こい
紫の、ちょうどなす
色をした
海の
上を、
赤い
帯をたらし、
髪の
毛をふりみだしながら、
気のくるった
女が
駈けていくような、
夏の
雲を、こちらへきてからは、
見られなくなったけれど、そのかわり、もっとやさしい
女神が、もも
色の
長いたもとをうちふり、うちふり、
子どもたちといっしょに
鬼ごっこをしているような、なごやかな
夕雲の
姿を、このごろ
毎日のごとく、
街の
上の
空に、ながめるのであります。
こんど、
煉炭屋へやとわれてきた
少年の
秀吉は、
仕事がすむと、
工場裏の
空き
地で、
近所の
子どもたちといっしょにすごす
時分、こうして、ひとり
空をながめながら、いろいろ
空想にふけるのでした。
「
小僧さん、さか
立ちしてごらんよ。」と、
子どもの
一人が、
彼のそばへよると、ふいにいいました。なぜなら、
彼が、ここへきてから、さか
立ちのうまいということが、じき
子どもたちの
間で
評判になったからです。それというのも、
秀吉が、
故郷にいる
時分から、さか
立ちだけは、だれにも
負けまいとけいこをしたからでした。で、いつでも、きげんのいいときには、こういわれれば、
「よし、きた。」と、かけ
声をして、うしろへ二、三
歩さがり、
前へのめるかと
思うと、たくみにさか
立ちをして、さながら、
足で
立つように
平気で、あちらこちらと、
歩きまわりながら、
見ているものに、
話しかけるのでした。
「ああ、きれいだな。あの
高いえんとつの
煙が、
雲の
中へ
流れこんでいる。それが、おししの
毛のように
金色に
光って
見える。
君たちにはそう
見えない?」と、さか
立ちしながら、
秀吉は、いいました。
「
金色になんか、
見えないよ。」
「
正ちゃんも
健ちゃんも、さか
立ちしてごらんよ。」
こんなに
長い
間、さか
立ちをしていたら、さぞ
頭が
重くなって、
目がまわるだろうと、かえって、はたで
見ているものが、
心配するのでした。
「もう
小僧さん、いいからおやめよ。そんなに
長くさか
立ちしていて、なんともないの。」と、さっき、さか
立ちをすすめた
子どもが、やっきになっていいました。
やっと、
秀吉は
立ちなおると、
両手についた
土をはらいおとして、
「ああ、なんともないさ。」と、
笑いながら、
答えました。
「おどろいたな、ぼくたちには、できっこない。それに、こんなことをすれば、
血が
下がって
体に
大どくだろう。」と、
正ちゃんがいいました。
「は、は、は、なんでも、ひとのできないことを、するのでなくちゃ、だめなのさ。」と、
秀吉は、
自信ありげに、いいました。
「それじゃ、
小僧さんは、
子どものときから、ひとのできない、さか
立ちをしようと
勉強したんだね。」と、
武ちゃんが、ききました。
「おれは、
貧乏の
家に
生まれたのだ。とうちゃんは、おれが
生まれると、じき
死んだので、お
顔をおぼえていない。おれは、まったく、おふくろの
手一つでそだてられた。
母親は、
手内職をしたり、よそへやとわれていったりして
親子は
暮らしていた。おれは、
小学校をおえると、
町の
乾物屋へ
奉公に
出された。そして、たまに
家へ
帰ると、
母は、いつも、おれに
向かって、
主人のいうことを
守り、
精を
出して
働けといった。もし、このうえ、
私どもが
貧乏しなければならぬようなら、おまえを
角兵衛獅子にでもくれなければならぬと、
半分は
本気で、
半分はおどかしのつもりだろうが、いったものだ。」
秀吉は、そのときのことを
思い
出すように、いつしかしずんで、だまってしまいました。
「
小僧さん、
角兵衛獅子って、なになの?」と、
武ちゃんがききました。
「まだ、
知らないの。
角兵衛獅子って、
私のくにでは、
冬になると、よく
村から
村へわたってきて、おししの
面をかぶったかわいそうな
子どもが、さか
立ちしたり、でんぐりがえしをしたりして
見せるのだ。その
間、おそろしい
顔つきの
親分が
笛を
吹いたり
太鼓をたたいたりしてはやすのだ。そして、もし、しそこないをすると、
子どもをしかるのだ。それらの
子どもは、なんでも
親のない
子どもや、
貧乏の
家から
子どもを
買い
取って、こんなふうに
芸をしこみ、
銭をもらって
歩くのだが、
子どものもらいが
少ないと、
子どもをいじめたり、また、めしをろくろく
食べさせないと
聞いていた。それで、もし、おれがおししに
売られたら、しかられなくてもすむように、
人の
見ていないところで、ひまがあればさか
