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ひとつの道

草野天平





自分は自分の道を一歩一歩行つたつもりでありました

しかし或る時は立ち止り或る時は振り返つて逆に二三歩あるいて仕舞つたことがあります

二つのうち一つを断ち切つて喋らずに進むことの出来なかつた者であります

しかしこれで精一杯でもありました

赦してもらひたく思ひますが、誰に向つて言ふのか

結局自分自身そして為すことに言ふより仕方ありません

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悪魔悪魔とののしる声が表にする

レオナルド ダ ヴインチは薄暗い奥の仕事場で

ぢつとこの声をきいてゐた

そしてさつきノートに書きつけたばかりの文字を

ただぼんやり見下してゐた


根本動力よ

恐るべき汝の公平さよ||


待つて下さい

そこで読むのを待つて下さい

日は沈み

岡の上はうすら寒くなつてくる

私は静かに顔を上げ

西の空の夕映が薄れてゆくのを

悲しく眺めた

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何処か知らない遠いところを思ひ

ただそつと坐つてゐるキリスト

来るものは来る

形のあるものは無くなる

善も悪もない

何処か知らない遠いところを思ひ

ただそつと坐つてゐるキリスト

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手に粗末な器を一つ持ち

米を欲しいでもなく

欲しくないでもなく

ぼうつと広く

そして優しく一つところを見て

この地の上に

黙つて立つてゐる

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さうか

これが秋なのか

だれもゐない寺の庭に

銀杏の葉は散つてゐる

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落葉の沈んでゐる池を見てゐたらば

泡が一つ浮いてきて

消えていつた

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水たまり

松の雪が映つてゐる

ぽとんと雫がおちて

また

松の雪が映つてゐる

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白紗のたびに脚絆をつけて

それにすげの笠を持ち

本当によく似合ふ

葬儀屋さんのいふ通り

十万億土の旅へ出るやうだ


音もしない

遥かな遥かなきれいな途

枯れた萱のやうな杖をついて

ほそぼそと一と足一と足のぼつてゆく

著物や持物は汚くて重たいから

この儘そつとしてやりませう

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糸巻の糸は切るところで切り

光つた針が

並んで針刺に刺してある

そばに

小さなにつぽんの鋏が

そつとねせてあつた


妻の針箱をあげて見たとき

涙がながれた

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路は続いてゐる

私は歩いてゐる

小橋の上へとまり

ぽとんと石をおとす

そしてまた歩きはじめる

木蓮の下を通れば

にほひがして

遠くに雲は浮いてゐる

路は続いてゐる

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くぬぎの林に

熊手がおいてある

だれも取りにこない

くぬぎの影はうすれ

陽は暮れてゆく

陽は暮れてゆく

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竜のひげの茂みのなかは静かで

藍の実はひつそりとしてをりました

五つ六つ掌にのせて

えんがはで遊びました

ころころところがせば

ころころところがつて

とまりました

また一つ

ころころところがせば

ころころところがつて

とまりました

冬の日は障子にあたり

睡くなつてゆきました

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両腕をやや張り

腰を落し

前を見て

歩ゆむ 歩ゆむ

そして止るところへきて止る

身体全体

地に足をつけて

そして静かに正面を向く

微かに息をして居る

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右に左に

右に左に

腕を動かすから鈴がなる

草木が風にゆれてゐるやうに

人間らしいしなもない

やがて穏かに風はやみ

体はとまる

腕もとまる

鈴もとまる

それで終る

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そこらで倒れて死ぬことも出来ず

かうして帰つて来ました

日本に残つたたつた一人の男の子供

世話もしない

行くところへ行く

それでも手に汗を握つて言つたのでしたが

帰つて来ました

親であつて親でなく

子供であつて子供でない

或ひは親子と言ふものはさうかも知れない

其処へさう思ひつつも帰つて来ました

親だから子だからといふ一番らくな道を通つて

卑怯にも帰つて来ました

私はここへ坐り白髪を見

手をついて立つその腰も見てゐます

しかし暫くたてば

世の親にするやうに挨拶をして

再び何処かへ行くでせう

灰をならす手をとめて

顔を見て下さい

私は帰つて来ました

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小高い丘に

馬は草をたべてゐた

くびは垂れて

ときに尾をふつてゐた

まるい雲はひとりとまつて

空のなかほどにあつた


私はしづかに腰をあげて

もときた径を帰つてきた

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見ても誰もゐない

本を伏せる

家を出て山を見れば

山はやはり山

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人は死んでゆく

また生れ

また働いて

死んでゆく

やがて自分も死ぬだらう

何も悲しむことはない

力むこともない

ただ此処に

ぽつんとゐればいいのだ

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蔵の瓦から雫がおちて

