人というものは、一つのことをじっと
考えていると、ほかのことはわすれるものだし、また、どんな
場合でも、
考えることの
自由を、もつものです。
ある
日、
清吉は、おじさんと
町へ、いっしょにいきました。そして、おじさんが
用たしをしている、しばらくの
間、ひとり、そのあたりをさんぽして
待つことにしました。一けんの
店では、いろいろの
運動器具をならべ、のきさきに
写真などをかけていました。すべてスポーツにかんするもので、ちょうど
盛夏も
近づいたから、
山岳の
風景や、
溪谷、
海洋のけしきなどが、
目にもしたしまれたのであります。
そのなかの一
枚は、のこぎりのはをたてたような、
山脈の
姿であって、もっとも
高いいただきには、
雪が
白くのこっていました。おそらく、
夏の
間じゅう、とけることなく、あたらしい
雪が、またその
上につもるのでありましょう。そのほかの
山も、一つ、一つ、
個性があって、あるものは、なんとなく
近づきがたく、あるものは、なつかしみのもてるようなものがありました。とはいうものの、どれもここからはとおいかなたにあり、いったとしても、のぼるのは、よういではなかったのです。
想像するに、一
日じゅう、つめたいきりがかかったり、はれたりし、はげしい
風に
木立がざわめき、
鳥のなく
声のほかには、しんとして、べつにおとずれる
人も、まれだったでありましょう。一
年じゅうがそうであり、百
年の
間が、そうであったにちがいない。そしてこの
山々は、
昔も、
今も、
永久にだまっているのでした。
けずりをかけたような、がけの
上に
立ち、
谷をへだてて、
前方のいただきを
見上げる
人があります。その
人は、
自然を
愛するために
冒険をしたのでしょう。
足もとの
下は、すぐ千じんのそことなって、
急流が
白ぎぬをさくように、みだれちらばっている
石につきあたって、しぶきをあげています。
写真に
見いった
清吉は、
耳へ
水音を、
感じるのでした。
「もし、この
人が、
自分だったら。」
かれは、よくこんな
空想をします。それから、かってにその
先をつづけるのでした。
自分は、はたして、このきりぎしの
上に
立つだけの
勇気があろうか。
足がわくわくして
目がくらみはしないだろうか。ひっきょう、
勇気のないものは、いくら
美しいものがあっても、
鑑賞するどころか、ただおそれをおぼえるぐらいのものだと
思いました。
写真から
目をそらすと、
自分はあまりに
異なった
世界に
立っているのでした。
電車には、
乗客が、すずなりにつかまっているし、トラックは、
重そうな
荷をいっぱいつんで
走るし、
自転車は、たがいに
競争するように、
前後にとんでいるのでした。
かれは、
店さきをはなれ、ちがった
意味のなまなましいゆううつを
感じながら、
下を
見て
歩くうちに、もうすこしで、
道の
上につきでた、
鉄棒の
先へつまずこうとしました。
「あぶない、なんだろう?」
すぎかけたのを、わざわざもどって、それをみつめたのでした。たぶん
戦災のなごりであろうか、なにかのこわれた
金物が、
道に
埋まっているのです。
さいわい、
自分は、つまずいてけがをしなかったが、だれか、けがをする
人があるにちがいなかろう。そう
思うと、かれにとっては、まったくとつぜんのできごとだったけれど、そのままいきすぎてしまうことを、
良心が
許さなかったのでした。
「さあ、どうしたら、いいだろうか。」
いままで、
頭の
中を
占領していた、ふかい
谷や
山も、また、きりや、
雲もどこへか、あとなく、
煙のようにきえてしまって、そのかわり、きたないしみのように、
現実のなやみが、
全心をとらえたのでした。
目をとじたり、
頭をふったりしてもすぐに
解決のできぬことだけに、いらだたしい
気持ちとなりました。そして、
早く、このなやみから、のがれる
方法を
見いだそうとしたのでした。それには、ここに、一つの
例外がある。
「よほどのとんまでなければ、これにつまずくものはない。」ということです。
もしそうきめられれば、なにも
問題はないのであるが、はたして、この
場合、だれにたいしても、こういう
叡智を
信ずることができるだろうか。もし
信じられぬとすれば、この
後に
起こるであろうできごとに、
自分はまったく
責任がないとはいえぬのであると
考えられるのでした。
清吉は、じっさいについて、これを
知ろうと、すこしはなれた
電柱のところに
立って、
往来の
人々のようすを
見守ったのでありました。くつの
人、げたの
人、ぞうりの
人、また、ゴムたびをはいたものと、じつに、
人々のはきものは、いちようではなかったけれど、どの
人も、その
鉄棒の
頭をふんだり、つまずくものはなかったのであります。それは、みんなの
注意がいきとどくからとはいえなかった。なぜなら、なかには、
上をむいていくもの、
横を
見ながら、
足もとには、てんで
注意をしないものもいるからでした。
考えればじつにふしぎなことです。
「すべてが、
偶然に
支配されているとしか
思えない。それに、
人間には、つねに六
感がはたらくからだろう。」
こうして、なんでもないところに、かれは
真理の
顔がうかがわれるような
気がしました。
ちょうど、そんなことを
考えているときでした。
「
清吉、たいへん
待たせて、すまなかったね。」と、おじが、いそいでやってきました。
かれは、うしろに
心をひかれながらも、おじといっしょに、
