獣の
牙をならべるように、
遠く
国境の
方から
光った
高い
山脈が、だんだんと
低くなって、しまいに
長いすそを
海の
中へ、
没していました。ここは、
山間の、
停車場に
近い、
町の
形をした、
小さな
村でありました。
その一
軒の
家へ、
戦時中に、
疎開してきた、
家族がありました。からだの
弱そうな
男の
子が、よく二
階の
窓から、ぼんやりと、
彼方の
山をながめて、なにか
考えていました。
季節が
秋にはいると、どこからともなく、
渡り
鳥があかね
色の
夕空を、
山の
上高く、
豆粒のように、ちらばりながら、
飛んでいくのが
見えました。
子供は、
鳥影のまったく
空の
中に
吸い
込まれて、
見えなくなるまで
見送っていました。やがて
日が
暮れてしまうと、さらさらと
音をたて、
西風が、
落ち
葉を
雨戸に
吹きつけるのです。
「お
母さん、いつ、
東京へ
帰るの。」と、
子供は
聞くのでした。
あかりの
下で、
冬の
着物の
手入れをしていた、
母親は、
「
新聞を
見ると、また、二、三
日前も
空襲があったそうですよ。
私たちが
帰っても、もうお
家がないかもしれません。だから、
空襲がなくなってから、
帰りましょうね。」と、さとすのでありました。
こう
聞くと、
子供は、しかたがなく、おもちゃの
木琴を
取り
出して、
鳴らしはじめました。その
音は、
外の
風の
声に、かき
消されたけれど、
子供は、さびしさをまぎらせていました。
いよいよ
戦争が
終わって、
空襲の
恐れがなくなると、この
家族は、
古いすみかへもどっていきました。そのとき、
糸の
切れた
木琴は、ほかの
不用になった
品物といっしょに、
捨てられるごとく、この
村へ
残されたのでした。
炭焼きじいさんの、
孫の
秀吉は、よく
祖父の
手助けをして、
山から
俵を
運ぶために、
村端の
坂道を
上ったり、
下ったりしました。そのたびに、ちょうど
道のそばにあった、
古道具屋の
店さきにかかった、
木琴に
心を
奪われたのです。
「どうでも、おじじにねだって、あれを
買ってもらうぞ。」と、かがやく
瞳で
楽器を
見つめて、こう、ひとり
語をするのでした。
しかし、よく
働く
孫の、この
願いは
空しくなかった。ついに、その
木琴が、
秀吉の
手に
入ったとき、どんなにうれしかったでしょう。
彼は、
苦心して、
細い
針金で、
糸の
切れたのをつなぎました。
糸を
強く
張って、ピン、ピンと、ひくと、いい
音に、一つ一つ、
羽があって、
雲切れのする
青い
空へ、おどり
上がるような
気がしました。
山や、
谷や、
木立までがこの
音を
聞いて、
急に
目覚めたものか、いままでに
感じないほど、
喜びと、
悲しみの
色を
濃くしたのでした。また、
雲までが、
慕い
寄るように、
頭をたれるのでした。
「なるほど、いい
音が
出るのう。しかし、おまえは、
不思議な
子だ。やっと
歩くような
小さなときから、あめ
屋の
太鼓が
好きで、その
後を
追って、
迷い
子になったことがあるし、
水車場のそばを
通れば、じっと
立ちどまって、
車の
鳴る
音に
耳をすましたものだ。
生まれつき、なんでも
音が
好きなのだ。だれから
教わらなくても、こうして、
木琴を
鳴らせば、いい
音色が
出るじゃないか。ひとつ、
学校の
先生のところへいって、どうしたら、
上達するか、お
話をうかがったらいいぞ。」と、おじいさんは、
秀吉の
鳴らす、
木琴を
感心して
聞き、たばこをすいながらいいました。
「
先生に、
聞けば、おれが
音楽家になれるかどうか、わかるかい。」と、
