昔は、いまよりももっと、
松の
緑が
青く、
砂の
色も
白く、
日本の
景色は、
美しかったのでありましょう。
ちょうど、いまから二千
年ばかり
前のことでありました。
三保の
松原の
近くに、
一人の
若い
舟乗りがすんでいました。ある
朝のこと、
東の
空がやっとあかくなりはじめたころ、いつものごとく
舟を
出そうと、
海岸をさして、
家を
出かけたのであります。
まだ、おちこちの
森のすがたは、ぼんやりとして、あたり一
面の
畑には、
白いもやがかかっていたけれど、
早起きのうぐいすや、やまばとは、もうどこかでほがらかに
鳴いていました。そうして、あちらの
空には、
富士山が、
神々しく、くっきりと
浮かびあがって
見えました。
これを
仰ぐと、
若者は、つつましげにえりを
正して、
手を
合わせながら、
「どうぞ、
今日も
私のからだに、けが、さいなんなく、おかげで、しあわせにくらせますように。」と、いいました。
こう
祈りをささげると、なんとなく
心がすがすがしく、
気もちもはればれとして、しぜん、ふみ
出す
足に
力が
入りました。
このとき、どこからともなく、ぷんと
松のにおいがしました。いつのまにか、
松原へさしかかっていたのであります。
木の
間から、びょうびょうとして
見える
海の
色、おだやかな
波のうねり
······。
大海原は、まだよくねむりからさめきらぬもののようでした。
「おや。」といって、
若者はとつぜん、
歩みをとめました。なぜなら、いくぶんもやのうすれかかった
前の
方に、ふしぎなものが
目にとまったからです。なんだか、まぶしいものが、一
本の
松の
木の
枝にかかっていました。いままで
見たこともないようなものです。
「
尾の
長い
鳥かしらん。それにしては、なんときれいな、
大きな
鳥だろう。」と、
若者は、
目をみはりました。
鳥がとまっているのなら、
近づけば
逃げるだろうと、ちゅうちょしつつ、
若者は、じっとようすをうかがいましたが、さらに、
飛び
立つけはいがなかったのでした。そうして、
風にひらひらとゆれるのを
見ると、うすい
着物のようにも
思われました。
「とにかく、いって
見とどけよう。」と、
若者は
用心しながら、
一足、
一足、それへ
近づいたのです。
ひくくたれさがった
松の
枝にかかっているのは、はたして、かがやかしい、すきとおるような、
女の
着物でありました。はなれて
見ると、まぶしい
光をはなち、にじのかかったようでありました。かすみを
切ったようにも
思われるのでありました。
「いったい、この
着物は、だれのものであろうか。」
若者は、
頭をかしげ、
思案にくれました。
松原の
中は、しんとして、ときどき、
小鳥の
鳴き
声が
聞こえるくらいのもので、あたりを
見まわしても、まったく
人のいるような
気はしませんでした。
若者は、はじめて
見るものだけに、さわるのが
恐ろしくもあれば、また、あまりきれいなので、
手をつけては
悪いような
気さえしましたが、ついに、もの
珍しさのあまり、
勇気を
出して、
自分の
手に
取り、つくづくとながめたのでした。
「これは、
人間などの
着るものでない。
天上高く、わしかたかが、どこからかくわえてきて、ここへかけていったものだろう。なんにせよ、またと
得がたい、とうといものだ。こんな
宝が
手に
入るとは、なんという
自分は
幸せものではないか。
村の
人たちに
見せたら、さぞ、うらやむことだろう。」と、
若者は、ほくほく、よろこびました。
その
着物をおしいただいて、いまやそこを
立ち
去ろうとしたときであります。うしろへ
小さな
足音がして、
鈴をふるような、さわやかな
声で、
「もし、もし。」と、
呼びかけたものがありました。
おどろき、ふり
向くと、
若者は二
度びっくりしました。なぜなら、そこには
目のさめるような、
美しい
女の
人が
立っていました。
「それは、
私の
着物でございます。どうぞ、お
返しくださいまし。」と、その
美しい
人はいいました。
