モスクワの科学
三つの計画のうち最初の二つは次のようなものであった。
1 計画 ・Л |北極洋冬季航路開発。
2計画 ・Ч |北極圏横断飛行、「スターリン空路」の開拓。
「2
六月十八日、午前四時五分にモスクワのスケールコポ飛行場出発。滞空時間六十三時間二十五分をもって二十日午前八時、
「
ところで、翌三八年、共産党赤軍を初めとして、いっさいの分野にわたって徹底的に行なわれた峻烈な粛清工作中、探検隊のサボタージュを煽動し、調査作業を失敗に終らしめた反革命陰謀を遂行したという名目で、「右翼偏向・トロツキスト・ブロック」の一員として、カルピンスキー博士は六月五日に銃殺されてしまった。(六月六日|「プラウダ」紙)
さて、最後の「
(ψ62°30′N. λ140°17′0″E)
「
同年五月十一日の国家出版所の「公報」と「プラウダ」紙に、「極東
調査隊長 ウクライナ科学翰林院 地質学部長 イヴァン・ヤロスラフスキー
分隊長 同教授 ニコライ・モローゾフ
学術部員 同気象学教授 ボリース・シルーキン
···················································
速記者および助手 ナターシャ・イワーノヴナ
分隊長 同教授 ニコライ・モローゾフ
学術部員 同気象学教授 ボリース・シルーキン
···················································
速記者および助手 ナターシャ・イワーノヴナ
一行は、翌三八年十月末にモスクワに帰着し、その調査の結果は、国家出版所から「北緯六十二度三十分における調査報告」と題して印刷に付せられたが、どんな理由によってか、刷了の翌日、中央委員会の命令によって頒布を禁止され、一部だけを残して、紙型とともに全冊数が焼却され、その一部は、国立図書館の「危険書類書庫」の金庫の中へ納められてしまった。
「北緯六十二度三十分における調査報告」とは、いったい、どんなものであったろう。その秘密は、永遠の時間の中へ完全に埋没してしまうはずであったが、はからざる機縁によって、驚異すべき調査の
さる邦人というのは、いまから十年前、すなわち、昭和五年の夏、
寂漠たる
苔地の涯にゆるい山脈がつづいている。バイカル湖の東から
この辺は、
苔原のはては突然、立ち上ってロバトカ山(一三二七)になる。苔原と山
ところで、その中のひとつから、突然にラジオの音が洩れてきた。空寂たる無人の自然と近代文明の唐突な交錯。
書類や、地図や、さまざまの図表、六分儀、クラウゼン式測深器、バフマン氏気圧計、猟銃、携帯電灯、鉱山用のハンマーと
博士の向いには、ニコライ・モローゾフ教授が、長身の精悍な身体を、テーブルのほうへ倒しかけて、その上で、頬杖をついている。
そのほか七、八人、つまり「極東
秘密調査隊のただ一人の女性、
その隣にいるのが、気象学者のボリース・シルーキン。強度の近眼鏡。臆病そうな顔。調査隊の中で、ただ一人の無髯の男だ。蒼白い細
沈黙。待ちかねて、みなが焦らいらする。ようやく、またラジオが鳴り出す。
「六月五日、モスクワ・ホドウインカ局発信。第二十七号。······『ブハーリン派陰謀事件』の公判のつづきです。······北極洋冬季航路開発を遅延挫折させた、モスクワ科学アカデミー教授エス・エル・カルピンスキー博士の反革命的行為は、ただいま、午前十時、公判終結によって、次のように
ヤロスラフスキー博士は、手を伸ばして、ラジオのスイッチを切る。また無人地の太古以来の寂寞がかえってくる。
泣いてるのかと思われるように、博士は白髪の頭を低く垂れて、長い間じっとしている。それから、突然、顔を上げると、悲痛きわまる眼つきで、ぐるりと一座を見まわした。いつもの寛容な表情のなかに、やるせない憤激の色が圧しつけられていた。
「······諸君、お聴きのとおりの次第です。合同本部事件、トハチェフスキー事件の時と同じように、スターリンは、『諜報関係』という名目で、あの高潔なわれわれの先輩、カルピンスキー博士を銃殺しようとしている。······いったい、こんなことが、現実にあり得ることなのでしょうか」
だれも、返事をしなかった。気象学者のボリース・シルーキンだけが、弱々しく肩を揺すった。博士は、あらためるように、一人ずつ順々にその顔を眺める。
「諸君、私はすこし昂奮しているようだ。それは認めます。この世には、冷静な科学者の
分隊長のモローゾフ教授が、顎の下から左の
「ところで、それは、同時に、われわれの運命でもあるのですね。博士」
博士は、軽く身体を
「われわれの運命?」
葦が風に慄えてるような、細い声である。
モローゾフ教授はテーブルごしに博士のほうへ身体をのばして、「われわれは失敗した。······この北緯六十二度三十分の地点には、あなたが、想像されるような事実は何ひとつなかった。······この十カ月の間、われわれは
「つまり、こんな顔をして、くたばるんです」
モローゾフ教授が、目を
博士が、冷静な声で、口をきる。
「モローゾフ君、われわれはまだ、何ごとにも着手していないんです。今まで、われわれがやったことは、調査にたいする準備でしかない。従って、······」
教授が手をあげて
「あなたのおっしゃりたいことはわかっている。······つまり、失敗などはしない、というんでしょう。······それなら、それで、いいですとも! 強いてあなたのご意見に反対しようとは思いません。······あなたの意見などは、どうあろうとかまわない。ともかく、われわれは、何の希望もなく、
「われわれ、と、おっしゃるのは?」
「つまり、あなたを除いた、あと全部」
博士があらためて、ひとりずつの顔を眺める。
「すると、あなたの意見が?」
「われわれ全部の意見の総和です」
「いつ?」
「昨夜、第三天幕で決議しました」
「調査を中止して、このままモスクワへ帰ろうというんですね。モローゾフ君」
「とんでもない。そんなことをいっちゃいません。われわれは、ただ、このうえこういうことを続けるのは嫌だといってるだけです。あなたの滑稽な空想のために、われわれの仲間がもう、二人も死んでいる。われわれの中から、断じて、三人目を出すまいと決議したのです」
博士は、瞼をゆっくりと上げて、淀まぬ眼差しで、モローゾフ教授の眼をみつめる。
「モスクワへも帰らない。······このうえ、調査を続けるのは嫌だとなると、いったい、どういうことになるんですか」
教授は、鼻唄でも歌うような顔つきで、
「誰か、かわりの人間を火口へ入れればいい」
博士が微笑する。
「苔原と白樺と雁。······ここには、われわれのほか誰もおりませんよ」
「山の向う側の、インジギルカの三角洲に、流刑囚がたくさんいます。それを入れようじゃありませんか。そして、その結果を持って、われわれはモスクワへ帰る。それで、万事うまくゆくというもんだ。······まかり間違って、一人残らず死んでしまったって、どうせ、役に立たない連中だ。かくべつ惜しいこともありませんからねえ。······われわれが、調査の間に、二十人も人を殺したといったら、中央委員会でも、よもや、われわれを怠慢呼ばわりしないでしょう。われわれは、そこで、モスクワ大学の、静かな庭にかこまれた自分たちの研究室に落着くことができる。······ああ、何という魅力だ。······あの
