村からすこし
離れた、
山のふもとに
達吉の
家はありました。
彼は
学校の
帰りに、さびしい
路をひとりで、ひらひら
飛ぶ
白いこちょうを
追いかけたり、また、
田のあぜで
鳴くかえるに
小石を
投げつけたりして、
道草をとっていたこともあります。そして、
裏の
松林にせみの
鳴いている、
我が
家が
近づくと
急になつかしくなって、
駈け
出したものでした。
父親というのは、
体つきのがっちりした、
無口の
働き
者でした。
今日じゅうに、これだけ
耕してしまおうと
心で
決めると、たとえ
日が
暮れかかっても、
休まずに
仕事に
精を
入れるという
性質でしたから、
村の
人たちからも
信用されていました。ところが
事変の
波は、こうした
静かな
田舎へも
押し
寄せてきました。
彼には
召集令が
下ったのであります。カーキ
色の
服に
戦闘帽を
被って、
赤いたすきをかけた
父親は
肩幅の
広い
姿勢を
毅然として、
日の
丸の
旗を
持ったみんなから
送られて、
平常は、あまり
人の
通らないさびしい
路を、
町の
方へといったのでありました。それは、ついこのあいだのことと
思ったのが、はや二
年ばかりになりました。そして、その
父親が、
中支の
戦線で、
激戦の
際、
戦死を
遂げたという
知らせがとどいたので、さすがに、
家のものはじめ、
村の
人々は、まったく
夢のような
気がしたのであります。あの
健康な、
意志の
強い
男が、もうけっして、もどることがないと
思ったからでした。
達吉の
母親は、やせ
形な、
女らしい、
優しい
性質の
人でした。
父親が、いなくなってから、
達吉は
学校が
退けて、
途中から
友だちと
別れて
一人ぼっちで
帰ると、こんど
父親に
代わって
母親が、
手ぬぐいを
被ってうつむきながら、たんぼで
野菜の
中に
埋もれてせっせと
働いているのを
見ました。
しかるに、この
母親とも
別れた。
達吉は、いつになっても、その
日のことを
考えるとたまらなくなるのでした。それは、
父親の
戦死を
聞いたときよりも、もっと
悲しさが
深く
胸に
迫ってくるのでした。
母親は、まくらもとへ
達吉を
呼びました。
「もし、
私が
病気で
死んだら、おまえは、
東京の
伯父さんのところへいくのだよ。
伯父さんも、いい
人だから、よくいうことをきくのだよ。」
そのとき、
母親の
目から、
涙が
落ちて、
黄色なほおを
伝って、まくらをぬらしたのです。
「お
母さん、
死んじゃいやだよ。」と、
達吉は、
急に
大きな
声で
泣き
出しました。すると、てつだいにきていた、
村の
女の
人が、あわててへやへ
入ってきて、
「なんで、お
母さんが、
坊だけ
残して
死になさるものか。じきによくなって、
起きなさるから、さあ、すこしあっちへいって
遊んできなさいね。」と、
外へ
抱くようにして、つれていったのでした。
その
夜であった。すさまじい
北風が
吹き
募った。
秋の
深くなったという
知らせのように、
風はヒュウヒュウと
叫んで、
野原をかすめ、
林の
頭をかすめて、
木や、
枝についている
葉をことごとくもぎとっていったばかりでなく、いっしょに
達吉の
母親の
命もさらっていったのです。
翌朝、
東京からきた、
伯父さんが
着きました。そして、
数日の
後には、
達吉は、その
伯父さんにつれられて、
思い
出の
多い、
自分の
生まれたこの
村から
去らなければならなかったのでした。
伯父さんの
住んでいる
町は、
都会の
片端であって、たてこんでいる
小さな
家々の
上に、
雲のない
空から
日が
照りつけていました。
店にブリキ
板がすこしばかり
置いてあるだけの
貧しい
暮らしであったが、
子供がないところから、
伯父さんも、
伯母さんも
達吉をかわいがってくれました。
「なに、
