龍夫と
源吉の
二人は、
仲のいい
友だちでした、
二人は、
台風が
大好きなのでした。
「
源ちゃん、また
台風がくるって、ラジオでいったよ。いつくるかなあ、きょうの
晩くるかもしれない。いまごろ二十キロの
速さで、
海の
上を
吹いているんだね、すごいだろうな。」
彼は、
雨と
風の
荒れ
狂う
渺茫たる
海原を
想像して
感歎の
声を
放ちました。
龍夫の
父親は、
南洋の
会社に
勤めていて、その
地で
病死したのです。なんでも
臨終のさいまで、もう一
度故国へ
帰りたいといっていたことが、
会社の
友だちの
便りで
知らされると、
「きっと、お
父さんの
魂は、
風に
乗って
帰ってきなさるだろう。」と、
龍夫の
母親は、いいました。
彼の
耳には、いつまでもその
言葉が、
消えずに
残っていました。それで、
台風の
日には、かならず
父親の
魂が、
飛ぶ
雲と
風に
乗ってくるものと
信じていました。
「
台風は
生きているってね。」
「ああ、
僕の
兄さんもそういっていた。」
「
風が、ほんとうに
生きているのかしらん。」
「
目もあるし、
口もあるし、
尾もあるというから、
生きているのさ。」
源吉が、こういうと、
龍夫は、
喜ばしげに
目を
輝かして、
「
口もあるの?」と、ききかえしました。
「
口は
知らんけれど、
目があって、
尾があるって、たしかに
兄さんがいっていた。」
「そんなことうそさ、
暖かい
空気と
冷たい
空気の
作用で
台風ができるんだと、
学校の
先生がいっていたよ。」
「だって、
不思議じゃないか。」
「それは、
不思議だ。」
二人の
子供は、このとき、いいあわしたように、
空を
仰いで、
乱れて
飛ぶ
雲の
影を
見つめたのでした。
源吉が、
台風を
好きになったのは、このほかにわけがあります。お
宮の
鳥居のかたわらにあった、
高い
松の
木にかかっている
枯れ
枝や、くもの
巣がきれいに
洗い
去られて、すがすがしくなるからであり、
人間の
手のとどかない
高いところのちりや、
煤煙のよごれがみんな
取られて、
清らかにされるからであり、また、いつ
見ても
気持ちの
悪くなる
腐れかかったブリキの、
老いぼれた
看板が、一
夜のうちに、どこへか
飛んでしまい、そして、いつもごみばかりの
川には、
滔々として
急流がうなり、なみなみと
水があふれて、そのうえ、いろんなものが、
後から
後から
流れてくるからでした。
いつであったか、
源吉と
龍夫の
二人が、
豪雨の
後のこと、いまにもギイギイと
鳴って、
水勢のために
押し
流されそうな
橋のたもとで、
水面を
見つめていると、いくつも
赤いトマトが
浮きつ
沈みつしてきました。
二人は、このダンスでもするように、おもしろそうに
流れていく、トマトに
気を
取られていると、こんどは
人間の
頭ほどのかぼちゃが
流れてきました。つづいて
見当のつかぬ
妙なものが
······それは、
近づくと
大きな
竹かごだとわかったのでした。
「おや、どこかの
八百屋から
流れてきたんだよ。」
「きっと、
川ぶちの
八百屋に
水が
上がったんだ。」
そのうちにこんどは、おけが
流れてきました。いったいどこの
町の
八百屋だろうと
思っていると、あちらから、
自転車に
乗って、
八百屋の
主人らしい
男が、なにか
叫びながら、おけを
拾おうとして、
追いかけてきました。けれど
橋のところまでくると
立ち
止まって、ただ
見ているだけで、どうすることもできなかったのです。
「
釣り
堀の
金魚やこいが
流されたろう。
水が
引いたら
田圃へいってみようよ。」
龍夫は、
急に
楽しそうに、いいました。そして、
「また、
台風がこないかな。」といいました。
「
昨日、きたばかりじゃないか。」
「すぐ
後へ
台風の
卵ができたって。」
「
君、そんなに
台風が
好きかい。」
「
僕のお
父さんがくるんだもの、
昨夜も、いまごろお
父さんが、お
通りだといって、お
母さんは、お
仏壇に
燈火をあげられた。
僕も、
死んだら
台風になるよ。」
「
君、そうしたら、
僕の
家の
頭の
上を
通るだろう。」
「ああ、きっと
通るよ。そのときは、
君、
見ておいで!」
「あはは
······。」と、
二人は、
声をたてて
笑いました。
そんな
冗談をいった
龍夫は、その
年の
秋の
末、
寒くなろうとするおり、
急性肺炎にかかって、ほんとうに
死んでしまいました。
一
年は、
刻々と
時計の
針の
進むごとく、また、いつしか
季節がめぐってきた。
ラジオは、
天気予報の
時間に、
台風の
近づいたことを
警告していました。
源吉は、
龍夫のいた
時分のことを
思い
出した。なんで
彼のいったことを
忘れよう。
前ぶれとして、いつものごとく、
驟雨がやってきました。それは、
銀の
細引きのように
太い
雨が
降り
注ぎました。
破れたといからは、
滝津瀬と
水が
落ちました。
屋根の
上は
