夢中で読み終わった私にとって、もはやこの人々が令嬢エミーラの日記中に現れている人物たることには、何の疑いを挟むところもなかったのであった。しかもその新聞に現れている微笑んだ令嬢エミーラの美しさ豊麗さ!
私は茫然として、今ぞ初めて知ったこの日記の主のあまりにも痛ましい経歴に、しばらくは燃えさしの煙草の、手を焼いてくるのにも気がつかなかったくらいであった。しかも新聞はさらにさらに驚くべき報道を私の眼底に
灼きつけてきたのであった。それは以上の各記事の終わったあとに、教授親子のこの学事に殉難せるに打たれて、有名なる電気王ハイドン氏が即座に金五万ポンドを投げ出して、もし救難探検隊が再組織せられるならば、これに与うべしと発表していることや、同時にこれは(?)印ではあったが項を別にして、
焦燥せる生態生学教授エリオットは大学講座を
擲って、親友ゲイレック教授親子の安否を知らんがため、急遽ロアンダに赴かんか? 右についてエリオット教授を問えば同教授は悲壮なる面持で
······ と言ったような、何さま世の中はこの問題で
囂々と沸き立っているところを示している慌ただしさであった。
私は新聞を置いて、初めて
吻っとしたような気持で眼を窓外へ走らせたが、すでに魂の根柢から驚愕させられ切った今の私には、とんと何ものも眼に入らなかった。ただ見えてくるのは、あの荒涼たる
阿弗利加熱帯無人の境で、やや右俯伏せに倒れていた令嬢エミーラの無残なる屍体のみであった。そして、もはや私の頭は、この不幸なる婦人の
俤と、あの日記によってこの婦人につながる一行すべての人々との上に、到底断ち切ることのできないある因縁をしたたかに感じさせられたのであった。しかしそれでもまだ、私には、この日記を発表し、また、私の目撃した令嬢の死を世の中に発表する気持にはなれなかったのであった。
人々はそれを私の
浅薄な人道主義とか
感傷とか笑うかもしれないが、令嬢の日記中には、あらゆる人々の姿がまったく赤裸々の姿であるがままに描き出されている。そこには一世の師表たる
碩学も、ただ一種の学的
偏執狂||父性愛も何もない本当の一個の偏執狂としか現れてはいなかった。学術献身のために愛人との結婚をさえも延期して、博士の忠実なる助手たるべかりし青年は、そこでは密林
霖雨の中で、見えも外聞もなく令嬢に迫りつづけ、ついにはその葛藤中にゴリラのために一撃の下に打ち殺されている。そして録音技師は陰雨の中に悶死を遂げ、実に、令嬢の日記こそ、人間生活の真実を描けるもの、かえって推称し得べき正直無比なる
人生記録であったが、問題はたださえ世の中が同情と痛惜に沸き立っている真っ最中にこういう人間の真実性を伝えていいかどうかであった。
ために、私は、その
翌る日もそのまた翌る日も、何らの行動をも取らなかったのであった。しかも日を追うて各紙の叫びはいよいよ
熾烈さを増してくる。今や各紙は論調を変じて、たとえ教授父子は死せりといえども、かくのごとき篤学なる一行の生死を不問にして探検隊を引き揚げしむるは、英国の恥辱にして人道上の由々しき問題なり、国民は断じて探検隊の現地引き揚げを許すべからず、もし強いて探検隊引き揚げなば、進んで直ちに大規模の探検隊をさらに送れと絶叫するに至ったのであった。
そして事実また
輿論も沸騰して教授クレフトン・エリオット博士に直接宛てて、あるいはまた、各新聞社に宛てて続々として第二回の探検隊に志願を申し込む人々があり、
義捐金を送る人々があり、ついに博士は憂慮
措く
能わず、自ら