博士の眼から、刺すような光が流れ出す。おだやかな童顔のうえに燃えるような血の光がさす。
「諸君! ······諸君は自分たちの静かな研究室へ帰るために、何人かの流刑囚を、虐殺しようというのですね? ······それに違いありませんか? ······なんという恥辱! ······私なら、そういう血だらけな記憶にまみれるよりは、銃殺されたほうが、よっぽどましです。······諸君は、じつに、見さげはてた魂を持っていられる!」
沈黙。シルーキン教授が、近眼鏡の奥で、臆病そうに眼をしばたたきながら、おずおずと立ち上る。
「······博士、どうか、私だけは、別にしてください。······ともかくも、······少なくとも、······私は、あなたと同じ意見です。おっしゃるとおり、そんなことをしたら、後でひどく苦しみそうです······」
眼に見えない動揺が、波のように、他の七人に伝わる。調査隊附の写生画家のアレキサンドル・ペトローウイッチが、思いきったように、ロープの束の上から腰を上げる。
「博士、私も······」
皮の半外套のポケットの中へ入っていた、モローゾフの右手が抜き出される。手の中には拳銃を握っていた。シルーキン教授の胸の真中へ筒先を向けると、無情な顔つきで
銃声。それから、筒口からゆっくりと白い煙が吐き出す。シルーキン教授が、右手で胸をおさえて、瞬間、呆気にとられたような表情で、ぼんやりと皆の顔を見まわしてから、お祈りでもするように、のろのろと、地面の上へ膝をつくと、がっくりと前へのめる。近眼鏡が、遠くのほうまでけし飛んだ。
モローゾフ教授が、拳銃をぶらぶらとぶら下げたままテーブルの角をまわって、博士のほうへ近づいて行く。博士の胸に筒口を押しつけると、ゆっくりと、いった。
「ヤロスラフスキー博士。どうか、われわれの決議に従ってください」
C


熔岩隧道の中へうまく潜り込むと、かなり遠くまで行かれるはずだというので、いろいろな人間が、長い間、時間と労力をかけて探しまわった。ヒッパクルスもグレゴリーも、みなやった。
コペルニカスは、熔岩隧道のことを、「
ところで、この「地球の抜け穴」は、世界には数多くある。もっとも有名なものだけを挙げてみると、
1 伊太利 カプリ島の浪
洞 。
2仏蘭西 ルールドの大暗道 。
3 グランド・キャニヨン風洞。
4氷島 イスランジャ山の大地底道。

2
3 グランド・キャニヨン風洞。
4
熔岩隧道というのは、熔岩が流れ出してあとにできるトンネルのことである。いったい、熔岩というものは、外側が冷却して固まった後も、内側はそうとう長いあいだ熔融状態を保っているものなので、傾斜したところを流れた熔岩流の、下端に近い外皮に割目ができると、内部のどろどろな部分が、すっかりその割目から流れ出してしまう。融熔部がすっかり流れ出して、固まった外殻だけがガラン洞になると、長いながい洞窟となって残る。
その形は、天井が多少アーチ型で、底は平らになり、鉄道のトンネルのようにどこまでも
ときどき、熔岩隧道の一部か、または、そうとう長い部分が墜落して、その後に、熔岩溝というものができることがある。熔岩隧道は、応々こうした時に発見される。
カプリ島の

ところで、最後の
このイスランジャという火山は、ラミラド
最初にこの「地球の抜け穴」に入ったのは英国の Thomas Levington という地質学者で、一八九二年に、三十マイルほど地底の旅行をつづけて、氷島のスネフェリス山の下まで行った。
それから八年後、一九〇〇年六月にまた Paul Jannussen というデンマークの地理学者が、ボッツランドの岬の下を通って大洋の下へ出、とうとう北緯十度西経七十一度二十分、つまり英国の真下ぐらいまで歩いて行った。
この旅行記の手記は、
「地球の抜け穴。||



という題で書かれ、
すこし、ここへ
六月八日
朝の八時に、三人前後して眼を覚した。
どこからともなく、微かな光が射してくる。元気はだいぶ恢復していたので、大急ぎで、朝飯をつめこむ。
私は昨日から非常な渇 をおぼえ、どんな悪水でも一滴得られたらと、それこそ、渇くような思いで地上の清洌 な流れを瞼に思い浮かべた。
朝飯が済むと、ガンスは片手にランプを下げ、片手に斧を持って、邪魔な砂岩を砕きながら進んで行く。クワルツ土の結晶が砕けてランプの光に映じ、たとえようもなく美しい。幾度か、崩れかける側壁に度胆を抜かれながら、ゆるい勾配を下って行くうちに、いっそう空気が稀薄になって来た。しかし、微風のようなものが、時々、顔を撫でていく。それで、わずかに息をつく。
咽喉の中で火が燃える。松明 行列のようなものが、胃袋と口蓋 のあいだを上ったり下ったりする。しかし、どうすることもできぬ。六千フィートぐらい降れば、石泉に行きあたるだろうと、たがいに慰め合った。
六月十日
一面にEmeri (金剛砂の一種)の床だ。勾配がなくなって、地面が平らになったので、地の底まで来てしまったような気がする。はるか前面に、異様な光景があった。安山岩の黒い山が、天に聳 えるようにそそり立っている。黒ともつかず、濃紺ともつかず、きわめて negatif な陰鬱なようすをしている。しかし、地底に山などのあろうはずがないのだから、近づいて行って見ると、変朽安山岩 が正規浸蝕谷の中へ落下して来たもので、リヒトホーヘンが、西班牙 語をそのまま採用して、リア(Rias)と呼んでいる現象だということがわかった。この辺は、非常に広濶 で、ところどころに「熔岩の棘 」と呼ばれる、仙人掌のような恰好をした黒い塩基性の熔岩塔が立っているので、ちょうど、メキシコの沙漠の中にでもいるような気がする。強烈な、白い太陽の光のかわりに、ここには蛍光色とでもいえるような、ぼんやりした微光が Emeri の原野の上に漂っているだけである。
六月二十一日
今日の午後、スネフェリス山から五十マイル下のところへ来た。一八九二年に、トーマス・レヴィングトンがやって来たところである。なにか記念 でもあるかと思って、その辺を探しまわったが、何も見あたらなかった。こうして立っていると、遠くのほうでかすかに海の鳴るような音を聞いた。一心に音のするほうを見渡したが、例の微光が遍満しているだけで、なにも見えない。削岩壁の間から、一条の光が細い糸を引いたように透けて見える。それは、太陽の光らしかった。
ガンスは耳に手をあてて、海鳴りのような音をきいていたが、突然「リジンブロックスコイ!」だと、叫び出した。
訊きただしてみると、「リジンブロックスコイ」というのは、氷島 の伝説にある地底の大洋の名だということだった。
地底の海! その奇異な景観に直面する瞬間を想像して、私は突っ立ったまま恍惚となっていた。レヴィングトンが、なぜここから引返したか、その理由をはじめて了解した。
六月二十三日
今日の昼頃、渺 々たる大海原の見えるところへ出た。奇妙な形をした鱗木のたぐい。||フォルチャ・ヘテロフィラと呼ばれる三畳紀の松柏類やポトザミテスという中世代の[#「中世代の」はママ]蘇鉄類がしんしんと繁り、その根元には、網羊歯 や土筆 のたぐいが足の踏み場もないほどはびこっている。渚の浅いところには、海百合 や腕足類や、さまざまの巻貝。モーフィリテスやアンモナイトが、のそのそと動きまわっていた。
朝の八時に、三人前後して眼を覚した。
