いろいろの
店にまじって、一けんの
筆屋がありました。おじいさんが、
店先にすわって
太い
筆や、
細い
筆をつくっていました。でき
上がった
筆は、
他へおろしうりにうるのもあれば、また
自分の
店において、お
客へうるのもありました。
昔とちがい、このごろは、
鉛筆や
万年筆をつかうことが
多く、
筆をつかうことはすくなかったのです。しかし、
大きな
字を
書いたり、お
習字をしたりするときは、
筆をつかうのでした。
武男は、よくおじいさんのところへ
遊びにきて、お
仕事をなさるそばで、おじいさんから、お
話をきくのを
楽しみとしました。
「おじいさん、あの
字は、だれが
書いたの。」と、
頭の
上にかかっている
額をさしました。
「ああ、あれはここへみえる、
書家の
方が、お
書きなされたのだ。」
「うまく、
書けているの。」
「みなさんが、おほめなさる。
山高水長、やまたかく、みずながし、といってもよい。」
「おじいさんに、
書いてくださったの。」
「そうだ、ここにある、この
筆で、お
書きになったのだ。
私のつくった
筆が、たいそう
書きよいと
喜ばれてな、一
枚くださったのだよ。」
おじいさんは、
箱の
中から、一
本太い
筆をとりだして、いいました。それは、
白い
毛の
筆でありました。
「ぼく、お
習字のとき、つかう
筆とよくにているな。」と、
武男は、
目をまるくしました。
「
武坊のもよい
筆だが、これとはちがっている。」と、おじいさんは、
笑われました。
「ぼくのも
白いね。この
筆の
毛は、やはり
羊でない。」
「そう、
羊の
毛だ。」
武男は、
筆をつかったあとで、かなだらいに、
水をいれて
洗うと、もくもくと、ちょうど
汽車の
煙のように、まっ
黒い
墨を、
筆からはき
出します。そして、そのあとの
毛は、
清らかな
水をふくんで、
美しい
緑色に
見えるのでした。
「おじいさん、どの
毛でつくった
筆が、いちばんよいのですか。」と、
武男は、ききました。
「いちがいにいえぬが、
細筆などは、たぬきの
毛だろうな。」
「どうやって、たぬきをつかまえるの。」
「たぬきか。おとしや、わなでつかまえたり、また、
子飼いにして
育てたりするのだ。」
「
山へいけば、たくさん、
獣物がすんでいるのだね。」と、
武男は、いいました。
「
昔は、このあたりでさえ、いたちが
出たものだ。」
おじいさんも、
子供の
時分から、
町に
育って、
野生の
動物を
見る
機会は、
少なかったのです。
もう
火ばちに
火のほしい、ある
日のことでした。
武男が、おじいさんのところへいくと
秋の
薬売りが、
額の
字を
見ながら、おじいさんと
話をしていました。いつしか、
字の
話から、
山の
話になったらしいのです。
「なにしろ、
中央山脈の
中でも、
黒姫は、
険阻といわれまして、六、七
月ごろまで、
雪があります。やっと、
草や
木の
芽が
出はじめると、
薬になるのばかり百
種ほどつんで、ねり
合わせたのが、この
薬ですから、
腹痛や、
食あたりなどによくききます。これをおいてまいりましょう。」と、
薬売りは、
袋にはいったのを、おじいさんの
前へおきました。
おじいさんは、その
袋を
手にとって、さもなつかしそうに、ながめながら、
「それから、さっきの
話の
筆草というのを、こんどきなさるとき、わすれずに、
見せてもらえまいかな。」といいました。
「
来年の
夏は、
方々の
山へまいります。
私が
見つけなければ、おちおうた
行者に
頼んで、どうにかして、
手に
入れてまいります。」
「ふしぎですな、
自然にそんな
草があるとは。」
「てんぐや、
隠者が、それで
字を
書いたといいます。」
「
私は、この
年で、もう
高い
山へ
上れないから、たのしみに、
待っていますよ。」と、おじいさんは、
頼んでいました。
薬屋は、
紺もめんの、
大きなふろしきで四
角な
箱をつつみ、それを
背中へ
負い、
足にきゃはんをかけ、わらじばきの
姿で、
立ち
去りました。
武男は、しばらく、その
後ろ
姿を
見送っていました。
「
筆草って、
草があるの。」
「
高い
山へ、
薬草をさがしにいくと、まだ
人の
知らない、ふしぎな
草があるという
話だ。」
「あの
薬屋さんは、これからどこへいくの。」
「まだ
方々を
歩いて
年の
暮れに、
山国の
町へ
帰るといった。」
武男は、その
日の
夕暮れが、いつもより、
美しく、さびしく
感じられました。
秋から
冬へかけ、
空は、
青々と
晴れていました。
町のはずれへ
出て、むこうを
見ると、
野や、
森をこえて、はるかに
山々の
影が、うすくうき
上がっていました。その
中の
高い
頂には、すでに
雪が、はがねのように
光っています。
武男は
毎日ここへきて、
山をながめていました。そして、
正月の
書き
初めには、「
山に
雪光る」と、
書きました。
よくできたと、
学校の
先生からも、お
父さんからも、ほめられました。また、
筆屋のおじいさんは、
字に、たましいがはいっていると、たいへんほめてくれました。