高窓の
障子の
破れ
穴に、
風があたると、ブー、ブーといって、
鳴りました。もう
冬が
近づいていたので、いつも
空は
暗かったのです。まだ
幼年の
彼は、この
音をはるかの
荒い
北海をいく、
汽船の
笛とも
聞きました。
家から
外へ
飛び
出して、
独り
往来に
立っていると、
風が、
彼の
耳もとへ、
「
明日は、いいことがある。」と、ささやきました。
「そうだ、きっとお
父さんが、
明日帰っていらっしゃるのだ。」
彼は、
希望を
持って、
明るくその一
日を
過ごすのです。
彼の
生まれた
町は、
小さな
狭い
町でした。
火の
見やぐらの
頂に、
風車がついていて、
風の
方向を
示すのであるが、
西北から
吹くときは、
天気がつづいたのであります。
空き
車の
上へ
馬子が
乗って、
唄などうたい、
浜の
方へ
帰る、ガラ、ガラという、
轍の
音が、だんだんかすかになると、ぼんやり
立って、
聞いている
彼の
耳もとへ、
風は、
「
明日は、いいことがある。」と、ささやくのでした。
すると、
急に
彼の
目は、
喜びに
燃えるのでした。
「そうだ、
明日は、お
客さまがあるのかもしれない。」
まれに、
彼の
家へ
珍しい
客があって、おもしろい
話をしてくれるのを、
彼は、どんなにうれしく
思ったでしょう。
ある
日、
彼は、
停車場で、
美しい
女の
人を
見ました。ようすつきから、この
土地の
人でなく、
旅の
人だということがわかりました。そして、いいしれぬやさしい
顔は、かえって
悲しみをさえ
感じさせたのです。
彼は、その
人の
顔を
忘れることができませんでした。
汽車が
遠く
去ってしまった
後、かぼちゃの
花の
咲く
圃に
立ち、
無限につづく
電線の
行方を
見やりながら、
自由に
大空を
飛んでいるつばめの
身を、うらやんだことがありました。
ちょうど、そのころ、
他国から
帰った、
親類のおじさんがありました。
一同は、この
人のことを
道楽者だと、よくいわなかったけれど、
彼には、いつも
思いやりのある
言葉をかけてくれたし、
怒った
顔を
見せなかったので、なんとなく
慕わしく
思われました。おじさんは、
孤独なのが、さびしかったのでしょう、ときどきマンドリンなど
鳴らして、
独りで
自分をなぐさめていました。このことを
知ったときから、
彼にも
音楽が、なによりか
好きなものとなったのです。
彼の
少年時代は、いつしか
去りました。そして、
小さな
町をはなれて、
大きな
市へ
移るころには、
彼はもうりっぱに
働きのできる
若者でありました。けれど、
心に
芸術を
忘れなかったのです。
町の
中を
川が
流れていた。
橋の
畔に
食堂がありました。
彼はこの
家で
友だちといっしょに
酒を
飲んだり、
食事をしたのでした。
和洋折衷のバラック
式で、
室内には、
大きな
鏡がかかっていました。その
傍らには、
幾つもびんの
並んだ
棚が
置いてあった。
酒と
脂のにおいが、
周囲の
壁や、
器物にしみついていて、
汚れたガラス
窓から
射し
込む
光線が
鈍る
上に、たばこの
煙で、いつも
空気がどんよりとしていました。たとえ四
季おりおりの
花が、
棚の
上に
活けてあっても、すこしも
新鮮な
感じを
与えず、その
色があせて
見えた。それとくらべていいように、そこにいる
女たちは、
濃く
口紅をつけ、
顔に
厚く
白粉を
塗っていたけれど、なんとなく
若さを
失い、
疲れているように
見えたのです。
しかるに、
彼は、あるとき、ハーモニカで、「
故郷の
歌」をうたいました。
目に
広々とした、
田園を
望み、
豊穣な
穀物の
間で
働く
男女の
群れを
想像し、
嬉々として、
牛車や、
馬の
後を
追う
子供らの
姿を
描いたのであります。
一
曲終わると、すすり
泣く
女の
声がしました。
翌日この
店をやめて、
故郷へ
帰った
女があります。
彼女の
故郷が、
彼の
歌が、
彼女の
魂を
呼びもどしたのです。
メーデーの
日でした。
丘の
上の
新緑が、
風に
吹かれて、さんさんとした、
日の
光の
中で
躍っていました。
見わたすと、
乳色の
雲が、ちょうど
牧人の、
羊の
群れを
追うように、
町を
見おろしながら、
飛んでいくのでした。
風は、
彼の
耳もとへ、
「
明日は、いいことがある。」と、いつものように、
希望をささやきました。
彼は、
友だちと
腕を
組み、
調子をそろえて、
労働歌をうたった。その
声の
響く
間は、
美しい
数々の
幻想が
浮かびました。
たとえば、百
貨店にあるような、
赤、
青、
緑の
冷たく
透きとおるさらや、コップなどを
製造するガラス
工場の
光景とか、
忽然それが
消えると、こんどは、
高い
煙突から
黒い
煙が
流れ、また
幾本となく
起重機のそびえたつ、
大きな
鉄工場が
現れるのでした。そして、
歌がやむとともに、それらの
形と
影もどこへか
没してしまいました。
彼が、またハーモニカで、インターナショナルをうたったときには、
洋々たる
海原が
前面へ
盛り
上がりました。そして、
汽船の
過ぎた
後には、しばらく
白浪があわだち、それも
静まると、
海草がなよなよと、
緑色の
旗のごとくなごやかにゆれるのでありました。
彼の
青年時代は、
夢も
多かったかわりに、また、
反面あまりに
醜かった
