弟妹の
多い、
貧しい
家に
育ったお
竹は、
大きくなると、よそに
出て
働かなければなりませんでした。
日ごろ、
親しくした、
近所のおじいさんは、かの
女に
向かって、
「おまえさんは、やさしいし、
正直であるし、それに、
子供が
好きだから、どこへいってもかわいがられるだろう。うらおもてがあったり、じゃけんだったりすると、きらわれて
出世の
見込みがないものだ。
東京へいったら、からだを
大事にして、よく
働きなさい。」と、
希望のある
言葉を
与えてくれました。
方々で
桜の
花の
咲きはじめたころでした。お
竹は、
故郷に
別れを
告げたのであります。
もう、こちらへきてから、だいぶ
日数がたちました。かの
女は、
朝早く
起きると、
食事の
仕度をし、それが
終わると、
主人のくつをみがき、また
縁側をふいたりするのでした。
奥さまのへやには、
大きな
鏡がおいてありました。そうじをするときには、
自分の
姿が、その
氷のように
冷たく
光るガラスの
面にうつるので、つい
知らず、
手を
頭へやって、
髪形を
直したのです。
あちらで、それを
見た
奥さまは、
女はだれでも、
鏡があれば、しぜんに
自分の
姿を
写して
見るのが、
本能ということを
知らなそうに、
「ひまなときは、いつでもここへきてお
化粧をして、いいんですよ。」と、わざとらしく、お
竹に、いいました。
お
竹は、さもとがめられたように
顔を
赤くして、なんと
返事をしていいかわからず、ただ、
下を
向きながら
仕事をするばかりでした。
奥さまは、つづけて、いいました。
「
前のねえやは、それは、
顔もよかったし、
気がきいて、
役にたつ
子でしたが、
器量がご
自慢なので、ひまさえあれば、
鏡に
向かって、ほお
紅をつけたり、おしろいはけでたたいたりするので、なにもお
嬢さんじゃなし、パンパンでもあるまいから、
気の
毒だけれど、いってもらったんですよ。」と、さも、おかしいことを
話すように
奥さまは、
笑ったのでした。
あまり、その
調子がくだけていて、
自分に
対する
皮肉とはとれなかったので、お
竹は、
前にいた
女中のことだけに、ついつりこまれて、
「そんなに、きれいな
方なんですか。」と、
奥さまの
方を
見て、たずねました。
しかし、
奥さまのようすは、さっきの
笑いとは
似つかず、
冷ややかでした。
「ええ、それは、
顔がきれいなばかりでなく、お
料理だって、なんでもできたんです。」と、そっけなく
答えた、
奥さまの
言葉には、おまえのような、
田舎出とちがうという、さげすみの
意味があらわれていました。
さすがに、
人のいうことを、まっすぐにしか
解しなかったお
竹も、
底意地のわるい、
奥さまのいい
方がわかって、もうなにもいうことができませんでした。しかし、そこを
立ち
去りがけに、
自分の
顔は、そんなにみにくいのであるかと、つい
鏡の
方を
見向かずにいられませんでした。
あわれなかの
女には、まだ
台所でたくさん
仕事が
待っていました。それをかかえると、かの
女は、
外の
井戸端へいきました。
田舎にいたときのことなど
思い
出しながら、せわしそうに、ポンプで
水を
汲み
上げ、たらいの
中で
手を
動かしたのです。
そこへ、
隣の
奥さんが、バケツを
下げてきました。お
竹は、あわてて、たらいを
片すみへ
押しのけようとしました。
「ああ。いいんですよ、そうしておいてください。
私は、
水を一
杯いただけば、いいんですから。あなたは、よくご
精がでますわ。」と、その
奥さまは、じょさいがなかったのでした。
自分の
心に、まじりけがなかったから、こうやさしくいわれると、お
竹は、この
奥さんのほうが、うちの
奥さまより、よっぽど、いい
人のように
思いました。そして、すぐ、
打ちとける
気になったのです。
「
前のお
女中さんは、たいへんきれいな
方だって、そうですか。」と、かの
女は、
耳まで
赤くしながら、ぶしつけに
