とうげの、
中ほどに、一けんの
茶屋がありました。
町の
方からきて、あちらの
村へいくものや、またあちらの
村から、とうげを
越して、
町の
方へ
出ていくものは、この
茶屋で
休んだのであります。
ここには、ただひとり、おじいさんが
住んでいました。
男ながら、きれいにそうじをして、よく
客をもてなしました。お
茶をいれ、お
菓子をだしたり、また
酒を
飲むものには、あり
合わせのさかなに、
酒のかんをして、だしました。おじいさんは、
女房に
死なれてから、もう
長いこと、こうしてひとりで、
商売をしていますが、みんなから、
親しまれ、ゆききに、ここへ
立ち
寄るものが、
多かったのであります。おじいさんは、いつも、にこにこして、だれ
彼の
差別なく、
客をもてなしましたから、だれからも、
「おじいさん、おじいさん。」と、いわれていました。
おじいさんも、こうして、いそがしいときは、
小さなからだをくるくるさして、
考えごとなど、するひまはありませんが、
人のこないときは、ただひとり、ぼんやりとして、
店さきにすわっているのでした。すると、いつとなしに、
眠気をもよおしていねむりをするのでした。
もっとも、だんだん
年をとると、こうして、ひとりでじっとしているときは、
目をあけても、ふさいでも、おなじように、いつも
夢を
見ているような、また、うつつでいるような、ちょうど
酒にでも
酔っているときのような、
気持ちになるのです。
おじいさんも、このごろ、こんなような
日がつづきました。
戸外は、
秋日和で、
空気がすんでいて、はるかのふもとを
通る
汽車の
音が、よくきこえてきます。どこか、
森で
鳴く、
鳥の
声が、
手にとるように、
耳へとどきます。
おじいさんは、
汽車の
音がかすかになるまで、
耳をすましていました。やがて、あちらの
山の
端を、
海岸の
方へまわるとみえて、一
声汽笛が、
高く
空へひびくと、
車が
音がしだいにかすかに
消えていきます。
「もう、
汽車の
窓から、
沖の
白い
浪が
見えろるだろう。」
おじいさんは、
自分が、その
車に
乗っているような
気でいました。
また、
若い
時分、
山へ
薪をとりに、せがれをつれていって、ちょうど
出はじめたきのこをたくさんとったことを
思い
出しました。あのときの、
冷たい
地面に
漂う
朽ちかけた
葉の、なつかしい
香りが、いまも
鼻先でするようです。
帰ると、おばあさんも、まだ
達者だったから、すぐなべへ
入れて、
火にかけました。
いま
鳴く、
鳥の
声が、そのときのことを、しみじみと
思い
出させるのでした。
夢ともなく、うつつともなく、おじいさんが、じっとして
愉しい
空想にふけっていると、
朝、この
前を
通って
町へ
出た
村の
人々が、もう
用をたしてもどるころともなるのでした。
この、のどかな、ゆったりとした
気持ちは、おじいさんと
向き
合う
山も
同じでありました。
黄・
紫・
紅と、
峰や
谷が
美しく
彩られていました。そして、まんまんと、
青く
澄みわたる
空の
下で、
静かに
考え
込んでいるように
見えました。こうして、いい
天気のつづく
後には、
冬を
迎えるすさまじいあらしがくるのを、あらかじめ
知らぬのではないけれど、すぎし
日の、
春から
夏へかけての、かがやかしかった
思い
出に、
心を
奪われて、
短い
日ざしのうつるのを
忘れているのでした。まして、このとき、おじいさんと
山の
静かな
心持ちを
破るものは、なにひとつなかったのです。
ところが、ある
日、こんなうわさが、
茶屋で
休んだ
村の
人から、おじいさんの
耳へはいりました。
「おじいさん、ここへ、このあいだ、あめ
屋さんが
寄って、たいそう
酔ったというじゃないか。」
「ああ、いい
気持ちで、
帰らした。」と、おじいさんは、にこにこして、
答えました。
「どうりで、きつねにばかされたって。なんでも、
一晩じゅう
林の
