空高く
羽虫を
追いかけていたやんまが、すういと
降りたとたんに、
大きなくもの
巣にかかってしまいました。しまったといわぬばかりに、
羽をばたばたして
逃げようとしたけれど、どうすることもできませんでした。
縁先で、
新聞を
読んでいたおじいさんは、ふと
顔を
上げた
拍子に、これが
目に
入ってじっと
眼鏡の
底から、とんぼの
苦しがるのを
見たのであります。
かわいそうにと、おじいさんは、
思いました。
年をとると、すべてのことに
対して、
憫れみ
深くなるものです。そして、いまにもくもが
出てきて、
目の
前で、とんぼの
殺されるのを
見るにしのびませんでした。
「
正二や。」と、おじいさんは、
孫を
呼びました。
自分にはどうにもならなかったからです。
あちらのへやで、
明日の
宿題をしていた
正二は、
何事かと
思って、すぐに
祖父のところへやってきました。
「なんですか、おじいさん。」
「あれ
見な、いまやんまが
飛んできて、くもの
巣にかかったんだ。かわいそうだから
助けてやんなさい。」
正二は、いつも、こんなようなことに
出あったときは、
人にいわれなくとも、
自分から
進んで
助けてやる
性質でありました。
「くもは、どうしたのか、
出てきませんね。」と、
正二は、
不思議そうに、
見上げていました。
「いや、どこかに
隠れていて、やんまの
弱るのを
待っているのだ。なかなかずるいやつだからな。はやく
助けてやんなさい。」
おじいさんは、まごまごしていると、やんまが、
疲れて
死んでしまうと
思ったのでした。
正二は、
勝手もとへいって、
長い
物干しざおを
取って、
裏の
方へまわりました。
庭には
日ごろから、おじいさんの
大事にしている
植木鉢が、たなの
上に
並べてありました。
彼は、それを
落とさないように、
自分の
力にあまる
長いさおを
持ち
上げて、
垣根の
際までいきましたけれど、まだそのさおの
長さでは、くもの
巣までとどきませんでした。
「おじいさん、だめですよ。」
やんまは、まだ
生きていて、ときどき
思い
出したように、
羽ばたきをしました。けれど、どうしたのか、くもはまだ
姿を
見せませんでした。
「さおが
短いか、よわったのう。」と、おじいさんは、
眼鏡の
中から、
小さな
光る
目で、やんまを
見つめていられました。
「ああ、
重い。」
正二、さおをドシンと
垣根の
上へ
倒しました。そのくもの
巣は、
高い
木立の
枝から、
隣家の二
階のひさしへかけているので、
隣の
屋根へ
上がるか、それとも
隣の
塀の
上に
登らなければ、さおがとどかなかったのでした。
「かまわずにおきましょうか。」
しかし、おじいさんには、
知らぬ
顔をしていることができませんでした。
「あちらの
塀へ
上がれば、とどくだろう。」
「
僕、やだなあ。」
「いい
子だから、
助けておやり。なんでもおまえのほしいものを
買ってやるから。」と、おじいさんは、いいました。
「ほんとう? おじいさん、
僕にハーモニカ
買ってくれる。」と、
正二は、
聞きました。このあいだから、おじいさんに、ねだっている
品です。
「
買ってやるから、
助けておやり。」と、おじいさんは、いいました。
これを
聞くと、
正二は、一
時は、うれしそうな
顔つきをしましたが、
急になんと
思ったか、
「いいよ、おじいさん、
僕買ってくれなくてもいいの。」といいながら、さおをかついで、
隣の
家の
門を
開けて
入っていきました。
ちょうどそのとき、そろそろと
糸を
伝って、
大きな
黒いくもが、やんまに
迫っていました。
これを
見た
正二は、
急いで、
塀へ
上がると、
「こいつめ。」といいながら、さおでまずやんまを
払い、つぎにくもを
落としました。
巣がずたずたに
切れて、やんまは、やっと
飛んでいくことができたし、くもはちぢこまって
下へ
落ちました。
「おお、ようした。ようした。ハーモニカを
買ってやるぞ。」
正二が、
庭へもどってくると、おじいさんは、
生き
物の
命を
助けた
喜びに、
顔をかがやかしていいました。
「おじいさん、こんど
僕、いいお
点をもらってきたときでいいよ。」
「どうしてか、なぜ
今日ではいらないのだ。」
おじいさんは、
不思議に
思いました。
「どうしても。だって、やんまを
助けてやるのは、あたりまえだろう。」
正二、こんなことで、
日ごろの
言い
分を
通すのは、あまりうれしくなかったからでした。
「そうか、それは、
感心だ。ごほうびをもらわなくても、
正しいことは