聞きました。
奥さんは、びっくりしたふうもせず、
「ふつうではありませんか。あの
方は、ここはお
給金が
安いから、といっていましたが。」と、
答えました。
その
後、まもなく、お
竹が、
口入れ
屋の
世話で、ある
私立病院の
病室にいた、
子供の
付き
添いとなったのも、どうせ
勤めるなら、すこしでも
国へ
送るのにお
金の
多いほうがいいと
思ったからでした。
外から
見ると、
宏壮な
洋館造りの
病院でしたけれど、ひとたび
病棟に
入ったら、どのへやにも、
青白い
顔をして、
目の
落ち
込んだ
病人が、
床の
上で
仰臥するもの、すわってうめくもの、
笑い
声ひとつしなければ、
長い
廊下を
歩く
足音ぐらいのものでした。あのいきいきとしたにぎやかな
町からきたものには、まったく
別の
世界であるとしか
感じられなかったのです。いわば、ここは、
病人だけがいるところであり、
健康なもののじっとして、いられるところではありませんでした。
「ああ、いくらお
金になっても、
私のくるところでなかった。これにくらべれば、たとえ
口やかましい
奥さまの
家でも、がまんできたのに。」と、お
竹は、ぼんやりとして
後悔にくれたのです。
「ねえ、おねえちゃん、なにを
考えているの。なにかおもしろいお
話を
聞かしてくれない。」と、そばにねている
少年は
弱々しい
声で、
人なつこくいいました。
もう、
長く
入院しているので、
少年はやせて、
年よりも
幼く
見えるので、かの
女には、いじらしかったのでした。
「
坊ちゃん、さびしいの。」と、お
竹は
顔を
寄せるようにして、
聞きました。
「もう、おねえちゃんがいるから、ぼく、さびしくないよ。」と、
少年は、さもはずかしそうにして
答えたのです。
「
私は、
坊ちゃんが、よくおなおりなさるまで、どこへもいきませんよ。」
こういうと、
少年は、
脊椎カリエスで、とうてい
助かる
見込みがないと、
回診の
医者はいっていました。
同じ
場所で、おとなにも
気の
毒な
患者がいました。
別に
付き
添いがいないので、
不自由するのを
見ると、お
竹は、そんな
人には、できるだけのしんせつをしたのでした。
便所へつれていったり、また
夜中にまくらの
氷をとりかえてやったりしました。なかには、
「じょうぶなときとちがい、こんなからだになって、ひとさまから、やさしくしてもらいますと、ありがたくて、ほんとうに
恩にきますよ。」と、
手を
合わさんばかりにするものもありました。こういわれると、
日ごろ
気立てのやさしいお
竹は、
自分のできることは、どんなことでも、してやらなければならぬという
気持ちになるのでした。
ある
日のこと、
古くから、この
病院へ
出入りして、
炊事婦や
看護婦と、
顔見知りという
老婆が、ふいに、お
竹のもとへやってきて、
前に
約束があるのだから、
少年の
付き
添いを
代わってもらいたいといいました。
「だしぬけで、お
気の
毒ですけれど、ほんとをいうと、あんたのような、
若い、きれいな
方は、こんなところにいるものでありませんよ。どんないいお
屋敷でも、また、キャバレーでも、おもしろくて、お
金になるところがいくらもあるではありませんか。
私のような、おいぼれは、いくところがないから、しかたなしにこんな
薬くさい、
陰気なところにいるけれど、
私だって、
若ければ、一
日だってがまんできやしない。」と、
老婆は、もっともらしくまくしたてました。
けれど、お
竹は、
少年がなんというだろうかと、その
方を
見ましたが、
老婆とは、かねて
知り
合いとみえて、だまっていたので、いまさらこの
病院に
未練のあるはずがなし、その
日のうちに、
暇をとって
出ることにしました。
かの
女は、
老婆が、
自分を
美しいといったのが、いつまでも
頭にあって、けっして、わるい
気がしませんでした。また
口入れ
屋へいくにしても、
髪形がきれいであれば、いっそう、いいところへ
