暗くなって来た、間もなく夜だ。
無期帰休兵のグーセフが、
「ねえ、パーヴェル・イヴァーヌィチ。こんな事をスーチャン〔(蘇城、ウラジオの東方約百キロにある炭坑地)〕の兵隊が言ってたっけ。奴の乗ってた船に大きな魚が突き当って、船底をぶち抜いたってね。」
話しかけられた素性の知れぬ男は、船の病室の皆からパーヴェル・イヴァーヌィチと呼ばれていたが、まるで聞えなかったように黙っている。
そしてまた
どうやら揺れて来たようだ。グーセフの背の下の釣床が、緩やかに上ったり下ったりする。まるで溜息でもしているようだ。||それが一度、二度、三度······。何か
「風の奴め、いよいよ鎖から抜け出したぞ······」と、耳を澄ましてグーセフが言う。
今度はパーヴェル・イヴァーヌィチが咳払いをして、いらいらした調子で返事をする。
「船が魚とぶつかると思えば、風が鎖から抜け出す。······鎖から抜け出すって、一体風は獣かってことよ。」
「正教徒はそんなふうに言うんですよ。」
「じゃ正教徒ってのは、お前も同然物を知らねえ。······勝手な熱ばかり吹きやがって、胸にこう手を当てて、考えてから言わなくちゃいけないねえ。お前さんはわからず屋だよ。」
パーヴェル・イヴァーヌィチは船に弱い。船が揺れ出すときまって怒りっぽくなって、つまらぬことで当り散らす。だがグーセフの考えでは、腹を立てることなんか何一つありはしない。魚のことにしろ、鎖を抜け出た風のことにしろ、不思議でも奇妙でもなんでもない。山のように大きな魚で背中が

グーセフは、山のように大きな魚や、赤銹の出た太い鎖のことを長いあいだ考える。やがて退屈になって、生れ故郷のことを考えはじめる。極東で五年も兵隊勤めをして、今そこへ帰って行くのだ。雪で一杯になった、とても大きな池が眼に浮ぶ。······池の畔りに、高い煙突からもくもくと黒煙を吐く赤煉瓦の建物がある。これは陶器工場だ。池の向う岸には村がある。端から数えて五番目の構えから、兄のアレクセイが
「わかったものじゃないぞ。子供が寒さで凍えなけりゃいいが······」とグーセフは考える。「神様お願いです」そう呟く、「親を
「この靴の底あ、変えなくちゃいけねえ」と、病気の水兵が
グーセフの想念がぽつんと
「神様が逢わせて下すったのだ」と
彼は水を飲んで横になる。するとまた橇が行く。それからまた眼無しの牛の頭、煙、雲······。こうして夜明けまでつづく。
暗闇のなかにまず青い円が見えて来る。これが
「だんだんわかって来たぞ。······ふむ。······もうすっかりわかったぞ。」
「なんのことですかね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「つまりだ。······どうも腑に落ちなかったんだよ。君らのような重病人が、安静にしているどころか、こんなむんむんして、焼け焦げるようで、揺れ通しで||つまり一口に言うと、お墓のすぐ手前みたいな船の中にいるのがさ。だが今じゃもうすっかりわかったぞ。······ふむ。······軍医が君らを船に乗せたのは、厄介払いがしたかったのさ。君たちみたいな、犬畜生の世話を焼くのが、もう真平になったのさ······金は一文だって払わないし、
グーセフには、パーヴェル・イヴァーヌィチの腹の中が呑み込めない。自分が叱られているのかと思って、言いわけをする。
「あっしが甲板に寝転んだのは、とても立ってる気力がなかったからでさ。
「怪しからんことさ」と、パーヴェル・イヴァーヌィチは続ける、「まず
パーヴェル・イヴァーヌィチはとても凄い眼つきをした。さも汚らわしそうに眉を
「奴らは
病気の兵士と水兵は眼を覚まして、三人でもう骨牌をしている。水兵は釣床から半身を乗り出し、兵士はすぐその下にとても窮屈な姿勢で坐っている。兵士の一人は右腕に吊繃帯をして、手頸から先はすっかり繃帯で隠れている。だから彼は、骨牌札を右の腋下か、さもなければ、曲げた肘の間に挾んで、左手で出し入れをする。船はひどく揺れる。立つことも、茶を飲むことも、薬を服むことも出来ない。
「君は従卒だったのかね」と、パーヴェル・イヴァーヌィチがグーセフに訊く。