どこからともなく、微かな光が射してくる。元気はだいぶ恢復していたので、大急ぎで、朝飯をつめこむ。
私は昨日から非常な
朝飯が済むと、ガンスは片手にランプを下げ、片手に斧を持って、邪魔な砂岩を砕きながら進んで行く。クワルツ土の結晶が砕けてランプの光に映じ、たとえようもなく美しい。幾度か、崩れかける側壁に度胆を抜かれながら、ゆるい勾配を下って行くうちに、いっそう空気が稀薄になって来た。しかし、微風のようなものが、時々、顔を撫でていく。それで、わずかに息をつく。
咽喉の中で火が燃える。
六月十日
一面に
六月二十一日
今日の午後、スネフェリス山から五十マイル下のところへ来た。一八九二年に、トーマス・レヴィングトンがやって来たところである。なにか
ガンスは耳に手をあてて、海鳴りのような音をきいていたが、突然「リジンブロックスコイ!」だと、叫び出した。
訊きただしてみると、「リジンブロックスコイ」というのは、
地底の海! その奇異な景観に直面する瞬間を想像して、私は突っ立ったまま恍惚となっていた。レヴィングトンが、なぜここから引返したか、その理由をはじめて了解した。
六月二十三日
今日の昼頃、
ヤヌッセンは、ここで、助手のガンスと同伴者と、三人で、
モスクワの科学アカデミー地質学部長イヴァン・ヤロスラフスキー博士が、ロバトカ山の火口壁に熔岩隧道が口を開けていることを推定したのは、すでに、一九二〇年代のことだった。
当時、博士は、



ところで、博士が、背中に杖をかくして、そろそろとそのほうへ近づいて行くと、シベリヤ

たったこれだけのことだが、これが博士の世界的発見に、重大な示唆を与えることになったのである。
博士は、こんなふうに推断した。つまり、樺太の西海岸を縦走する樺太山脈が、正しく北緯六十度の線にそって北上し、露領樺太のアレクサンドロフスクの近くで、突然海中に入り、一種のフィヨルドを作りつつ、海底を北へ進み、カムチャッカ県のオホーツクの近くで上陸し、県界に東西に走っているスタノヴォイの横っ腹へ、ちょうど北緯六十二度三十分東経百四十度十七分の地点で、T字型に接触する。そして、この接触点がロバトカ山なのである。博士はこれで、ロバトカ山と樺太の恵須取山の旧火口までの間に、完全な「
博士は、一九三〇年以来、コムアカデミーに、この熔岩隧道の調査を申請したが、一九三七年になって、突然、中央委員会がこれを承認したのは、もっぱら、軍事的な意味で取り上げたのである。
河が、この
三角洲というよりは、これは島である。公式の N2O, Na を思わせる、手先を入れる気にもならないような、腐った
中洲のうえには、草のようなものがまばらに生えていてその涯に、流刑囚の小屋と、監視人の小さな家があった。
二人ずつ鎖で結び合わされた八人の流刑囚は、トロッコに腰を掛けたり、地べたにじかに坐ったり、シャベルを突いて立ったりして、低く首をたれて、モローゾフ教授の話を聞いていた。
惨苦が額に
日本人。これが、十年前にカムチャッカで、汽船もろともオホーツク海の鉛色の海へ沈んでしまったと思われていた、
モローゾフ教授の後ろで、
ナターシャは、日露の混血児だった。父はウクライナ人。母は、ほっそりとした、眼差しの美しい日本婦人だった。長崎の山のたたずまいや、棟の低い灰色の家並がぼんやりと記憶に残っていたが、それも、まもなく忘れてしまった。五歳の時には、もう、ペトログラードに、父と二人だけで住んでいた。ところで、その父のほうも、商用で、シベリヤのノヴゴロードへ行くといったきり、帰って来なかった。捨てられたのだ。
ナターシャは、日本の港街の風景を、ぼんやりと、思い出す。この八人は、そこから来た人達だ。ソヴィエトの荒々しい辺境で、足を鎖で結び合わされながら、ソヴィエトの河の流水工事をしている。ソヴィエトのために!······なにか屈辱に似た感じが、心をかすめた。この獣類のような人間達のために、なぜ、自分が屈辱を感じなければならないのか。彼女は、想像の中で、美しい英雄的な生活を、いくつも味わってしまった。愚鈍なものや、悲惨なもの、敗北したものなどを見るのを好まなかった。たぶん、そのせいだろうと思った。
心には、また別のことを考えていた。モローゾフ教授の丁寧な言葉使いが、ナターシャをいらだてる。こんな獣類たちにあんなまわりくどいことをいって聞かせている。モローゾフ教授は尊敬に価する人だけど、やはり、部分的には間違っている。
ナターシャは、モローゾフ教授を尊敬している。それに、いくぶん愛の感情がまざっていた。「冷淡な人間だけが誤謬を犯さない」。ナターシャは、教授の冷淡なところに、惹きつけられているのだった。
ナターシャは、教授がシルーキンを撃ち殺したことを、自分の個人的な利益のためにやったのだとは思っていない。確実に、モローゾフ教授のような天才的な頭脳は、博士のいまいましい誤謬の犠牲になって、ロバトカ山の
モローゾフ教授が、ようやく説明を終って、ゆっくりと煙草に火をつけながら、自分の弁舌の効果を試すように、かわるがわる八人の顔を眺めはじめる。
何の効果も、ひき起さなかった。八匹の家畜たちは、物憂そうに首を垂れたきりで、もぞりと身動きするでもなかった。この男達は、もう、どんなことも感じる力がなくなってしまったのだ。教授のこの提案の意味を噛みわけたら、歓喜のために躍り上らなければならぬはずなのに、歓喜どころか、溜息ひとつ、つこうとしない。怖るべき鈍重。
モローゾフは、舌打ちをした。
(獣類め!)
そして、ナターシャの方へ振りかえった。二人の心はすぐ通じ合った。ナターシャは、キュッと唇の端を歪めて見せた。
いちばん近くに坐っていた男が、ようやく、顔を上げた。どんよりと濁った魚のような眼をしている。鼻梁のわきのところを、蠅がいそがしそうに歩きまわっている。
「······すると、なんですか、······その、山の噴火口へ入ると地面の下を通って、日本まで行けるというのですか······」
モローゾフ教授は愛想よく笑った。
「そうですよ。樺太の西海岸の
「······そこを、歩いてさえ行けば、ひょっくりと、······ひょっくりと······」
そこまでいって、急に、ぐっと口を
「日本へ、出られるんですよ。······つまり、私は、諸君を、日本へ
また、深い沈黙が来た。長い沈黙。
いちばん向うの端にいた小柄な男が、足を踏みかえた。鎖ががちゃりと鳴った。
「······恵須取といえば、······おらが家のすぐそばだ、······おらが家の······」
これが、キッカケだった。
けだものどもが、いっせいにわめき出した。叫びとも、唸りともつかぬ、腹の底から絞り出すような声で、
「あー、あー······」
と、犬の遠吠えのように呻きつづけるのだった。
「あーン、あーン」
それが、今度は、涙が、ゆっくりと流れ落ちていた。
どこから、こんなに涙が出て来るかと思われるほど、眼の中からも、鼻孔からも、溢れるように流れ出して、顎から咽喉、咽喉から胸へと、したたり落ちた。
ぞっとするような気狂いじみた発揚状態が一同の上へやって来た。てんでに地べたの上に身を投げ出すと、両手の爪を

高低さまざまな泣き声が、
「ああ、どんなだべな、······どんなだべ」
恵須取山の火口を出て、十年ぶりに日本の景色を一目見たときは、いったい、どんな気持がするだろう、という意味らしかった。
