万は
正直な、うらおもてのない
人間として、
村の
人々から
愛されていました。
小学校を
終えると、じきに
役場へ
小使いとしてやとわれました。
彼は、
母親の
手一つで
大きくなりましたが、その
母も
早く
死んだので、まったくひとりぽっちとなりました。こんなことが、
人々の
同情をそそるのでありましょう。どこへいっても、きらわれることなく、
日を
送りました。
「おまえさんも、
早くお
嫁さんをもらうのだな。」と、ひとりぽっちの
彼を
心からあわれんで、いってくれるものもありましたが、
「
私には、まだそんな
気持ちはありません。」と、
万は、
頭をふりました。それには、
早いからという
意味ばかりではありません。
始終不自由をして、
貧しく
死んでいった
母親のことを
思うと、すこしの
楽しみもさせずにしまったのを、
心から
悔いるためもありました。
彼の
母は、じつにやさしかったのです。
彼が
父親と
早く
別れたので、その
不憫もあったのでしょうが、また、この
世の
中に
母一人、
子一人としてみれば、たがいにいたわりあうのが、むしろ、ほんとうの
情けでもありました。
||ある
夜、
万は、
灯の
下で
学校の
復習をしていました。
母は
眼鏡をかけて、
手内職の
針をつづけていました。
窓の
外では、
雨気をふくんだ
風が、はげしく
吹いています。そして、その
年の
暮れも
間近に
迫ったのでした。
母は、なにを
思ったか、ふいに、
万に
話しかけました。
「おまえが、まだ
物心のつかないころだったよ。この
村に、おつるさんといって、
孝行の
娘さんがあった。こんなような、
暮れにおしせまった、ある
日のこと、できあがった
品物を
持って
町の
問屋へとどけ、お
金をもらって
帰りに、そのお
金をみんなとられてしまったんだよ。かわいそうに、それで
娘さんは
川へ
身を
投げて
死んでしまいました。」と、
母は
語りました。
これを
聞くと、
万は
下をむいて
本を
見ていた
顔を
上げました。
「だれに、お
金をとられたんです。ただ、それだけで
死んだのですか。」と、
問いかえしました。もっと、くわしいことが
知りたかったのです。
「おまえ、そのお
金がなければ、
家の
人たちが
年を
越せなかったのだよ。
下には、
小さい
弟はたくさんいたし、それに、
父親は
病気で
寝ていたんだからね。」
「どうして、そんな
大事な
金を、とられたんだろうな。」と、
万は、
不審でたまらず、
頭をかしげました。
「それが、まだ
若い
娘さんだろう、
無理はないよ。
活動写真館の
前に
立って、ぼんやりと
写真を
見ていたそのすきをねらって、すりがすったらしい。まのわるいときというものは、すべて、そういうものさ。
気のついたときは、もうおそい。しかたがないから、おつるさんは、
問屋へ
引きかえしたんだよ。」
「かわいそうにな、
問屋は
貸さなかったんでしょう。」
「そうだな。おつるさんは、はたらいて
返すから、どうかお
金を
貸してくださいと、
主人に
頼んだのだよ。
思いやりも、
情けもない
主人は、すげなく
断ったのです。」
「なんといって。」と、
万は、
顔を
赤くしながら、こみ
上がってくる
感情を、
押さえきれませんでした。
「あんまり、あんたは
虫がよすぎる、この
金の
出入りのせわしい
暮れに、
自分の
不注意から
金をなくしたといって、また
貸せというのは。こちらもいそがしいので、いちいちたのみをきいていられない。なんとおっしゃっても、
今日はだめです、ってね。」
「
困るからたのむんじゃないか! それから、どうしたの?」
「いつまでも、
家では、おつるさんが
帰らないので
大騒ぎとなり、いつしか
村じゅうのものが
飛び
出して、
夜中まで
方々を
探したがわからなかった。二、三
日すると、
死骸が
川下の
方へ
浮かんだのだ。その
当座は、みんなが、
問屋の