中で、
明かさしたということだ。」
「えっ、あめ
屋さんがかい。」と、おじいさんは、びっくりしました。
「
町へいく
道へ
出ようと
思って、おなじ
道をなんべんも、ぐるぐるまわっているうちに、
目がさめると、
西山の
林の
中で、
寝ていたというこった。」と、
村の
人はいいました。
そのとき、おじいさんは、あめ
屋が、いい
機嫌になって、
子供の
時分のことなどを
話して、
「この
西の
方の
山へ、
子供のころ、きのこをとりにきたことがあった。」と、さもなつかしげに、あちらをながめて、あの
山でなかったか、いや、もうすこしこちらの
山であったとかいっていたのを
思い
出しました。
酔っているので、しぜんと
足が、その
方へ
向いたのかもしれぬと、そう、そのときのようすを
村人に
話すと、
「なるほど、そんなことかもしれぬ。
多分そうだろうよ。いまどき、きつねにばかされるなんて、まったくばかげた、おかしな
話だものな。」
その
村人も、そういって、
笑いました。
しかし、このきつねの
話は、よほど
誠しやかに、
伝えられたものとみえ、その
翌日だったか、
村の
助役が、
茶屋へ
入ってくると、
「おじいさん、わるいきつねが
出て、
人を
騒がすそうだが、ここでは、なにも
変わったことはないかね。」と、
問いました。
おじいさんは、にこにこしながら、
「あめ
屋さんが、ばかされたといいますが。」
「
村の
女どもも、
町からの
帰りに、ぶらさげてきた
塩ざけをとられたといっている。なんでも、
後からついてきて、さらったものらしい。」
「それは、いつのことですか。」
「つい、二、三
日前のことで、まだうす
暗くなったばかりのころだそうだ。」
そうきくと、おじいさんの
目へ、二、三
人の
若い
女れんが、ぺちゃくちゃとしゃべりながら、この
家の
前を
通った、
姿が
浮かびました。その
中の
一人は、
背にさけをぶらさげていたが、からだをゆすって
笑うたびに、さけが、
右へ、
左へ、ぶらぶらと、
振り
子のようにうごいて、
途中で
落ちなければいいがと、こちらから
見ていて、
思ったのを
記憶に
呼びもどしました。
「これから、
寒くなって、えさがなくなると、どんないたずらをするかしれない。」
助役は、こういって、たばこに、
火をつけました。
「どこか、
道で
落としたのでありませんか。」と、おじいさんは、いいました。
「なに、
逃げていくきつねのうしろ
姿を
見たというから、ほんとうのことだろう。」と、
助役は、そう
信じていました。
「おじいさん、きつねなんか、まあどうでもいいがね、それより、
来年はこの
前をバスが
通るというじゃないか。」と、
助役は、あらたまって、さもおおげさに、いいました。
「バスがで、ございますか。」
「まだ、
知らないとみえるな。そうしたら、いままでのように、
歩くものがなくなるだろう。」
「
歩くものが、なくなりましょうな。そうすれば、もう、この
商売もどうなりますか。」
おじいさんは、
力なくいいました。
「
世の
中が、
便利になれば、一
方に、いいこともあるし、一
方には、わるいこともある。しかし、そこは
頭の
働かせようだ。
考えてみさっしゃい。
近い
他の
村から、みんなこの
道へ
出てくるだろう。バスの
停留場が、この
家の
前にでも
着くことに
決まったものなら、この
店はいくら
繁昌するかしれないぜ。」
「そうでございましょうか。」と、おじいさんは、
白髪頭をかしげて、あたらしくいれた
茶を
助役の
前へ
出しました。
助役は
茶わんをとり
上げながら、
「それも、
運動するのはいまのうち、
早いほうがいいぜ。」といいました。
「
運動するといいましても、なにぶん、この
年寄りひとりではどこへも
出られません。」と、おじいさんは、かしこまってすわり、ひざの
上で、しなびた
手をこすっていました。
「なに、おまえさんがその
気なら、
代わって