立ちのけいこをしたのさ。それでこんなにうまくなったんだ。はじめのうちは、からだの
血が
頭へ
下がって、いくどめまいがして、たおれたかしれないが、がまんをして、しまいにはなんでもなくなったのさ。いまとなれば、だれが、おししなんかになるものか。もう、
自分の
力で、
生きられる
自信がついたからな。
こんど、
乾物屋を
出るときだって、ちっともおれが
悪かったと
思っていない。すこしばかりのいわしのにぼしを
犬にやったとて、そんなに
悪いことでないだろう。なぜって、おれの
給金をこれといって、きめてくれないのだから、それぐらいのことをしたって、なんでもないはずなのだ。」と、
秀吉の
話はだんだん、
熱をおびてきました。
空き
地にいた、
多くの
子どもたちにも、その
話がわかるので、みんな
目を
輝かしながら、
秀吉の
顔を
見つめて、
聞いていました。
「おれはずいぶん
遠い
村まで、ご
用を
聞きにやらされたものだ。ちょうど、二
里ばかりはなれた
居酒屋に
黒という
犬がいて、おれが
帰るときに、
追っても、
追っても、ついてくるのだ。とちゅう、ほかの
犬がたかってきて、ほえたり、
追いかけたりしても、やはりついてくる。
黒はだまって、けっしてあいてにならないが、たまに
大きい
強そうな
犬が
出てきて、いじめられそうになると、どこをどうまわって
逃げるものか、ちゃんと、
先へいって、おれを
待っている。ほんとうに、りこうなかわいい
犬だったよ。おれたちが、
店へつく
時分には、もうとっくに
日が
暮れていて、
外は
真っ
暗だった。そして、おれが、
戸をあけて、
店へ
足を
入れると、さびしそうに、それまで
立ちどまって
見ていた
黒は、
呼びとめても、
後もふり
向かずとっとと、もとの
道をもどっていくのだ。おれは、かわいそうで、どうしようもなかった。
床へ
入っても、
黒のことばかり
考えて、その
姿が
目にうかんで
眠られなかった。いまごろ
黒は、まだあのさびしい
松並木のあるあたりを
歩いているだろう。もう、どのへんへいったろうかと。ある
晩のこと、また
黒がついてきたので、なにもやるものがないから、
店さきのおけにはいっていた、にぼしをすこしばかりつまんで、
投げてやった。それが
運わるく
主人に
見つかって、ひどくしかられた。おまえはきょうばかりでない、へいぜい
店の
品物をそまつにするのだろう、そんなものは、この
家におけないと
主人はいうのだ。おれは、
悲しかったよ。おふくろが、どんなに
泣くだろうと
思うと、おれは、
身を
切られるような
思いがして、
主人にわびたのだ。しかし、がんこな
主人は、どうしても、
出ていけというのだ。さいわい、
近所で、
日ごろから
顔見知りの
人で、そんなら、
東京にいい
口があるが、いってみないかと、せわしてくれたので、おふくろとわかれるのは、つらかったけれど、ここへきたのさ。
こんどの
主人は、いくらいいかしれない。しんぼうして、
早く
大きくなって、ひとりだちをして、かわいそうなおふくろを
安心さしてやらなけりゃ
······。」と、
秀吉はいって、なみだぐむのでありました。
このときから、
武ちゃんも、
正ちゃんも、この
遠くからきている
小僧さんに、なにかにつけて、
同情したのであります。
ある
日の、
午後のことでした。
武ちゃんと
健ちゃんがペスをつれて、
草いきれのする
細道を、
川の
方からきかかると、からのリヤカーを
走らせて、
通り
過ぎようとする、
秀吉に
出あいました。
「おや、どこへいったの?」と、
秀吉は、
車をとめて、
聞きました。
「ぼくたち、
川の
方まで、
散歩したんだよ。」と、
二人が
答えました。
「もう、
帰るのかい。そんなら、これに
乗せてあげるよ。」と、
秀吉は、すすめました。
「ペスも
乗せていい。」と、
健ちゃんが、いいました。
「みんなお
乗りよ。」
「ペスもおいで、いっしょに
乗ろうよ。」と、
武ちゃんが、うずくまりました。
このとき、
秀吉は、ふり
向いて、いつも
見ているペスだけれど、はじめて
気がついたように、
「いい
犬だね。」と、ほめました。
「ああ、これでもテリヤなんだ、
純粋じゃないけど。」と、
武ちゃんは、ペスの
頭をなでていいました。
「おとなしくて、りこうな
犬だよ。」と、
健ちゃんは、
小僧さんに
説明して、さらに、
武ちゃんに
向かい、
「こうして
見ると、
小さくないね。ぼく、いつ
見ても、
小犬のような
気がしたが、なかなかりっぱじゃないか。」といいました。
「
小僧さんが、いなかにいたとき、かわいがった
