自転車屋の
店に、
古自転車が、
幾台も
並べられてありました。タイヤは
汚れて、
車輪がさびていました。一つ、一つに
値段がついていました。わりあいに
安かったのは、もうこの
先長くは、
使用されないからでしょう。
原っぱで
遊んでいた、
辰一は、なにを
思い
出したか、
駆け
出して、
自転車屋の
前へきました。そして、
並んでいる
古い
車の
中の、一つにじっと
目をとめていました。
「ああ、まだある。どうか、この
月の
末まで
売れないでいてくれ。」と、
心で、いったのであります。
彼は、やっと
安心して、
原っぱへ
引き
返してきました。
友だちと
鬼ごっこをしたり、ボールを
投げたりして、しばらく
遊んだのです。しかし、いつまでも
遊んでいることはできなかった。
夕刊を
配達しなければならぬからです。
その
自転車には、
染め
物屋の
徳蔵さんが
乗っていたのでした。
「あいているときは、
使いな。」と、やさしい
徳蔵さんは、よく
辰一にいいました。
辰一は、
借りて、この
原っぱを
走りまわったことがあります。また、
遠くまで
乗って
遊びにいったこともありました。あるときは、
学校から
帰って、ぼんやり
往来に
立っていると、うしろでふいにチリン、チリンという
音がするので、
驚いて
振り
向くと、
徳蔵さんが、
自転車に
乗って
止まっていました。
「うしろへ
乗らないか。」
辰一は、
喜んで、
徳蔵さんの
背中につかまって、
荷掛けに
腰をかけ、
足をぶらんと
下げました。
「
足を
気をつけな。」
さびしい
田舎道の
方まで、
自転車を
走らせて、
二人は、
散歩しました。
徳蔵さんは、
辰一にとって、
実の
兄さんのような
気がしました。
去年の
暮れ、
徳蔵さんに、
召集令が
下りました。
辰一は、
空が
曇って、
風の
吹く
日に、
旗を
振りながら、
氏神さまへ
送っていったことを
忘れることができません。
「
万歳!
万歳!」と
叫びながら、どうか、めでたく
凱旋してきてください。そのときは、また
こうして
迎えに
出るからと、ひとりでいったのでした。
徳蔵さんが、
戦死されたという
知らせがとどいたのは、ほたるの
出はじめる
夏のころでした。そして、それがじつに
悲壮なものであったことは、このほど
帰還した
兵士の
口からくわしく
伝えられたのであります。その
兵隊さんは、
同じ
部隊で、
徳歳さんのことをよく
知っていました。
出征の
際は、○○
駅から、
徳蔵さんは、
出発したのです。
兵隊さんを
乗せた
汽車が
通ると、
国防婦人の
制服を
着た
女たちは、
線路のそばに
並んで、
旗を
振りました。
後れた
女の
人は、
旗を
振りながら、
田圃道を
走ってきました。また、
工場の
窓からは
青い
服の
職工さんや
白いエプロンの
女工さんたちが、
顔を
出して、ハンカチを
振るもの、
手を
挙げるもの、
遠くからこちらまでひびくように、
「
万歳!