ひとたまりもなかった。すこししずまりかけていた号泣の声は、これで、以前にもまして凄まじくなった。
その間を貫いて、突然、けたたましい笑い声が響きわたった。痩せこけた、眼ばかり大きい、影のような老人だった。右足は膝ぎりしかなくて、そこに、木の
火のついたような笑い声は、それから、しばらく続いていたが、まもなく、低いすすり泣きの声にかわって、
「······おら、こんな
血死期のように叫ぶと、同じ鎖に繋がれている、二十四、五のだぶだぶのルパシュカを着た男を、とつぜん、後から
「留吉、あきらめで、おらどいっしょに、死んでけれ。······な、な、······頼むすけ」
羽交締めにしたまま、力まかせに泥洲の方へ曳きずってゆく。
そこから河岸までは、ものの、十歩とはなかった。留吉という痩せた青年は、蠅のようにいそがしく手先だけを動かしながら、もう、必死の声だった。
「待ってけれ、
「おらのほうも、頼むから、······頼みだから······」
「あぶねてのに、······ちょっと······ちょっと、この手ばどけてけれ······」
そういいながら、ずるずると曳きずられて行く。眼もあてられないようすで、河岸まで青年を引っぱって行くと、
「いっしょにな、留」
横ざまに泥洲の中へ突き飛ばした。留吉は、うわアー、と絶叫して、頭から先に平らに泥洲の中へ落ち込む。間髪をいれずに老人も、鎖に引かれて、これも滑り込むように、ズブズブと足の方から陰険なようすをした泥河の中へはまりこんで行った。泥の上を流れている、浅い河の面に、ちら、と留吉の手の先らしいものが見えたが、それも瞬間で、ただそれだけのことだった。老人のほうは、泥の上に胸から上を出しておッ立っていたが、腕から肩、胸から咽喉、まるで、風呂へでもつかるようなぐあいに、ゆるゆると、沈んでゆく。
もう、顎に泥がつく。咳ばらいのようなことを、ひとつすると、
「帰ったら、おらの餓鬼どもに、いいあんべえにいっとおいでけれ。······ンだば、さいなら······」
唇が動いただけで、最後の「さいなら」はよく聞こえなかった。がぶッと、自分から泥のなかへ顔を入れ、それっきり、見えなくなってしまった。
六人が河の岸で、腑抜けのような顔で、ぼんやりと眺めていた。誰一人、ものをいうものもなかった。
モローゾフが、ナターシャに囁いた。
「つまり、動物的敏感というやつですね。私も、あの
そういって、革外套のポケットから、拳銃を取り出すと、
「あまり、ぞっとしない役割ですね」
やりきれないといった顔で、ちょっと、ナターシャに
山の
三千万年の前に死滅してしまったこの火山は、どの岩もみな古めかしく、
山の上には、十二人のひとがいた。沈着な
六人の漁夫たちは、みな、見上げるような大きなリュックサックを背負い、安全灯や、ロープや、手斧や、そのほか、雑多なものを、腰に差したり、吊したりしていた。おびただしい雑貨の中で、大きな身体が埋没しかけていた。
一同は、リュックサックをおろして、頂上の岩蔭でひと休みした。漁夫たちは誰一人、不安な顔はしていなかった。むしろ、
博士が、六人に一本ずつ巻煙草をくばると、おしいただいてから、ゆっくりと
出発の前の晩。博士は、一同に、この旅行中に起り得るさまざまな危険と、それが、どんな困難な旅行であるかを説明した。
六人の漁夫は、黙然と聞いていた。
「なアに、わすら、やってみるです」
そして、みんなのほうへ向いて、
「な」
と、同意を求めた。いっせいにうなずいた。
どの顔も自若として、露ほどの恐怖の色もあらわしていなかった。
博士は、熔岩隧道というものについて、それから、ロバトカ山の隧道の状態を、わかりやすい言葉でできるだけ詳しく説明した。
ロバトカ山の暗斜道は、東に一キロほど行き、そこでゆるいカーブを描きながら、東南東へ下っている。そこから、さらに一キロばかりのところで、二叉にわかれ、一つは、脈状に青い粘土をはさんだ堅固な安山岩盤で行きどまりになってしまい、一方は、分岐点から二百六十メートルばかりのところで、
つまり、調査隊の一行は、十カ月の間、このプロピライトと空しい格闘をしていたのだった。
博士の推定では、プロピライト道のほうは断念するのほかはなく、安山岩の岩盤をダイナマイトで破壊して、隧道の口を探すことだけが、最後の希望なのだが、その上の天井は、集塊岩が石泉の作用を受けて、軟化しているので、ダイナマイトなどを使用すると、どのような危険が起るか予想できない。そういう躊躇のために、岩盤破壊の決心がつかず、プロピライト道のほうに一
これに対しても、篁は、
「なアに、わすら、やってみるです」と、同じ返事をした。
博士の話で、隧道の中の危険な様子がはっきりすればそれだけ、いよいよ昂然とした意気を示すのだった。博士の心のどこかには、危険を誇張して、できるなら思いとまらせたいという気持があった。しかし、こういう様子を見ると、どのような制止も益のないことを悟った。
どうしても
地下旅行でもっとも困るのは、飲料水の問題であるが、地下には石泉というものがあるから、できるだけ、それを利用すること、岩側に耳を当てると、底流している石泉の音を聞くことができる。そこを目がけて掘ってゆけば水に行きつくが、非常な勢いで噴出するから、じゅうぶん注意しなければならない。溢れ出した石泉をすぐ飲もうとすると大
六人の漁夫たちは、膝に手をおいて、いちいち、はい、はい、と
博士は、ひとりずつリュックサックの中を検討して、あれこれと、不足なものを補足した。
前例のない、この、破天荒な門出を祝うために、調査隊は心ばかりの別宴を張って、じぶんたちの身代りに、この六人の人間が死んでしまうのかと思うと、粗末な
ところで、六人の漁夫たちは、コップに一口くちをつけると、いい合したように下へ置いてしまった。できるだけ歓待しようと、天幕中があたふたと駆けまわっているのを眺めながら、わしらは、これで寝ますから、ごめんをいただきます、といって、さっさと自分たちの天幕へ引き上げてしまった。
モローゾフ教授が、ナターシャに囁いた。
「礼儀をわきまえているといってもいいくらいだ。けだものにしてはできすぎている」
ナターシャは、教授のいい方に軽い反感を感じながら、
「そうね」と、答えた。
この地底旅行には、もし成功したら、また六人でそろって戻って来て、委細の報告をするという条件がつけられていた。提議したのは、いうまでもなく、モローゾフ教授である。
ナターシャが、訊ねた。
「全部そろって戻って来いというのは、どういう意味なのですか。半分ぐらいだってかまわないわけでしょう」
「いや、全部でなくてはいけない」
「ですから、なぜ?」
モローゾフ教授が、こたえた。
「全部殺してしまわなくては」
ナターシャは、チラとモローゾフ教授の顔を見上げた。そして、急いで眼を伏せた。何か鋭いものが、チクリと心を刺した。······
最後の煙草を
最初は、北原省三という、
「したば、さいなら」
かくべつ身構えをするでもなく、身軽にロープに取りつくと、岩壁に足を突っ張りながら、だんだん下のほうへ降りて行った。その身体は、まもなく、張り出した熔岩の
学術部員たちは、一種凄愴な気持でそれを眺めていた。大地の下をはるばる樺太まで行って、すぐまたその足で引返して来ねばならない。なんというひどい苦難が、そこにあるのであろう。そして、そのあげくに殺される。成功しても、失敗しても、どっちみち命のないこの六人の人間。この荒涼たる地獄の風景の中で、このような境遇を