運動をしてやってもいい。」と、
若い
助役は、
相手の
心持ちを
読みとろうと、
鋭く、おじいさんの
顔を
見ました。
おじいさんは、
心で、どうせそれには
金がいるんだろう。いったい、いくらばかりあったら、その
望みがかなえられるのかと、もじもじやっていました。
「いま、
話をきいて、すぐといっても、
分別もつくまいから、おじいさん、よく
考えておかっしゃい。」
そう、いいのこすと、
助役は
店を
出ていきました。
おじいさんは、このころから、なにか
新しい
問題が、
身に
起こると、しきりに
心細さを
感じました。それは、
年のせいかもしれません。そして、
遠くはなれている
一人の
息子のことを
思うのでした。いよいよ、いっしょになって、
頼ろうかとも
考えるのであります。
おじいさんは、
客がいなくなって、ひとりになると、このあいだ、せがれがよこした、
手紙を
出して、
見ていました。それにはそちらは、じき
寒くなって
雪が
降りますが、こちらは
冬もあたたかです。
父上も、どうかこちらへいらして、
親子いっしょにお
暮らしくださいませんか。
私どもも、まだ
子供のないうちに
孝行したいと
思います、というようなことが
書いてありました。たぶん、せがれが、
工場の
休み
時間に
書いたものとみえ、
工場の
用箋が
使ってありました。おじいさんは、それらの
文字ににじむ、
親思いの
情をうれしく、ありがたく
感じ、
手紙をいただくようにして、また
仏壇のひきだしへしまいました。
長年苦楽を
共にした
女房が、また、せがれにはやさしかった
母が、いまは
霊となって、ここにはいり、なにもかもじっと
見ている
気がして、おじいさんは
花生けの
水をかえ、かねをたたいて、つつましく
手を
合わせました。
このとき、
人のきたけはいがしました。
「このごろは、めっきり、
早く
日が
暮れるのう。」
そういいながら
入ったのは、
年とった百
姓でありました。
「いま、
町のもどりかの。」と、おじいさんは、
親しげに
迎えました。
百
姓は、おじいさんのそばへ
寄って、
腰を
下ろしました。おじいさんのおし
出す
火鉢にあたって、
昔風の
太いきせるに
火をつけました。
二人は、
小学校時代からの
友だちでありました。ほかにも
仲のよかったものもあったが、
早く
死んだり、あるいは、この
土地にいなくなったりして、この
年となるまでつき
合いをし、たがいに
身の
上話を
打ち
明けるのは、わずかこの
二人ぐらいのものであります。
「一
本つけるかの。」
「それを、たのしみに、
町で
飲みたいのを
我慢してきたわい。」
これを
聞くと、おじいさんは、
炉の
中に
松葉をたき、
上から
釣るした
鉄びんをわかしにかかりながら、
「
来年から、この
道をバスが
通るというこった。それで、いまのうち、はやく
前へ
停留場の
着くよう
運動をしろと、さっき
助役さんがいらしていわしたが、おまえも
知るとおり、おらも、だんだん
年をとるだし、いっそせがれの
許へいったほうがいいかとも
考えてな。」と、しんみりとした
調子で、
語りました。
年とった百
姓は、
下を
向き、
青い
煙をただよわして、
燃える
火をじっと
見て、きいていましたが、
「なにしろ、
親ひとり、
子ひとりだもの、いっしょに
暮らすに
越すことはない。だが、
生まれたときから、
住みなれた
土地だもの、ここをはなれかねるおまえの
心持ちはよくわかる。どっちでも、よく
思案して、
好きなようにするがいいぜ。しかし、この
道をバスが
通るので、
商売が
成り
立たぬという
心配なら、しないがいい。バスに
乗る
人はきまっている。
毎日、
荷を
負って、
町へ
出たり
入ったりするものが、そんなものに
乗れっこない。それに、
雪が
降れば、
車など、
通りたくても、
通れっこない。ここは、
冬のほうが、
休む
人が
多いんだから、
先越し
苦労をさっしゃるな。
