ある
日、どこからか、きれいな
鳥が
飛んできて、
木にとまりました。
腹のあたりは
黄色く、
頭が
紅く、
長い
尾がありました。
野鳥のように、すばしこくなく、
人間になれているらしく
見えるのは、たぶん
飼われていたのが、かごを
逃げ
出したのかもしれません。
みんなが、
大騒ぎをしました。
大人も、
子供も、どうしたら
捕らえられようかと、
木の
近くへ
集まりました。
正吉は、
胸がどきどきして、
自分が
捕らえようと、
心にきめると、みんなにむかって、
「あの
鳥は、おれのものだ。わあわあいっちゃいけない。」といって、
彼は、すぐ
鳥のとまっているかきの
木に
登りはじめました。
鳥は、そんなことにまったく
気づかず、さものんきそうに、あちこちと
景色をながめていました。
見ている
人たちの
中には、うまくつかまればいいがと
思ったり、あるいは、
早く
逃げればいいのにと
思ったり、てんでになにか
考えていたであろうが、とにかくだまって、
正吉のすることを
見まもっていたのです。
正吉は、
木の
幹の
蔭で、なるたけ
自分のからだを
隠すようにして、
音をたてずに、ねこがねずみをねらうときのようすそっくりで、すこしずつ
鳥にしのびよって、もう
一息というところまで
達しました。そこで
考えていた
彼は、おそるおそる
手をさしのべたのでした。
「うまくいったぞ!」と、
見ている
人の
中から、いったものもあります。
しかし、あまり
鳥が
美しいので、つかまえる
手がにぶったか、
指先が、
尾にふれんとした
瞬間、
急に
鳥は、おどろいて
飛び
立ちました。そのとき、
正吉のからだも、いっしょに
木からはなれて、
空でもんどり
打ち、
地上へと
落ちました。
「
鳥には
羽があるが、
人間にはないものを、なんで、
手づかみができるものか。」と、こんどは、
見ていた
人々は、
口々にののしりながら、
気を
失った
子供のところへ
駆けつけました。そして、だき
起こして
介抱するやら、
親たちを
呼びにいくやら、あわてふためいたのであります。
この
村には、
専門の
医者がありませんでした。
内科と
外科を
兼ねた
頼りげないものしかなかったので、
治療にも
無理があったか、
正吉の
折れた
右脚は、ついにもとのごとく、
伸びずにしまいました。それから、
不具となった
少年は、
友だちからばかにされたり、わらわれたりしたのであります。
彼は、ろくろく
学校へもいかず、
早くから、
町の
縫い
箔屋へ
弟子入りして、
手仕事をおぼえさせられたのでした。
生まれつき
器用の
正吉は、よく
針をはこびました。
「
正吉、この
金紗の
羽織は、
仕損じぬよう、
念を
入れてしなよ。」というように、
主人は、
注意しながらも、
上等のむつかしい
品をば
選んで、
彼に
扱わせるようにしました。そして、でき
上がりを
見て、いつもほめたものです。
だから
彼は、いつからともなく、ほかの
弟子たちを
抜いて、
仕事の
上では、
主人の
代わりをしていました。この
店は、
町で
古くからの
縫い
箔屋だったので、
金持ちの
得意が
多く、また
遠くからも、
註文を
受けていました。
しかし、なんによらず、
世の
中のことは、いつも
同じような
調子でいくものではありません。いろいろの
関係から、たえず
変化していくものです。これまでも、
新しい
器械が
発明されたとか、
新しい
思想が
流行するとか、また、
戦争などということがあって、
栄えた
職業が、
急に
衰微したり、また
反対に
衰微していたものが、
復興する
例は
少なくなかったのです。
こんどの
世界戦争は、
我が
国のすべての
産業に
革命をもたらしました、
縫い
箔屋という
商売が、たとえ一
時的にせよ、まったく
衰える
状態となり、この
店もついに
閉店して、
転業を
余儀なくされたのでした。
ここにいた、
若い、
健康な
男女は、それぞれ
工場へいき、
活溌に
働いたのですが、
正吉は、それらの
人たちと
同じことはできず、ある
電気工場へ
勤めて、
体力にふさわしい
仕事として、ニクロム
線を
巻いたり、
鉄板のさびを
落としたりしていたのであります。
ある
休みの
日に、
正吉は、
前に
奉公していた、
縫い
箔屋を
訪ねました。
主人は
喜んで
迎えてくれました。
主人も、まだ
老人とはいえぬながら、もはや
