小さな
姉弟は、
父の
目が、だんだん
見えなくなるのを
心配しました。
「お
父さん、あのカレンダーの
字が、わからないの?」と、
壁の
方を
指していったのは、もう
前のことであります。お
父さんが、
会社をやめてから、
家の
内にも
夜がきたように
暗くなったのです。
「
私の
故郷へ
帰りましょう。
田舎は、
都会とちがって、
困るといっても、
田はあるし、
畑があるし、まだゆとりがあります。いけば、どうにかならないこともありますまいから。」と、
子供の
母親がいいました。
「お
母さん、
田舎へ
帰るの。」と、
姉のとし
子は、お
母さんの
体へすがりながらききました。
「ええ、
帰りましょうね、そうするよりしかたがないんですもの。」
お
母さんは、みんなの
気持ちを
励ますつもりで、いいましたが、また、すぐに
涙ぐんでしまいました。
「おれに
故郷があるとなあ。」と、
父親は、
瞳が
白くなって、
生気を
失った
目で、あたりを
見まわしながら、
答えました。お
父さんには、もう、
両親もなければ、また
帰るべき
家もなかったのでした。
「どちらの
田舎へ
帰っても、
同じでありませんか?
私の
兄はあのとおりしんせつな
人ですし、まだ
母も
生きていますし。」と、お
母さんはいいました。
「そうすれば、
僕、
田舎の
学校へ
上がるの。」と、
義坊が、ききました。
「おまえも
田舎の
子になるのよ。
山へいったり、
野原をかけまわったりして、きっとじょうぶになりますよ。とし
子は、もうあと二
年ですから、
卒業したらお
裁縫でも
習えばいいと
思います。」
父親はだまって
考えていたが、
「できるなら、
子供たちをこのまま、こちらで
勉強さしてやりたいものだな。」といいました。
「あなた、それができるようなら、これに
越したことがありませんけれど、そのお
体でこの
先どうしてやっていけますか?」
母親は、
自分になんの
力もないのを、
面目なく
思ったのです。
「なに、
私にだってすこし
考えがある。」
父親はさびしく
笑いながら、
二人の
子供のいる
方を
向いて、
「おまえたちは、お
母さんの
田舎へ
帰ったほうがいいか、それとも、こちらで、いくら
不自由をしても
暮らしたほうがいいか、どちらがいいかな?」とききました。
もうまったくの
子供ではなく、いくらかもののわかるとし
子は、この
際いかに
負けぬ
気であっても、それはむだなことと
思いました。それよりか、お
母さんのおっしゃるように
田舎へ
帰って、
自分はどんな
手助けでもするから、一
家のものが、
無事に
暮らしていけることを
願ったのでした。
「
私はお
母さんの
田舎へいったほうがいいと
思うわ。」と、とし
子は、
答えました。
「
僕は、
賢ちゃんや、
正ちゃんと
別れるのはいやだから、こっちにいるほうがいい。」
今年から、
小学校へ
上がったばかりの
義坊がいいました。
父親は、
手さぐりで
義坊の
頭に
手を
置いて、
「
義坊や、おまえと
二人でこちらにいようか。」
「お
父さんと、お
母さんと、
別れるのはいやよ。」と、とし
子は、
泣きながらいいました。
母親もだまって、そっと
目の
涙をふきました。
「まあ、
私はやってみる。こうなれば、
恥も
外聞もない。
明日からでも、
町の
角に
立って、
尺八を
吹くつもりだ。」
日ごろから、お
父さんの
尺八に
感心している
一家のものだけれど、
世間の
人たちが、はたして
自分たちと
同じように
感心するか、また
感心はしても、
金を
恵んでくれるだろうか、まったく
見当がつかなかったのです。
「お
父さんは、うまいんだから、みんながきっと、お
金をくれるよ。」
「この
時節ですもの、なんでお
金になどなりますものか。」と、お
母さんはいいました。
町の
角に
石造りの
銀行がありました。
前に、三
坪にも
足らぬあき
地があって、そこへ
青い
草が
芽を
出しました。
低い
柵には
鎖が
張られていたが、
大人なら
造作なくまたいで
入ることができたのです。
義坊の
父親が
立って
尺八を
吹くのはその
柵のところでした。
「いつか、よっぱらいが、たおれていたところへ
草が
芽を
出した。」と、
義坊はいいました。どこのおじさんであったか
知らないが、お
勤めの
帰りによっぱらったとみえて、