進んでやるのが
善い
子供なのだ。」
おじいさんは、
上機嫌でありました。
正二も、おじいさんにそういわれると、ハーモニカを
買ってもらったよりもうれしかったのでした。
晩方のことです。
正二が、
外へ
出ると
徳ちゃんが、
飛んできました。
「
正ちゃん、おもしろいことをしない。」といいました。
「おもしろいことって、どんなことだい。」
「お
化けごっこだよ。」
「お
化けごっこって、どうするの。」
徳ちゃんは、
正二に、いろいろ
知恵を
与えたのです。
「すてきだね、
待っておいで。
僕、
家へいって
絵を
描いてくるから。」と、
正二は、
走り
出そうとすると、
「
僕、お
母さんのエプロンを
持ってくるからね。」
徳ちゃんも、
家へ
向かって
駆けていきました。
二人は、
他の
子供らに、
知られぬように、とうもろこしの
畑であうことにしました。
脊高く
茂ったとうもろこしの
畑には、うまおいが、
鳴いています。
星晴れのした、
青い
夜の
空を
白い
雲が
走っていました。もうどことなくゆく
夏の
姿が
感じられたのです。
徳ちゃんは、お
母さんのエプロンを
持って
先にいって
待っていると、
正二は、
自分で
急ごしらえの
般若面を
持ってやってきました。
「ああ、ろうそくがなくては、いけないね。」
「そうだ、うりで
行燈を
造ろうよ。
僕、
小さいろうそくを
持ってくるから。」
正二は、
家へ
仏壇へ
上げるろうそくとマッチを
取りにいくと、
徳ちゃんは、その
間に
大きなうりをさがしてきて、
中の
種子を
出して、
燈火のつくような
穴を
明けていました。そこへ
正二がもどってまいりました。これで、すっかり
用意ができてしまいました。
「だれが、お
化けになるの。」
「じゃんけんして、
負けたものにしようや。」
二人は、じゃんけんをしました。
正二が、
負けました。
「
正ちゃんが、お
化けだよ。」
「おもしろいな。」と、
正二は、
白いエプロンを
着て、
自分の
造った
般若面を
被りました。
「どんなだい?
徳ちゃん。」
「おう、すごいよ。ほんとうのお
化けみたいだ。」
「ほんとう。」
「
頭へ、とうもろこしの
毛をつけるといいよ。」
徳ちゃんは、
枯れた
毛を
取ってきて、
正二の
頭へのせました。それから、うりのちょうちんに、
火をつけて、ぶらさげました。
濃い
緑色の
火が、あたりを
暗く
照らして、
正二の
白い
姿を
気味悪く
見せました。
「やあ、おっかないな。」
徳ちゃんは、これを
見て
逃げ
出そうとしました。
「
徳ちゃん、そんなにおっかない。」
「ぞっとするよ。」
「おもしろいな。だれか
呼んでおいでよ。」と、
正二は、とうもろこしの
葉蔭に
隠れました。
往来で、
二人の
小さな
子供が、もう
暗くなったのに、まだ
遊んでいました。
勇ちゃんと
光ちゃんです。
「
明日は、二百
十日だよ。
川の
堰をはらって、
魚を
捕るのだね。」
「
勇ちゃんも
川へ
入る?」
「
入るさ。」
「
僕、
兄さんが
魚を
捕って
投るのを、
岸にいて、バケツへ
入れるのだ。」
「
光ちゃんも
川へお
入りよ。」
「なまずがとれるといいな。こいもいいな。」
「かにがいいよ。」
「かめの
子が、いいよ。」
そこへ、
徳ちゃんが、やってきました。
「
勇ちゃん、
畑にお
化けが
出るよ。」
「お
化け? うそだい。」
「うそなもんか、いってごらんよ。」
三
人は、さびしい
畑の
方へ
歩いていきました。とうもろこしの
葉が、
夕風に
動いて、さっきから
鳴いているうまおいの
声が、
夜のふけるにつれてだんだん
冴えていました。
「どこに?」
「もっといくんだよ。」
「こわいな。」と、
光ちゃんが、いいました。
「お
化けなんか、うそだい。」と、
勇ちゃんは、
先になろうとして、なすの
畑へ
踏み
込みました。
「ほら、あすこに、
青い
灯が
······。
白い
着物を
着て
立っているだろう。」
「あっ、お
化けだ!」と、
光ちゃんが、
逃げ
出しました。つづいて
勇ちゃんも
逃げようとしたが、
徳ちゃんが
立っているので、
徳ちゃんのうしろから、じっと、とうもろこしの
畑をすかして
見ていました。
「だれか、いたずらしたんだよ。」
「
勇ちゃん、そばへいける?」
「こわいな。」
「それごらんよ、だれかおおぜい
呼んでおいでよ。」
このとき、
勇ちゃんは
足もとの
土を
拾って、
青い
灯を
目あてに
投げました。すると、
青い
灯が
動いて、
白い
着物がこちらへ
