目の
落ちくぼんだ、
鼻の
高い、
小西一
等兵と、四
角の
顔をした、ひげの
伸びている
岡田上等兵は、
草に
身を
埋ずめ
腹ばいになって
話をしていました。
見わたすかぎり、
草と
灌木の
生え
茂った
平原であります。
真っ
青な
空は、
奥底の
知れぬ
深さを
有していたし、
遙かの
地平線には、
砲煙とも
見まがうような
白い
雲がのぞいていました。もう
秋も
更けているのに、この
日の
雲は、さながら、
夏のある
日の
午後を
思わせたのであります。
「
故郷へ
帰ったようだな。」
ときどき、
思い
出したように、あちらから、
打ち
出す
銃声がきこえなかったなら、
戦地にいるということを
忘れるくらいでした。
「いやに
静かじゃないか。」
「
敵と
相対しているという
気がしない。
散歩にきて
臥転んで、
話しているような
気がする。」
「
見たまえ、
自然はきれいじゃないか。あの
花は、なんという
花かな。」と、
小西が、いいました。
「おれは、
草の
名というものをよく
知らないが、りんどうに
似ていないのかな。」
岡田は、そう
答えて、
自分もそこの
地上に
咲いている
花に
目をとめました。すると、どこかで、
細々と
虫の
鳴く
声がしたのです。
小西は、
頭を
上げると、
戦友の
顔を
見つめながら、
「
僕が
死んだら、
帰還したとき、
老母に
言伝をしてくれないか。」と、
真剣な
調子で、いいました。
「なに、おまえが
戦死して、このおれが
生きていたらというのか。」
「そうなんだ。」
「おまえが
死ねば、おれだって
死ぬだろうに
······、またどうして、そんなことを
考えたんだい。」
小西一
等兵は、
微笑しながら、
「
僕は、
画家なんだ。」
「そうか、
画描きさんなのか。」
「ここへくれば、そんな
職業のことなどはどうだっていいのだ。じつは、あれからもう二
年たつが、いつも
見慣れている、
自分の
住んでいた
町の
景色が、ばかに
昨日今日、
美しく
見えるじゃないか。それで、一
枚描こうかと
思って、
絵の
具を
買いに
出かけて、
帰ってみると
召集令がきていたんだ。ああ、それで
気がついたよ。
神さまが、一
生かかって
観察するだけのものを一
瞬間に
見せてくださったのだと、ところが、
今日僕にはこの
野原の
景色がたとえようなく
美しく
見えるのだ。
空の
色も、
雲の
姿も、また、この
紫色の
花も、
虫の
声までが、かつてこれほど
僕を
感激させたことはない。いまここにカンバスがあるなら、どんな
色でも
出し
得るような
気さえする。
しかし、これを
描く、
描かぬは
問題でなかろう。そして、この
際むしろ、
描くなんかということを
考えないほうがいいのだ。ただ、こうして、
自然の
裡にひたっていると、
僕には、
平時の十
年にも、二十
年にも
優るような
気がするのだ。いや、それよりも
長い
間、
生活してきたように
思える。それで、ふと
戦死ということが
頭に
浮かんだのだ。
僕が、
今日にも
戦死したら、あとに
残った
老母に、ただ
一言、
僕が、
勇敢に
戦って
死んだといって、
告げてもらいたかったのだ。
僕の
母親は、
子供の
時分から、
僕を
教育するのに、いつも、いかなる
場合でも、
卑怯なまねをしてはならぬといいきかせたものだ。
出征する
朝も、
神だなの
前にすわって、このことを
繰り
返していったのだ。
今日は
野原の
景色が、あまり
美しく
見えるので、ついこれからの
激戦に
花と
散るのでないか、と
思ったよ。」
だまって
聞いていた、
岡田上等兵は、あっはははと
快活に
笑った。
「なにも
心配するな。
万一、おれが、
武運つたなく
生きて
帰るとしたら、きっとお
母さんに
見たままを
言伝する。しかしなあ
小西、おれは、いつもこの
隊にいるものは、
生死を一つにすると
思っているのだ。そうとしか
考えられない。どちらが
先に、どちらが
後に
死ぬかわからぬが、おれも
生きて
帰るとは
考えていないぞ。」
「
生死だけは、
運命だからなあ。」
感じやすい、
清らかな
目つきをしている
小西は、
空を
見上げて
答えました。
この
話が、わずか、三
分間か、五
分間にしか
過ぎなかったけれど、
二人には、たいへんに
長い
時間を
費やしたごとく
思われました。
「
君は、
芸術家だが、おれは
工場で
働いていた
職工なんだ。だからおれの
口から
人生観などと、しゃれたことをいうのはおかしいが、
人間の
社会は、
組み
立てられた
機械のようなものだと
信じているのさ。」
「わかるような
気がするよ。」
小西は、うなずきました。
岡田は、
言葉をつづけて、
「おれも、
出征する
十日ばかり
前のことだった。
平常からかわいがっていたくりの
木がある。
秋になっておはぐろ
色に
実るのを
楽しみにしていたのに、このごろたくさんありが
上がったり、
下がったりして、とうとう
枯れ
枝をつくってしまった。それで、ありの
上がれないようにと、