黒い
外套は
泥だらけであったし、
握っている
洋傘が、
折れそうに、
曲がっていました。
巡査が
見たら、なにかいうであろうと、
義坊は、
心配をしたが、そのとき、
巡査は
通ったけれども
目に
入らなかったようです。その
後、
雨が
降りつづきました。その
雨で
草が
生えたのでありましょう。
土曜の
日には、
早くからここへきて、
父親は
尺八を
鳴らしたのでした。
ふいに、
義坊が
叫びました。
「あっ、あんな
花が
咲いた!」
小さな
白い
花が、
草に
咲いたのであります。ガラス
窓のうちで、
仕事をしている
人にもまた、この
鋪道を
通る
人々にも、おそらく、この
花は
知られなかったでしょう。ただ、これに
気のついたのは、
自分ばかりのように
思えて、
義坊は、なんだかうれしくてしかたがなかったのです。
彼は、
柵の
下から
頭を
突っこんで、
腹ばいになって、その
花を
取ろうとしました。こんな
遊びは、
原っぱでもなければされぬことで、このにぎやかな
町の
中では、まったく
珍しい、しがいのあるいたずらにちがいありません。
義坊は
手を
伸ばして、その
白い
花を
取ろうとしました。その
瞬間です。どこから
飛んできたか、
朽ち
葉色のちょうが、
花に
止まろうとしました。
義坊は、おどろいて
急に
手を
引っこめて、ちょうのするさまをじっと
見守っていました。ちょうは
花にとまって、
羽を
休めたかと
思うと、また
舞い
上がって、
煤煙と
物音で、かきにごされている
空を、どこともなく
飛んで
消えてしまいました。その
行方を
見送りながら、
義坊はぼんやりとして、
不思議に
思ったのです。そして、ちょうのために、
白い
花を
残しておく
気になりました。
「
義坊や、あっちのお
店では
売れたかな。」
二
間とは
離れぬところへ、
赤い
珠と、
白い
珠と
吹き
上げるおもちゃの
噴水や、ばね
仕掛けのお
相撲の
人形を
売る、
露店が
並んでいたのでした。
「さっき、
子供がたくさん
立っていたが、だれも
買わずにいってしまったよ。」
「そうか、
不景気だなあ。」と、
父親は、ため
息をつきました。まだ、
今日は
一人も
銭を
投げてくれなかったのです。
義坊は、
以前、いろいろなおもちゃを
父親から
買ってもらったことがありました。しかし、いまは
噴水や、
相撲の
人形などを
見ても、
自分には
縁の
遠い
気がしたし、べつにほしいとも
思いませんでした。ただ、そんなおもちゃを
買うことのできる
子は、しあわせな
子供と
思っていました。デパートの
屋根には、アドバルーンが
高く
上がっていました。
風が
寒く、
雲が
低かったのです。
近所の
店で
鳴らす、
蓄音機の
音が、いつかお
母さんの
田舎へいったとき、
丘の
下の
小学校で、
女の
先生がひいていたオルガンの
音を
思い
出させました。
その
先生は、
紫色の、
長いたもとのついた
羽織を
着ていました。
「お
父さん、
不景気でだめだから、お
母さんの
田舎へいこうね。」
義坊は、こういいました。なぜか、お
母さんの
田舎へいこうというと
不幸な
父親は、いつでも、だまってしまうのです。
「また
雨かな、だいぶ
寒くなった。もう、すこしやって、お
家へ
帰ろうな。」
父親は、
尺八を
持ち
直して、
思いきり
深く
息を
吹き
込みました。
うさぎ
追いしかの
山 小ぶな
釣りしかの
川夢は
今もめぐりて
忘れがたき
故郷 道を
急ぐ
人々の
中には、
立ち
止まって、じっと
耳をすます
青年がありました。また、
女の
人がありました。その
人たちは、しまいまでその
歌に
聞きとれていました。
こころざしをはたして いつの
日にか
帰らん
山はあおき
故郷 水は
清き
故郷と、
父親が、うたい
終わったときに、あちらからも、こちらからも、お
銭が
二人の
前に
落ちたのであります。
義坊は
拾うのに
夢中でありました。
やがて、
草の
白い
花が、うす
闇の
中にほんのりとわからなくなるころ、
哀れな
父親のたもとにすがりながら、
勇んで
帰っていく
子供がありました。それは
義坊であります。
沈みがちに
歩く
父親に
向かって、
「ねえ、お
父ちゃん、きょうはよかったね。また、あしたもあんな
歌を
吹きなさいよ。」と、いったのでありました。