万歳!」と、
叫んでいました。
汽車の
窓から、
兵隊さんたちも、これに
応えていました。
中には
山奥の
村からきたものもありました。
徳蔵さんのそばにいた
兵士は、はじめて、
海を
見て、
「
大きな
河だなあ。」と、いって、
驚いたそうです。
「
海だ、
河ではないよ。
太平洋なんだ。」
徳蔵さんは、
教えました。
「あっ、これが
海で、
太平洋か。」と、その
兵士は、
目をまるくして、
青い
波を
見ていました。そのときが、
口のききはじめで、
徳蔵さんと、この
兵士とは、その
後たがいになんでも
話すように
親しくなりました。
徳蔵さんは、
細長い
顔をしていましたが、その
兵士は、
角張った
顔つきをしていました。そして、その
兵士には、
年老った
母親があって、
家を
出るとき、
母親は、つえをつきながら、
停車場まで
見送って、
「
家のことは、
心配しなくていいから、お
国へよくご
奉公するだぞ。」と、いったそうです。
兵士は、
母親のいったことを
思い
出して、ときどき、
涙ぐんでいました。
海を
渡る
船の
中で、
兵士は、
「いっしょに
戦って、いっしょに
死にたいものだ。」と、
徳蔵さんに、いいました。もとより
温かな、
誠の
情けを
持った
徳蔵さんですから、
「ほんとうに、そうしよう。」と、いって、その
兵隊さんの
手を、
堅く
握ったのであります。
上陸すると、すぐに、
彼の
部隊は、
前線に
出動を
命ぜられました。そこでは、
激しい
戦闘が
開始された。
大砲の
音は
山野を
圧し、
銃弾は、一
本残さず
草を
飛ばして
雨のごとく
降り
注いだ。そして、
最後は、
火花を
散らす、
突撃戦でありました。
敵を
散々のめにあわして
潰走さしたが、こちらにも
多くの
死傷者を
出しました。
戦闘の
後で、
徳蔵さんは、あの
兵士は、
無事だったかと
見て
歩きました。けれど、その
姿が、
見つかりませんでした。
「やられたか、それとも
傷を
負って
倒れてはいないか?」と、
戦場の
跡を
敵の
屍を
越えて、
探して
歩きました。すると、その
兵隊さんが、やぶの
中に
倒れているのを
見いだしたのです。けれど、そのときは、すでに
息が
絶えかかっていました。
「おい、しっかりせい。おれだ! いっしょに
死ぬ
約束をしたのに、
先にいったな。よし、かならず
敵を
打ってやるぞ。おれも、
花々しく
戦って、じきに
後からいくから
待っていろ。」と、
徳蔵さんは
戦友の
死体を
抱き
起こして、
涙を
落としたのです。
その
後のこと、
我が
軍は、
河をはさんで
敵と
対峙したのでした。その
結果、
敵前上陸を
決行しなければならなかった。なにしろ、
敵はトーチカに
閉じこもり、
機関銃を
乱射して、
頑強に
抵抗するのです。ついに、
決死隊が
募られました。
我先にと
申し
出たので、たちまちの
間に
定員に
達したのです。この
人たちは、
全軍のために
犠牲となるのを
名誉と
思って、
喜び
勇んですぐ
仕度にとりかかりました。
このとき、
蒼白い
顔をして、
一人の
兵士が、
部隊長の
前へ
進み
出て、
自分もぜひこの
中に
加えてくださいといったのです。それは、
徳蔵さんでした。
「
後から、おまえ
一人を
入れると、ほかのものの
申し
出も
許さなくてはならぬ。」と
部隊長は、
言葉にそういいながら、いずれ
劣らぬ
忠勇決死の、
我が
兵士の
精神に
感心しました。だが、
徳蔵さんの
熱心は、その
一言で
翻されるものではありません。
戦死した
友との
誓いを
告げたので、ついに
部隊長も
許したのでした。
決死隊が、
敵に
飛び
入ると、
敵はそれを
目がけて、
弾丸を
集中しました。
河の
中ほどまで
達するころには、
人数が
目に
見えて
減っていました。
陸まで、もう
一息というところで、
無念にも
弾丸を
受けて、
徳蔵さんは、
「
天皇陛下 万歳!」と