主人をわるくいわないものはなかったよ。」と、
母は、またつづけて、
「しかし、
金持ちにはかなわないんだね。
仕事をさせてもらわなければならぬし、いつしかぺこぺこ
頭を
下げていくようになったよ。」
「
問屋って、あの
町の
袋物屋ですか。
大きい
店なのに、そんな
金がないわけでなし、どうしてだろうな。」と、
万が
聞きました。
「どうして。
大金持ちだというけれど、もとは、みんな
貧乏な
人たちをできるだけ
安く
働かして、もうけた
金なのだから、
考えれば、
私どもは、ちっともうらやましいことはないのさ。」と、
母親は、
針を
燈火に
近づけて、
指をはたらかしながら、いいました。このとき、
万の
目には、
涙が
光っていました。
その
後、
万は、いくたびも
町へ
出て、
袋物屋の
前を
通りました。そのたびに、ここの
家だなと、
思って、
中をのぞきました。たいてい、
客が
入っていてなにか
見ていました。そして、めったに
主人の
顔を
見なかったが、あるとき、四
角な
顔をした、それらしい
男が、おうへいな
言葉つきで、
人と
話をしていました。よく
注意すると、
昼間から
酒を
飲んだとみえて、いい
顔色をしていました。
相手を
小ばかにするのは、やはり、こちらがなにか
頼んでいるからでしょう。
万は、
娘が
身を
投げて
死んだという
川にかかる
橋を
渡るときは、かならず
立ちどまって、
欄干によりかかり、じっと
水を
見て、
考えるのであります。あるときは、
寒い
風が、すすり
泣くように、
川面を
吹いているのでした。また、
夏の
晩方には、
赤い
雲が、さながら
血を
流すようにうつっていることもありました。
彼は、
母から
聞いた、おつるさんという
不幸な
娘のことを
思い
出したのでしょう。
「なにより、
命が
大事なんじゃないか。
死ななければよかったのに。だが、おれは、まだ
小さくて、なんにもできなかったのだ。」と、ひとりごとをするのでした。
このとき、
彼が、どんなことを
考えていたか、だれも
知るものはありません。
生まれつき、
無口の
万は、
思ったこと、
考えたことを、めったに、
他に
話しません。
役場へ
勤めてからも、まじめ一
方に
働くばかりでした。しかし、なにか、うまいものが
彼の
手に
入ると、だれの
前もはばからず、きっと、
「こんなものを、
母さんに
食べさせてやりたかったなあ。」と、いうのでした。そして、ところを
忘れて、
母子が、さびしくまずしく
暮らしたころのことを
目に
浮かべるのでした。また、なにかおもしろいもよおしでもあるときは、
「こんなのを、
母さんに
見せてやりたかったなあ。」と、かならずいうのでした。そして、すこしのたのしみも
知らず、
一人の
子供のために、はたらきつづけた、みじめなやもめを
思い
出すのでした。けれど、それさえ、
彼は
口に
出さなかったから、
彼が、どれほどの
正直者であるか、
知るものがなかったのです。
彼は、
日常、
役場に
泊まったり、
自分の
破れ
家に
帰ったりしていました。
ところが、いつからとなく
妙なうわさが
村の
中にひろまりました。それは
日ごろから
万の
生活を
知り、
彼を
正直な
人間と
思っていた
人々にとって、
意外に
腑に
落ちぬことだったのです。
「
万は、ひとり
者だから、
給料だけで、
足りぬはずはないのだがな。」と、
一人が
思案顔をしていうと、
「
早く
嫁を
持たすのがいいのだ。ひとりでいれば、どうしても
遊びにいくだろうから。」と、
一人が
答えました。
「だが、あの
男にかぎって、そんなようには
見えないが、
金をためているのかな。」
「ほかから
借りてまで
金をためることはしまいが、なにしろ
若いものだもの、
遊びにいくかもしれない。」
こんな
話を、
道の
上で
立ちながらするものもありました。そう
思うと、またべつの
人たちは、
「どうも、このごろの
