あのときの、
女の
先生は、まだいらっしゃるだろうか。それにつけ、
僕は、
深く
心にのこって、
忘れられない
当時の
思い
出があります。
しばらく、さくの
外に
立って、もう一
度そのときのことを
頭にえがき、
自分の
子供の
時分をかえりみました。
どちらかといえば、
僕は、
内弁慶で、
外では
弱虫というのでしょう。
幼稚園へも、なかなか
一人ではいけなかったのでした。
「
姉さん、ついていってよ、それでなけりゃ、いや。」と、いざ
朝になって、いくときになると、いいはりました。
「じゃ、こんどだけ、いっしょにいってあげましょうね。」と、
姉は、ついていってくれました。
家を
出ると、さびしいけれど
町になります。お
菓子屋や、くだもの
屋や、
酒屋や、
薬屋などがあって、
角のところにある、ラジオ
屋の
前をまがると、
細い
道となります。
その
道をいくと、じき、
幼稚園のところへ
出るのでした。
門の
前までくると、
立ちどまって、
「さあ、お
入りなさい。
姉ちゃんは、もう
帰っていいでしょう。」と、
姉は、いいました。
もう、
校舎の
入り
口には、きのう、いっしょに
遊んだ、
子供たちが二、三
人もかたまって、
僕のほうを
見て、なにか
話しあって、
笑っています。きっと、
弱虫とでもいっていたのでしょう。そう
知りつつも、
僕は
勇気を
出して、
一人で
入ることができなかった。それどころか、ますます、
悲しくなって、
姉の
手をひき、
「お
姉ちゃんも、いっしょでなければいや。」と、
泣かんばかりに、いいました。
姉は、なんと
思ったか、いやなようすもみせず、
笑いながら、
「しかたがないのね、じゃ、いっしょに
入りますよ。」と、いって、
門を
入りました。
僕のたのみなら、なんでもよくきいてくれる、やさしい
姉は、
教室の
中へも、いっしょに
入って、
先生のお
話を
聞いていました。
僕たちは、
教場の
中で、
教わるよりも、
外へ
出て、
広場で
遊んだり、うたったりするときのほうが
多かった。しかし、
僕には、
内にいるほうが
好ましく、
外へ
出て、みんなといっしょに
手をつなぎ
合って、
遊戯をしたり、うたったりするのが、なんとなく、はずかしい
気がして、
好かなかったのです。
それは、
二人ずつ、ならんで、たがいに
手をとりあって、うたいながら、
桜の
木のまわりを
歩いたときでした。
「ごらんなさい。
姉ちゃんみたいな
大きな
人は、だれもはいっていませんよ。みっともないでしょう。あんたも、これからお
友だちと、いっしょにならんで、お
歩きなさいね。」と、
姉は、
小さな
声でいいました。
子供に、
大人がついてきたのは、
僕ばかりでなかった。ほかの
子供にも、
母親や、
姉などが、なにぶんあがった
当座のことで、ついてきたけれど、たいていは、
教室の
外にいたし、
運動するときは、
列の
外に
立って、はなれて
見ていたものです。しかるに、
僕だけは、
遊戯をするにも、
姉といっしょでなければ、しないといったので、しかたなく
先生もゆるして、
姉は
歩くとき、
列へ
加わりました。
その
日のことを、よく
覚えています。ちょうど、
桜の
花が
咲きかけていました。
子供たちの
列は、この
桜の
木のまわりを、
先生の
号令に
従って、
歩いたのでした。
僕は、こんなに、
心のあわただしい
間にも、
自分の
観察というものをおこたりませんでした。
僕たちの、
女の
先生が、
姉といくつも
年のちがわないことを
知りました。これは、さいしょに
僕の
心をおどろかした
発見でした。
つぎに、
姉が、
先生のいわれるとおりに、
僕たちといっしょになって、
歩いたり、
手をうごかしたり、うたったりしているのを
見たときです。
僕は、かっと
顔があつくなって、ただこうしていては、
姉がみじめな
気がして、
家へ
帰るといい
出しました。
「どうして、
急にそんなことをいうの。」
姉は、あきれて、
困ってしまいました。そして、
僕のわがままに、どれほど
苦しんだかしれぬというのは、そう
暑い
日でもなかったのに、
姉は
額ぎわに
汗をにじませていたのでした。
先生の
顔を
見ると、
僕は、いっそうだだをこねました。
先生が、なにかいえばいうほど
僕は、
帰るといいはりました。そして、とうとうそのまま
家へ
帰ってしまいました。
僕は、
元気なく、だれにもなにもいわず、ただふきげんでした。
「
姉ちゃんは、はずかしくって、もういっしょになんかいけませんよ。」と、
姉は、
家へ
帰ると、この
日ばかりは、おこってしまいました。
「いいよ、
僕は、あしたから、
一人でいくから。」
僕が、こういったとき、
家の
人たちは、そんな
弱虫が、どうして、
一人でいけるものかといって、
笑いだしました。
こうした
周囲の
空気は、
僕をして、
偶然にも
心に
深く
感じたいっさいを
打ち
明ける
機会をば、
永久にうしなわしてしまったのでした。
しかし、その
翌日から、
僕は、いったとおり、だれにも、
送ってもらわず、
一人で
幼稚園へいき、また
一人で
帰りました。
「どうして、そんなに、
強くなったの。」と、
家じゅうのものがふしぎがったり、おどろきの
目をみはったりしました。
「きっと、いいお
友だちが、できたのでしょう。その、お
友だちのてまえ、お
姉さんに、つれていってもらうのが、はずかしくなったのですよ。」と、
下の
姉が、いいました。
もとより、だれも、
僕の
気持ちのわかるはずはありませんでした。また、
僕は、
自尊心から、
自分が
弱虫なばかりに、
姉をはずかしめて、
気の
毒に
思ったことを、だれにも
語る
気になれませんでした。いつしか、
月日はたってしまいました。その
後、
姉は、
嫁にいって、もう
家にはいないのです。それゆえ、あるいは、
姉にも、あのときの、
僕の
気持ちを
永久に
語る
機会はないかもしれません。
だが
僕は、あの
日、いっしょに
遊戯をしてくれた、
姉のすがたを
思い
出すと、これから
後、どんな
苦しいことにも
忍耐できる
気がする。
過ぎた
日のことを
思い
出して、かぎりなきなつかしさと、
悲しさを
感ずるのでした。
僕は、いくたびも、
幼稚園の、
小さな
校舎と
桜の
木をふりかえりながら、
細い
道を
歩いて、いつしかそこを
遠ざかりました。