現実のために、
焦燥と
苦悶をきわめたのです。
目で
見た、一つの
例をとれば、ここに
毎朝出勤する
紳士があります。その
人は、
気むずかしく、
家庭では、なにか
気にいらぬことでもあれば、
罪のない
細君をしかり、
子供をなぐったりしたのに、
出社して、
上役の
前では、まったく
別人のごとく、
頭をぺこぺこして、
愛想がよかったのです。しかるに、
上役は、
冷然として、
皮肉な
目つきで、その
男を
見下して、
命令します。この
場合、だれが
聞いても
無理と
思われるようなことでも、
男は、
服従しなければなりませんでした。
風彩からいえば、その
男のほうが、
上役よりりっぱでした。
頭髪をきれいに
分け、はいているくつも
出かける
前に、
哀れな
細君が
念をいれてみがいたので、ぴかぴかと
光っています。まだ
社では、それでもいいが、
男は、ときどき
上役の
家庭へも、ごきげんを
伺いに
出なければなりません。
我が
家では、
妻や
子供らに
対して、
厳格過ぎるといってもいいのに、
上役の
家では、やんちゃ
坊主を
晴れ
着の
脊中へ
乗せて、
馬替わりとなって
歩きます。これは、そうした
社会の
話であるが、
音楽家や、ほかの
芸術家も、また
同じでした。ある
美貌の
声楽家は、
指に
宝石をかがやかせ、すましこんで、ステージに
立ち、たとえ
聴衆を
睥睨しながら
歌っても、
蔭では、
権力のあるものや、
金力あるもののめかけであったり、
男どもには、
幇間に
類するやからが
少なくなかったのでした。
こうした
社会を
見、こうした
現実を
知るとき、
彼は、
余の
人のごとく、
平然たることができなかったのです。ただ
聰明をかいたがため、
階級に
対しては、
組織ある
闘争でなければならぬのを、一
途に
身をもって、
憎いと
思う
対象にぶつかりました。それ
故に、
結局へとへとになって、
揚句は
酒場で
泥酔し、わずかに
鬱を
晴らしたのです。
彼は、
芸術を
商品に
堕落さしたやからをも
憤りました。
街頭へ
身をさらし、
雪まじりの
風の
吹く
中で、バイオリンを
弾き、
悲痛の
唄をうたって、
道ゆく
人の
足を
止めようとしました。けれど
畢竟自分を
慰め、
苦痛を
忘れさせるものには
酒以外ないことを
知ったが、
生まれた
日から、
今日まで、
瞬時も
休まず
鼓動をつづける
心臓に
触れて、
愕然として、
彼は、
真に
自身をあわれむ
気が
起こったのでした。
ほんとうに、ブルジョアに
隷属する
彼らが、よどんだ
沼の
中につながれた
材木であり、
縛ったなわもろとも、いつか
腐る
運命にあるなら、
彼は、さながら
激流の
彼方の
岸、
此方の
岩角と
衝突しながら、
漂いいくいかだのごときもので、
時代の
犠牲たることに
異いがなかったのです。
ある
日、
彼は、
若い
時分、
下宿していたことのある
所を
通りました。
橋の
畔にあった
食堂は、もうそこになかった。あのころの
娘は、すべてお
嫁にいき、
母親となって、
生まれた
子供も、
大きくなったであろう。それだけでなく、あのころの
男の
子は、
兵隊にいき、なかには、すでに
戦死したものもあるであろう。こう
考えると、
彼は、
歩きながら
感慨無量なのでした。
記憶に
残る
床屋があったので
入りました。もちろん
主人もちがっていれば、
内部のようすも
変わっていました。それよりも
驚いたのは、
鏡に
映った
自分の
姿でありました。
頭髪は、
半分白く、
顔には
小じわが
寄って、
当年の
若々しさが、まったく
消え
失せてしまったことです。
ふたたび、
路上へ
出ると、
風が、
耳もとで、「みんな
流れのごとく
去ってしまった。」と、ささやきました。
彼は
頼りなく、さびしく、
独りうなずいたのでした。
丘へ
上がると、
春のころは、
新緑が
夢見るように
煙った、たくさんの
木立は、いつのまにかきられて、わずかしか
残っていなかった。
足もとには、
小さな
家屋がたてこんで、
物干しの
洗濯物が、
夏空の
下で、
風にひるがえり、すこしばかりの
空き
地で、
子供が、
鬼ごっこをして
遊んでいました。
一人ハーモニカを
持った、
男の
子がいました。その
子は、
鬼ごっこに
加わらず、ぼんやり
立っていたので、
彼は、そばへいき、ハーモニカを
借りて、いまなお
子供たちに
親しまれる、ちょうちょう、ちょうちょう、
菜の
花にとまれを
吹いて、
聞かせたのです。すると、
子供たちは、
鬼ごっこをやめて、
「おじさんは、うまいんだなあ。」と、たちまち
彼を
取り
巻きました。いま
子供らの
目は、いずれも
遠い、
美しいものを
憧れているのです。
彼は、その
姿のうちに、
少年時代の
自分を
見いだしました。そして、あの、なつかしい
親類のおじさんを。
「おじさんは、どこからきたの?」と、
子供が、ききました。
「あっちから、
君たちとお
友だちになりにきたのだよ。」と、
彼は、
答えました。
「ほんとう、ここは
涼しいよ。そんなら、
明日から、
木の
下で、おもしろいお
話をしてくれたり、ハーモニカを
吹いて
聞かしておくれよ。」
「いいとも。」
このとき、
風は、
頭の
上で、さわやかにささやきました。
「
明日から、いいことがある。」
彼の
胸に、かすかながら、ふたたび
希望がよみがえったのであります。