「戻って来るのは、どうせ秋口になると思いますが、あんまり、寒くならないうちにやって来るつもりです」
そして、一人ずつの前へ行って、丁寧にお辞儀をし、沈着なようすでロープに手を掛けた。まもなく、最後の一人も、見えなくなってしまった。
つぎの朝、モローゾフ教授が、じぶんの天幕にいると、写生画家のペトローウィッチが、蒼い顔をして飛んで来た。
「ニコライッチ、大変なことが起きた」
「何?」
「博士が、天幕にいないんだ」
モローゾフが、厳しい眼つきをした。
「それで?」
ペトローウィッチは、ぐっと
「たぶん、博士は、逃げ出してしまったんだ」
「命令したとおり、看視はつけて置いたのだろうね」
「オグダノフ教授が、朝まで天幕の外で見張っていたのですが、うまく、してやられてしまったのです。······天幕の後ろに博士の
モローゾフ教授は、無言のまま天幕の外に出ると、じくじくと水気を含んだ苔原を踏みながら、三百メートルばかり歩いて行き、そこへ立って、空漠たる地表を見まわした。ツンドラの上には、人影らしいものもなかった。
モローゾフが、じぶんの天幕へ戻って来ると、天幕には調査隊の全員が集っていた。モローゾフはそのほうへは眼もくれず、天幕の奥のほうへ歩いて行って、釘から弾帯をはずして肩にかけ、それから、ゆっくりと銃を取り上げた。天幕の入口のところで、振返って、
「ちょっと、行って来ます」
ナターシャが、立ち上った。
「わたしもいっしょに行きます」
モローゾフ教授は、調べるような眼つきで、ちらとナターシャの顔を眺めたのち、きっぱりとした口調でいった。
「来るなら、きみも銃を持って来たまえ」
休息のない過激な行進のために、誰も彼も死ぬほど渇ききっていた。
三日目の夕方、一行は最初の地下水に行きあたった。
先頭に立っていたヤロスラフスキー博士が、最初にそれを発見した。
博士は、安全灯の光を差し向けながら、不思議なものにでも出っくわしたように、ぼんやりとそれを眺めていたが、やがてクルリと後ろを振りむくと、聞きとりにくい、
「
しんねりとした沈黙が、これにこたえた。
半裸体の群像。血のような汗の
「
どの顔も、感激の色も喜悦の徴もあらわさなかった。気が狂いそうな激しい
博士は、岩
「
「
博士は、
六人の漁夫たちは、背嚢をおろすと、かわるがわる水を飲み、水筒をいっぱいにし、それから、側壁にもたれて坐った。誰ひとり
近くに
一行の前には、
ソヴィエト極東
かつて、なんぴとも想像だになし得なかった前人未踏の地底大秘道||。コペルニカスのいわゆる「
それは、デンマークの小説家、Ludvig von Hollberg の「ニコラス・グリムの地下の旅」で空想されたような、軽石だらけの索漠陰惨な横穴でもなく、Paul Jannussen の「
天井までの高さは約六メートル。幅四メートル。
塩基性輝石安山岩の岩側は、数千万年の風湿のために研磨されて
いまだ、いかなる生物も足を踏み入れたことのない地球の胎内。死界。永遠の闇と夜。おそるべき寂寞。無窮の
しかし、洞道のこの異様な美しさも、七人の一行にはなんの感じも惹きおこし得ないようだった。六人の漁夫たちは、博士が日誌を書きおえると、待ちかねたように背嚢を背に負い博士を先頭にして、飛ぶような歩調で、また
四百里の、この破天荒な地底旅行の前途に横たわる予期せられざるさまざまな危険と困難のほかに、一行の背後にいま恐るべき死の手が追いせまっていた。ペターセン自動小銃を持った十人ないし二十人の兇悪なる追跡者が、刻々に彼我の距離をちぢめていたのである。
この七人の一行は、一梃の銃器も身につけていなかった。ここで彼らに追いつめられたら、なんの抵抗もなし得ずに犬のように射ち殺されてしまわなければならない。
事態はきわめて険悪だった。一分の
博士の脱走。その裏切と内通は、直接に学術探検隊一同の生命の危機を意味していた。
「北緯六十二度三十分における学術研究」の秘密目的。||戦慄すべきその意図の全貌と、探検隊のサボタージュの事実が、博士や六人の漁夫たちの口から曝露されたら、「トロツキスト・ブロック」の一系列と認定され、反革命陰謀を遂行したという名目で、否応なしに銃殺されてしまわなくてはならない。
探検隊の一行は、突然、このうえもない危険な
ヤロスラフスキー博士は、モローゾフ教授の冷徹なやり方を熟知している。
モローゾフ教授は、自分らのサボタージュを
モローゾフ教授は博士の脱走を発見すると、時を移さずに追撃隊を組織して
身軽な「死の追手」は、刻々に距離をちぢめている。それに備えて、大安山岩壁の口に構築しておいたバリケードを破壊する時間だけが、追跡者の側のわずかなハンディになっている。しかし、博士の計算によれば、それも、三日以内に取りもどすことができるはずだった。
その三日目の夜が来た。死の
七人を死滅させても、絶対に掩秘しなければならない「学術研究の秘密目的」とは、そもそも、どんなものであろう?
それには、日本の国防にゆゆしい脅威を与える、恐るべき企図が隠されてあったのである。
ソヴィエト連邦政府は、ヤロスラフスキー博士の「ロバトカ=
モスクワの科学アカデミー地質学部長イヴァン・ヤロスラフスキー博士が一九二九年以来、コムアカデミーを通じて熱心に申請した「ロバトカ山の熔岩隧道調査」が、一九三七年にいたって突然承認されたのは、右に述べたような驚嘆すべき理由によるのだった。
この
この恐怖すべき攻略路が完成した暁には、ソ連邦は日本帝国に対して、次のような広汎な軍事的優越をもつことになる。
第一、優勢なる日本海軍の万力による日本海上の閉出し、ならびにソヴィエト海軍基地ウラジオストック封鎖の裏をかき、日本領土内に兵器・兵員・食糧の輸送にたいする無限の自由性・安全性をもち得ること。
第二、ウラジオストック放棄、ならびに日領樺太 におけるソ連空軍基地の進出による日本海・空軍の戦略の全般的攪乱。
第三、カムチャッカ作戦基地よりするスピーディな水上・潜水巡洋艦と、アムール河上ニコライエフスク作戦基地の航空巡洋艦の活動は、日本海軍の作戦に並行して、自国沿岸防備以外の、日本沿岸封鎖の重要作戦をとり得ること。
地底旅行開始の前夜、調査隊の一同が、第二天幕で送別晩餐会のしたくに忙殺されているすきに、博士は、自分の天幕に
それは、容易ならぬ危険を意味していた。
熔岩隧道の口は大きな安山岩盤で
篁は、眉も動かさずに博士の話をきいていた。一分ほど考えてから、すぐ返事をした。
「いらしてくだせえ。あンたのために死ぬんだば、皆も嫌だとはいわねえすべ」
あの夜、六人の漁夫たちが、
探検隊の一行に見送られて暗斜道へ入ると、一同は飛ぶようにして安山岩盤のところへ走って行った。
周囲の岩側の変朽のために、見上げるような大きな輝石安山岩が、暗道の真中に落下してきて、ガッチリと行く途を塞いでいた。
真夜中ごろ、博士が天幕から脱走して来るとして、それまでに、わずか十二、三時間の時間しかなかった。その短い時間のあいだに、鋼鉄のような弾力をもったこの大岩盤に、どうして穴を
六人のうちの亀井という漁夫が、須田と額を集めて何か相談していたが、とつぜん、
「ンだば、それでやって見るか。うまく行くかもしれねど!」
と叫ぶと、
六人の漁夫の前身は、色とりどりだった。鯨の
