まだ、ひる
前で、あまり
人通りのない
時分でした。
道の
片がわに一
軒の
染め
物店がありました。
表へ
面した、ガラスのはまった
飾り
窓には、
若い
女の
人がきるような、はでな
反物がかかっていました。それだけでも、
通る
人々の
足をとめて、
目をひくに十
分といえますが、もう一つ、この
窓の
内へ、セルロイド
製の、
大きなはだかのキューピーがかざられて、いっそうの
注意をひきました。キューピーのからだの
色は、うす
赤く、二つの
目は、まるくまっ
黒でした。この
健康そうな
赤ん
坊ほどもある
人形は、そのひょうきんな
顔つきでは、いまにも、
足音におどろいて、
目をくるくるさし、
通りかかる
人になにか
悪口をいって、いたずらをしかねまじきふうに
見えました。つい
無心できかかる
人まで、その
笑いにつりこまれるくらいだから、わんぱくざかりの
子どもらが、なんでこれを
見て、なんともいわぬはずがありましょう。
いずれは、この
近所の
子どもたちでした。ふたりづれの
男の
子が、どこからか
往来へ
出てきました。どちらも六つか、七つぐらいです。キューピーに
目をとめると、たちまち
窓のそばへ
寄ってきました。
なんと
思ったか、ひとりの
子は、いきなり
両足をひらいて、
大きな
目をいからし、キューピーのまねをして、
人形とにらめっこをしました。
他のひとりは、また、
自分の
顔をガラスにおしつけて、できるだけ、よく
見ようとしていました。しかし、なにをしても、キューピーには、
手ごたえがありませんでした。ふたりは、これでは、こちらがばかにされるような
気がして、
腹立たしくなりました。
「やいキューピーのばか!」と、ひとりは、
手をふりあげて、なぐるまねをして、みせました。それでも、キューピーは、だまっています。
「こら、
石ぶつけるぞ!」
このとき、とつぜん、もうひとりの、
男の
子が、
「この、キューピー、おとなりのユウ
坊みたいだよ。」と、
笑いだしました。
「ユウ
坊って、おりこう。」
「う、うん。」
「しょうべんたれの、うんこたれなの。」
「はっ、はっ、はっ。」
そういって、ふたりは、
顔を
見合って、さもおもしろそうに、
笑いました。
青い
空は、さわやかに、よく
晴れています。
深い、
深い、
水色がかって、たれさがるあちらには、
遠く
木立の
枝が
黒く、
大きな
森の、
頭にさしている、かんざしのごとくみえました。そして
昨夜の
霜が、まだ
光って
枝先に
凍りついているのが、
日の
光に、
銀のごとくかがやいていました。こうして、
冬の
間、じっとして、
眠っていた
自然だけれど、もうどことなく、じきに
目をさましそうなけはいがしました。
このとき、
突然、
店の
大きな
戸があいて、おかみさんが、
顔を
出しました。
「みんないい
子だから、
土のかわくまで、あっちへいって、お
遊びなさい。
霜どけで、ころぶと
着物がよごれますからね。」といいました。
ふたりは、これをしおに、ここをはなれ、
道普請の
砂利がつんであるほうへ、あるいていきました。
そのとき、
清吉は、ちょうど
染め
物屋の
前を
通りかけていました。かれは、まだ十
歳ぐらいの
少年であります。この
朝、
母のいいつけで
用たしにいく
途中でした。
いまゆかいそうに、とんでいった、
小さな
子どもたちの
姿を
見て、かれは、
自分にもかつてあんな
時代があったと
思うと、そのころのことが、一つ一つ
目に
浮かんで、すべて
楽しいことばかりだったような
気がしました。ことに、
父親が、
戦争にいかず、
家ではたらき、また
家も
焼けなかったら、その
楽しい
生活は、いまでもつづいて、
自分は、しあわせであったろうと
思うのでした。
かれは、
昔あそんだ、
友だちの
顔などを、ぼんやり
記憶から、
呼びもどしていると、ふいに、
「おばけがきた。」という、さっきの
子どもたちの
高い
声がして、その
空想は
破られたのでした。
清吉は、
顔をあげて、
声のする
方を
見ました。
「おばけがきた!」
「こわいよう、おばけがきた!」
ふたりの
子どもは、
道の
上でであった、おばあさんに
向かって、ちょうど、
臆病犬が、
遠吠えをするときのように、ののしっているのでした。
これを
見た、
清吉は、なにごとだろうと
思い、できるだけ
早く、そこへと
近づいたのでした。
「あっ、おばあさんが
泣いている。」
かれは、そうさとると、
胸がどきどきとして、
急に
目頭が
熱くなりました。
「いったい、どうしたことだろう?」と、
清吉は、
立ち
止まって、このありさまを
見つめたのです。
さむいけれど、
空気は、
音のはねかえるほど
澄んで、さえきっていました。また、ふたりの
子供は、ぴちぴちとして、これから
伸びようとする
盛りだったから、なにをみても、おもしろく、みなれぬ
姿は、おかしかったのです。