蜘蛛の巣はゆれて

ものさびしい

苗代からは

苗をたばねる人たちの

話もきこえる

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生きたいのですと言へば

さうですかと言つて

死にたいのですと言へば

さうですかと言つて

暖く何処にもゐて

冷く何処にもゐない

空気のやうになりたいと思ふ

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名も知れない浜辺に

少しばかり月見草が咲いてゐた

海は青く

どこまでも平かで

全く音もなく

砂は乾き定まり

月見草は揺れもしない

舟もないし

雲もない

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柿の実が池へおちて

一つ音をたてただけ

木は木の影を

土にうつしてゐる

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松虫ははじめてですから

静かにしてゐて下さいといふので

立ち止つてゐたら

ちんちろりんと一つないた

松虫は桔梗のやうですねと友がいふので

私もちよつとさういふ気もしたけれど

寒くなつたから

黙つてあるきだした

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簡素とは

家も食べ物も着る物も簡単なことであります

塵を含まず

何時も開き放たれ

富や世などに引かるる人を

笑ひもせず

また

怒りもしないことであります

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子供よ

ここへお坐り

お前はさつき石をもつて喧嘩をしてゐたね

さういふことではいけない

石をお捨て

人は少しでも自分と違ふ力をかりてはいけない

いつかも一緒に歩いてゐる時

お父さんがゐるんだぞと言つてゐたことがあつた

自分はああいふ時

本当はお前のそばにゐないのだ

あの子がお前より強ければ

強いやうに打てばいいと思ふし

お前が強ければ強いやうに

やはり普通に打てばいいと思ふ

勝つのもいい

負けるのも又いい

勝つても威張れないし

負けても威張れないものなのだ

いいか

わかつたか

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世界万人に真に勝つ武器は

神のやうに無手でありませう

前を正しく見て

物を持たないことでありませう

また持たうともしないことでありませう

わたくし共は父母の子でありますけれども

創りは独り

茫々とした天と地の子

我が物と思はないことであります

手は垂れて何もかくさず

慈悲と無慈悲の中ほどに立つて

身体のいづれにも力を籠めぬ

あの平かな姿であり

言葉であり行ひでありませう

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己れ一人に克つ者が万人に克つ者であります

己れ一人の為に

己れ一人の穢れを祓ふ者が

万人の穢れを祓ふ者であります

他人ひとを謗れば

他人も夜臥して朝起きる己れであり

やはり同じ

謗ります

美も醜も結局は己れ自身なのでありますから

美しい人事を称へるわけにもゆかず

醜い人事を蔑むわけにもゆきません

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源は

動いてはいけないものと思はれます

下を向いてもいけないものと思はれます

奥まつて何も為さず

日本の着物を立派に着て

しかも静かに畳に坐り

内に在つて揺れ動く世界を見

動かぬ天上を同時に見て

ただ声音こわねうるはしく

話す言葉は

普通でなければなりません

この世の凡ては空しいやうでもあり

又さうでないやうでもあります

戦争にしても

平和にしても

つまるところは一つものの中にあるやうに思はれますから

進むことも

退くことも出来ず

分量は何時も同じに保つて

色の無い色の有る

真ん中の道を行かねばならないやうに思はれます

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柔かな雨はふつて

砂をしめらしてゆく

向ふの松はしだいに薄らいで

なくなつた

今はなにの音もなく

すくない波は

渚までくるが

そのまま帰らない

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ところどころに芒があり

昼の月もでてゐる

姿はみえないが

すこし離れたところから

鈴虫の音がする


さみしく忍ぶやうに

一つ二つして

しなくなる

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ひとつの雪虫は池のおもてへ降り

もうひとつの雪虫は柊のかたはらを離れてゆく

柊の葉かげには

白い小さな花がついてゐて

隅にかた寄り散つてゐるが

おんといひ色合といひ

おだやかで

何かしら見えないものが

優しく皆を慈しみ

物も語らず

包むかのやう

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一すぢの糸のやうに

海の見える

草やまの小径のところに

いちりんの薊は咲いてゐて

浅くしれぬやうに

風はかよつてゐた

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息は静かに

まなこは開き何処かを見る

自分をめぐる無数の

人の意識がつくつた質や量などに

軽く触れ

口の辺りに笑みさへ湛へる

それは苦しく悲しいけれど

遠く親子の人情をはなれ

何とも言へぬ

自由と法則の調節をとる

其処はもう白色か青色か

最高もなく最低もなく

天上すらも

いつさい無く

寂しさと静けさと安らかさのなかに

万事を止めて個性なく


ゐる






底本:「定本 草野天平全詩集」彌生書房

   1969(昭和44)年4月25日初版発行

   1974(昭和49)年9月20日二版発行

底本の親本:「ひとつの道」十字屋書店

   1947(昭和22)年10月

入力:大久保ゆう

校正:Juki

2010年9月13日作成

青空文庫作成ファイル:

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