叫ぶとともに、
水を
紅に
染めて
見えなくなったのでした。
辰一は「
殉国英霊の
家」と、
立て
札のしてある
家の
前を
通るたびに、
目に
熱い
涙をためて、
丁寧に
頭を
下げました。
「どうしても、あの
自転車を
買うのだ。あと、一
週間ばかり、
売れなければいいが。」
ある
日、
自転車屋の
前へいってみると、その
自転車が
見えなかった。
辰一は、びっくりして、おじさんにきいてみると、
昨日売れたというのです。
「なに、あれくらいの
車なら、また
出ますよ。」と、なにも
知らない
自転車屋のおじさんは、
力を
落としている
辰一を
見て、そういったのでありました。
その
後のことです。
辰一は、お
友だちと、キャッチボールをやっていて、ふと
戦死した
徳蔵さんのことを
思い
出すと、
急に
目頭が
熱くなりました。
「
僕を
自転車にのせて、この
原っぱを
走ってくれたことがあったなあ。」と、いろんなことが、
心に
浮かんでくるのです。
「あの
自転車はだれが
買ったろうか。たしか、七
円と
札がついていたが、
惜しいことをした。お
父さんが
自分の
働いた
金で
買ってもいいといったのに。」
彼の
投げる
球がだんだん
熱を
持ってくるのでした。
「
辰ちゃん、すげえ
球を
出すなあ。」
見ている
友だちまでが、
目をみはって、いいました。その
球を
受け
取る
勇吉も、
顔を
赤くして、
額に
汗ばんでいました。
強い
球で、なかなか
骨がおれるからです。
「
君、いい
球を
出すね。しっかり
勉強すると、ピッチャーになれるぜ。」
さっきから、そばで
見ていた、
角帽を
被った
学生らしい
青年が、いいました。
辰一は、ほめられたので、ちょっとはずかしかったのです。
「
僕ら、
毎日曜の
午後から××の
空き
地で、けいこをしているから、
君もぜひやってきたまえ。そのうちにこの
方面のものだけで、チームを
作ろうと
思っているのだ。」と、
青年は、
辰一にいったのであります。
辰一は、そういわれると、なにか
急に
明るく、
力づけられたような
気持ちがしました。
(ほんとうかしらん、おれは、ピッチャーになれるだろうか。)
「ありがとう。」といって、
辰一は、
青年に
頭を
下げました。そうだ、おれは、
徳蔵さんのことを
考えればいつだって
気持ちがしゃんとして、どんないい
球でも
出してみせるぞと、
心に
叫んだのです。
十二
月の
日曜日でした。
風のない
静かなお
天気であります。
辰一は、
午後から、××の
空き
地へいってみようと
思いました。
「あの
学生さんは、きょうも
野球をやっているかな。」
自分の
住む
町から、だいぶそこまで
離れていました。
空き
地へいくと、
今度広い
道路が
通るので、
多数の
家屋が
取りはらわれた
跡でありました。
あたりを
見ると、まだ
半分壊されたままになって、
土台のあらわれている
家もあったし、すでに、一
方の
端では、
新しく
建築にかかった
家もあります。
見わたすかぎりの
広場の
中は、いろいろの
風景が
雑然として
見られました。
こちらには、
土管や、
人造石が
積まれているし、またあちらには、
起重機が
置いてありました。ところどころ
木立があって、
頭の
上を
青い
空が
拡がっていました。
都会でこんなにはるかな
地平線の
見えるのは、
珍しいことです。
遠い
煙突からは、
黒い
煙が、
上がっていました。ちょうど、
海をいく
汽船の
煙のようにも
思われました。あちらでも、こちらでも、
町の
子供たちが、たこを
上げて
遊んでいます。
風がないせいか、
高く
上がっているたこがありません。そして、
工夫たちも、
今日は
仕事が
休みなのか、
地平機が
投げ
出されたままになっています。
「だれも、
野球をやっていないが、どうしたんだろう。」と、
辰一は、がっかりしたが、
年末であるので、なにか