工場へいって
働ける
年ではなく、さればといって、ぼんやり、その
日を
暮らす
気にもなれず
当惑していると、ちょうど
総選挙前で、
筆耕をたのむものがあって、そんなことをしているのでした。
「すこしの
間に、
世間もだいぶ
変わったものだな。」と、
主人は、いまさらのように、
腕を
組んでいいました。
「はい。」と、
正吉は、
答えました。
「こんどから、おまえにも
選挙権があるんだね。りっぱな
人間一
人前になれたというものだ。だから、
貴い
権利をむだにしてはいけないよ。」
「はい。」
「
考えてごらん、これまで
私たちの
代表として
選んだ
代議士が、ほんとうに、
私たちの
身の
上を
思ってくれたといえるかい。いいかげんな
約束をして、
民衆を
踏み
台にし、ただ
当選すれば、いいとしたのだ。そして、いよいよ
権力を
持つと、
自分たちの
都合ばかり
考えて、
大衆は
捨てられてきたのだ。」
「はい。」
「むつかしいことをいうようだが、わかるだろうね。」と、
主人は、
念をおしました。
「
深いことはわかりませんが、
意味はわかります。」と、
正吉は、
返事をしました。
「それは、
選んだものにも
罪があったんだよ。
人を
見る
目がなかったのだ。ただ、
空宣伝におどらされたり、
山師のようなものにあやつられたからだ。これからは、だまされてはいけないし、
強くならなければならん。そして、
真に、
自分たちのためになり、
力のないものの
味方になる、
正しい
人間を
選挙するのだ。いままでは、そういうあたりまえのことすらできなかったが、いよいよそれができる、
自由な
時代になったのを、
知っているね。」
「はい、
自由主義の
時代でしょう。」
「そうだ、
自分が
正しいと
信じたとおりにする、それがなにより
貴いことなのだよ。」
「わかりました。それには、
自分がもっと
正しく、
強いりっぱな
人間となるんですね。」
「そう、そう、
前からだれにも、
人間平等の
権利はあったのさ。それを
無智と
卑屈のため、
自ら
放棄して、
権力や、
金銭の
前に、
奴隷となってきたのだ。」
「
親方、
私たちは、いままで、
自分というものをよく
考えなかったんですね。」
「それだから、
気力も、
勇気もなかったのだ。」
「
金とか、
学問とかいうことより、なによりみんなが
正しい
考えをもつ
人間となることが
大切なんですね。」
「それが
民主主義なんだよ。」
こうして、
正吉は、
前の
主人から、
勇気づけられて
帰りました。それから、ひまがあれば、
選挙候補者の
演説を
聞き
歩くことにしました。
選ぶには、まず、その
人を
知らなければならぬからです。まだ
世の
中のほこりに
汚されぬ
若者の
感覚は、
何人が
心にもないうそをいったり、あるいは、
飾らず
真実を
語るか、また
謙遜であって、
信用するに
足りるか、どうかということを、
目で
見わけ、
耳で
聞きわけたのでした。そして、ごまかしの
誘惑や、一
時の
宣伝にとりことなるのを
警戒し、
自己の
信ずる
人に
投票しようとしたのであります。
そうするうちに、いよいよ
選挙日となりました。おりしも、
春のいい
季節であって、
正吉らの
投票場は、
近くの
小学校にきめられました。
彼は、
午前のうちに
出かけ、
多くの
人たちとともに、
列をつくって
並んだが、その
長い
列は、えんえんとして、さながら
長蛇のごとく、
運動場の
内側を
幾巡りもしたのであります。
大空の
雲の
色は、
柔らかに、
吹く
風も
暖かでした。どこからか、きりの
花の
甘い
香いが
流れてきました。あちらにある
物置の
軒端へ、すずめが
巣を
造るとみえ、たえず
往来していたが、
飛んでくるすずめは、わらくずや、
糸きれのようなものを
食べていて、
彼らは、
壁板の
壊れた
穴から、
出たり、はいったりしていました。
「もう、
田舎も
春だろうな。」と、
正吉は、
紫色を
帯びて、かすみたつ
空を
仰ぎました。
考えるともなく、
子供の
時分が、
頭の
中へよみがえったのであります。
かげろうの
上る、かがやかしい
田畑や、
若草の
芽ぐむ
往来や、
隣家の
垣根に
咲く
桃の
花や、いろいろの
景色が
浮かんで、なつかしい
思い
出にふけると、あのきれいな
鳥が
田圃の
中のかきの
木にきて
止まったのが、まだ