黒という
犬は、どんな
犬なの?」と、
武ちゃんが
聞きました。
秀吉は、リヤカーを
走らせながら、
「
黒かね、りこうな
犬だった。そんな、なになに
種って、
名のつく
犬でなかったけれど、おれは、どの
犬よりも、
黒が
好きなんだよ。」と、
彼は、
髪の
毛を、
風に
吹かせながら、さもなつかしそうに
答えました。そして、なにを
思ったか、
急に
速力をゆるめ、ふり
向いて、ペスを
見ながら、
「この
犬も、いい
犬らしいな。」と、じっと、
目の
中を、のぞくようにしました。そこには、
黒と
共通のものがありました。なんと、その
目は、すみきって、おとなしそうで、すばしっこそうで、なんでも
人間のいうことが、わかるような、かしこそうにみえるではないか。
「
犬って、みんなりこうなんだな。だから
黒もペスも、
同じくらいかもしれない。」と、
秀吉は、いいました。
「
犬って、みんなりこうなんだね。」
「どの
犬も、
人間なんかよりは、りこうだと
思うよ。」
「
人間よりも
······。」
「そう、
人間のように
欲深でもないし、いちど
信じれば、
気変わりなんかしないからね。」と、
秀吉は
答えたのです。
二人は、そう
聞くと、
深くうなずかずにはいられませんでした。
「こんど、いつ
国へ
帰るか
知らないが、どうか、それまで、
黒がたっしゃでいてくれればいいが。」
秀吉は、ひとりごとをいって、また、いっしょうけんめいに、リヤカーを、
自分たちの
町の
方へ
走らせたのです。その
後ろ
姿が、
二人の
少年の
目には、なんとなく
悲しくうつりました。
あちらに、
親しみのある、
湯屋の
高い
煙突が
見えたころです。
「
晩に、ぼくたち、
双眼鏡で、
空の
星を
見るから、
秀吉くんも
遊びにきたまえね。」と、
武ちゃんがいいました。
「ほんとうに、おいでよ。」と、
健ちゃんも、いいました。
「
大ぐま
座、
小ぐま
座、
北斗星などを
見るのだよ。それに、もっと
遠い
海王星が、
雲がなくて
見えるといいね。」と、
健ちゃんが、さも
楽しそうに、いいました。
「ご
飯を
食べてからですね。そうすれば、おれも
用事が
終わるから、いかれますよ。」と、
秀吉は、
答えました。やがて、リヤカーは、
坂を
下ると、
道をまがって、
二人の
少年と
犬を
乗せながら、
自分たちの
家のある
町の
中へ
入ったのでした。
その
夜、
空き
地では、かたすみの
方に、わずかばかりしげる
草むらの
中から、いろいろの
虫の
声が
聞かれました。しかし、
秀吉には
故郷の、あのかぎりもなく
広い
田んぼから、さながら
雨の
降る
音のように
流れてくる、ひびきの
高い
虫の
声とは、おのずから
感じがちがって、もう
秋の
近づいたという、
心のひきしまる、さびしさは
味わわれませんでした。
空き
地へ
集まった、
子どもの
群れには、
昼間道づれとなった
武ちゃんや
健ちゃんのほかに、きみ
子さん、みっちゃんなどの、
同じ
年ごろの
学友たちが
加わっていました。
「よく
星が
見えるかい。こんど、ぼくにかしてね。」
「そのつぎは、わたしにね。」
みんなが、
先を
争って、
双眼鏡をのぞこうとしているのでした。
「こんどは、
小僧さんの
番だよ。」と、
健ちゃんが、
大きな
声で
秀吉を
呼びました。
秀吉は、
双眼鏡というものを、はじめて、のぞいたのでした。しかし
月の
世界の
秘密は
肉眼で
見る
以上に、わからなかったのでした。いくらか、はっきりするぐらいなものです。
「どう、よく
見えるだろう。」と、
武ちゃんはさも、
精巧なレンズをほこらしげに、いうのでした。
秀吉はこれに
対して、なんともいわず、
見れば
見るほど
宇宙が
広いので、ただため
息をもらしながら、
双眼鏡を
武ちゃんにかえして、
「
故郷では、いまごろ
空をあおぐと、
手がとどきそうに、
空が
近く、
星が
大きく、きらきら
光って
見えるのだから。」といいました。
「まあ、そんなによく
見えるの。」と、みつ
子さんが、おどろきました。すると、そばに
立っていた
健ちゃんまでが、
「そうかなあ、
空気が
澄んでいるんだね。」と、まだ
知らない
北国をふしぎなところのように
思うのでした。
秀吉は、
自分の
故郷について、みんながめずらしがると、とくいになって、
「ちょうど、
大雨のあと、
小石がたくさん、
頭を
地面へ
出すだろう。あれと
同じように、
夜がふけると、
青、
赤、
緑と、一つ一つ
空に
星の
光が、とぎ
出されるのさ。」と、