「そうでさ。従卒でした。」
「ふむ可哀そうに」パーヴェル・イヴァーヌィチはそう言って、悲しげに首を振る、「人間一匹を故郷の巣から引っこ抜いて、一万五千露里も引張って来た挙句に、肺病やみにしてしまう。······それが、それがなんのためだと言うのだ。やれコペイキン〔(「コペック」をもじったもの)〕大尉だの、やれドィルカ〔(「孔」の義である)〕海軍少尉候補生だのと、そういう連中の従卒にする。大した理窟があったものだ。」
「なあに辛い事なんかありませんや、パーヴェル・イヴァーヌィチ。朝起きると長靴を磨く、サモ

「ふむ、そりゃいい。中尉は図面を引く。君は一日じゅう台所に坐って、くよくよ
「そりゃ勿論、パーヴェル・イヴァーヌィチ、悪い人間はわが
「なんで殴られたのだ。」
「喧嘩をしたんでさ。どうもこの拳固が苦労の種なんでね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。シナ人の
「お前も馬鹿な男だなあ、可哀そうに······」とパーヴェル・イヴァーヌィチは呟いた。「さっぱり物がわからないんだ。」
揺れが激しいのですっかり弱ったと見え、彼は眼をつぶった。頭を後へがくりとやるかと思うと、胸の上へごくんと落す。二三度横になろうとしたが、どうにもならない。横になると呼吸が苦しいのだ。
「なんだってまたそいつらを殴ったんだね」と、暫くして彼は訊いた。
「なんでもないんでさ。ちょうどはいって来たから、やっちまったんです。」
そしてまた
「六つにもなって、まだ分別がつかない」とグーセフは
するとアンドロンが火繩銃を肩に、獲物の兎を下げて行く。よぼよぼのユダヤ人イサイチクが、石鹸一箇とその兎を交換しないかと言いながら、後から
頭の上で誰やら大声を出す。水夫が四五人駈けつける。甲板を何か
三人組の中の兵士が急におかしな様子をする。······ハートをダイヤだと言い、勘定を間違え、札を取り落し、はては物に
「兄弟、ちょいと待っ······」と言いかけて
皆があわてる。てんでに呼んでみるが、返事はない。
「ステパン。お前、気持が悪いんじゃねえか、ええ?」と、吊繃帯の兵士が訊く、「いっそ坊さんを呼ぶかね。」
「おい、ステパン。水を飲むんだ······」と水兵がいう、「さ、兄弟、飲むんだ。」
「まあさ、なんだって水差しなんか歯にぶつけるんだ」とグーセフが怒る。「まだわからねえのか、
「なんだって?」
「なんだって?」グーセフが口真似をする、「息をしねえじゃないか。死んだのよ。そのなんだってってのは、これよ。なんてまあ間抜けどもだ。主よ、憐れみ給え······。」
船が揺れないので、パーヴェル・イヴァーヌィチは陽気になった。もう向っ腹も立てない。その顔には傲慢な癇癪持らしい嘲笑の色が見える。まるでこうでも言いたそうだ。||
『さあ、おかしくって腹の皮のよれるような話をしてやるぞ。』円窓は開けてあって、微風がパーヴェル・イヴァーヌィチを吹いている。人声がして、水を打つ
「さあ、港についたぞ」と、パーヴェル・イヴァーヌィチは嘲笑を浮べていう。「もう一と月もすりゃロシヤに帰れる。なあ、親愛なる勇士諸君。俺はオデッサに着いたら、真直にハリコフへ行くんだ。ハリコフには友達の文士がいる。奴の所へ行ってこう言ってやる。||ええ、兄弟、その女の愛だの自然の美だのって、見っともないのは
そこでちょっと何か考えていたが、やがて言った。||
「グーセフ、俺が奴らに一杯喰わせてやったのを知ってるかい?」
「奴らって誰ですかね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「つまりその、あいつらさ。······この船には一等と三等しかないんだ。しかもその三等へは、農民||つまり下層民しきゃ乗せないんだ。背広でも着込んで、遠目だけでも紳士かブルジョアに見える奴にゃ、どうぞ
「だがあんたは、一体どんな身分なんで?」と水兵が訊く。
「坊主さ。おれの親父は潔白な坊さんだった。世間の偉い人の前へ出ても、ぽんぽん本当を言って退けた。だから随分ひどい目に逢ったものさ。」
