昔の
人は、
月日を
流れる
水にたとえましたが、まことに、ひとときもとどまることなく、いずくへか
去ってしまうものです。そして、その
間に
人々は、
喜んだり、
悲しんだりするが、しんけんなのは、そのときだけであって、やがて、そのことも
忘れてしまいます。
この
話も、
後になれば、
迷信としか、
考えられなくなるときがあるでしょう。
* * * * *
わたしの
兄は、
音楽が
好きで、
自分でもハーモニカを
吹きました。
海辺へいっては
砂の
上へ
腰をおろして、
緑色のあわ
立ちかえる
海原をながめながら、
心ゆくまで
鳴らしたものでした。
無心で
吹くこともあったし、また、はてしない
遠くをあこがれたこともあったでしょう。それは、
夕日が
花のごとく、
美しくもえるときばかりでありません。
灰色の
雲が、ものすごく
低く
飛び、あらしの
叫ぶ
日もありました。
「
正ちゃん、この
海の
合奏は、ベートーベンのオーケストラに、まさるともおとらないよ。
人間が、いくらまねようたって、
自然の
音楽には、かなわないからね。」と、
兄は、いいました。
戦争が、だんだん
大きくなって、ついに、
兄のところへも
召集令がきました。わたしは、その
日を
忘れることができません。いままで、たのしかった、
家の
中は、たちまち
笑いが
消えてしまって、
兄は、
自分の
本箱や、
机のひきだしを、
片づけはじめました。
「いけば、いつ
帰るかわからないから、ハーモニカを
正ちゃんに、あずかってもらうかな。」
こうきくと、わたしは、
兄の
気持ちを
考えて、しぜんと
涙がわきました。
「にいさんが、
帰るまで、なんでも、そのままにしておくよ。」
「いや、もっと
戦争が、はげしくなれば、この
家だって、どうなるかしれんものね。」
兄は、
無事で
帰れたなら、また
勉強をはじめるつもりだったのでしょう。
英語の
辞書も、いっしょに
渡しました。
しかし、
兄は、それぎり
帰ってきませんでした。
兄の
船は、
南方へいったといううわさでしたが、
出発後、なんのたよりもなかったのです。
わたしは、
海辺に
立って、はるかな
水平線をながめて、ハーモニカを
吹きました。
入り
日の
前の
空に、さんらんとして、
金色のししのたてがみのような
雲や、また、まっ
赤な
花のような
雲が、
絵模様のように、
飛ぶことがありました。
兄は、こんなようなたそがれが、
大好きであったと
思うと、いまごろ、どこかの
島で、この
空を
見てるのでなかろうかと、ひとりでに、
目の
中のくもることがありました。わたしは、せめて、この
真心の、
兄に
通ずるようにと、ハーモニカを
吹いたのでした。
また、あらしの
日にも、
兄のしたごとく、
浜辺へ
出て、
鳴らしました。しかし、
兄のハーモニカが、ここにありながら、それを
愛する
兄の、いないということは、
考えるとさびしいかぎりでした。
その
翌年の
夏には、
公報こそ
入らなかったけれど、
兄の
戦死は、ほぼ
確実なものとなりました。
ある
日、わたしは、
波打ちぎわで、
清ちゃんと
遊んでいました。
「
波は、
生きているよ。」と、
清ちゃんが、いったので、わたしは、
「
生きているって、たましいがあるというの。」と、ききかえしました。
「うそと
思うなら、
石を
投げてごらん。
怒って、
大きくなるから。」と、
清ちゃんは、ふしぎなことをいうのです。
わたしは、
石をひろって
投げました。つづいて、
清ちゃんが、なげました。ふたりのすることを、せせら
笑って
見ていた、
白い
波が、だんだん
高く
頭をもたげて、
急にふたりの
足もとをおそいました。
「ほら、おこった!」と、
清ちゃんが、
叫びました。
わたしは、むちゅうになって、
石をひろっては、できるだけ
沖へ
近づいて
投げると、もくら、もくらと、
海はふくれ
上がり、
大波が、わたしの
足をさらおうと、やってきたので、あわてて
逃げました。そのとき、
砂の
上へおいたハーモニカを
持っていってしまいました。
わたしは、
波が、またハーモニカを
返してくれはしまいかと、しばらく
立って、
待っていたが、それは、ついにむだでした。
月の
明るい
晩でした。わたしは、
窓に
腰をかけて、どこかで
鳴く
虫の、かすかな
声をきいていました。
秋の
近づくのを
感じたのでした。すると、たちまち、ハーモニカの
音がしたのでした。
「あれは、だれがふいているのだろう。」と、こんどは、そのほうへ
気をとられました。
吹いている
人は、
歩いているのか、その
音は、
近くなったり、
遠くなったりしました。
「にいさんじゃないか。」と、わたしは、
立ち
上がりました。あまり、しらべが、よくにていたからです。
外へ
出てみようとするうちに、ハーモニカの
音は、やんでしまいました。
まだ、そのうたがいの
解けぬ、二、三
日後のことです。わたしは、
赤く
夕日が、
海へ
沈むのをながめていました。すると、うしろの
砂山のあたりで、ハーモニカの
音がしました。その
吹き
方が、
兄そっくりなので、わたしは、はっとして、このときばかりは、
全身があつくなりました。
「だれだか、
見てやろう。」
ただ、むやみとそのほうへ、
足にまかせて、かけ
出したが、いつしか、
音も
消えれば、さっきまで、ちらほらしていた、
人影まで、どこへやら
去って、
見えなくなったのです。
わたしは、
家に
帰って、このことを
母に
話しました。
「それは、
気のせいです。あまりおまえが、にいさんを
思うから。」と、