その
声を
聞き、その
姿を
見て、これが、この
世の
人であろうかと、
若者は、
自分の
目をうたがわずにはいられませんでした。すぐには、
返す
言葉も
出なかったのです。
「その
着物を、どうぞお
返しくださいまし。」と、
女は
重ねていいました。
若者は、
着物の
持ち
主がわかると、いままでの
楽しかった
夢が
破れて、がっかりしました。またと
手に
入らぬ
宝と
思えば、なおさら
惜しかったのです。
若者は、
「せっかく、
私が
拾いましたものを、どうぞ、
捨てたとあきらめなされて、これを
私にくださいませんか。」と、
頭を
下げて
頼みました。
こう
聞くと、
女は、ぱっちり
目をみはって、さも、たまげたというようすで、
「なんとおっしゃられます。その
着物を、どうしてあなたにさしあげられましょう。それを
着なくては、
私は
空へ
帰ることができません。」と、
答えました。
「や、や、それなら、あなたは、まさしく
天女でいらっしゃいますか。
道理で、
人間にしては、あまりりっぱすぎると
思いました。」と、
急に
若者は、ようすをあらためました。
知らぬ
人から、こうして
見られるのを、さも
恥ずかしげに、
天女は、ただうつ
向いていました。
「
話に
聞く
天女の
羽衣とは、これでございますか。」
「さようでございます。」
たぐいなく
美しいと
思うのもそのはず、
天女であったかと、
若者の
感動は、しばらくしずまりませんでした。けれど、
天女は、
天にいるものとばかり
信じたのを、どうしてこんなところへ
降りたのであろうか、と
聞かずにはいられませんでした。
「あなたは、どうしてこんなところへお
降りになったのですか?」と、
若者は
天女に
向かって、たずねました。
天女は、こう
問われると、ためらいながら
顔をあげ、
「ここの
景色があまりみごとなものですから、つい
降りてみる
気になりました。」と、
答えたのであります。
美しいものに
見とれるのは、ひとり
人間ばかりでなく、
天にすむ
天女も、おなじであるのを
知ると、
自分がきれいな
羽衣をほしく
思うのも、
悪いことではないような
気がして、
若者は、そのうえともしつこく、
天女に
向かって
頼みました。
「ごむりのお
願いかもしれませんが、このきれいな
着物を、どうぞ、
私におあたえくださいまし。ながく
我が
家の
宝にしたいと
思います。」
これを
聞いて、
天女はあきれたのであろう。が、しばらく
言葉もありませんでした。
「どうしても、お
許しになりませぬか。」と、
若者がいうと、
天女の
顔には、
悲しみの
色がただよって、ついに
口をひらきました。
「その
着物を
着なくては、二
度と
天へは
帰れません。
人間には
役にたたぬものですが、
天女には、なくてはならぬ
着物でございます。」といって、うつむきました。
若者は、
片言も
聞きもらすまいと、
耳をかたむけていましたが、
天女が、
羽衣を
着なければ
天に
帰れぬといったので、これはなんたる
自分にとって、しあわせなことであろう。そうすれば、この
美しい
人を
村へつれもどって、いつまでも、とめておくことができると
思ったのでした。
「そう
聞けば、なおさら、この
着物をお
返しすることはできません。」
「それはまた、どうしたことでございますか。」
天女は、おどろいて
顔を
上げ、
目をぱっちりとひらいて、
若者を
見ました。
「
羽衣より、あなたのほうが、もっともっと
美しいのであります。
羽衣がなければ、
天へ
帰れぬとお
聞きしては、あなたを、いつまでもおとめしたいばかりに、
羽衣をお
返しすることができなくなりました。」と、
若者は
正直に
申しました。
天女のからだは、
恐ろしさのあまりふるえ、
顔色は
青ざめて
見えました。これを
見ると、
若者は、こういったのも、
天女のような
美しい
人のそばにいたいためであり、
少しも
悪い
心からではないのだ。どうか、それを
天女にさとってもらいたいと
思いましたので、
「