秀吉は、せきこんで、
聞きました。
「
学校の
先生は、オルガンでもピアノでも、なんでも
弾きなさるぞ。わからしゃらなくて、どうする。」と、おじいさんは
答えました。
山へいくときと、
反対に
道をいって、
隣村にさしかかろうとする
峠に
立つと、あたりに、
目をさえぎるなにものもなくて、
見晴らしが
開けるのでした。
盛夏でも、
白雪をいただく
剣ガ
嶺は、
青い
山々の
間から、
夕日をうしろに、のぞいていました。その、こうごうしい、
孤独の
姿は、いつも
秀吉に、なにか
限りない、あこがれの
感じをいだかせるのでした。そして、これから、
彼の
訪ねようとする
学校は、このとき、ひからびた
白い
屋根を、
目の
下に
見せていました。
「
君は、
歌が
好きなのか、それとも、
音楽が
好きなのか。」と、
頭の
髪を
長くして、うしろへなでおろした、まだ
若い
先生が、
聞きました。
「さあ、どちらかなあ。」と、
秀吉は、
口ごもって、
彼は
顔を
赤くして、
最初の
質問に、
自分がわからなくなりました。
(
男は、なんでも、
思ったことは、いうのだぞ。)と、
祖父の、
日ごろのいいつけが、
浮かびました。
秀吉は、
顔をあげて、
先生を
見ながら、
「どちらも
好きなんです。いい
音のするものなら、
水の
音でも、
風の
声でも、
好きなんです。
先生、それは、やはり、
音楽じゃないんですか。」と、
秀吉はしんけんな
目つきをして、
先生に、ただしました。
「は、は、は。なんでも
好きか、なかなか、
君は
欲ばりだな。しかし、
音楽は
芸術のうちでも、いちばんむずかしいのだ。
天才ならばべつとして、
学ぶには、うたうのも、
鳴らすのも、
基礎となる
調子から
学んで、
練習が、たいへんなのだ。ちょうど、
文章を
作るにも、
文法を
知らないと
書けないように、
好きだからといって、すぐになれるもんじゃないのだよ。」と、
先生にいわれました。
このもっともらしく
聞こえた、
先生の
言葉は、
秀吉を
真っ
暗な
絶望へつき
落としました。
「
好きだけでは、だめでしょうか。」
「まず、だめだな。しかし、
君はたいへん
熱心だから、せめて、
耳だけなりと
発達させるといい。
僕も、
君のことは
考えておこうよ。」と、
人のいい
先生は、まずしげな
少年をあわれみながら、こういって、なぐさめてくれました。
秀吉は、
出かけるとき、
胸に
描いた、
桃色の
希望の
影は、どこかへ
消えて、
家へもどるときは、
失望の
底を
歩くように、
運ぶ
足が
重かったのでした。ただ、
先生の
考えておいてくださるという
言葉に、はかない
望みをかけていたのであります。
その
翌日から、
彼はまた
山へてつだいに
出かけました。そして
谷川の
流れへくれば、いつに
変わらずよかったし、
林でなく
小鳥の
声を
聞けば、
無条件で
自然が
讃美されるのでした。
「だが、
学問がなくては、まだほんとうのことは、わからぬのだろうか。」と、
彼は、
急に
元気がなくなり、
気持ちが
重くなるのでした。そして、いままでのように、
自由に、
無心に、
木琴を
鳴らして、
恍惚となることができなくなったのであります。ああ、なんで
自分が
自然のふところへ、いままでのように、
自由にたのしく
入ることが、
悪いのだろうか。また、
先生のお
言葉を
聞いてから、どうして
自分に、それが
許されなくなったのだろうか。
「ああ、
芸術の
規則なんていうもの、だれが
作ったのだろうか。」と、
彼は、まどい、うたがい、そして、
煩悶しました。
実直な
先生は、けっして、
少年を
苦しめようなどとは