秀吉はいって、さながら、わが
家の
前に
立って、まのあたり
空を
見ているように、なつかしそうでありました。
やがて、みんなと
別れて、
彼は
工場の二
階の一
室へもどりました。しかし、
床についてからも、すぐに
眠れませんでした。まくらに
頭をつけながら、
居酒屋の
前に
立つ、
高いかしの
木を
目に
浮かべていました。その
木の
下には、
黒がすわっています。そして、
黒は、
毎日のように、ゆき
来の
旅人を
見送っています。
黒は、おれが、どうして、やってこないのだろうと
思っている。
秀吉は、いつのまにか
泣いているのでした。
目から
落ちる
涙が、まくらをぬらすのでした。
だんだん、
日が
短くなりました。いつしかひぐらしの
声もきこえなくなりました。しかし、
子どもたちも、あまり、それを
気にとめるものがなかったほど、
自然のうつり
変わりは
自然でした。
「このごろ、
小僧さんは、
病気でないのかな。」
「どうして?」
「
歌もうたわないし、
遊んでいるときも、だまって、さか
立ちもしないだろう。」
学校へのとちゅう、
健ちゃんと、
武ちゃんは
話しました。
「そういえば、
元気がないね。いつもほがらかなんだがな。
遠くからきているので、かわいそうだね。」と、
武ちゃんが、いうと、
「
帰ったら、どうしたんだか、きいてみようか。」と、
健ちゃんが
答えました。こうして、
二人は
秀吉の
身の
上に
同情したのでした。
あちらの
庭に
咲いた、さるすべりの
花も、一
時は、
紅くきれいだったが、その
盛りをすぎてしまいました。
夕日が、
西空にしずむと、
北風の
冷たさを
感じるようになりました。
秀吉は、
両手を
頭の
上で
組んで、ぼんやりと、
遠方をながめながら、
物思いにしずんでいました。
この
姿を
見た
子どもたちは、
「きっと、
自分の
家を
思い
出したのだろう。」と、そばへいって
声をかけるのをひかえたけれど、なにか
知らず、
胸を
細い
針でさされたように、
悲しみを
感じたのでした。
その
日は、
日曜で、しかも
空はよく
晴れていました。もう
太陽の
光が、
慕わしくなる
季節だったので、
赤とんぼが、
羽をかがやかして
飛びかうばかりでなしに、
子どもたちが、
空き
地へきて、うれしそうに、
遊んでいました。ボールを
投げるもの、まりをつくもの、おにごっこをするもの、たがいに
楽しく
遊んでいました。
工場の
裏では、
秀吉が、
目の
前にせまった
冬のしたくのため、
精を
出して、たどんをならべて
乾かしていました。
このとき、あちらから、きみ
子さんが、一
枚のはがきを
手に
持って、
表の
方から、かけてきました。
「
小僧さん、おはがきよ。」
そういいながら、きみ
子さんは
秀吉の
前までくると、それを
彼に
渡したのです。
「ありがとう。」と、
秀吉は、なにげなく
受け
取って、ながめると、
「あっ! おかあさんからだ!」と、さけびをあげました。よほど、うれしかったのでしょう。
暗い
元気のなかった
顔がたちまち、ぱっと
燈火のついたように、あかるくなりました。
これを
見たきみ
子さんは、
「おかあさんからなの?」といって、
彼の
胸の
中の
喜びを
察するごとく、
自分までうれしそうにはしゃぎました。
「おれから、たびたび
手紙を
出しても、ちっとも、たよりがないので、おふくろが
病気でないかと
心配していたんだ。いそがしくて
書けなかったが、たっしゃでいると、ごらん、ここに
書いてある。ああ、よかったなあ。」と、
秀吉は、はがきをにぎって、こおどりしました。
「よかったわね。」と、きみ
子さんが、
心から
思いやりのこもった
調子で、いいました。
「こんなうれしいことはないよ。」と、
秀吉は
泣いたのでした。
この
日から、
彼はまた、さか
立ちもすれば、
歌もうたう、いつもの、ほがらかな
小僧さんになったのであります。
武ちゃんと、
健ちゃんは、この
話をきみ
子さんからきいたとき、ちょうど、ボール
投げをしていたが、すぐやめて、きみ
子さんのところへきて、
耳をかたむけたのでした。
「
小僧さんは、おかあさんからの、はがきを
見ると、すっかり
元気になったのよ。」と、きみ
子さんは、いいました。
二人の
少年は、
顔を
見合って、
「ああ、おかあさんのことか
······。」
「おかあさんのことだったのか
······。」と、たがいに、ため
息をもらしました。
健ちゃんは、
手ににぎっていた、ボールを
地上に
落とし、
武ちゃんは、しばらくだまって、うなずいていました。