風のためにしぶきをあげているし、
木々の
大枝がもまれにもまれています。
「
愉快だな。」
源吉は、じっとしていられなくなって、
小降りになるのを
待ち、
雨マントをかぶって
外へ
出ました。
「
川の
水が、
去年のようにいっぱいになったろう。」
彼は、
龍夫といっしょに
立ってながめた、
橋の
方へいこうとしました。ちょうど
役所の
退けごろで、
雨の
中を
人々が
往来しています。しかし
老人の
顔は、たいてい
曇っていました。
「また
出水するだろう、それで、
床板をぬらすし、
病気は
出るし、
作物にはよくないだろう。」
こう
考えるのは、
当然のことでした。しかし
若いものは、
元気よく
見られました。
男も、
女も、なんの
屈託もなさそうな
顔つきをしています。むしろ、たまには、これくらいの
苦しい
経験をするほうが
身の
薬だと
喜ぶようにさえいきいきとしていました。なかにも
小さな
子供たちは、
世の
中がたちまち
変わったような
気がして、はだしで
飛び
出して、ざぶざぶと
小川となった
往来をふみわけていました。
「いつも、こんなように、ここへ
川が
流れているといいんだね。」
また
一人の
子は、
赤い
糸を
濁った
水の
中に
流して、
炎のごとく、へびのように、ちらちらするのをおもしろがって
見ていました。ふだんなら、ここを
自転車や、
自動車が
通って、
夢にもこんな
遊びがされるとは
思われなかったのです。まったく
台風のおかげでした。なんでも
新しく、
珍しく、
元気のいいことが、
子供にとってうれしかったのでした。
夕刻のラジオは、いよいよ
夜になると、
風速三十メートルに
達するであろうというのです。
「
兄さん、いま
原っぱに
建てかけている
家が、
飛ぶかもしれないね。」
源吉は、
風の
音をききながら、
新聞を
見ていた
兄に
話しかけました。
「そんな
家は
飛んでしまうだろう。この
家の
屋根だって
飛ぶかもしれないぞ。」
「
風速三十メートルって、どんなかな。」
「
白瀬大尉や、アムンゼンや、シャツルトンらの
探検した
南極や、
北極には、いつも三十メートル
以上の
暴風が
吹いているそうだ。その
氷原へ
探検隊は、
自分たちの
国旗をたてたんだ。すると
旗が、すぐにちぎれたというから、それだけでも
風の
烈しさがわかるのだ。」
オーロラの
怪光が
彩る
北極、ペンギン
鳥のいる
南極、そこは、ふだん
人間の
住む
影を
見ない。ただ
真っ
白な
荒寥とした
鉛色に
光る
氷の
波濤が
起伏していて
昼夜の
区別なく、
春夏秋冬なく、ひっきりなしに
暴風の
吹いている
光景が
目に
浮かぶのでした。
「
生きているのは、
台風だけでない。この
世界が
生きているのだ!」と、
源吉は、
心で
叫びました。
果たして、
真夜中のこと、ぶつかる
風のために、
家がぐらぐらと
地震のように
揺れるのでした。
風は
東南から、
吹きつけるのでした。
電燈は二、三
度明滅したが、
線が
切断されたとみえて、まったく
消えてしまった。
裏の
大きな
桜と、かしの
木のほえる
音が、
闇のうちで
死にもの
狂いに
戦っている
獣のうなり
声を
想像させました。
「いま
台風は、
僕の
家の
上を
通りかけるのだ。
龍夫くんがくるだろう。」
源吉は、
風の
比較的当たらない、
北窓の
戸を
開けて
空を
仰ぐと、
地球が
動くように、
黒雲がぐんぐんと
流れている。けれど、またところどころに
雲切れがしていて、そこからは、ほの
白く
光がもれるのでありました。
「
龍夫ちゃん!」
源吉は、
出るだけの
声を
張りあげて
叫んだ。その
声も、
暴風に
消されて、ほかの
人間の
耳には
入らなかった。そして、
窓から
差し
出した
紙の
旗は、たちまち
雨に
破り
飛ばされて、
竹の
棒だけが
手に
残ったのでした。
「きっと
龍夫ちゃんが、
持っていったんだ。」
そう
思うと、
不思議や
暗い
空に
大きな
穴が
開いて、
星の
光が、
幾つか、ダイヤモンドのごとくかがやきました。
「
龍夫ちゃん。」
もう一
度、
彼は、
星に
向かって
叫んだのでした。
風ばかりでなく、
星も、
雲も、ことごとく
生きていました。そして、ひとすじの
細い
光線が、
空から
胸へ
突きさしたごとく
感じて、
真心さえあれば、
龍夫が
死んだお
父さんにあえたであろうように、
源吉はいつでも
台風の
日には
龍夫にあえると
信じたのでした。
台風の
過ぎた、
翌日の
朝の
空色は、いつもよりかもっと、もっときれいでした。
源吉は、
茫然と
台風の
去っていった
跡の、はるかの
地平線をながめていると、
緑色の
空から、
龍夫が、にっこりと
笑って、
「これから、
僕は、お
父さんと
地球を一
周して、さんご
樹のしげった
南の
島へ
帰るのだ。
源ちゃん、
僕たちの
住んでいる、
南の
方へ、
君もやっておいでよ。」
こういっているごとく、
思われたのでした。