天女さま、こう
申しますのも、お
恥ずかしい
話ながら、
私はまだ、ひとり
者なのでございます。もし、あなたさえご
承知になって、
私の
妻におなりくださるならば、あなたのために、この
命もささげます。ただ、
人間の
身として、
天上のあなたをお
慕いするのは、つつしみのないことかもしれませぬけれど、
美しいものを
愛する
心に、
神も
人もかわりないならば、どうぞ、
私の
願いをお
聞き
入れくださいまし。」と、ねんごろにうったえました。
天女は、にごりけのない
若者の
心に
感動するとともに、
自分にも
落ち
度があったのをさとりました。こんなことになるのも、
自分の
軽率からであった。うかうかと、
地上へ
下りさえしなければ、
何事もなかったと、
後悔しました。
富士山は
紫色をおび、ゆったりと
長くすそを
引いていました。その
広いすそ
野のふちを、
青黒い
色の
海が、うねりをあげ、そして、もやのかかる
松林や、
白い
砂の
浜辺は、
浮き
織りの
模様のように
見えるので、さすがに
天女も、しばらくはわれを
忘れて、
見とれずにはいられませんでした。
天女は、それが、こうしてわざわいを
招くとも
知らず、
袂をひるがえすと、さっさとくじゃくの
舞うように、
人間のいぬのを
幸いに、
松原へ
降りたのであります。
すると、しめった
土のさわやかさ、
水晶をくだく
海の
水、
天女は、
心いくばかりそれに
親しまんものと、
足にまつわる
羽衣をぬいで
松の
枝へかけ、はだしのまま、なぎさの
方へ
走ったのでした。
そして、
冷たい
水に
足をひたしながら、ささやきつつ、
寄せては
返すさざ
波を
相手としてたわむれ、いつしか、
時のたつのを
忘れていたのでありました。そのうち、
東の
空がほんのりと
赤く
色づきました。それを
見て、
天女は、はじめて
朝日の
上がらぬうち、
天へ
帰らなければならぬと
気づき、
羽衣をとりに、
松原へ
引き
返したのでした。
ところが、その
大事な
羽衣は、いつのまにか、
人間の
手に
入っていました。このとき、
若者は、
「これほどお
願いしても、まだなんともおっしゃらぬのは、
私の
心がおわかりにならぬからでございますか。」と、
悲しそうにいいました。これを
聞くと
天女は、
「いえ、なんで、わからぬことがございましょう。
天と
地とわかれていても、
情けにかわりもなければ、また
善し
悪しや、
喜びや
悲しみにも、ちがいはないのでございますものを。」と、
答えたのでした。
「それなら、なぜ、
私の
願いを
聞いてはくださいませんか。」と、
若者は、いきいきとした
目を
天女に
向けました。
天女はためらいながら、
「
空にいる
私は、まったく、
地上のくらしを
知らないのでございます。」といいました。
「さっき、
情けにかわりはないと、おっしゃったではありませんか。」
「そう
申しましたのも、あなたの
真心がよくわかり、うれしく
思ったからです。そう
思えばこそ、なおさら、あなたを
幸せにしなければなりません。まったく、この
地上のくらしを
知らぬ
私に、なんで、あなたを
幸せにすることができましょう。」
「いえ、いっしょにいてさえくだされば、それで
私は
満足します。またそれが、どれだけ
私を
力づけるかしれません。
私は、
山へいって
薪もとってくれば、
海へ
出て
魚もとってきます。すこしもあなたに、ご
不自由をばさせません。」と、
若者は、あくまで
思いを
通そうとしました。
あわれな
天女は、なやみにたえかねてか、
顔には
花の
色があせ、
青白く、
急に
姿がやつれて
見えました。
これを
見ると、
若者は、
天女をいたいたしく
感じたのでした。そして、なんとなく、じっとしていられなくなりました。
「
天女さま、
私が
悪いのでございます。わがままをいって、あなたを
苦しめて
申しわけがありません。どうぞ、お
許しくださいまし。」と、
頭をひくくたれました。
すると、
天女は、
頭を
上げて、
「
人間は
