一
兄弟よ! もう眼を覚さなければならない。午前五時だ。起きて工場へ働きに行かねばならぬ。さうしないと人類は物資の欠乏に苦しむから。おとなしくわれ等は待たう。今までも待つたやうに。
また兄弟よ。われ等も心の眼をもつとはつきり覚さうではないか。理想の光が天空一杯に輝いてゐるではないか、「愛」の波が悠久な姿で静かに工場の裾を洗つてゐるではないか。自然がわれ等に啓示する神の思想や愛を、労働のあらゆる刹那、十五分の休みに、冷たい水のやうに心地よくわれ等は飲み込むことが
兄弟よ! 労働は幹なる哉。われ等は工場で死の危険と面接し、家庭に帰つて貧窮と握手をする。兄弟よ。これ等のことは苦しいことである。けれどもこの苦しみの中に人類の進む道が残されてゐる。何故つて兄弟よ。貧窮と苦痛とのある処にだけ虔譲と愛とが残されてあるからだ。
兄弟よ。われ等は近々僅な日子の中に多くの負傷者と一人の死者とを、われ等の兄弟の中から出した。彼等の運命は思ふも哀れな限りである。足を折つた一人の兄弟は治癒が長びいて、一ヶ月半経つた。工務課の人たちの意志によつて彼は
兄弟よ。製図機械や、算盤玉は整つてゐて綺麗だが、われ等は汚くつて埃まみれだ。
兄弟よ。五月の十九日、兄弟の一人が熱灰中に墜ちて大火傷をした揚句、病院で遂に死んでしまつた。兄弟よ。
兄弟よ。彼が臨終にわれ等に頼んで行つた遺族は、工場法の規定による彼の日給の百七十日分と、外に約百円、合せて四百円を受取れることになつた。遺族のために四百円の金はどんな意味を持つことであらう。
兄弟よ。十字架を負うて逝ける兄弟と、その遺族のために、われ等の味方になつて奮闘した、一人の算盤玉は、工務課から排斥せられ、主脳者によつて首が、そのあるべき処以外に置かれようとしてゐるのだ。
兄弟よ、われ等の肉と血潮の上に、脂切つた肉体と、それを包む華美な衣服と、荘大なる邸宅を載せて、悦楽を貪る資本家に反抗してはならぬ。われ等は絶対に無抵抗主義であらねばならぬ。若し反抗を試みるならば、首の周りに鉄の柵を
兄弟よ。おとなしく暴風雨の過去るのを待たう。希望と憧憬とを以て、軈て来る理想の暖かい光を待たう。
二
陰鬱な気持ちである。兄弟たちは傍目を振らずに働いてゐる。どこともなく陰鬱な顔付きをして。
陰鬱になる筈である。一体われ等は何を笑つたらいゝか。
一生懸命糞真面目に働いて、四十円位月に貰つて、女房と三人の子供とを養はねばならぬ。子供に活動を
いつそのこと女房も子も放つといて、勘定を貰ふとすぐその足で二三日遊び続けてやらうか、などと考へることさへある。さうする仲間がある。けれどもそれも俺には出来ない。俺に出来ることは働くことと、飯を喰ふことと、寝ることだけだ。その飯だつて······。
元気のある若い連中はそれでもどうにか為ようと焦つてゐる。それがどうにかなりさうだとすぐに首になつてしまふ。組合などと云ふことは夢だ、夢だ。
労働者ほど詰らない者は、世界中どこを訊ねても恐らくあるまい。一番苦いのが監獄の生活で、その次が労働者で、その次に乞食だらう。尤も此順序は例外なしにさうであるとは勿論云へないが。
労働者は大抵正直な善良な人間に依つて成り立つてゐる。正直であり善良であるために、生活が全で滅茶々々に資本家のために踏み蹂られる。と云ふことは、決して労働組合主義者や、社会主義者や宗教家のみが憂ふることではない。
国家さへも労働者の境遇を改善することに留意し初めたのである。
誰でもが平等に幸福が無ければならぬと云ふことは、誰でもが知つてゐ、欲してゐることである。たゞそれを実現することが非常に困難である。実際問題に
「誰もが幸福であるやうに俺が努力をすると、第一此俺が不幸にならねばならぬ」のである。処が大体人間は神の国を求める位に幸福を欲するのであるから、自分自身を不幸にすることを避ける。
然し、他の人が不仕合な生活をしてゐることは、進んで犠牲になると云ふ覚悟のない人にも、決して快よい感じは与へないのである。そこで「どうせ今の世の中は利己主義が勝つんで、俺が社会改良運動に携つて目玉を剥いて見た処で何にもなりやしないんだ。人類の多数は矢つ張り不幸なんだ。詰り俺は、俺は詰りその、俺さへ良けりやそれでいいんだ」と、考へたくなるのである。
人は分れて行く。
三
兄弟よ。梅雨らしい空が、陰鬱にわれ等の頭を押しつけてゐる。
われ等は暗い空と、資本主義の大磐石の下に永久に喘がねばならぬであらうか。われ等はどのやうに焦つても、どのやうに駆けて見ても此地上以外には住めないと同じやうに、あらゆる社会悪の圧迫以外に首を
兄弟よ。沢庵漬は上に加はる圧迫が大きければ大きいだけ、お互に
