春さきの朝のこと

　外（そと）は寒（さむ）いけれど、いいお天気（てんき）でした。なんといっても、もうじき、花（はな）が咲（さ）くのです。私（わたし）は、遊（あそ）びにいこうと思（おも）って、門（もん）から往来（おうらい）へ出（で）ました。すると、あちらにせいの高（たか）い男（おとこ）の人（ひと）が立（た）っています。いま時分（じぶん）、戦闘帽（せんとうぼう）をかぶり、ゲートルをしているので、おかしく思（おも）いましたが、

「まて、この人（ひと）は、復員（ふくいん）したばかりでないのか。そして、たずねる家（いえ）がわからぬのでさがしているのではないか。」

　こう、考（かんが）えなおすと、私（わたし）は、しばらく、そのようすを見（み）まもったのでした。どうやら、この人（ひと）は、頭（あたま）の上（うえ）のさくらをながめているのです。

「ああ、ぶじに帰（かえ）って、母国（ぼこく）の花（はな）を見（み）るのが、なつかしいのだろう。」

　こう思（おも）うと、私（わたし）は、その人（ひと）の気持（きも）ちに同情（どうじょう）して、そばへ、いきたくなりました。私（わたし）はつい、近（ちか）づいて、いっしょに立（た）ちながら、枝（えだ）を見（み）あげました。いつのまにかつぼみは、びっくりするほど、大（おお）きくなっていました。下（した）を通（とお）っても、気（き）がつかなかったなあと、思（おも）っていると、

「つぼみのさきが赤（あか）くなりましたね。」と、ふいに、おじさんが、私（わたし）に、話（はな）しかけました。

　なんだか、私（わたし）は、うちとけた気分（きぶん）になれて、

「おじさんは、いまごろ復員（ふくいん）なさったの。」と、聞（き）きました。

「そう、けさ、ついたばかりさ。しかし、花（はな）をこうして、二度（ど）見（み）られるとは思（おも）わなかったよ。」

　おじさんは、私（わたし）を見（み）て、ほほえみました。

「きみ、学校（がっこう）は何年生（なんねんせい）になったの。」

「五年生（ねんせい）。」

「そうかい、ほんとうに、子（こ）どもだけは、いいな。」と、おじさんは、いいました。

「どうして、子（こ）どもだけがいいの。」と、私（わたし）は、聞（き）きかえしました。

「きみ、ちっと、ここへかけない。」と、おじさんは、かきねの外（そと）がわの、切（き）り石（いし）の上（うえ）へ、自分（じぶん）がさきに腰（こし）をおろしました。けれど、私（わたし）は、その前（まえ）に立（た）って、おじさんの顔（かお）を見（み）ていました。

「子（こ）どもを、すきなわけを話（はな）そうかね。それは、どこへいっても、子（こ）どもは、しょうじきで純真（じゅんしん）だからさ。こちらへ、帰（かえ）ってみて、おどろいたのは、だれにあっても、こせこせして、顔（かお）にやさしみというものがない。戦争前（せんそうまえ）までは、あれほど、礼儀（れいぎ）正（ただ）しかったのがと、なにかにつけ、昔（むかし）が思（おも）いだされてなさけなくなる。戦争（せんそう）は、形（かたち）のあるものを焼（や）いたりこわしたり、したばかりでなく、人間（にんげん）の心（こころ）の中（なか）まですさましてしまったのだ。いま、ここに立（た）っているちょっとのあいだも、いやなことばかりだよ。」と、おじさんがいいました。

　私（わたし）は、いまと聞（き）いて、どんないやなことが、あったのか、知（し）りたかったので、

「どんなこと。」と、おじさんに、聞（き）きました。きっと、おじさんは、教（おし）えてくれるだろうと思（おも）ったから。

「このごろは、あきすや、どろぼうが、横行（おうこう）するというから、むりもないが、ここを通（とお）るものが、みんな私（わたし）の顔（かお）をつめたい目（め）つきで見（み）ていく。そうかと思（おも）うと、まだ働（はたら）きざかりのわかものが、きょろきょろした目（め）つきで、道（みち）に落（お）ちたものをさがしながら、わき見（み）もせずつきあたりそうにしていった。あれが、ひろい屋（や）とかいうんだね。まったく、なさけなくなったよ。もし、きみがやってこなければ、さびしかったよ。きみは、ぼくの心（こころ）がわかったように、いっしょに、花（はな）をながめてくれた。これで、やっと、すくわれたというものさ。」

　私（わたし）は、こう聞（き）くと、きのどくに思（おも）いました。やっと、遠方（えんぽう）から帰（かえ）ってきて、同情（どうじょう）するものがなかったら、力（ちから）のおとしようは、どんなかと思（おも）うからでした。

　このとき、おじさんは、たばこを出（だ）して、マッチをすりました。その青（あお）い煙（けむり）が、毎夜（まいよ）の霜（しも）にやけて、赤（あか）くなった、さっきの木（き）をかすめて、ゆるくながれました。