万はおかしい。はっきりとはいえぬが、ばくちをするんでないかな。」と、
一人が、
分別ありげに
頭をかしげると、
「いや、あの
堅い
男にかぎって、ばくちはしまい。それにしてもおかしいことだ。もうちっと、だまってようすを
見ていよう。」
「おまえさんのところから、いくら
借りたんだね。」
「なに、たいした
金でない。それだけおかしいのさ。
返そうと
思えば、いつだって
返せるのを
······。」
こうして、
万について
話をする
人たちは、いずれも
村で
金のある
地主とか、
物持ちとして
知られてる
人々でした。これを
見ても、
万は、
金を
借りるのに、
金のありそうな
人たちだけをねらったものとみえました。このことは、その
日その
日を
働いて
暮らさなければならぬものには、どういう
事情があっても、
万は、
無心をたのむ
気になれなかったのでしょう。それであるから、
万は、だんだん
金持ちからきらわれるようになったのもしかたがありません。しかし、
彼の
勤勉な
生活ぶりは、だれの
目にも、いままでと
変わったとは
見えませんでした。
その
日も、
万は
役場から
帰ると、すぐ
山へたきぎを
取りに
出かけました。うす
寒い、
雨もよいの
日で、
彼は
暗くなってから、
雨にぬれながら、
重い
荷を
負って
家へもどりました。このとき、
冷えたものか、かぜをひいたのです。その
夜から、
急激に
熱が
高くなって、
医者にもかかったけれど、ついに
悪性の
肺炎を
起こし、
近所の
人々が
看護をしてくれたかいもなく、とうとう、
死んでしまいました。
万の
葬式は、わずかに
彼を
知る
村の
人々だけで、さびしくおこなわれました。
当日、
柩が
村を
出て、
山麓の
墓地へさしかかろうとすると、このとき、どこからあらわれ
出たものか、たくさんの
乞食や、
浮浪児が
列をつくって、
柩の
後についてきたので、一
同がびっくりしました。
年の
若い、
元気な
役場のものが、
「
今日はおまえたちに、ほどこすものなんかないんだ。」といいました。すると、その
中の
年よりの
乞食が、
「そんなつもりでありません。お
弔いにきたんです。」と、
答えました。
これを
聞くと、
役場のものはじめ、
村の
人たちは、
不思議な
気がして、
急には、なっとくできなかったのです。
「なぜ、わざわざ、こんなにしてやってくるのだ。」と、ひげをはやした
書記が、いちばん
先にいた
宿なし
少年にたずねました。
「だって、
死んだおじさんは、おれたちに、やさしい、いいおじさんだったもの。」と、
少年は
答えました。
「ほほう、どんなふうにやさしかったのか。」
この
書記ばかりでなく、一
同が、
意外の
返事に、おどろいて、
少年を
見ずにいられませんでした。
「おれたち、もらいがなくて
帰れば、
親方にしかられるだろう。そんなとき、おじさんに
頼むと、お
金をくれたんだ。」
「おらあ、
三日も
飯食わんとき、
助けてもらったんだ。」と、
別の
少年がいいました。そして、ここにいるものはみんな
万にめぐみをうけたものばかりだということがわかりました。
それは、
長い
間、なぞであった
万の、
金持ちから
借金する
理由が、これらの
人たちに
施すためのものであったことを
知らせたのであります。
松林の
中に、
万は、
母親と
並べて
葬られました。その
土色のまだ
新しい
墓の
前には、
日ごとに、だれがあげるものか、いつもいきいきとした
野草の
花や、
山草が
手向けられていました。また、
月の
明るい
晩など、このあたりから
起こる
笛の
音は、
万の
霊魂をなぐさめるものと
思われました。そして、
村人の
耳に、
切々として、
悲しいしらべを
送るのでした。
心ある
人は、
人間の一
生というものを
考えました。
彼の
本名は、
万三とか、
万蔵とかいったのであるが、
村の
人々には、
万で、
通っていたのであります。