兄弟よ。われ等の運命は沢庵である。すつかり食ひ物にされるのである。資本家はいろんな贅沢な食ひ物に飽いては、「これに限る」と云つて、われ等沢庵を食ふのである。彼等の食ひ物は沢庵に初まつて沢庵に終るのである。そして彼等の偉大なる顎と、臓腑とは今の処食ひ過ぎの為病気を起しさうな模様は無いのである。
兄弟よ。上からの圧迫が重いとお互の間の関係は、恐ろしく窮屈になる。互に足を踏み合ふ。肩と肩とが打つ衝り合ふ。けれどもそれは沢庵の知つたことでは無いのである。重しがさうさせるのである。窮屈だからと云つてお互に喧嘩してはならない。世界は樽の中の、われ等萎びた大根と、糟と、それだけつ
資本家及び資本家の傀儡たる重し共は、無数に並んだ沢庵桶の
彼等にとつては、われ等はたゞお互に押つけ合つて汁を出してさへゐればいゝのであつて、われ等が生き生きした清新な大根であることは怖るべきことなのである。
けれども兄弟よ。われ等は沢庵漬の諷刺から、人間へ帰らう。
兄弟よ。われ等も人間である。人間である以上良心を持つてゐる。われ等の良心は幸にして膏薬を張つてないから、センシブルである。だから、兄弟よ。われ等は「人類の理想」へ向つて進み得るのである。良心を、余りに淫逸に耽溺させ、アルコールに麻痺させた資本家共の
兄弟よ。地上に、「愛に依る民衆の結合」を齎さねばならぬ使命は、われ等労働者にのみ与へられたる特権であり、且は重い責任である。われ等は悪魔の誘惑にかゝつてはならぬ。どこまでもイワンの馬鹿で押通さねばならぬ。
四
「自分さへ良ければ他は蹂躪つても構はない」と云ふ考へは、他の其思想と衝突する。皆が他人を蹴倒して自分の利を追ふことになれば、多分皆の人が傷ついて倒れるであらう。又倒れつゝあるのである。
人類は「愛」に依つて美しい結合をしないで、「利」によつて緊縛されてゐる。
兄弟よ。心に何の蟠りなく、利害の関係なく、人と人とが語り合ふ時、どんなにそれは柔和な、清い、平和な関係であらう。
二人で或仕事を初めて、一人は出資者で一人は実際に当るとして仕事の利益が思はしくない時、出資者は日歩三銭の利を八釜しく云ふとすると、その二人は時にふれ折につけて共に酒を飲み、遊楽を共にしてゐても「日歩三銭」の処で行き詰つてしまふのである。
そして仕事に当つてゐる者は苦し紛れに、局外者に泥を吐いて救助を求めることになるのである。
兄弟よ。利を追つてはならぬ。利を追ふと、真実兄弟のために尽す人と、われ等の前に棒に縛りつけた肉を突き出す人とを、混同してしまふであらう。
兄弟よ。私は私の持つてゐる思想の一通りを茲に略述して筆を擱くことにする。
兄弟よ。われ等が望む処は、今資本家及其傀儡が行ひつつある、物質的栄華であつてはならぬ。それを望むは恥づべきことである。われ等の否定するものをわれ等が内心に於て望んでゐることは、全く唾棄すべきことである。
若し物質的栄華を得ることが、われ等の希望する処であるならば、その事は望まないでも行はれてゐるではないか。若しそれは少数者のみであつて万人ではない、と云ふならば、万人がさうなつた時、諸君の望んでゐた物質的栄華はどこを見ても無くなるだらう。
兄弟よ。富や悦楽は相対的なものである。それを追ふのは、自分の影を一生懸命追つ駆けるのと同じことだ。
富を追ふことにわれ等の意志が有るとすれば、われ等は資本家に何を要求し、何の故を以て恨む処があるか。彼はかう答へるであらう。「俺にも未だ充分な富はない」と。
われ等は富を追はないで、貧を追ふために、そこにこそたゞ一つ神の国に入るの道が残されてゐるのである。われ等は決して資本家の富を奪還しようとするのではない。われ等の虔譲なる生命までも彼が拒否しようとすることを
資本家諸子よ。労働者も人間である。虔譲なる神の子である。人間として同胞として、等しく日本国民として、彼等に良心を以て対せられよ。諸子が若し彼等を恐れ疎遠して、彼等を生命の不安に突つ込むならば、責任は諸子の方にあるのである。諸子は枯尾花を幽霊と思つてはならぬ。況して人間を獣と見てはならぬではないか。
○
現世に極楽が来り、地上に天国が齎されるのは何時か。それは地上の人類が眼覚めることによつて即座に出現されるのである。
この考へを空想と嘲り、夢だと笑ふことによつて、人類は自分自身の神の国を、悪魔の祭壇に供へてゐるのである。
この迷蒙を捨ることが一人でも多くなればなるほど、神の国は近づいて来るのである。
釈尊やクリストが地上に現れて神の国の理想を説いてから二千年乃至三千年になる。それにも拘らず人類は
兄弟よ。悪魔のあらゆる誘惑を斥けて、神の国に進まう。われ等の体の中には、神と悪魔が同居してゐるから、神のみを見なければならぬ。
兄弟よ。神を知り、神の
(大正十年六月)