博士がやって来た時には、岩盤の頂上に、どうにか人が通れるくらいの穴があいていた。
それから、また二時間。皆がかりで
「第八観測点 bis.(午後三時〇分)
第六日(六月二十五日)
可能の限界において、海底ならば、どれほど深く沈んでも、皮膚が太陽の微光を受けることができる。が、この地球の胎内では、われわれの官能は、日光のいかなるd
bris をも感じることができない。
今日で、もう六日の間、何の変化もない単調な暗斜道の、永劫の闇の中を歩きまわっている。
どこまで行っても、同じようなアーチ形の天井の輝石安山岩の側壁。進んでいるのではなくて、同じところをグルグル廻っているのにすぎないというような奇妙な錯覚におそわれる。耐えがたい倦怠と激しい焦燥感が、意志の力を草の葉のように揉 み砕く。たしかに前へ進んでるのだと自分にいってきかせるには、超人間的な意力を奮いおこす必要があった。今日は三度も観測を繰返した。経緯儀と測距計だけが、われわれの進行を保障してくれる。第七観測点の八八・三に比べると、われわれは、さらに二キロだけ日本のほうに近づいたことがわかる。
われわれの前進を、精密な科学機械が証明する。それを信じるいっぽう、地底の異常な圧力や磁気力が、経緯儀や測距計を狂わしかけているのではないかという懐疑からのがれることがむずかしかった。追跡者は、今日もまだ追いついて来ない。自分の計算では、すくなくとも三日前の夕方に追いつくべきはずであった。いったい、何をしているのだろう。彼等の間に何が起ったというのだろう。彼等の到着は、ただちにわれわれの死を意味するにかかわらず、来たるべきものが来ないという当外れが私を苛立たせる。
第七日(六月二十六日)
追跡者は、今日も追いついて来ない。
今日にいたって、私はその理由を発見した。
追跡者の中にナターシャ・イワーノヴナが混っている。
彼等が最初のハンデキャップを取り返せないのはそのためである。しかし、それには限度があろう。ナターシャのためにわれわれに追いつくことができないのだということになると、モローゾフ教授は、ナターシャを抛棄 して活発な追跡をはじめるであろうから、われわれは追跡者の速度に関する算出の基礎を変えるわけにはゆかない。今日の午後、洞道の側壁にジュラ紀の蘇鉄類 Pothoxamites と松柏類 Forthia の熔岩樹型を発見した。
この熔岩隧道へ入ってから、八日目に、はじめて生物らしいものに遭遇したわけである。
一千万年前の蘇鉄と柏の凹鋳型彫 。私は異常な感激をもってそれを眺めた。
これらは、われわれを慰安してくれたばかりでなく、このおそるべき単調な旅行に何かの変化が起りかけていることを漠然と示唆してくれた。
一キロほど進むと、われわれの行く途に、なんともつかぬぼんやりとした微光が漂っているのを認めた。月光のような蒼白さではなく、霧のような乳白色でもない。たとえば、緑柱玉の輝きを紗 を透 してながめたような、淡いあわい海緑色 の、それ自体、冷涼たる輝きをもった······ヤヌッセンが B
ryl と呼んでいるある異様な微光だった。六人の漁夫たちは、しばらくの間、ものもいわずにそれを眺めていたが、やがて、いっせいに、お祈りする時のような敬虔 なようすで跪 いて両手を合わせた。
じじつ、それは現世の感覚を超越した、浄土 の寂光ともいえるような瞑想的な感じをもっていた。
われわれは微光に向って歩き出した。
洞道は、その辺からゆるいカーブを描きながら曲りはじめた。およそ、百二十メートルも歩いたと思うころ、われわれの眼前に、突然、異様な光景が現出した。
眼界は広々と展 け、深い谷を越えたはるか向うに、氷河のような色をした断崖が、夢のように白々と聳 え立っていた! この八日のあいだ、われわれを導いて来た暗道は、なんの前ぶれもなく、唐突に硝子 のようななめらかな急傾斜で底も見えぬ無限の暗黒の中へ逆落しになり、丸木橋のような細い岩橋 でわずかに向うの断崖へつづいている。
すさまじい形相 で黒い口を開けている千仭 の谷の上に、美しい弧を描きながら、白い虹のように、はるばると架け渡っている。
あたりは、しんと静まりかえり、なんとも名状しがたい透明な淡緑の微光が、月の世界のような草一本、苔ひとつない冷涼たる風景の中を満していた。岩橋 も、斜面も、はるか向うの断崖も、すべての物象はたがいにぼんやりとした影を投げ合いながら、碧玉髄 のように玲瓏 と輝きわたり、同じような色の模糊たる空間の中へ溶け込んでいる。
この突然な断層、||「熔岩メーサ」は、氷河の作用によってひき起されたものだった。
そのころの地球は、すでに風化し、傷みやすくなっていた。電光や雪崩 や暴風や急湍 が仕残した仕事を氷河が完成した。ただ一つの岩橋を残して暗道の胴中をすっかり持って行ってしまったのである。
第九日(六月二十八日)
昨夜、おそくまで凝議 した結果、向う側の断崖の側面に口をあけている暗道までたどりつくには、ナイフの刃のような、この危険な虹の橋を渡るほかに方法がないということになった。こちらの急斜面には足場になるようないかなる割目 も凸起 もないからである。以前山案内人 の経験をもつ山口が先頭に立った。われわれの胴中をロープで結びあわして導いていった。彼は相当うまくやった。ところが、また困ったことが起きた。命の綱とたのむ岩の橋に大きな亀裂 が入って空中で断ち切れていることだった。その間隔は少なくも六フィートはあった。われわれは、すぐ眼の前に向うの暗道の口を見ながら、進むこともしりぞくこともできないことになってしまった。
六フィートの空間の向うは、やや広い平面をもった鞍部 の突端で、その上に大きな岩塊がひとつ載っていた。山口は、橋の端に腹ばいになっていたが、まもなく、身体をおこして馬のりになると、われわれの方へ振りむいて、ニヤッと笑ってみせた。われわれは、それを、彼がこれから必死な試みをしようとしているという意味にとった。彼は橋の突端に立ち上ると、ひと跳躍で向うの鞍部へ飛び、その岩に獅噛 みついた。その途端、あっけなく岩が揺ぎだした。アッというまもなかった。山口は岩を抱いたまま、底知れぬ無限の谷底へ真逆落しに墜ちていった。
第二十二日(七月十一日)
「第二十七観測点。(午後四時二十分)観測ナシ」
あの不幸な朝、同行者の一人とともに、経緯儀 や測距計などの重要な計器を納めてあった背嚢 を、酷薄な谷が呑み込んでしまった。もちろん、だれの過失でもない。あの戦慄すべき放れ業を演じおえるために、背嚢は当然犠牲にしなければならなかった。食糧が入ったほうが残らず助かったのは幸いだった。もしそうでなかったら! それから八十日の旅行を、どんなふうにしつづけようというのだ。
こういう事情のために、正確な調査や観測によって、歩度を進めて行くことができなくなった。私の時計の鎖についている小さな磁石を頼りに、これからの困難な旅行を続けなくてはならぬ。七日前に、ついに、塩基性輝石安山岩の暗道が終りをつげ、われわれは、地球の胎内の暗い深い谷間を彷徨 することになった。