考えなかった。それどころか、
願いをかなえてやろうと、その
後、
心にかけていました。
ある
日、
先生はわざわざ、
彼の
家を
訪ねて、さぞ、
少年が
喜ぶだろうと、
吉報をもたらしたのでした。
「こんなところが、あるのだがね。
N町の
楽譜店で、
唄や
音楽の
好きな
小僧さんをさがしているというのだ。つい、
昨日友人から
聞いたので、
早速知らせにきたが、どうかね。いってみる
気なら、
紹介するが。」と、いってくれました。
秀吉は、よくようすを
聞くと、そこへいけば、
毎日のように、
有名な
音楽や、
人気のある
大家の
歌が
聞けるので、ぜひ
奉公をして、そこで
勉強しようと、
決心しました。
先生からの
話とあって、
祖父は、わけもなく
賛成したのです。
いよいよ、
門出の
日がきました。
彼は、
停車場への
道を
急ぎつつ、ふり
返って、一
日として
見なかったことのない、
山々をながめました。
雲が
出ていて、
剣ガ
嶺だけが、
隠れていました。
彼は、
日ごろ
敬慕する
山だけに、
姿が
見えなかったけれど、
別れを
惜しむよう、
頭を
下げました。
待つ
間もなく、
汽車がきたので、
意気込んで、それへ
乗りました。
「これが、
東京へいくのだと、もっといいけれどなあ。」と、
思いました。
なぜなら、
彼は
大きな
都会ほど、
文化が
発達し、
芸術が
盛んであり、それによって
自分を
成長させることができると
考えたからです。
わずか一
時間足らずで、
汽車は
目的地へ
着きました。
N町までは、そんな
近い
距離でしかありませんでした。
だが、そこには
女学校あり、
中学校あり、また、
専門学校があったから、むろん、
喫茶店や
映画館などもありました。しかも、
彼のいく
楽譜店は、この
町でも、いちばん
人通りの
多い、にぎやかなところでした。
店は、
想像したほど
大きくなかったが、
各種の
蓄音機や、
新型の
電蓄がならべてあり、レコードは、
終日回転していました。いつも
店頭へ
人の
立たぬことはなく、ことに
夕暮れどきなど、
往来まであふれていました。
秀吉は、いった
日から
流行歌の
楽譜や、
歌手の
名まえを
覚えるのに
一苦労でした。
制帽をかぶった二、三
人の
学生が、
店の
前に
立って、
話をしていました。
「
Hは
天才だね。なにをうたってもうまいじゃないか。」
「わけても、エレジーものはね。」
「あれで、
美しいと
申し
分ないがな。」
「いや、
目に
魅力があるよ。」
「よせやい。
顔だって、
声だって、
Kが一
番さ。」
学生たちは、いわゆる
芸術家を、
芸者かなどのように、
品定めしているのでした。
秀吉はびっくりしたというより、あてがちがって、
別の
世界へ
飛びこんだごとく、
後悔が
先に
立ち、とまどいしてしまいました。
あわれな
彼は、ひそかに、
Kと
Hの、
若い
映画女優の
写真を
見くらべたり、また、
派手な
洋服姿をした
人気作曲家の
写真などを
取り
上げて、
「ああ、これが、ほんとうの
芸術家というものなのか。」と、いままでの、
自分の
愚かさを
恥じながら、
茫然と
見つめていました。
そう
考えると、
先生の
言葉が、いまさらのごとく
頭に
浮かんだりして、なんのために、
自分は、こんなところへきたのだろうかと、いくたびとなく
後悔されました。そして、ただ
自分の
野暮がうらめしく、
悲しく、
気恥ずかしくなって、
深いため
息をつくのでした。
一、二
年の
後には、
天才の
芽は、まったく
踏みにじられて、あとかたもなく、
如才のない、きざな一
個の
商人ができあがるでありましょう。