工場などへいかなくたって、
家にいて、
俺の
手助けをすればいい。」と、
伯父さんは、やっと
高等小学校を
出たばかりの
達吉を
少年工として、たとえこのごろは
景気がよくても、
工場へやるのにしのびませんでした。
「ああ、それがいいよ。」と、
伯母さんも、いっていました。
隣家は、
薪炭商であって、そこには、
達吉より二つ三つ
年上の
勇蔵という
少年がありました。
「おい、
達ちゃん、リヤカーに
乗せてやろうか。これから、この
炭をとどけにいくのだから。」と、
道の
上に
茫然として
立っている
達吉を
見つけて、
声をかけました。
「そして、
帰りに、
梅の
実をもいでこようよ。」と、
勇蔵は
元気にいいました。
達吉は、リヤカーに
乗せてもらって、
車の
上から、はじめて
見る
町の
景色を
物珍しそうにながめていました。
勇蔵は、
品物の
配達を
終わると、
軽くなったリヤカーをさらに
勢いよく
走らせて、
町を
突っ
切り、
原っぱへと
出ました。
広々とした
原っぱには、一
角に
屋敷跡のようなところがあって、
青々とした
梅林には、
実がたくさん
生っていました。
「あれごらんよ、すっかり
種子が
固まっているのだぜ。」と、
勇蔵が、
酸っぱそうな
口つきをして、いいました。
達吉の
目の
中に、このとき、
北方の
憂鬱な
黒い
森の
景色がよみがえったのだ。そこは、
自分の
生まれた
村である。いまも、
陣々として、
頭の
上を
吹く
風の
中に、たんぼの
野菜の
葉が
白い
裏を
返すのである、そして、やつれた
母の
涙ぐんだ
顔が
浮かぶのでありました。
「なにをぼんやりしているんだい。
達ちゃんは、
実を
拾わないの。」と、
勇蔵は、
棒きれを
枝に
向かって
投げつけると、
雨のように、
白いうぶ
毛のある
円い
実が、ころころと
足もとにころげて
落ちました。
「
炭も、
煉炭も、じき、
切符制度となって、
僕も
仕事がなくなるから、
工場か、
会社へ
勤めようと
思っているのさ。」と、
帰りに
勇蔵が、
達吉に
話しました。
「
自分は、
田舎にいれば、いまごろ、くわを
持って百
姓をしているんだが。」と、
達吉は
考えました。
ある
日、
伯父さんは、
外出の
支度をしながら、
「
懇意の
准尉さんで、
陸軍病院に
入っていなさるのを、これからみまいにいくのだ。
達吉も、いっしょにこないか。」と、いいました。
達吉は、
父親が
戦死してから、
戦争にいった
兵隊さんに
対して、なんとなくいいしれぬ
親しみをもつようになったのでした。
「ひょっとしたら、お
父さんのことが
聞かれるかもしれない。」と、
思ったので、
飛び
立つように
喜びました。
ひでりつづきの
後なので、
坂道を
上ると、
土のいきれが
顔をあおって、むせ
返るように
感じました。一
面に
白く
乾いて、
歩くとほこりが
立ち
上りました。
伯父さんは、
幾たびとなく
休み、
額からにじむ
汗をふきました。
「ちっとも
風がないな、
一雨くるといいのだが、
毎日降りそうになるけれど
降らない。」と、ひとりごとのように、
伯父さんは、いいました。
木々の
葉が、てらてらとして、
太陽の
熱と
光のためにしおれかけて、
力なく
垂れているのが
見られました。そして、せみの
声が、
耳にやきつくようにひびいてきました。
「あの、
高い、
白い
家が
病院だ。」と、
伯父さんは、
彼方の
森の
間に
見える
大きな
建物を
指しました。
二人は、いつかその
病院の
病室へ
案内されたのでした。
准尉は、
白い
衣物のそでに
赤十
字の
印のついたのを
被て、
足を
繃帯していました。その二
階から、ガラス
窓をとおして、
下の
方にはるかの
町々までが、さながら
波濤のつづくごとくながめられました。
伯父さんと、
兵隊さんと
話している
間に、