一八八〇年に、露西亜 の地質学者イノストランツェフがオレネツ地方で発見した、中期原生代のシュンガ石や、妙な噴出物が、あらゆる怪奇な形をして、伸び上ったり、聳 え立ったりしている、ダンテの「神曲」の地獄篇の、死の谷のような風貌をした悲痛陰惨な地隙 の底である。斧でけずりとったような四角四面な熔岩台 。大蛇がよじれあっているような縄状熔岩 。それからさまざまな形をした熔岩の針 。||サボテンのような、トーテム・ポールのような、麒麟 の首のような、こういう異様な羅列 が、中期原生代の赤錆色の湧出物でおおわれた不気味な谷間の中にヒョイヒョイと立っている。この谷間には、例の微光はなく、そのかわりに、瘴気 のような薄い霧が仄暗く立ち迷い、驚くほど高い地殻の罅隙(たぶん噴火口であろうと思われる)からくる黄昏のようなおぼろ気な光がぼんやりと遍満 している。
谷は、向うのほうでおいおいに狭まって、その端に大きな洞門を持った五十フィートばかりの絶壁が聳え立ち、コールタールのような濃黒色の河が、ところどころに瀞 をつくりながら暗い洞門の中へのろのろと流れ込んでいる。
「嘆きの河 」||アマゾン河系のトカチンやマデーラ、オリノコ河の支流のルエランパゴーを流れる、西班牙 語で Rio negro (黒い河)と呼ばれる特異な水質を持つそれと同一系列のものだということがわかった。「黒い河 」には浮遊動物 も魚類も絶対に棲息しない。鳥も蚊もその上は飛ばないのである。この黒檀 色をした陰鬱な河。薄い霧。死滅した熔岩。悲しげな黄昏の色。カトリック教の「地獄」というのは、たぶん、こんな形容を持っているのであろう。われわれは、この奇異な熔岩柱の谷間へ追いつめられ、黒い河の流れにそって洞門の中へ入り込むほかに進行の方法がなくなった。
可能の限界において、海底ならば、どれほど深く沈んでも、皮膚が太陽の微光を受けることができる。が、この地球の胎内では、われわれの官能は、日光のいかなる

今日で、もう六日の間、何の変化もない単調な暗斜道の、永劫の闇の中を歩きまわっている。
どこまで行っても、同じようなアーチ形の天井の輝石安山岩の側壁。進んでいるのではなくて、同じところをグルグル廻っているのにすぎないというような奇妙な錯覚におそわれる。耐えがたい倦怠と激しい焦燥感が、意志の力を草の葉のように
われわれの前進を、精密な科学機械が証明する。それを信じるいっぽう、地底の異常な圧力や磁気力が、経緯儀や測距計を狂わしかけているのではないかという懐疑からのがれることがむずかしかった。追跡者は、今日もまだ追いついて来ない。自分の計算では、すくなくとも三日前の夕方に追いつくべきはずであった。いったい、何をしているのだろう。彼等の間に何が起ったというのだろう。彼等の到着は、ただちにわれわれの死を意味するにかかわらず、来たるべきものが来ないという当外れが私を苛立たせる。
第七日(六月二十六日)
追跡者は、今日も追いついて来ない。
今日にいたって、私はその理由を発見した。
追跡者の中にナターシャ・イワーノヴナが混っている。
彼等が最初のハンデキャップを取り返せないのはそのためである。しかし、それには限度があろう。ナターシャのためにわれわれに追いつくことができないのだということになると、モローゾフ教授は、ナターシャを
この熔岩隧道へ入ってから、八日目に、はじめて生物らしいものに遭遇したわけである。
一千万年前の蘇鉄と柏の
これらは、われわれを慰安してくれたばかりでなく、このおそるべき単調な旅行に何かの変化が起りかけていることを漠然と示唆してくれた。
一キロほど進むと、われわれの行く途に、なんともつかぬぼんやりとした微光が漂っているのを認めた。月光のような蒼白さではなく、霧のような乳白色でもない。たとえば、緑柱玉の輝きを

じじつ、それは現世の感覚を超越した、
われわれは微光に向って歩き出した。
洞道は、その辺からゆるいカーブを描きながら曲りはじめた。およそ、百二十メートルも歩いたと思うころ、われわれの眼前に、突然、異様な光景が現出した。
眼界は広々と
すさまじい
あたりは、しんと静まりかえり、なんとも名状しがたい透明な淡緑の微光が、月の世界のような草一本、苔ひとつない冷涼たる風景の中を満していた。
この突然な断層、||「熔岩メーサ」は、氷河の作用によってひき起されたものだった。
そのころの地球は、すでに風化し、傷みやすくなっていた。電光や
第九日(六月二十八日)
昨夜、おそくまで
六フィートの空間の向うは、やや広い平面をもった
第二十二日(七月十一日)
「第二十七観測点。(午後四時二十分)観測ナシ」
あの不幸な朝、同行者の一人とともに、
こういう事情のために、正確な調査や観測によって、歩度を進めて行くことができなくなった。私の時計の鎖についている小さな磁石を頼りに、これからの困難な旅行を続けなくてはならぬ。七日前に、ついに、塩基性輝石安山岩の暗道が終りをつげ、われわれは、地球の胎内の暗い深い谷間を
一八八〇年に、
谷は、向うのほうでおいおいに狭まって、その端に大きな洞門を持った五十フィートばかりの絶壁が聳え立ち、コールタールのような濃黒色の河が、ところどころに
「
洞窟は進むにつれて広くなった。
朱や白や
プランクトンが棲んでいないので、水はガラスのように透きとおり、五十フィートほどの深い底で珊瑚のようなかたちの熔岩塊が、青い

一行六人は、
そのうちに、おいおい天井が低くなってきて、流れが大きくカーヴしたと思うと、行く途に、ぼんやりと明るく洞口が見え出してきた。
異様な風景があった。
それは、ひろびろとした沼だった。原始混沌のような褐色の泥に取巻かれた沈鬱な沼。見渡すかぎり草らしいものもなく、ただ一本、貝殻ででき上ったような奇妙な幹をもった蘇鉄に似た樹が、二十フィートほどの高さで、沼の岸に直立している。
捕捉しがたい乳白色が、漠々と沼の上を蔽っていた。地上の空ではない。地底の国の模糊たる
うち沈む灰色の死の沼。
洞窟や、古沼や、孤島や、断崖などの奇異悲壮な風景をかくサルヴァトル・ローザも、これほど悲哀に満ちた風景は描き得なかったであろう。一
博士と五人の漁夫たちは、沼の岸に腰をおろして少憩した。磁石の針の示すところでは、この岸にそって行進をつづければいいのらしかった。この三十五日間、絶えて変化のない一同の食糧だった
突然、六人の頭の上で、金属でもきしるようなキーッ、キーッという鋭い鳴き声がきこえ、頭に三角形の
一千万年前、
ところで、つづいて、また別なやつがやって来た。
濡れた布を強く振るような、ハタハタという音が高いところで聞こえ、
それは、
······そのころ、地球は、テチスという大海をへだてて、その南にアンガラ、北にゴンドワナという二つの大陸があるだけだった。三畳紀の終りごろから、そろそろと火山活動がはじまり、白亜紀の末期になると、天地をくつがえすような天変地異がやって来た。たえまない大地震と大噴火。ものすごい地盤の昇降。陥没と隆起。大
それから、もう九百万年! ······その飛竜類がいまだに生存をつづけ、こんなところで飛びまわっている。······想像にも空想にも絶した驚異な事実で、現在、眼で見ながら、これが事実だとはどうしても信じられないのだった。
博士は、
一瞥には、それは、大きな海蛇のようなものだった。キラキラと光る眼をもった大錦蛇のようなものは、みるみるうちにスルスルと二十フィートも伸び出し、ややしばらくの間、水面から二、三尺ばかり上のところでクネクネとくねり廻っていたが、そのうちに、今度は、中洲のようになった浅瀬の上へ、濃灰色の、小山のような厖大なものが

「おーッ!」
という驚異の叫びが、期せずして一同の口から
なんという怪偉!