停留場なんか、どこへ
着いてもいいという
気で、
成り
行きにまかしておかっしゃい。また、どんなことがあろうと、おまえ
一人ぐらい、わしらが、
困らしはしない。」といって、おじいさんをなぐさめました。
「このくらいで、かんはどうだろう?」
おじいさんが
徳利を
上げてつぐのを百
姓はうけ、
口へ
入れて、
首をかしげました。
「もうちっと、あつくするかい。」
「いや、ちょうどいい。ああ、おまえがいけるなら、いっしょにやりたいと、いつもおらあ、ざんねんに
思うだよ。」
「なあに、そうして、
気持ちよく
飲んでもらえれば、わしも
酔ったように、うれしくなるぜ。」
二人は、
親しく
話しながら、
開いている
障子の
間から、ほんのりと
明るく
暮れていく
山の
方をながめていました。
その
翌日は、にわかに
天気が
変わりました。
朝のうちから
木枯らしが
吹きつのり、
日中も
人通りが、
絶えたのです。おじいさんは
早くから
戸を
閉めてしまいました。
まだ、
外の
空は、
幾分明るかったけれど、
家の
内は、
灯をつけると、
夜の
更けたごとく、しんとしました。このときトン、トン、と
戸をたたく
音がしました。
おじいさんは、
風の
音だろうと、はじめは
気にとめなかったが、つづいて、トン、トンと、
音がきこえるので、だれかきたのだとさとりました。
ふと、きつねの
出るうわさが、
頭へ
浮かんだので、おじいさんは、いっそう
用心しながら、
戸の
方へ
近づきました。
「なんのご
用かな。」と、
内から
大きな
声でききました。
「お
閉めになったのを、すみません。」
そう、いったのは、やさしい
女の
声でした。おじいさんは、ますます、
不審に
思い、
戸を
細めに
開けて、
外をのぞきました。
すると、そこには、
小さな
男の
子をつれた、まだ
若い
女の
人が
立っていました。ようすで、
旅のものであるとわかります。
「もう、だれもこないと
思いまして、
早くしめました。」
「すみません、お
芋か、かきでも、なにかたべるものがありましたら。」と、
女は、いいました。
「はい、ありますが。」と、おじいさんは、
戸をからりとあけました。
「すこし
入ってお
休みなさっては。どちらへ、おいでなさるのですか。」と、おじいさんは、たずねました。
「この
先の
村へいくのですが、
汽車がおくれて
着きまして、それにはじめての
土地なもんで、
聞き、
聞き、まいりました。
子供が、もう
歩けないからというのを、なにかあったら、
買ってあげようといい、いい、
元気づけてきました。」
おじいさんは、
奥から、かきと
芋を
盆にのせて
持ってきて
女に
渡し、
別にゆでたくりを
一握り、それは、
自分から
子供の
両手へ
入れてやりながら、
「それは、それは、おたいぎのことです。ここから、もう
一息のお
骨おりですが、
道はよろしゅうございます。それではすこしでもお
早く、
明るいうちに、いらっしゃいまし。」といいました。そして、
心では、だれか、
村の
青年で、
他郷に
家を
持ったものの
女房であろうと
思いました。
「お
世話になりました。」と、
女は、
礼をいって、
子供の
手を
引き、
風の
中をうす
暗くなりかけた
道へ
消えていきました。
しばらく、
戸口に
立って、
見送っていたおじいさんは
自分にも、あちらでせがれの
結婚した
嫁のあることを
思いました。
「いつ、ああして、
訪ねてこないものでもない。」
もし、そのとき、
町から、
村へ、バスが
通っていたら、どんなになるか、
便利なことであろう。そう、
考えると、このときまで、
頭の
中にあった、
商売上のことや、一
身の
損得などということが一しゅんに
落ち
葉のごとく
吹き
飛んでしまって、ただ
世の
中の
明るくなるのが、なにより
喜ばしいことであるように
感じられ、また、
多くの
人たちがしあわせになるのを、
真に
心から
望まれたのでありました。