日の
光が
陰って、
空は
雲ったのでした。たちまち
起こる
風が、
窓の
際にあったあおぎりの
枝を
襲うと
葉はおびえたつように
身ぶるいしました。
「たいへんに
暗くなった、なんだか
夕立がきそうですね。」と、
准尉が、いいました。
伯父さんは、だまって、
目を
遠くの
地平線へ
馳せていました。そのほうには
乱れた
黒雲がものすごく
垂れさがって、
町々が、その
雲のすそに
包まれようとしていました。どこかの
煙突から、
立ち
上る
白い
煙が、
風の
方向へかきむしられるように、はかなくちぎれています。ぴかりと
光ると、
達吉は、はっとして、
「
雷だ!」と
思った
瞬間に、
鼓膜の
破れそうな
大きな
音が
頭の
上でしだして、
急に
大粒の
雨が
降ってきました。また
光った! そのたび
大空が、
燃えるように
青白いほのおでいろどられて、
明るく
家屋も、
木立も、
大地から
浮き
上がって
見られた。
「これは
不気味な
天候になったものだ。」
伯父さんは、あっけにとられながら、やっと
口をききました。そのとき、
達吉が、
准尉の
顔を
見ると、
戦地へいってきた
兵隊さんだけあって、いささかのおじ
気も
色に
見せるどころか、かえって
微笑んでいました。
「
戦争のときは、こんなですか?」
達吉は、ぴかり、ゴロゴロ、ド、ドンという
電光と
雷鳴のものすごい
光景に、
父が
戦死したときのことを
想像して、つい
思ったことを
口に
出して、きいたのであります。すると、
准尉は、
「まったく、これと
同じです。すこしも
違いがありません。
徐州攻撃のときなどは、もっとひどかったです。」
「ほ、ほう、こんなですかな。」
「なにしろ、
砲弾が
炸裂すると、たちまち
目の
前が、
火の
海となりますからね。」
達吉は、あの、みんなから
送られて、さびしい
田舎道をいった
父親の
姿を
思い
浮かべました。
苦しくなって、
熱いものが
胸の
裡にこみあげてきました。しかし
自分は、いま
兵隊さんの
前にいるのだと
気がつくと、
彼は、
我慢して、じっと、
雷鳴の
遠ざかっていく
空を
見つめていました。そのうちに、
雲が
切れて、
青い
空があらわれはじめたのであります。
薪炭屋の
勇蔵は、いよいよ
昼間は
役所の
給仕を
勤めて、
夜は、
勉強をするため、
学校へいくことになりました。
ここは、
町の
近くにあった、
原っぱです。
子供たちが、
夏の
日の
午後を
楽しくボールを
投げたり
相撲をとったりして
遊んでいました。
小さな
弟妹の
多い
勇蔵は、
家にいれば、
赤ん
坊を
負って
守りをしなければならなかったのです。だから、
勇蔵は、ボールを
投げる
仲間に
入ることもできなかったので、ぼんやり
立ってほかの
子供たちの
投げるのを
見物していました。
そのそばへ
達吉がやってきて、
「
勇ちゃん、
僕が、
代わって
赤ちゃんをおんぶしてやるから、
君は
入って、ボールをおやりよ。」と、いって、
無理に
勇蔵から
赤ん
坊を
奪って、
彼に
好きなボール
投げをさせようとしたのでした。
「
達ちゃん、ありがとう。じゃ、十
分間ばかりね。」
「もっと、
長くたってかまわない。」
二人が、
原っぱで、こんな
話をしていたときでした。ちょうど
達吉の
伯父さんは、
町の一
軒の
家へいって、
壊れたといを
修繕していました。
戸口に
遊んでいた、
長屋の
子供たちは、
屋根の
上で、
眼鏡をかけて、
仕事をしているおじいさんを
見て、
「おじいさん。」と、
親しげに
声をかけました。
「あいよ。」と、
伯父さんは
一人、
一人の
子供の
顔を
見わけようとも、また
注意をしようともしなかったけれど、そのいずれに
対しても
親しみを
感じて、やさしく
返事をせずにはいられなかった。
「おじいさん!」と、