起って急遽ロアンダに赴くべき発表を見ては、さすがに私の人道主義も感傷もこの上の沈黙を続けているに忍びなくなってきたのであった。もしこの上私がなお沈黙を続けていたならば、全世界において私一人が知り、そしてすでに亡きこの人々のために、多大の月日、多大の費用が投ぜられ、熱帯に多くの人々は空しき捜索を今後半年も一年も続けなければならないのであった。
かくて沈思黙考四日間の後私は黙々として
筐底深く蔵していた令嬢の日記と例の二枚の不可思議なるスケッチ板とを取り出した。そして、ヘラルド紙に電話して、教授クレフトン・エリオット博士の住所を確かめた後、ケムブリッジ、メーヤー・カレッジ街なる同博士邸へ自動車を急がせたのであった。
忘れもせぬ、あの一世を騒がせた新聞記事や号外が世に出て、世界を驚倒させたあの日の一日前、それは本年の四月二十六日の朝であったと記憶する。
憂愁の
帷深く垂れ込めた博士邸には、連日この問題に興味を抱くあらゆる
有象無象たちが引っ切りなしに押しよせて、憂愁のうちに旅装を整えている博士を悩ませ切っていたのであろう。取次ぎに出た召使も、
「この問題で重大なことを申し上げに伺ったものですが」
と私の差し出した測量技師アシュトン・ターナーという名刺を、またかと言わんばかりに奥へ
齎して行ったが、はたせるかな、
「せっかくの御来訪ながら目下は多忙で到底どなたにもお眼にかかってはいられぬから」
という、博士の言葉を取り次いで来たのであった。
「それならばこのノートだけを一度博士にお眼にかけていただきたい! そして一、二枚読んで下されば、私が今日お伺いした用件が、どのくらい重要だかということは必ず御諒解になりますはずですから」
という私の再度の申込みさえも、さも
蒼蠅げに博士に取り次ごうともせずに、拒絶したのであったが、私の押しての強硬な申込みについに不承不承に顔を
顰めながら、ノートを受け取って薄暗い玄関の奥へ消え去ったのであった。
そして人気なく寂然として、
蔓蔦の壁に
這うた博士邸の古びた入り口に
佇んで待つことしばし、やがて奥に
嗄れた声が聞えたかと思うと、
「その紳士をお帰ししてはならぬ。どちらにおいでになる? 紛う方ないエミーラの筆蹟じゃ! ベイレエ! オリィヴァ! 早くその紳士を、早くこちらへお通し申してくれ!」
と狂喜したように召使たちに叫びながら、自分自身で私を迎えに飛び出して来られた白髪童顔の老博士を目前に眺めたことであった。そしてもはやそれ以上、この会見顛末記なぞを、くだくだしく申し添える愚をいたさずとも、その後のことは、各新聞紙上に発表せられたところによって充分御諒解のことと信ずる。
すなわち本年四月二十七日、各紙に特号活字をもって発表せられた。
謎のゲイレック博士一行および令嬢エミーラの生死判明す。南緯八度二分における無残なる最期。おそらく生存者一名もなからん! 詳細なる日記をたずさえて目撃者現る! しかも驚くべし、類人猿の描ける絵画によって類人猿の思考能力判明す! 学界への一大驚異!
という、あの一世を驚倒せしめた新聞記事は、その翌日同博士立会いの下に私が詰めかけて来た各紙記者諸君に物語ったものなのであって、そして、当時、ゲイレック博士一行の名誉に関係ありとして発表を留保し他日必ず全貌を発表すべき旨公約せる部分を、世の疑惑を解くため全部発表したものがすなわちここに掲げた令嬢エミーラの日記の一字一句もたがわぬ全文なのである。
以上、エリオット博士とも熟議の上、ここに、
倫敦タイムス、クロニクル、ヘラルド、ガーデアン各紙に同時掲載の条件をもって、博士の名誉と私の名誉と同博士の副署名とをもって、この原稿をお送りする。そして、不幸なる一行、殊に不幸なるゲイレック博士ならびに令嬢エミーラの死を痛惜し、その世にも痛ましき最期に深甚なる弔意を捧ぐる上において、決して私は人後に落ちざるものたることを確言し、この発表の幕を閉ずることとする。