昨日のことであるように、いきいきと
思い
返されるのです。
「あの
後は、
町の
鳥屋でも、あんな
鳥を二
度と
見たことがない。なんという
名の
鳥だったろうな。」
彼は、いまでも
世界のどこかに、
同じ
鳥がすんでいるだろうとは
思いながら、なんとなしに、またと
見られぬようなはかなさを
感ずるのでした。そして、そのため
自分は
木から
落ち、びっことなったにかかわらず、その
苦痛は
忘れられて、ただ
美しい
鳥に
対し、
限りないいとしさと
悲しみがつのるばかりでした。
「あのとき、もち
棒があれば、とれたかもしれぬ。」
くちおしく
思うけれども、また、
子供の
時分のことで、よく
飼い
方も
知らぬから、
殺せばかわいそうだったとも
考え、かえって
逃げたのを
喜ぶ
心にもなるのでした。
彼は、しばらく
列の
中に
立ちながら、
夢を
見る
気で
空想をつづけると、ふいに、
空から、ひらひらと、
花びらの
落ちるように、一ぴきの
黒いちょうが
降りて、そばの
砂の
上で
体を
休めたのです。
「
花のない、
人間ばかりのところへ、どうして、ちょうが、
飛んできたのか。」
自然界には、
想像もつかぬようなことがあるものだと
思いました。
正吉は、いまでは
子供のときとちがって、めずらしいからといって、すぐ
手を
出して、
捕らえようとはしませんでした。そのかわり、おちついて、
色や、
姿をよく
観察する
機会を
与えられたのを
喜び、ちょうの
羽についている
模様まで、つくづくとながめたのでした。
「なんという、
不思議な、きれいなものだろう。
神さまの
力ででもなければ、つくれぬものだ。」
一ぴきの
虫でさえ、
子細に
見れば、
見るほど
美しいのを
知りました。はじめて、それに
気がつくと、
雲も、
花も、すべてがおどろくばかり
美しかったのであります。
「いいな、
自然は!」と、
彼は、
眠りから
目がさめたごとく、
感嘆しました。
ひとり
自然が
美しいばかりでなかった。こうして、
見、
考え、
喜び、
希望をもつ、
人間がまた
偉大であり、
貴い
存在であるのを
知りました。さらに、
人間の
一人である、
自分が
尊いものであるのを
知ったのです。
正吉は、
選挙に一
票を
投じてから、
社会人になれたという、
強い
自覚をもつと
同時に、
自然の
観察から、また
仕事のうえにも
大なる
自信を
得ました。
「おれのいままでの
仕事は、みんなうそだったぞ。」
彼は、
自分の
部屋へもどると、
大声で
叫んだのです。そして、
考えたのでした。
田舎から、
町へ
出て、
縫い
箔屋へ
弟子入りをして、そして、
習った
細工は、すべて
魂の
入らない、ごまかしものだった。たとえば、
帯や、
羽織や、
着物にしろ、
刺繍をしてでき
上がった、
花や、ちょうや、
鳥は、ただひな
形に
似せたのであり、
絵本から
写したものであるから、
死んでいて、
生きている
姿でなかった。そればかりでなく、
品物の
使い
道がまた
死んでいた。というのは、
金持ちの
奥さまや、
令嬢がたが
着るためであって、ただそうしたおしゃれの
人たちの
虚栄心を
満足させるに
役立つだけだった。そう
思うと、たとえ
自分の
芸は
未熟ながら、
考えずにいられようか、
平常はたんすや、
行李の
中へしまいこまれて、お
気にいらなければ、そのまま
虫にくわれ、
永久に
捨てられるのである。だれしもそうと
知れば、
良心のあるかぎり、
自分の
仕事に
対して、あわれみと
恥ずかしさを
感ずるであろう。
つつましやかなる
自然は、
正吉にふたたび、
子供の
時分のまじり
気ない
無邪気さと、
勇気を
呼びもどしたのでした。それは、
正しく
生きようと
希う
人間のもつ、りっぱな
精神でありました。
「おれは、
自分のもてる
能力が、たとえわずかばかりにせよ、これを
発揮して、
世の
中の
人々のために、
役立てよう。」
ふとしたことが、
彼の
体に
長い
間宿り、
眠っていた
正義心と、
芸術心の
芽を、いっしょにめざめさせたのでした。
その
後、
彼の
描いた、さまざまの
水彩画や、
鉛筆画が、
工場の
壁にはられました。
そして、
素直で
特色豊かな
絵は、
多くの
工員たちの
間に
人気を
呼びました。なぜなら、
疲れたものの
精神にあこがれと
朗らかさをあたえることによって、
彼らを
慰めたからであります。