子供たちは、いいお
友だちを
見つけたように、
口々に、
何度も
同じ
言葉をくり
返して、
熱心に
仕事をしているおじいさんの
注意をひこうとしたのであります。
達吉の
伯父さんは、
新しく
造ってきた、ぴかぴか
光るブリキのといをのき
下に
当ててみて、
雨水の
流れる
勾配を
計っていました。そのうち、
不覚にも、
腐れていたひさしの
端へ
踏み
寄った
刹那であります。
垂木は、
年寄りの
重みさえ
支えかねたとみえて、メリメリという
音とともに、
伯父さんの
体は
地上へ
真っさかさまに
墜落したのでした。
子供たちは、びっくりして
目をみはったが、つぎに
怖ろしさのあまり、
悲鳴をあげて、
「たいへんだ!」と、
叫びました。
長屋じゅうのものが、
総出となって、この
気の
毒な
老職人の
周囲に
集まりました。
「
早く、
家へ
知らさなければ。」
「それより、
先に
医者へつれていくのだ。」
「おじいさん!」
「おじいさん、だいじょうぶか。」
一人が、
抱き
起こしながら、
耳もとへ
口をつけて
呼んでも
返事がなかったので、みんなの
顔色は
真っ
青になった。しかし、しばらくすると、
身動きをしたので、
死んでいないことがわかったのです。
この
話が、たちまち、
口から
口へ
伝わって、あたりの
騒ぎになると、
原っぱに
遊んでいた
子供たちの
耳にも
入ったのです。
勇蔵に
代わって
赤ん
坊の
守りをしながら、ボールを
見ていた
達吉の
耳へも、
一人の
子供が
飛んできて、
伯父の
災難を
知らせました。
「ほんとう?」と、
達吉は、
寝耳に
水の
思いで、
赤ん
坊を
負ったまま
駈け
出すと、
脊中の
子は、
火のつくように
泣き
出した。それから、十
分とたたぬうちに、
勇蔵が、リヤカーに
伯父さんを
乗せて
引き、
近所の
人たちが
車の
左右に
従い、
町の
中を
両断する
広い
道路をすこしへだてた、
骨つぎ
医者へ
連れていきました。もとより、
達吉も、いっしょについていきました。
電柱に、「
骨つぎもみ
療治」と
看板のかかっているところから、
路次へ
曲がると、
突き
当たりに
表側を
西洋造りにした
医院があります。
入り
口にぶらさげてあった
金網のかごの
中に、せきせいいんこが
飼ってあって、
急にそうぞうしくなったので、
鳥はびっくりしたのか、
目をまるくしながら、
甲高な
声でキイー、キイーといって、
奥の
方へ
取り
次ぎをするごとく
鳴きつづけました。
しかしながら、
伯父さんは、
打ちどころが
悪かったので、ついに五、六
日めに
亡くなったのであります。
孤児となった
達吉に、こうして、また
不幸がみまったのでした。
彼は、
伯父さんが
死んでから、
後に
残った
伯母さんと、しばらく
途方に
暮れていました。
勇蔵も、
近所の
人たちも、
同情をしてくれたけれど、
生きる
道は、
畢竟、
自分が
働くよりもほかにないということを
彼は
自覚したのです。そのとき、
伯父さんの
仲のよい
友だちであったペンキ
屋の
親方が
訪ねてきて、
「
手が
足りなくて
困っているのだ。おれのところへきて
働いてくれないか。」と、いいました。
達吉はすでに
働くと
決心したからには、どこだってかまわなかった。
彼は、すぐいくことにしたのです。ペンキの
入ったかんをぶらさげて、
高い
屋根へ
上るのは
容易なことではありませんでした。びくびくすると、かえって
両脚がふるえました。
「
平気で、どんなところでも、
鼻唄をうたって
歩けるようにならんければ、一
人まえとはいえない。」と、
親方は、
笑いました。
「そうだ、
人間のできることで、
自分にできぬというはずはない。」と、
歯ぎしりをして、たとえ
危険な
場所へでも、
親方が
上るところへは、
自分も
上っていったのでした。
かくして、一