人間のつとめをはたして、とうといのであります。もし、だれでもその
道をあやまるなら、どんな
不幸が
起こらぬともかぎりません。それゆえ、
早く
私を
空へ
返してください。」と、
目に
涙を
浮かべていいました。
若者は、
天女のどこまでもやさしく、
正しいのに
感心しました。そして、
自分が
悪かったのをさとると、こうして
立っているのさえ、なんとなく
気恥ずかしくなったのです。
「あなたは、
天にいらして、なにをなさっていられますか。」と、
若者は
聞きました。
「
私は、
神さまにお
仕えしています。
雲の
上にて、五
色の
機を
織ります。また、
神さまのお
使いで、ときどき、
星の
世界から
星の
世界へと、
飛びまわることもあります。」と、
天女は
答えました。
若者は、ていねいに
羽衣を
天女の
前へさし
出しながら、
「どうぞ、これをお
受け
取りくださいまし。ついては、こんなお
願いをするのも、まことにあつかましい
話ですが、せっかくのお
名残に、せめていつまでも、
美しい、
正しいあなたに、お
目にかかった
思い
出となるような、なにかおしるしをいただきたいのですが、かなわぬ
願いでございましょうか。」
「
私の
持ちますものは、すべて、この
羽衣のように、にじやかすみを
織って
作ったものだけに、
人間の
手にわたれば、いつまでも、
形となって
残ったことはありません。
下界にすさぶあらしや
雨にさらされるなら、たちまち、
破れてしまうでしょう。しかし、あなたのような
正直な
方には、
私のおあたえしたものは、いつまでも
心のうちへ
残り、あなたの一
生を、
楽しくおくらしさせることができましょう。」といいました。
「まあ、それは、どんなとうとい
品でございますか。」
「いえ、
形のあるものではございません。いまも
申しますように、
形のあるものは、いつか、やぶれくずれるものであります。
形がなくなって、
心に
残るものこそ、いつまでもこわれることのない
宝であります。」
「と、
申します
宝とは?」
「
人間の
考えでは、
絵にすら
書けない
天女の
舞を、ごらんに
入れたいと
思います。」
こう
聞くと、
若者の
顔は、
急にはればれしくなって、にっこり
笑い、
「
見たものは、この
世の
心配や、
年を
忘れると、
昔話に
聞いたが、まだだれも
見たと
聞かぬ
天女の
舞でございますか。それはありがたい。」といいました。
このとき、たちまち、どこからともなく
起こる
笛の
声、それと
相和す
太鼓の
音、
若者は、おもわず
頭をめぐらして、その
美しい
音色にうっとりと
聞きほれました。
見れば、もう
天女の
姿は、
空へと
浮かんでいました。
若者が、「あれよ。」というまに、
天女の
長い
袂はひるがえって、
若者のかしらの
上へたれさがり、そのはしが、
手でとらえられそうなところまでくると、ふたたび、まき
上がる
雲のように、
高くはなれて、
音楽も
急調子にはずみ、それといっしょに、しばらく、はげしく
舞いくるったのであるが、いつしか、しだいに
高く
高く、そのまま
姿は
遠く
小さくなり、ついに、かすみの
奥深く
消え
去ってしまったのであります。
いつのまにか、
美しい
音楽の
音もやんで、ただ、そよそよと
吹く
朝風のうちに、
音楽の
音が、いつまでもただよっていたのでありました。
浜辺の
砂の
上に、じっとしてすわっていた
若者は、やっと
夢からさめたように
立ち
上がり、
方々を
見まわしましたけれど、もうどこにも、
天女の
姿もなければ、
羽衣のかげもありませんでした。
そして、
広々とした
海原と、
青い
松林と、いつにかわらぬ
富士山があるばかりでした。
若者は、その
後、
長い一
生を
正しく、
楽しく
送ることができました。
彼は、
仕事につかれたときなど、いつも
大空を
仰いで、
天女を
思い
出しました。すると、ふしぎや、
天女は
雲の
上から、
星のような
目で
下界を
見つめて、なぐさめ、はげましてくれたのであります。