パーヴェル・イヴァーヌィチは話し疲れて息ぎれがする。がまだ話し続ける。
「そうだ、おれは本当と思ったことはぽんぽん言ってのける性分だ。······おれに怖いものは何一つない、誰一人ない。こういう点じゃ、おれと君らとは随分ちがうな。君らは暗愚で、盲目で、叩きのめされた人間だ。何にも見えないし、また見えてもわからんのだ。······風が鎖を抜け出すと言われれば、そう信じる。犬畜生だ、ペチェネーグ人〔(中世ヴォルガ、ドニエープル、ドナウの間に遊牧生活を営んだトルコ系の民族。近世にはいって近隣諸民族の圧迫を受け、遂にはマジャール族と混淆して跡を絶った)〕だと言われりゃ、そうかなと思う。頸っ玉を殴られても相手の手を舐める。熊皮外套かなんか着込んだ
グーセフは聴いていない。窓の外を見ている。透明な、柔らかいトルコ玉色をした海面は、眼も眩むような烈日を浴びて、小舟を一つ揺すっている。その舟に、裸のシナ人がカナリヤの籠を高く差し上げて、口々に叫んでいる。||
「歌うある、歌うある!」
その小舟に、ほかの一艘が寄って来てぶつかった。小蒸気が走り過ぎる。また小舟が来る。これには肥ったシナ人が坐って、箸で米の飯を食べている。海面が
「あの肥っちょの頸っ玉へ一つお見舞したいもんだな······」グーセフは肥ったシナ人を眺め、
彼はうとうとする。空も海もやはりうとうとしているようだ。時が飛ぶように過ぎる。いつの間にか日が暮れ、いつの間にか暗くなる。······船はもう停っていない。どこか先へ進んで行く。
二日たった。パーヴェル・イヴァーヌィチはもう坐っていない。横になっている。眼は閉じて鼻は前よりも尖って来たようだ。
「パーヴェル・イヴァーヌィチ」とグーセフが呼び掛ける。「ねえ、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
パーヴェル・イヴァーヌィチは眼をあけて、脣を動かす。
「加減が悪いんですかね。」
「いいや、なんでもない······」と、パーヴェル・イヴァーヌィチは
「そりゃ好かった。パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「自分のことに引き較べて、つくづく君らが可哀そうになるよ。······なあ、可哀そうに。おれの肺はしっかりしてるんだ。この咳は胃から来るんでね。······おれは地獄だって堪え通せる。まして紅海なんかなんでもない。そのうえおれは、自分の病気にも奴らのくれる薬にも、批判的な態度を取ってるんだ。だが君らは······君ら暗愚な人間は······。辛いだろうよ。さぞ、辛いことだろうよ。」
船は揺れない。穏かだ。がその代り蒸風呂にはいったように熱くて息苦しい。話しをするのはおろか、人の話しを聴くのさえ辛い。グーセフは両膝を抱えて、その上に頭をのせながら故郷のことを考える。ああ、こんな蒸暑い中で雪や寒さを思うのは、なんという慰めだろう。橇に乗って行く。
パーヴェル・イヴァーヌィチは片眼を薄く開けて、グーセフを見る。そしてそっと訊く。
「グーセフ、お前の司令官は泥棒をしたかね。」
「そんなこと誰が知るもんですか、パーヴェル・イヴァーヌィチ。知りませんよ。あっしらの耳にゃとどかねえもの。」
それから長い時が沈黙のうちに過ぎる。グーセフは夢を見、
誰か病室にはいって来た気配がする。人声がする。が五分もすると、また
「天国へ往かしめ給え。
「どうしたんだ?」とグーセフが訊く。「誰のことだ?」
「死んじまった。いま上へ
「仕方がねえ」
「なあグーセフ、お前どう思う」暫くすると吊繃帯がきく。「
「誰のことだね?」
「パーヴェル・イヴァーヌィチよ。」
「往けるだろうさ。······長い苦しみだったからな。それに何しろ坊主だからな。坊さんというものは身内が多い。それがみんなで祈ってくれる。」
吊繃帯の兵士は隣の釣床に坐り込んで、小声でグーセフに言う。||
「グーセフ、お前も長いことはねえぜ。とてもロシヤまでは持つまいぜ。」
「医者か助手でもそう言ったかね?」とグーセフがきく。