都合があってこられなかったのだろうと
思いました。
ここからは
駅が
近く、
絶えず
電車や、
汽車の
笛の
音がしていました。そして、
停車場のあたりは、にぎやかな
町でありました。
辰一は、
暮れの
街の
景色を
見物して
帰ろうと
思いました。
ガードをくぐると、そこだけは、一
日じゅう
日蔭で、
寒気がきびしく、
肌を
刺しました。
暗を
照らす
電燈の
光は、うす
濁ってぼうっとかすんでいます。
出口の
煉瓦の
壁に、
出かせぎ
人夫募集のビラが
貼られていました。
生活のために、
未知の
土地へいく
人のことを
考えると、なんとなく、
胸をしめつけられるような
気がしました。
「
健康であれば、どこへいっても
生活ができる。」と、
学校の
先生のおっしゃった
言葉が
浮かんできました。
さすがに
戦時であって、
町は、いつもの
暮れとちがい、べつに
飾りもなくてさびしかったのです。それでも
歳末の
気分だけは、どこにかただよっていました。アスファルトの
道を
人々が
忙しそうに
往来しています。くつの
音とげたの
音が、
入りまじって
耳にひびきました。
露店が、
連なっていました。その一つには、ヒョットコ、きつね、おかめ、などの
人形がむしろの
上へ
並べてありました。それを
商うおばあさんは、
日がほこほこと
背中に
当たっているので、いい
気持ちで
居眠りをしていました。また、この
寒いのに、どこから
持ってきたものか、ふな、なまず、
雑魚などの
生きたのを
売っている
男がありました。これらの
川魚は、
底の
浅いたらいの
中に、
半分白い
腹を
見せて、
呼吸をしていました。その
隣では、
甘ぐりを
大なべで
炒っていました。
四つ
辻のところへ
出ると、
雑沓の
中で、千
人針を
頼んでいる
女がありました。
通る
女の
人々が、そのそばに
足を
止めていました。
「もう、お
正月がくるのに、
出征する
兵隊さんがあるんだな。」
辰一は、
感慨深く
思いました。
戦地へいく
人のことを
考えると、じっとしていられないような
気がしました。
このとき、
突然軍歌の
声が、
停車場の
方にあたってきかれたのでした。
彼は、はじかれたように、
群衆から
抜け
出て、
急ぎ
足で、その
声のする
方へと
向かったのです。
国防婦人の
制服を
着た
人たちが、
小さな
日の
丸の
旗を
振って、
調子を
合わせて
歌っていました。
戦闘帽を
被った
青年が、
元気いっぱいに
大きな
声で、
音頭を
取っていました。
紅いたすきをかけた、
出征兵は、
正しく、つつましく、
立って、みんなの
厚意に
感謝していました。それは、
徳蔵さんが、
送られたときの
姿を
思い
出させます。まったく
同じでありました。
徳蔵さんはこうして
送られていったが、それぎり
帰ってこなかったのです。
そう
考えると、
熱い
涙が、
目の
中からわいてきました。いつのまにか、この
人と
徳蔵さんとが、
同じ
人になってしまって、
限りない
悲壮な
感じが
抱かれたのであります。
辰一は、のども
破れよとばかりに、
大声を
上げて、
万歳を
三たび
唱えたのでした。
彼は、
帰りに、もう一
度空き
地へ
立ち
寄ってみました。
先刻たこを
上げていた
子供たちは、どこへいったか、
姿が
見えなかったのです。
寒い
風が、
荒涼とした
広場を
吹いていました。
辰一は、
支那の
戦場の
景色を
空想しました。また
戦死した
徳蔵さんを
思い
出しました。
足もとの
瓦の
破片を
拾い
上げると、
力いっぱい
大空に
向かって
投げました。
高い、
高い
空に、とびが、
町を
見下ろしながら
舞っていました。
自分が
少年飛行家であったら、
飛行機に
乗って、ああやって
敵軍を
爆撃するのだ。
「とび、とび!
大きな
声で
鳴いてくれ!」
辰一は、
胸の
底からこみ
上げてくる
感激を、どうすることもできなくて
叫びました。