綿で
幹を
巻いたのだ。
最初はありのやつめ、
綿に
足をとられて、
困っていたが、そのうちに
平気でそれを
乗り
越えて
下から
上がっていくもの、
上から、
小粒な
透きとおる
蜜液を
抱いて
下りてくるもの、
綿の
障害物などほとんど
問題でないのだ。おれは、しゃくにさわったから、
熱湯をわかして、かけてやったが、
支那兵と
同じくその
数は
無限なのだ。そこはありのほうが
勇敢で、
友の
屍の
上を
乗り
越えて、
目的に
向かって
前進をつづけるというふうで、この
無抵抗の
抵抗には、こちらが、かえって
根負けをしてしまったよ。そのとき、
感じたんだ。この
小さな
虫ですらが、
種族全体の
幸福のためには、
自分の
死をなんとも
思わないこと、その
有り
様を
見て、
驚かざるを
得なかったのだ。」
「
学ぶべきことかもしれないな。」
「いや、
大いに
学ぶべきことだよ。
見たまえ、こんなところにもありがいるじゃないか。ほかの
生物は
生存競争に
滅びても、
協力生活をするありの
種族だけは
栄えるのだ、
世界じゅうどこでも、ありのいないところはないだろう。」
「
僕も、そんなことをなにかの
本で
見た
覚えがある。」
「
君が、
花を
見て
考えていたときに、
僕は、またありのごとく
屍を
乗り
越えて、
突進する
自分の
姿を
空想していたのだな。それで、
君が
先に
死んだら、おれは
骨壺を
負っていってやるぞ。」
「どうか、そうしてくれ。」
突如として、このとき、
耳をつんざくような
砲声が、
間近でしました。
短く、また
長かった、
二人の
夢が
破れたのです。
「
前進。」
つづいて
号令が、かかった。
終日、
風の
音と、
雨の
音と、まれに
鳥の
声しかしなかった
平原が、たちまちの
間に、
草の
木も
根こそぎにされて、
寸々にちぎられ、
空へ
吹き
飛ばされるような
大事件が
持ち
上がりました。
大地をゆるがす
砲車のきしりと、ビュン、ビュンと
絶え
間なく
空中に
尾を
引くような
銃弾の
音と、あらしのごとくそばを
過ぎて、いつしか
遠ざかる
馬蹄のひびきとで、
平原の
静寂は
破られ、そこに
生えている
紫の
花と
白い
花とは、
思わず、
恐怖にふるえながら、
顔を
見合ってささやいたのでした。
「なにが
起こったのでしょう。」
「
暴風雨がやってきたともちがいますね。」
ここに
生えている
木や、
草たちは、ほんとうに
雷鳴と、
暴風雨よりほかに
怖ろしいものが、この
宇宙に
存在することを
知らなかったのでした。
「やはり、
暴風雨でしょうね。いまにちょうが
飛んできたら
聞いてみましょう。」
いつも、
暮れ
方の
陽が、
斜めにここへ
射すころ、
淡紅色の
小さなちょうがどこからともなく
飛んできて、
花の
上へ
止まるのでした。
花たちは、そのちょうのくるのを
待っているのであるが、
今日にかぎってちょうは、どうしたのか、
姿を
見せなかったのです。まったく
日が
暮れかかると、
平原は、
静けさをとりもどしました。けれど、
四辺には、なまぐさい
風が
吹いて、
月の
光は、
血を
浴びたように
赤かったのでした。
先刻二人の
兵士が、
腹ばいになって、
話をしていた
場所から、さらに
前方、三百メートルぐらい
距たったところで、
「
小西、
小西······。」
こう
闇の
中で
友の
名を
呼びながら、
戦友を
探しているのは、
岡田上等兵でした。
そのうち、
彼は、
足もとに
横たわっている
屍骸につまずいて
危うく
倒れかかったが、
踏みとどまって、
月の
光でその
顔をのぞくと、
打たれたごとく、びっくりして、
「おい、
小西じゃないか、やはりやられたのか。」
彼は、ひざまずくと、
戦友の
屍を
膝の
上に
抱き
上げて、
「おまえのいったことは、やはり
虫の
知らせだったな。とうとうやられたのか。しかしおれも、
思うぞんぶん
敵を
討って、すぐ
後からいくぞ。
今夜だけさびしいだろうが、
一人でここにいてくれ。
明日の
朝は、かならず
迎えにくるから。」
岡田上等兵は、
月光の
下に
立って、
戦死した
友に
向かって、
合掌しました。
彼は、
足もとに
茂っている
草花を
手当たりしだいに
手折っては、
武装した
戦友の
体の
上にかけていました。そして、
味方の
陣営に
向かって、いきかけたのであるが、またなにを
思ったか、
引き
返してきて、
戦友の
腕についている
時計のゆるんだねじを
巻きました。
彼は、
指先を
動かしながら、
「さびしくないように、
小西、
時計のねじを
巻いておくぞ。
今夜一晩、この
音をきいていてくれ
······。」
岡田上等兵は、なんといっても
答えがなく、
安らかに
眠る
友の
顔を
見つめて、
熱い
涙をふきながら、しばらく
別れを
惜しんでいました。
その
後、
彼は、かつての
約束を
守って、
戦友の
骨壺を
負い、
前線から、また
前線へと
野を
越え、
河を
渡って、
進撃をつづけているのでありました。