電車に
乗って、そこを
立ち
去らなければならなかったのであります。そして、だれから、いわれたというわけではないが、かれは、そのままかえったのをひきょうとして、みずからの
勇気なさを
後悔しました。わすれようとしても、
目の
前へ、つまずいてたおれる
人の
姿が
浮かんで、
自分を
苦しめ、むちうったのであります。とちゅう、おじから、なにを
話しかけられても、
朗らかな
返答ができませんでした。ちょうど、その
気持ちは、
学校で、いくら
考えても、
算術の
答えができなかったときのように、
頭の
中が、もやもやとしていたのでした。
家へかえってからも、しつこく
後悔がくりかえされたのです。
清吉は
自分のへやへはいって、ひとりとなりました。そして、また
考えこみました。
「たしかに
危険で、
注意しなければならぬことだった。それをどうして、なんともせずに、ほうってきたのだろうか。」
かれは、
自分に
向かって、
問いただすのでした。そしてみずから、
答えるのでした。
なにもすることのできなかったのは、
要するに、
自分に、
勇気というものが、かけていたのだ。
勇気さえあれば、
正しいはんだんにしたがって、できるだけのことをしたであろう。そうすれば、いまごろ、なんのやくにもならぬ
後悔など、しなくてもよかったのだ。
清吉は、おのれの
欠点と、
良心を
苦しめなければならぬ
病所に
気づいたとき、これからすぐにも
金づちをたずさえて、さっきの
場所へでかけていって、
鉄棒の
頭を
力いっぱい、たたきこんでこようかと、ためらいましたが、
時間がたつにつれ、一
時燃えた
情熱もしぜんとうすらいでしまったのです。かれは、
勇気も
情熱もなければ、なまなかの
良心は、ただみずからを
不愉快にするばかりで、
用のないものだとさとりました。
そのうちに、とうとう、その
日の
晩方となりました。
清吉は、あそびに
外へでて、
友だちと、
道の
上で、ボールをなげていました。なお、ときどき、ひるまのことを
思い
出して
鉄棒の
先が、
目にちらつき、
急になんだか、おもしろくなくなるのでした。
そういえば、いま
自分たちのあそんでいる
道が、またなんといたんでいることであろうと
気がついたのでした。
戦時中にあいたあなが、まだそのままになっているのです。
「ねえ、きみ!
夜分通る
人が、このあなへおちないだろうかね。」と、
清吉は、
道の
上のあなをゆびさして、
友だちにはなしかけました。
「さあ、おちるものもあるだろう。」
「けがをしないかね。」
「
運が
悪ければね、そのときの、ひょうしさ。」と、
友だちのひとりは、
答えました。
そうきくと、
清吉は、それだけですまされることだろうかと
思った。
「いったい、だれが、
修繕しなければならぬのだろうかね。」と、
清吉は、いいました。
責任をもつものの
怠慢がはらだたしかったのです。
すると、いつも
元気で、
快活な
Kが、
「どこかに
責任はあっても、あまり
多すぎて
手がつけられないのだろう。」と、
答えました。
「はやくなおさなければ、
老人や、めくらがおちてあぶないがなあ。」
「そう、
近所の
人が、
気がついたら、
早くなおせればなおすんだね。」
Kは、いつものように、にこにこして、ほとんど、むとんじゃくでした。
ひとり、
清吉は、まだ
考えこんでいました。こうしたことは、どこへうったえ
出ればいいのだろうか。こればかりでなく、
身のまわりに、たくさん
解決のつかぬことがあるような
気がして、くよくよしたのでした。
「いったい、だれに
責任があるのだろうか。」と、
清吉はあくまでも
思ったのです。
「
清ちゃん、なにしてんの? はやく、たまをおなげよ。」と、
Kは、さいそくしました。
「
考えていたのだよ。」
「どんなことさ?
考えたってしかたがないじゃないか。だれでも、できることは、
自分でするんだよ。
考えこじきの
銭とらずというのだろう。」
「よし、わかった! こんどは
強いたまだぞ!」と、
清吉は、はじめてほがらかにさけびました。
「いいよ。」
まさに、
日はくれようとしていました。そして、はるか
西北の、だいだい
色の
空に、むらさき
色をしたひとつづきの
山脈が、
頭をならべていました。それをみて、
清吉は、
写真にあった、
山や
谷を
思い
出しました。いまごろは、そこも、
夕やみがせまったであろう。そして、
深山の
静けさをやぶって、
岩にはげしくつきあたる
流れが、
白くあわだつであろうと
思いました。
せみの
声に、
耳をすましながら、
往来に
立っていると、かえりをいそぐ
人々の
顔にはよろこびがあふれ、みな
愉快そうでした。
そのとき、
Kの、
大きな
声が、
夕映えの
空に、はずみかえって、
Bや、
Yと三
人が、こちらへかけてきました。
「
清ちゃん、
道をなおそうよ。」といいました。みんなが、
手に
土をはこぶバケツや、くわをもっていました。
「ああ、なおそう!」
清吉は、
自分にも
気づいた、わるいくせをやぶり、
明るい
世界へつれだされて、みんなといっしょに、
心からたのしく、
星の
出はじめるころまで、
語ったり、
笑ったりしてともにはたらき、
熱心に
道をなおしていたのです。
「
考えこじき。」と、
Kの、いったことを
思いだして、
清吉が
笑っていると、
「あすから、たまをなげるのにも、あぶなくないよ。」と、
Kは、にこにこしながら、いったのでした。