母は、いいました。
しかし、わたしは、
気のせいだとは、
信じられませんでした。けれど、それ
以上いい
張ることは、できませんでした。ところが、なんとおどろくことには、こんどはうず
巻く
波の
中から、
兄の
吹く、ハーモニカのしらべがきこえたのです。わたしは、さっそく、
清ちゃんを
呼んできました。
清ちゃんは、いつになく、まじめくさって、
耳をすましました。
「きっと、
正ちゃんのなくした、ハーモニカをお
魚が、
小さな
口で
吹いているんでないか。」といいました。
その
後も、わたしは、ひとりなぎさに
立って、ぼんやりと
海をながめることがありました。あるとき、
知らない
男の
人が、わたしのそばに
立って、じっと
沖の
方をながめていました。
顔の
色は、
日にやけて
黒く、その
目は、とび
出ているようで、いくらか、こわい
気がしました。お
寺へいくと、よくこんな
形をした、
木像の
仏さまがあるのを、わたしは
思い
出しました。こちらが、やさしくものをいったら、
怒りはしないだろうと、
考えたので、
「おじさんは、なにを
見ているの。」と、ききました。すると、
怒るどころか、うちとけて、わたしを
見ながら、
「あちらの
島に、まだ
残っている、
戦友のことを
思っていたんだよ。」と、その
人は、
答えました。
「まだ、かえらないの。」
「
土の
中で
眠って、
永久に
帰らないのさ。」
「おじさんは、いつ
復員したの。」
わたしは、すぐに
兄のことを
思い
出さずにいられませんでした。
「まだ、
一月ばかりにしかならない。いくら
苦しんでも、こうして、
帰られたものは、しあわせだが、いつまでたっても、もどらない
戦友はかわいそうだ。」
これをきくと、わたしは、
情け
深い
人だと
思ったから、
「おじさん、ぼくの
兄も
戦死したんです。」といいました。
「やはり、そうか。」と、
急に
暗い
顔になって、うなずきました。いつか、ふたりは、ならび
合って、
砂の
上に
腰をおろし、
海の
方を
向いていました。
「ぼく、いつも、ここに
立って、にいさんを
思うんですよ。」と、わたしが、いうと、その
人は、
目を
足もとへ
落として、やはりうなずくばかりでした。
「
人間は
死んでも、
霊魂は、
生きているのではない?」と、わたしは、ふしぎなハーモニカの
音から、おじさんに、こうたずねたのでした。あるいは、
戦地にあって、それを
経験したとも、かぎらないと
思ったからです。おじさんは、しばらく、なにか
考えているようなようすだったが、やがて、
顔を
上げると、
「それについて、ふしぎなことがある。」といいました。
「ふしぎなことって、どんなこと。」
「ゆうれいとでも、いうんだろうな。」
「えっ。」と、わたしは、びっくりしました。
このとき、つめたい
風が、
海の
上から、さっと
陸へ
向かって、
走ったように
感じました。
おじさんは、
口を
開きました。
「
前線へ、
伝令にいった
兵士が、
帰りの
山の
中で
道を
迷ってしまった。
困っていると、ふいにくつ
音がしたので、まさしく、
敵に
出会ったと、
身がまえすると、
思いがけない、
親友だったので、二
度びっくりした。あまりおそいので、こんなことではないかと
迎えにきたよ。さあ、
暗くならぬうち、
早くいこうと、
戦友は、
先に
立って、よくこんな
道を
知っているなと
思うようなところを
歩いた。だが、かれはこのあいだの
戦争で
死んだのではなかったかと
気がついたので、
休んだら
聞こうと
思っているうち、その
姿を
見失ってしまった。それと
同時に、ふもとの
方で、
軍馬のいななきをきいたというのだ。」と、おじさんは、
話しました。
「
霊魂が、
親友を
救ったのですね。」と、わたしは、その
話に
感動したのでした。そして、わたしは、
兄の
吹く、ハーモニカの
音が、このごろ、たびたびきこえると、いいますと、
「きっと、きみのにいさんは、
家のことを
思っていられるのだろう。」と、おじさんは、
答えました。
「そうしたら、どうすればいいの。」と、わたしは、ききました。
「せいぜい、にいさんの
好きなことをしてあげて、
霊魂をなぐさめるんだね。」と、おじさんは、いいました。
そのことを、わたしに
教えてくれた、おじさんは、どうしたのか、その
後ふたたび
見ることができませんでした。
わたしの
兄は、なにより
平和を
愛しました。だから、
音楽がすきでした。わたしは、
父にねがって、
兄のもっていたのと、
同じハーモニカを
買ってもらいました。そして、それを
吹くときには、かならず、
兄の
気持ちになろうとしました。
わたしの
兄は、
自然を
愛したし、また、だれに
対してもしんせつで、なにをするにも、やさしみの
心をもっていました。
わたしは、
海岸へいくと、まず、
兄のしたごとく、
砂の
上へ
腰をおろしました。そして、ハーモニカを
吹きました。このとき、
空を
飛ぶ
雲、
打ちよせる
波、しきりと
顔へあたる
風、ともどもに、
申し
合わせたごとくたたずんで、
「ききおぼえのある、なつかしい
音だ。」と、いっているようでした。
わたしは、ますます、
兄の
目、
兄の
心をもってきました。すると、かれらは、
「あれを
吹くのは、
弟か、
兄そっくりじゃないか。また、この
浜辺へも、
昔のような
平和が、やってきたな。」と、ささやき
合っているのです。
わたしの
真心で、
兄のたましいも、はじめて、なぐさめられたものか、ふしぎなハーモニカの
音も、それ
以来しなくなったのでありました。