年とたたぬうちに、
彼はもう
大胆にりっぱに、
仕事ができるようになりました。
あるとき、
親方は、つくづくと
彼の
仕事ぶりを
見ていたが、
「おまえは、いつまでも、ペンキ
屋で
暮らそうとは
思わないだろうが、いったいなにになりたい
気なのだ。」と、
彼にききました。
「
僕は、
軍人になりたい。」と
達吉は、
答えたのです。いつか
准尉にあってから、
彼はそう
心の
中で
思ったのでした。
「
軍人にか、それはいい。おまえは、
脊は
低いが、なかなか
強情だから、いい
軍人になれるだろう。」と
親方は、
達吉の
意見に、
反対しませんでした。
勝ち
気の
達吉は、
同じ
年ごろの
少年が
学校へいくのを
見たりすると、うらやむかわりに、
夜も、
疲れた
体を
小さな
机の
前にもたせて、
航空雑誌を
読んだり、
地理や、
歴史を
復習したりしていました。そして、
昼になれば、
彼は、
普通の
子供たちなら、とうてい
上がれない、
目のまわりそうな
高い
建物の
頂に
立って、
「
学校で
勉強するよりか、こんなところで、
大人といっしょに
仕事をする
己のほうが、よほど
偉いんだぞ!」と、だれに
向かっていうとなく、
独りで
豪語しました。
それは、
彼が、
東京へきてから、
三たびめに
迎える
夏の
暑い
日のことでした。
緑の
多い
丘に
建っていた
教会堂の
前を
通りかかると、たくさん
人が
集まって、
塔の
上をながめていました。
「どうしたんですか。」
「あのたくさんなからすが、はとをねらっているのですよ。」
このごろ、どこのごみ
捨て
場をあさっても、あまり
食い
物が
見つからないので、
都会にすむ
餓えたからすたちは、
弱い
鳥をいじめてその
肉を
食べることを
考えついたのでした。それで、はとの
巣を
襲ったのです。いつ、どこから
飛んできたのか、二
羽のはとは、ここを
安全な
場所と
思って、
塔の
屋根に
巣を
造りました。そして、やがて
子供を
産んで、
育てていました。これを
知っていて、からすは、いま
計画的に、
群れをなしてやってきたのです。
早くも
悟った
親ばとは、
巣の
奥の
方へ二
羽の
子ばとを
隠して、
母ばとは、
胸で
子供をおおい、たぶんそれは
父ばとであったでしょう、いちばん
端にうずくまって、
体で
巣の
入り
口をふさぐようにして、
敵とにらみ
合っていました。
どうなることかと、
達吉もいっしょになって、
見ていました。すると、その
中の
獰猛な一
羽のからすが、ふいに
父ばとに
飛びかかって、とうとう
巣から
外へ
引きずり
出してしまいました。
待っていたとばかり、ほかのからすたちが、四
方から
寄ってたかって、
哀れなはとを
奪い
合い、
最後に
血にまみれたはとを
屋根の
上へたたきつけて、たがいにくちばしでちぎりはじめたが、あっという
間に、こうかつな一
羽がその
屍をさらってどこかへ
飛び
去ると、あわてて三
羽、四
羽、その
後を
追いかけていきました。
「なんて、ひどいことをしやがる。まだ、あの
巣の
中には、はとがいるから、それも
喰い
殺されるだろう。」
こういって、
見ている
人々が、
小石を
拾って、からすに
向かって
投げつけていた。しかし、
石はそこまでとどきませんでした。からすは、
石の
当たらないのを
知っていて、こちらのことは
気にも
止めずに、だんだん
巣の
方へ
近寄って、じっと
機会をねらっていました。
「わるいやつだな。」と、
達吉は、つくづく
思いました。
彼の
胸は、
憤りのために、どきんどきんと
鳴りだしました。
おそらく、
子供を
救うために、
自分を
犠牲にしようと
覚悟したのでしょう。ふいに、
母ばとが、
巣から
飛び
出した。からすらが、なんで、それを
見逃そう。
我先に
獲物にありつこうと
翔るはとに
向かって