美しいものには、すぐに
飛びついたであろうし、みにくいものは、すべておばけにみえたのでありました。ふたりの
子どものみずみずしさにくらべて、このおばあさんは、またなんと、
暗く、しなびきって、みじめでありましたでしょう。だれでも、
年をとると、これがしぜんの
姿であり、この
姿は、やがてはてしない
暗い
方へ
向かって
歩くものだということをすくなくとも、この
子どもらには、
知りようがなかったのです。どこか、
森の
中のお
墓からでも、
出てきたおばけのようにしか
見えませんでした。
「やあ、おばけが
泣いてるぞう。」
「
泣いたりして、おかしいな。」
このとき、
清吉は、
「こら!」と、
遠くから、どなりました。
「なんで、おばあさんに、
悪口をいうのだ!」
かれは、
顔をまっ
赤にして、
大きな
声で、しかると、
子どもは、おどろいて、あちらへ
逃げていってしまいました。
おばあさんは、おばけだといわれたのが、くやしいのか、それとも、
自分の
姿が、そんなに
見られるのは、もう
先が
長くないからであろうとさとって、
悲しいのか、
清吉は、おばあさんの、さめざめとして、
泣くありさまを
見ただけで、
自分までが、
罪をおかしたように、からだへ
冷たい
水をかぶるような
思いがしました。
かれは、おとなのこうして
泣くのを
見る
記憶が、これで二
度あります。その一つは、おかあさんでした。おかあさんが、あちらの
赤い
空をみながら、
自分の
家が、
焼けてしまったといって、しくしくないたときです。それから、もう一つは、いまおばあさんが、こうして、
泣くのを
見たことです。かれは、おばあさんのそばへ
近づくのに、
勇気がいりました。
「おばあさん、かんにんしておやり。まだ
小さいんで、なんにもわからないのだから。」と、
清吉は、かろうじていいました。こういっておばあさんを、なぐさめるつもりでした。
けれどおばあさんは、だまって、
泣きつづけています。
下を
向いて、
目から、にじみでる
涙を、やせた
手でふいていました。
「
小さくて、まだなんにもわからないのだよ。」と、かれは、
同じことをくりかえすより、いうことを
知りませんでした。
「わたしも、
家を
焼かれて、
身寄りはなし、
知り
合いのところで、やっかいになっているが、
寒さのため、
持病のリュウマチがでて、お
薬を
買いにいった
······。」と、あとの
言葉は、よくきこえず、また、
泣いていました。
清吉に、おばあさんの
心持ちが、わかるような
気がしました。だから、
自分の
言葉に
力をいれて、さも
自信ありげに、
「ねえ、おばあさん、おばあさんが、
黒い
頭巾をかぶって、つえをついているので、おばけと
思ったのだよ。きっと、そうだよ。いくら
寒くても、こっちでは、めったに、
頭巾なんかかぶらないから。」
こう、
清吉が、いうと、はたして、おばあさんは、
胸のわだかまりがとけたらしく、やっと
顔を
上げました。その
顔には、しわがよって、
目は、
落ちこんでいましたが、かすかに
口のあたりへ、
笑いをうかべて、
「そうかいな、わしのいなかでは、
冬になると、みんな
頭巾をかぶるが。ああ、それで、おばけといったのかいな。」と、
力のない
声で、いいました。
「おばあさんきっとそうですよ。だから、かんにんしておやり。」と、
清吉は、かれのせいいっぱいのちえをしぼって、なぐさめました。
「そうだったかいな。」と、おばあさんはもう一
度しなびた
手で、
目のあたりをこすると、ふたたび、つえをつきつき、
腰をまげて、
歩きはじめました。
霜のとけかけた、ちかちかと
光る、
一筋の
道が、はるかかなたの、
煙突や、
木立の、
黒い
棒きれをたてたごとくかすむ、
地平線の
方へとのびていました。おばあさんは、どこまでいくのであろうか。その
道を、だんだんと
遠ざかってしまいました。
清吉はぼんやり、
一ところに
立って、そのあわれな
影を
見送ったのでした。
「
戦争が
悪いのだ!」
かれの
口から、しぜんに、この
言葉が、ついて
出ました。かれは、
空想にふけりながらあちこちと、
道を
曲がって
歩くうち、いつしか
電車の
通る、
幅の
広い
路へ
出たのでありました。
あの
夜、ここを
通ったのだ、かれは、
逃げた
日のことを
思い
出しました。
小さな
弟を
負っている
母に
手をひかれて、
燃え
狂う、
火に
追われながら、この
道を、
通ったのでした。
やはり、
町から
郊外へのがれる、
人々の
群れとまじって、
逃げたのでした。
「もう、ここまでくれば、だいじょうぶだ。」
小高い
丘のようなところへたどりつくと、みんなは、こういって
休みました。
一
方では、
火のむちで
打たれて、
狂うように、
烈しい
風が、
暗く、
青ざめた、
夜の
空を
苦しそうな
叫びをあげて、
吹いていました。