近寄ってきました。
「こわい。」と、
徳ちゃんが、
逃げ
出しました。
勇ちゃんは、
独りしにもの
狂いに
土を
拾って
投げていました。そのうち、
土がお
化けにあたったのか、
「あっ。」といって、
青い
灯が
下に
落ちました。
「
目に
土が
入った
······。
勇ちゃんおよしよ。」
白い
着物を
着た、お
化けが、いいました。
「
正ちゃんなの、なあんだ
······。」
勇ちゃんは、すぐそばへ
走っていきました。
「お
面を
被っていたの。」
「
目が
痛くてあかないよ。」
「
正ちゃん、ごめんね。」
勇ちゃんの
叔父さんの
家は、ここから
近かったのです。
村の
端にあった、お
医者さまでした。
内科だけでなく、
目も
診察するのでした。
勇ちゃんと
徳ちゃんは、
正ちゃんの
手を
引いて、
勇ちゃんの
叔父さんの
家へいきました。
叔父さんは
夜の
往診からちょうど
帰ってきたばかりでした。
「どれ、どれ。」といって、
正ちゃんの
目を
見て、
水で
洗ってくれました。そして、
薬をさしてくれました。
「どう、もうなんともないだろう。」
正二は、
目を
開けると
勇ちゃんの
叔父さんは
笑っていました。
「
叔父さん、お
化けごっこをして、
僕が
土を
投げたんだよ。」
「
乱暴をして、
目の
中へ
土を
入れたりしてわるいじゃないか。」
叔父さんは、
正二のポケットからのぞいている
般若面を
見つけて、
「これを
被ったんだな。」といいながら、
引き
出して
自分で
被るまねをしました。みながひょうきんな
叔父さんの
顔を
見て
笑いました。
それから、三
人は、
話しながら
暗い
道を
帰りました。
「
光ちゃんは、どうしたろうか。」
「もう、ねんねしたろう。
光ちゃんは、
臆病だね。」
「
勇ちゃんもおっかなかったろう。」
「
僕、
徳ちゃんが、
大騒ぎをしないから、きっとだれかいたずらをしているのだと
思ったよ。」
「いたずらなんかして、ばかをみてしまった。」と、
正二は、
後悔しました。このとき、
木の
枝に
当たる
風が、いつもとちがって
強かったのでした。
「二百
十日の
風だね。」と、
徳ちゃんが、いいました。
思い
思いに、
空を
仰ぐと、
星の
光が、
見えたり
隠れたりしました。
雲が
走っていたからです。
「
明日は、
土曜だから、
学校から
帰ったら、
川へいって、
魚捕りをしよう。」と、たがいにいって、
別れました。
正二は、
夜中にふと
目をさますと、ゴウゴウといって、
風の
音がしています。
「
風が
西へまわったから、
雨になるかな。」と、
庭の
方で、おじいさんの
声がしました。
「おじいさまは、
起きていらっしゃるのだろうか。」と、
正二は
耳をすましていると、たなの
上の
植木鉢を
下ろして、
家の
内へ
入れているようすでした。おじいさんは、
実のついたざくろから
先に
入れられたであろうと
思いました。
「ざくろのつぎにはどれかな。」
正二は、
寝ながら、いろいろあった
植木鉢のことなど
考えました。「
梅か、それとも
松かな。」そんなことを
空想しているうちに、いつかまたぐっすりと
眠入ってしまいました。
夜が
明けました。けれども、まだ
風の
音がしています。
正二は
起きて
庭先へ
出てみると、いろいろの
木の
葉が、
無理に
引きちぎられたように、
庭一
面に
散らばっていました。そして、
百日紅の
花が、ふさのつけ
根からもがれていました。
学校へいく
時分には、
風はいくぶん
衰えたが、
頭の
上の
空には、まだものすごい
雲が
後から
後から
駆けていました。
正二は、
途中で
同じ
組の
年雄くんに
出あいました。
「
年ちゃん、ひどい
風だったね。」
「はとが
帰らないのだよ。」と、
心配そうな
顔つきをして、
年雄くんがいいました。
「えっ、はとが。」と、
正二は、
驚きました。
「
昨日、
兄さんが、
静岡の
方から
放したのさ、それがまだ
帰ってこないのだ。」
「
風に
出あって、どっかに
休んでいるんだろう。」
「千キロの
記録があるのだけど、もう
年をとっているから
心配なんだよ。」
正二も、
年雄くんの
家のはとのことが
気にかかったので、
学校から
帰っていってみました。だが、まだ、はとは
帰っていませんでした。
川の
堰はらいが
延びたというので、
年雄くんと
二人で、
村の
端を
散歩すると、
昨夕入った
畑のとうもろこしがだいぶ
倒れて、
頭の
上にひろがった、
青い
空が
急に
秋らしく
感じられたのです。