世話をしてくれるにちがいないと
考えて、かねて、一
度入ってみたいと
思った、
美容院を
歩きながらさがしました。
たまたまあった、
美容院の
扉を
押して
内へ
入ると、
室内は、いい
香りがただよい、
花の
乱れるように、
美しい
娘たちが、あふれるばかり
集まっていました。かの
女は、
顔がぼうっとしたが、だんだん、おちつくと、ひとりひとりの、
美しい
顔を
見たのでありました。そして、
心ひそかに、
「さっきまでいた
病院と、こことのありさまは、なんというちがいだろう。」と、つぶやかずにいられませんでした。
そのとき、
季節はずれの、
大きな
黒いちょうが、どこから
迷いこんだものか、ガラス
窓につき
当たって、しきりと、
出口をさがしていました。
「かわいそうに、
花園と
思って、
香水や、
電気にだまされたんだわ。」
かの
女は、まだ
自分が、ちょうど、そのちょうであることに
気がつきませんでした。
思いのほか、
電髪に
手間どられて、
外へ
出たときは、いつしか
西の
方の
空が、わずかに
淡紅色をして、
日が
暮れていました。
平常、むだづかいをせずにためていた
金があるので、これから、
宿屋で
泊まろうと、すでに
顔なじみの
口入れ
屋へいこうと、その
心配はないけれど、さすがに
心細く
思いました。
病院で、
少年に
田舎の
話をしたら、
「ぼくは、そんなほたるが
飛んでいたり、
魚の
釣れる
川のあるところが
大好きだ。なぜ、おねえちゃんは、こんなやかましい
町の
中が
好きなの。」と、ふしぎそうにいったことなど、
思い
出されました。やがて、
大通りへ
出ようとすると、
路地の
片すみに、ちょうちんをつけた、
易者のいるのが、
目に
入りました。
そのちょうちんには、
手相、
身の
上判断と
書いてありました。かの
女は、それを
見ると、
同じ
道を
往来して、いくたびかためらったが、ついに、そのほうへと
近づきました。
手相を
見てくれるのは、まだ
若者だったが、
若者は、
一目で、かの
女を
田舎から
出て、まだ
間のないものだと
知りました。さながら、あひるが、
化粧したような
歩きつきや、ただ、
流行をまねさえすれば、
美しく
見えるとでも
思っている、けばけばしくて、あかぬけのしないようすが、
若者にはかえってあわれみをそそったのでした。
「
身の
上ご
相談ですか。
右のほうの
手をお
出しください。」
はずかしそうにして
出す、お
竹の
手を、
掌から、つまさきまで、
若者は、うす
暗い
提燈に
照らしながら、
虫眼鏡でこまかにながめていたが、やがて、
顔を
上げると、
「あなたは、
正直ですから、ひとにだまされやすい。よく、よく、
用心しなければなりません。」
お
竹は、
心の
中で、これと
同じようなことを
田舎で、
近所のおじいさんがいったが、あのときは、
正直だから、おまえは
人にかわいがられるといった。
都会では、どうして、
反対なのだろうか、と、
考えながら、その
後を
聞くと、
「
年まわりがわるいので、これから
先に
大損をなさることがある。お
金ばかりでなく、
身の
上にも、よくよく
気をつけなければなりませんぞ。いま、お
国のほうでは、あなたに
結婚の
話が
持ち
上がっています。だが、あなたは、あとではたいへんしあわせになられます。」
かの
女は、
顔を
赤くして、
幾たびも
頭を
下げて、その
前をはなれました。
若い
易者は、
彼の
先生から、いかなるばあいでも、
相手に
希望を
持たせることを
忘れてはならぬといましめられた、その
教えを
実行したまでです。
自分は、
田舎へ
帰れば、また、みんなから、やさしい、
正直な
子だといって、ほめられるだろうと、お
竹は
道を
歩きながら、
思いました。
ちょうど、このとき、一
時も
早くかの
女に
出発をすすめるように、どこかの
駅で
鳴らす
汽車の
汽笛の
音が、
青ざめた
夜空に、
遠くひびいたのでした。