風は、すこしの
間、
一息いれると、その
後は、かえって、すさまじい
勢力をあらわしました。そのたびに、たんぼのむぎや、まわりにしげる
木立の
枝が、いまにもちぎれて、
闇の
中へさらわれそうにみもだえしたのです。
焼けくずれる
町では、
花火のごとく、
火の
粉が
高く
舞い
上がり、ぴかりぴかりとして、
凱歌を
上げるごとく、ほこらしげにおどっていました。
人々は、あちらの
木の
下に、
一かたまり、こちらのやぶ
蔭に、
一かたまり、いずれも
押しだまって、ただ
目だけを、
赤く
焼ける
町の
方へ
向けて、おそろしいありさまを
見守っていました。そのうちひとりが、ちがったところを
指すと、みんなが、その
方を
向きました。へびの
舌のように、
紅い
炎が、ちろちろと、
黒い
建物の
間から、
上がりはじめたばかりです。
と
思ううち、
見る
見るすそをひろげて、一
方の
火と
合し、たちまち、あたりは
火の
海となってしまいました。
「もう、さっきから、どれほど
焼けたろう。」
「さぞ、
人がたくさん
死んだろうな。」
こんな
話し
声がきこえました。
清吉は、いくらがまんしても、からだがふるえて、ぞくぞく
寒けがしました。かれは、こんないくじのないことでどうしようと、
自分をはげましました。
「おかあさん、あっちの
空をごらん。」と、とつぜん、
気を
転じようと、
清吉は、さけびました。
「どうしたの。」と、
母は、ききました。
「あそこに、
星が
出ているよ。」
そこだけが、いつもの
静かな
夜の
景色と、
変わりがなかったからです。そこだけを
見るなら、
地上で、いま、
町が
焼け、
人が
死んでいるということが、
信じられない
気がしました。
そして、このすさまじいあらしにも、
猛り
狂う
炎にも、
無関心でいられる
星の
世界が、あまりにも、ふしぎにみえたのです。
色とりどりの
星が、たがいに
仲よくして、たのしいことでもあるのか、ささやき
合うような、また、おどけて、まばたきをしたり、
目と
目でものをいったりしているようなのが、なんとなく、うらやましかったのでした。
自分たちも、
星の
都へいったら、おとうさんは、
戦争にいかなくてもよかったし、いつもみんなが、いっしょに
楽しく
暮らすことができたであろうにと
思いました。
ちょうど、
丘の
下は、
麦ばたけでした。ふさふさした
穂が、
風のために、
波打っていました。
「
坊や、なにしてるの。」
母の
背中で、
目をさました、
小さな
弟が、
頭といっしょにからだをゆり
動かしているのに
気づいて、
清吉は、
弟のほうをば、
見ました。すると
麦ばたけで、
破れがさをかぶって
手足をひろげた、
鳥追いのかかしが、
夜も
休まずに、
番をするのを、
弟が、まねているのでした。
「
人が、こんなに
心配しているのに、
坊やはわからないんだよ。」と、
母は、
目をふいていました。こうきくと、
清吉は、なんだか
弟が、かわいそうになりました。いたわってやらなければならぬと
思いました。
しだいに、
東の
空が、
黄色みをおびて、
夜明けが
近づいたのであります。この
時分から、どこか
小川のふちで
鳴く、かえるの
声が、
高く、しげくなりはじめて、さながら、
雨が
降る
音のように
絶え
間なくきこえてきました。
ひとり
去り、ふたり
去り、しのびやかに、
立ち
去る
人たちがつづきました。
清吉も、こうしているのが
心細くなって、
母親のたもとにつかまり、
「もう、
帰ろうよ。」といいました。
母は、いつまでも、
泣いていました。
「おまえ、
帰ろうって、どこへ
帰るの。もうお
家はないんだよ。」と、
母の
声は、
小さく、ふるえました。
「そう、だったか。」と、
清吉は
思った。そしてこのときほど、
自分の
母をいたましく、
感じたことは、なかったのでした。
「
義雄ちゃんのおじいさんが、
焼けたら、いつでもこいといったよ。ぼくは、なんでもして、これからおかあさんのおてつだいをするから。」と、かれは、
胸の
中が
熱くなって、
母を
元気づけようとしても、わずかに、これだけしかいえなかったのでした。
しかし、
母は、なんとも
答えず、いつまでも
泣いていました。かれは、これではならぬと
知って、
「おとうさんが、
帰れば、
新しい
家をこしらえてくれるよ。」と、つづけていいました。
しばらくすると、
母は、
泣きやんで、そでで
顔をふきながら、
「おまえがあるから、おかあさんは、もう、けっして
泣きませんよ。」と、
母は、いったのでした。
清吉は、あの
日のことを
思い
出しました。もしそうでなかったら、きょう、おばあさんをみても、なぐさめようとしなかったでしょう。
「ぼくは、もうおとななんだから
······。」
かれは、はりきった
気持ちで、
胸をそらし、
両足に
力を
入れて、
電車道を
歩いていったのでした。