「おじさんのおうちは、どこなの。」と、私（わたし）は、それを知（し）りたかったのです。

「こちらで、戦争（せんそう）にいくまで、働（はたら）いていた工場（こうじょう）は、どうなったかと、すぐ見（み）にいったのだが、あたりは、まったく焼（や）け野原（のはら）になっていた。しかたがない、これから、いなかへ帰（かえ）るよ。」

「おじさんのいなかは、どこなの。」

「ずっと北（きた）の寒（さむ）い国（くに）だ。まだ、雪（ゆき）があって、花（はな）どころではないだろう。それからみれば、きみたちは、あたたかなところに生（う）まれてしあわせなものさ。学校（がっこう）から帰（かえ）るとどんなことをして遊（あそ）ぶの。」と、おじさんが聞（き）きました。

「ぼくたち、こまをまわしたり、ボールを投（な）げて遊（あそ）ぶよ。」と、私（わたし）は、答（こた）えました。

「そうかい。どこの子（こ）どももおんなじだね。ぼくなども、夕焼（ゆうや）けのした、春（はる）の晩（ばん）がた、お寺（てら）の鐘（かね）のなるころまで、よく、かくれんぼうをして遊（あそ）んだものだ。そして、おそく帰（かえ）って、しかられた。あんなおもしろかったことは、もう大（おお）きくなってからない。きみも、よく勉強（べんきょう）をして、よく、お遊（あそ）び。」

　私（わたし）は、いいおじさんだなあと、思（おも）いました。おじさんは、思（おも）いだしたように、

「さくらの花（はな）ざかりもきれいだが、すももの花（はな）ざかりも、きれいなものだよ。」と、その景色（けしき）を目（め）にうかべるように、しみじみとしたちょうしで、いいました。

　私（わたし）は、まだよくすももの花（はな）を知（し）らないので、想像（そうぞう）がつきませんでしたが、

「白（しろ）い花（はな）。」と、聞（き）きました。

「まっ白（しろ）で雪（ゆき）のような花（はな）さ。それが満開（まんかい）の時分（じぶん）はちょうど、一村（そん）が銀世界（ぎんせかい）となる。中国（ちゅうごく）のいなかには、すももばかりの村（むら）があるよ。すももの木（き）に馬（うま）をつないで、休（やす）んだときのことだ、村（むら）の子（こ）どもがおおぜいそばへよってきて、はじめは、えんりょして、だまって見（み）ていたが、すこしなかよしになると、馬（うま）に乗（の）せてくれといってきかない。そのようすが、あまりむじゃきで、かわいいので、つい一人（ひとり）乗（の）せてやると、こんどはおれの番（ばん）だ、おれにもといって、つぎつぎに前（まえ）へ出（で）る。しかたがないから、公平（こうへい）に、かわるがわる、乗（の）せてやると、なかには馬（うま）をひいて歩（ある）かせてくれというのもある。子（こ）どもは、しょうじきだ、思（おも）ったとおりいうのだな。ただ一人（ひとり）、どうしても、馬（うま）に乗（の）らない子（こ）があった。乗（の）せてやるといっても、あとずさりする。どこにもこういう気（き）の弱（よわ）い子（こ）がいるものだ。その子（こ）は、いちばんかわいらしい女（おんな）の子（こ）みたいな、顔（かお）をしていた。国（くに）はちがっても、人情（にんじょう）や、子（こ）どもの遊（あそ）びに、ちっともかわりはない。たとえ、おとなどうしが、けんかをしても、子（こ）どもどうしは、関係（かんけい）なく、いつだってお友（とも）だちになれるよ。」と、おじさんは、心（こころ）が明（あか）るくなったような、話（はなし）をしてくれました。

　こう聞（き）くと、私（わたし）は、なぜおとなどうしは、たがいに、りくつをいわなければならないのだろうと、ふしぎな気（き）がしました。

「世界（せかい）じゅうの子（こ）どもが、もう戦争（せんそう）はしたくないと、お友（とも）だちになればいいんだね。」

　私（わたし）は、波（なみ）のかがやく、遠（とお）い海（うみ）のあちらの、美（うつく）しい花（はな）の咲（さ）く国（くに）を思（おも）いました。

「ああ、そうだとも、そうだとも。そうすれば、きみたちの時代（じだい）には、いやな戦争（せんそう）というものがなくなるのだ。」

　おじさんは、戦場（せんじょう）のことでも思（おも）ったのか、ちょっとさびしい顔（かお）をして、ためいきをしました。それから、立（た）ちあがりました。

「きみは、からだに気（き）をつけて、よく勉強（べんきょう）をして、いい子（こ）になっておくれ。」と、おじさんは、いいました。

「おじさん、もういくの。」と、私（わたし）は、なんだか、別（わか）れるのが、かなしくなりました。

「これから停車場（ていしゃじょう）にいって、汽車（きしゃ）に乗（の）るのだよ。こちらへきたら、また、あえるかもしれない。」

　おじさんは、ちょっと、私（わたし）に、会釈（えしゃく）して、あちらへ去（さ）りかけました。私（わたし）が、ていねいに頭（あたま）をさげて、いつまでも、うしろすがたを見送（みおく）りました。

「ああ、またあえるというが、それは、いつのことだろう。」