「うんにゃ、誰も言ったんじゃねえ。だがわかるんだ。······間もなく死ぬ人間は、すぐとわかるものさ。お前は飲みも食いもしねえ。痩せちまって、見るも怖ろしいくらいだ。つまり肺病だあね。何もお前の気を落させようと、こんなことを言うんじゃねえよ。聖餐礼や塗油式がして貰いたかろうと思ってよ、金を持ってるんなら、高級船員へでも渡しておいたほうがいいぜ。」
「
「そりゃわかるとも」と、病気の水兵が
そんな話からグーセフは、気持がそわそわして来る。何か漠然とした願望に
「息苦しいんだ、兄弟······」と彼は言う。「上へ出て見たい。お願いだ、連れてってくれ。」
「よし来た」と吊繃帯の兵士が応じる。「とてもお前にゃ行けねえ。
グーセフは兵士の頸につかまる。兵士は丈夫なほうの腕で彼を抱えて、上へ連れてゆく。甲板には無期帰休の兵士や水兵が、ごろごろ寝ている。とても沢山いるので、なかなか通れない。
「立ってみな」と吊繃帯の兵士が小声で言う。
「そろそろとおれの後からついといで、シャツに掴まってな。」
暗い。甲板にも
「パーヴェル・イヴァーヌィチは海へ抛り込まれるんだ······」と吊繃帯の兵士がいう。「袋へ入れてどぶんとな。」
「うん、そういう規則だ。」
「だが
「知れたことよ。」
家畜の糞と乾草の匂いがする。舷側には、牛が首を垂れて立っている。一つ、二つ、三つ······八頭いる。小馬も一匹いる。グーセフは撫でてやろうと手を伸ばす。だが小馬は首を振り、歯を剥いて袖に噛みつこうとする。
「こん畜生······」グーセフは怒る。
二人は静かに舳の方へ歩いてゆく。やがて
海には情けも分別もない。もしこの船がもっと小さく鉄板も薄かったら、波は情け容赦もなく船を叩き潰して、乗っている人間は聖者でも罪人でも残らず一呑みにするだろう。船だってやはり、無分別な残忍な顔つきをしている。この
「ここはどの辺かね?」とグーセフがきく。
「知らねえ。きっと大洋だろうよ。」
「陸地が見えない······」
「そりゃそうよ。何しろ七日しなきゃ見えないって話だ。」
二人の兵士は燐光を発する白い泡を見つめて、黙って考え込む。最初にグーセフの方が沈黙を破る。
「だが何にも怖しいことはないんだ」と彼は言う。「暗い森のなかに坐っているような、不安な気持がするだけよ。もし仮に今すぐボートを海へ卸して、百露里先へ行って魚を捕って来いと上官が命令すりゃ、俺はやっぱり行くね。それとも今、正教徒が水に落ちたら、すぐその後から飛び込むね。ドイツ人やシナ人なら助けてやらねえ。だが正教徒なら飛び込むね。」
「死ぬのが厭かい?」
「厭だとも。家の奴らが可哀そうなんだ。なあ、家の兄貴はやくざ者だ。大酒は喰うし、女房はやたらに叩くし、親を敬わねえ。俺がいなけりゃ何もかもわやだ。きっと親父やお袋が乞食をするようにならあ。だが兄弟、俺の脚はもう立っちゃいられねえ。それに、ここだって蒸暑いや。······降りて寝よう。」
グーセフは病室へ戻って、釣床に横になる。相変らず漠然とした願望に責められて、一体どうしたいのか自分でもわからない。胸が圧しつけられる。頭ががんがんする。口が乾いて、舌も満足に動かせない。うとうとするかと思うと寐言をいう。悪夢と咳と蒸暑さに疲れ果てて、明方近くにぐっすり寐入る。兵営で、今しがたパンが
彼は帆布で縫いぐるみにされて、火床の鉄棒を二本
「願わくは御名の尊まれんことを······」と司祭がはじめる。「
「アメン」と三人の水夫が唱和する。
帰休兵と乗組員は十字を切って、舷越しに波を覗き込む。人間が帆布に縫いぐるみにされて、これから波に飛び込むのだと思うと妙な気がする。誰も彼もこんな目に逢うものだろうか。
司祭はグーセフに土を撒きかけて、跪拝する。三人が「
当直番が板の端を持ち上げる。グーセフは辷り落ちて、真逆様に宙に浮く。それからもんどり打って、ぼしゃんと行く。泡に蔽われて、一瞬間はまるでレースを着たように見える。が、その瞬間が過ぎると波間に消える。
彼はぐんぐん底へ沈んで行く。行き着くだろうか。底までは一里もあるという。百
やがて魚の群に出逢う。「
その後から別の黒い物があれられる。これは
そのとき天の方では、日の沈む側に雲が