人の
幼穉なるとき、意を加えてこれを保護せざれば、必ず
病み、必ず死す。また心を用いてこれを教育せざれば、長ずるに
及て必ず
頑、必ず
愚にして、蛮夷の間といえども共に
立べからざるに至る。これもっとも知り
易きの
理なり。しかしてそれ、これを保護するがごときは、天然の至情ありて、知愚貧富の別なく、みな意を加えざるなきも、それ、これを教育するの一事に
至ては、これを度外に置き
顧みざる者また少からず。実に怪むべく、
嘆ずべきにあらずや。
それ小児の生れて二、三歳より六、七歳に至るまで、その質たる純然無雑、
白玉の
瑕なきがごとく、その
脳中清潔にして、いささかの汚点なし。ゆえにその
耳目の触るるところのもの、善となく悪となく、深く脳に印象して、終身消滅することなし。これもってその性情を
薫陶し、品行を養成する、このときをもって最上の期とす。その教導の
方、
宜きを得れば善かつ知、その方を誤れば頑かつ愚となるなり。この感覚鋭敏のときにあたり
染習せし者は、長ずるに及んでこれを
改んと
欲するも
得べからざる、なお樹木の
稚嫩なるとき、これを
撓屈すれば、長ずるに
及でついにこれを
直くすべからざるがごとし。終身、善悪智愚の
岐るるところここにあり。あに意を
留めざるべけんや。
それ
欧、
米諸国のごとき、人民を教育する諸般の学校を設け、諸般の方法を
立る、もとより周密
備わらざるなし。しかして近来、文化ますます進むにしたがい、自家において子女を教育する、はるかに学校に
勝れりとの説ますます
盛なり。その説に
曰く、一家はなお一国のごとし、その子女を教育する、天道人理においてもとより父母の任たる
明なり。父母たるものは、その
児の
幼穉にして感得の力もっとも
盛なるときにあたり、これを
訓ゆる、
造次も必ずここにおいてし、
顛沛も必ずここにおいてするを
得。かつその教えんと欲するところを教え、その
伝んと欲するところを伝え、
父厳母慈ならび
行れ、外人のこれを
擾乱し、これを誘惑するの害なし。家を離るるときはその教則、風習
佳なるの地といえども、擾乱誘惑の害なき
能わず。かつ良師良友といえども、その情その父母の訓育とは
自ら
径庭あり。ゆえに小児を教育する、自家をもって最良の学校とし、父母をもって第一の師となすべし、と。
しかれどもこれ
中人以上、家道やや豊富なる者につきてその理を
述るなり。なんとなれば文明の国といえども、父母たるもの、家において十分によくその子女を訓育する者
稀なり。いわんや文明ならざる国においてをや。たまたまこれあるも、自家の事業に
逐れ、職務のために妨げらる。ゆえにその
児の訓育を他人に托する、もとよりやむを得ざるに
出づ。しかるに
方今世間の情勢を察するに、父母たる者その児を他人に委
托するをもって当然のこととなし、小児を教育するはその親たる者の本分たることを知らざるものに似たり。ゆえにその家にあるや、さらに父母のこれを訓育するなく、
富家にありてはただ無知
盲昧の
[#「盲昧の」はママ]婢僕に接し、
驕奢傲慢の
風に
慣い、貧家にありては
頑童黠児に交り、
拙劣汚行を学び、終日なすところ、ことごとく有害無益のことのみ。あに頑愚無知とならざるを得んや。しかるにその親たる者、すでにその職を尽し、これを
訓る能わずして、その児の成長するにしたがい不良不知なるに至りては、その罪かえって
己にあるを知らず。みだりにこれを
譴責し、
甚しきは師友を
恨むるの
輩少からず、迷えるの
甚しきにあらずや。
しかれども、これまた深く
咎むべからざるものあり、何ぞや。けだし今の父母たる者、またその父母より教育を受けしことなし。ゆえにその児を教育する、何ものたるを知らざればなり。しからばすなわち、いかにして可ならん。曰く、この病根すでに深く骨髄に
透入し、これを除かんと欲するも、もとより一朝
一夕のよく及ぶところにあらざるは論なし。ゆえに我輩決して今にわかに父母たる者をして、十分その児を教育せんことを
責むるにあらず。ただ父母たる者、その児を教育するはわが職たるを知り、心を
留てその力の及ぶだけを
施さば、その児またその子を教育するの
己が職たるを知り、ついに一家、風を成し、一郷、俗を成すに至らんことを希望す。かつ、さらに深く望むところは、今より盛に女学を起し、力を尽して女子を教育し、その母たるに及んでその児を教育するの緊要たるを知らしむるにあるのみ。○
拿破崙第一世、あるとき有名の女先生「
カムペン」に
謂て
曰、旧来の教育法は、ほとんどその貴重すべきものなきに似たり。しかして人民をよく訓導するために欠くところのもの、何ぞや。「
カムペン」答て曰、
母なり。帝おおいに
驚て曰く、ああ実に
然り。この一語もって教育の法則となすに足れり、と。
旨あるかな、
言や。
女学の欠くべからざるの説、次号に載すべし。