突進しました。
母ばとは、
巧みに
方向を
変えて、
子供たちのいる
巣から、
敵を
遠方へ
遠方へと
誘ったのであります。
見ていると、
塔の
頂の
空を
高く二、三
回もぐるぐるまわってから、
下の
町の
方へ、できるだけの
速力で、
飛び
去っていきました。その
後を、カアカアと
叫びながら、
黒くなって、からすらが
執拗に
追いかけていきました。
けれど、まだ二
羽、三
羽、
意地悪いからすが
残っていて、どこへも
去らずに、
塔の
屋根に
止まって、
険しい
目で
巣をねらっていました。そこには、
親鳥を
失った、かわいそうな
子ばとが
怖ろしさのためにふるえているのでした。それと
知った、
達吉は、もうなんで
我慢ができましょう。
「よし、あの
不埒なからすめを
追いはらってくれよう。そして、
子供を
己の
懐に
抱いてきてやろう。」
達吉は、
人々がなんといってもかまわずに、
柵を
乗り
越えて、
寂然とした
教会堂の
敷地内へ
入り
込み、
窓わくを
足場として、さるのごとく、といを
伝って、
建物の
壁を
攀じり、
急角度に
傾斜している
屋根へはい
上がろうとしました。
「おうい、やめろ、あぶないぞう!」と、
下からわめく
声がきこえました。この
声は
彼の
耳に
入ったけれど、
「なに、くそ
······。」と、
彼は、
返事をするかわりに、
歯ぎしりをしていた。
突然、
人間の
頭が、にょっきりと
屋根の
端から
伸び
上がると、さすがにからすは、これに
敵わぬと
思ったか、いちはやく、どこかへ
逃げていきました。
スレートの
面は、
太陽の
熱で
油を
流すごとく
焼けていて、
足の
裏へ、
針を
刺すように
痛さを
感じさせた。
「もう、
降りろう!」と、
見ていたものの
中から
注意するものがあった。
達吉は、ただ
登らなければならぬ
気がしていた。
顔を
上げると、まだ
巣のところまで三、四メートルありました。
同時に
下を
見ると、すぐ
近く
大きな
木が
目に
入り、四
方へ
張った
枝の
柔らかな
緑色は
毛氈を
拡げたように、
細かな
葉が、
微風にゆれていました。そして、こんな
際に、どうしてか、いつか
病院の
窓から
見た、あおぎりの
幻覚が
浮かんだ。
「
己は、どうすればいいのか?」さっと
感激の
失せた
刹那、
自分のすることがわからなくなり、
心がぐらつくと
足の
感覚までなくなって、
体がずるずると
下へ
滑りはじめた。
堅いスレートにはどこにもつめの
立てようがない!
彼は、
絶体絶命を
感じた。
数秒の
後に、
自分の
体が、
幾十
尺の
高いところから
地上に
落下して
粉砕するのだと
意識するや、
不思議にも、
気力が
出て
跳ね
上がった。
彼は、
屋根を
蹴ると、
眼下の
大木を
目がけて、それにしがみつこうとして
飛んだ。
軽業師にやれる
離れわざなら、なんで
人間生死の
瀬戸際にできぬというはずがありましょう。
達吉は、
天地が
真っ
闇だった。
大波が、
自分を
呑んだ。
体は
前後上下に
揺れていた。わずかに、
目を
開けると、しっかりと
自分はけやきの
木の
枝にしがみついていた。
「おお、
己は、
生きているぞ!
己は、
助かったのだ。お
父さんに
誓います。
僕は、
軍人になります。
神さまに
誓います。
僕は、かならず
飛行兵になります。」
とっさに、
希望が
頭にひらめいた。どこを
見てもただ
明るく、さんらんたる
光のうちにいるのを
発見した。どこかで、がやがや
人の
声が、きこえるような
気がしたけれど、
達吉は、ただ、
手足に
力を
入れて、どうしても
強く
生きなければならぬということだけしか
考えていなかった。
このときの、
彼の
目は、からすの
目よりも、さとくいきいきと
輝いて、いったん
心につかんだものを一
生逃すまいとしていました。