それは、大蛇のような長い頸を持った、象の五十倍もあろうと思われる巨大な四足獣だった。沼の上を這いまわっている頸の長さだけでも三十フィート以上。背中は蘇鉄の二倍ぐらいの高さのところにあって、その後に、さらに二た抱えほどもある太い尾を、長々と四十フィートも曳いていた。沼の底が隆起して、濃灰色の島が突然押し上げられたかと思われるような、形容に絶した壮大な景観だった。
博士は、長いあいだ茫然と眼を
「ブロントサウルス」
と、絶叫した。地球が生んだ最も巨大な動物だとされているジュラ紀の大爬虫獣。
前世界とともに、まったく絶滅してしまった雷竜が、わずかばかりの沼の水を隔てた、すぐ眼の前の浅瀬で、丘がゆらぐようにのそのそと動きまわっている。
博士と五人の漁夫は、中生代の沼のほとりに
ジュラ紀の世界! 黙示録が、詩的な名称で比喩した「
博士は、恍惚たる眼差でこの巨獣を眺めつくすと、何ともつかぬ深い嘆声を上げながら蘇鉄のそばまで行って、掌でその幹に触れた。
それは、古生代三畳紀のレーチック植物といわれるものの一種で、そのころ、羊歯や
「
すすり泣くような声で呟くと、博士は両手で白髪の頭をかかえて蘇鉄の根元へしゃがみ込んでしまった。
自然科学者として、古生物学と地質学を専攻する数多い学者たちのうちで、かつて、なんぴとも出遭うことのできなかった至幸至福な境遇の中で、博士は、感きわまって、昏睡しかけているのらしかった。
博士は、つい、いましがた通りぬけてきた洞窟の中のジュラ系が、逆倒層になり、
もちろん、五人の漁夫たちは、博士ほどの深甚な感動は持ち得なかった。が、それにしても、あまりに奇異な景観に、誰も彼も魂をうばわれ、
むかし、
「でっけえなァ! あれァ、象だべか、鯨だべか。······銛打って見てえもンな。あれさ、銛打ったば、どんな気持するべ!」
ここに手馴れた銛がないのを嘆くように、無念そうに足ずりするのだった。
そのようすが、いかにも可笑しいので、みなが、ドッといっせいに笑い出した。
博士は、その声で、夢から醒まされたように顔を上げると五人のほうへ戻って来て、黙々と食事のつづきにとりかかった。機械的に口へ食物を持って行くだけで、眼は灼きつくように
亀井が、大きな傷痕のある眉間を、突き出すようにして、博士にたずねた。
「先生さま、あれァ、いってえ何という獣なんです」
博士の返事は、たいへん素っ気ないものだった。自分の感動を邪魔されるのを厭うように、ちょっと眉を
「あれは、大昔に生きていた動物だ」
と、ぶっきら棒に答えた。それっきりだった。
「へえ。そいで、あいつは、悪さをしませんのですか。あんなやつにやられたら、ひとったまりもありませんからねえ」
「あれは、草を喰うやつだから、人には害をしないが、あれがもし、
そして、もう何も話しかけてくれるな、というふうに手を振って見せた。
食事がすんで、いよいよ出発という時になって、清水岩吉が、この蘇鉄の樹で
「ンだども、こんなとこで、三日もまごまごしてたら、追っ手に追いつかれる」
清水が意見を吐いている間、皆が心で感じていたことだった。
清水は、
「そのこたァ、俺だって考えねいわけじゃねい。だが、今日でもう三十五日になる。追いつくものなら、もっと早く追いついてるはずだと思うんだ。俺ァ、
うまくゆけば、この先、追手に追いすがられる心配がなくなる。犬のように撃ち殺されるという惨めな運命から解放される。これが、他の三人の心を動かした。みないっせいに
どんな場合でも、漁場監督の篁の意見によって行動することがカムチャッカの漁場以来、一行の不文律になっていた。博士も、篁がどんな返事をするかと思って、その顔を見まもっていた。博士も清水の意見に賛成だった。舟で行くと、また別の爬虫獣を見られるかもしれないと思ったからである。
篁は、太い眉のあたりを緊張させ、物を考えるときにいつもする腕あぐらを組みながら、一分ばかり考えていたが、やがて、たったひと言、
「よし、やるべ!」
と、いった。
一同は、一度
蘇鉄は、石のように硬かったが、それでも、日暮まえにとうとう伐りたおしてしまった。一同は、清水の指揮に従って、
もう日暮も近く、沼の上は、灰白色からぼんやりとした薄墨色にかわって来た。
突然、十間ほど後ろの洞門の方で、鋭い二発の銃声がした。ぎゃーッ、という須田の血死期の絶叫が聞こえ、ちょっと間をおいて、白いひと塊りの煙が、スーッと洞門から流れ出して来た。
いっせいに棒立ちになった。
死の追跡者が、とうとう追いついて来た。
博士は地面の上にそっと斧をおくと、蒼ざめた唇を動かして、
「やって来た!」
と、呟いた。
漁夫たちの顔の上には、さして恐怖の
洞門の闇の中から、冷徹な面持をしたモローゾフ教授が現われて来た。手の中にペターセン六連発の大きな自動拳銃を握っていた。その後ろから、革の半外套に革のゲートルをつけたナターシャ・イワーノヴナが出て来た。
モローゾフ教授と、ナターシャの二人きり。その後ろに続くものはなかった。これがまず、五人に意外な思いをさせた。それに、どちらも、五人が想像していたような
例のとおり、非人情、冷酷な眼つきをしているが、見るからに憐れを催すほどひどく
ナターシャのほうは、もっとひどかった。外套の衿元は無慙にひき裂け、じかに

教授は、一同から二十フィートほど離れたところに立ちどまって、感情の翳のささない、一種沈鬱な眼差で、ゆっくりと、ひとりひとりの顔を眺めはじめた。
二人の惨めなようすを目撃したとき、一同の心には、咄嗟のうちに、期せずして同じような作戦ができ上っていた。多寡が拳銃一梃。もうすこし近寄って来やがったら、誰か一人ぶっ喰らわされているうちに、皆がかりで
ところが、冷静な教授の頭脳には、防衛と攻撃の両全の法に対する緻密な距離の計算ができ上っていた。ちょうど二十フィートほどのところに立ちどまって、そこから一歩も進もうとはしなかった。
教授は、ソロソロと銃口を上げて行って、まともに篁の胸を狙いはじめた。
いよいよ、最後の瞬間が来た。三十五日のひどい苦労も、これで
曳金にかかった教授の指が、ピクッと
「野郎のピストルには、弾丸が四発しかねえのだから、一発で一人ずつ殺ったとしても、誰か一人残るわけだ。残ったやつは、あの野郎と女を
三人は、うん、と
それにしても、誰が残るだろう? 博士か? ······博士に対する教授の憎しみの感情だけでも、とても博士を生かしてはおくまい。とすると、四人のうちの誰かが生き残るわけになる。
弾丸は飛び出さずに、そのかわりに、教授が、鋭い声で命令した。
「
一同は、命令に従って、縦列をつくった。先頭が、博士だった。教授はつづいて、第三の命令を発した。
「そのままで、沼の方へ後退!」
一同は、後退りに一歩ずつ沼の方へ退りはじめた。
何という緻密な頭脳。教授は、
留吉という若い漁場見習を引きずって、自分からコリマの泥洲へ沈んでしまった不幸な仲間のことが思い出された。あいつのほうが、俺たちより利巧だった。亀井が、
「ふふん」
と、笑った。その心がすぐ、みなに通じた。後退りをしながら、他の三人もクスクスと笑い出した。
第三の命令が来た。
「止れ! ······ヤロスラフスキー博士、あなただけ一人でこっちへやって来てください」
博士は、列から離れて、一種
今まで、泥の上に腰をおろしてジロジロと成行を観察していたナターシャが突然立ち上って、博士のほうへ近づいていった。
「裏切者!」
と叫ぶと、平手で力まかせに頬を打ちすえた。博士は、ヨロヨロとよろめいた。
「破廉恥漢!
ナターシャの激昂がおさまるのを待って、教授がしずかにいった。
「博士、私は意見を変えたんですよ。
沼の涯は模糊として霞み、天蓋の乳白色が沼の面に反映して同じ色でひろがっているので、ちょうど、空の中を進んでいるような気がする。
刳舟は三
櫂の音に驚いて、
そんなわけで、三日目になっても、舟は沼の中ほどのところまでしか進まない。
七日目の朝になって、ようやく向う岸が見えるところまで近づいた。対岸には、異様な
運転手の清水が真っ先に気がついた。漕手を励まして、水路から抜け出そうと夢中になって漕ぎはじめたが、その時はもう遅かった。舟は、磁石に引かれる鉄片のように、艫に白い泡を噴きながら、えらい勢いで洞門の方へ走り出した。見るみるうちに向うの断崖が眼の前に迫ってきた。刳舟は、渦に乗って入口のところで急激に一度半回転し、ゴーッというものすごい音とともに真暗な洞門の中に引き込まれ、三十度ぐらいの角度で、真っ逆落しに落下しはじめた。
ちょうど、むかし、遊園池にあったウォーター・シュートのような具合だった。舟から跳ね出されなかったのが、むしろ不思議なくらいだった。ドタドタと舳の方へ将棋倒しになり、一塊りになって揉み合っただけで無事にすんだ。いちばん下にいた博士が、皆の下敷になってひどい目にあった。
洞門の入口でクルリと半回転したので、舟は艫のほうから先に落ちてゆく。従って、こういう、きわどい情況の中でも、教授は依然として五人を監視するのに都合のいい位置を占めることになった。揉み合いに
三十分。永劫とも思われる長いながい三十分が経ったが、依然として、舟は落下をやめない。恐るべき無限の落下。暗黒の洞窟の中で、耳も
つづいて、異様な現象がはじまった。
舟の落下につれて、洞内の温度が急激に
モローゾフ教授は、顎からポタポタと汗のしずくを垂らしながら、辛辣な
「ねえ、博士。われわれは、今どろどろの
博士が、生真面目にはねかえした。
「
教授は肩をピクンとさせると、やりきれないといった顔でおし黙ってしまった。
博士の予想どおりだった。それから十分ほどすると、だんだん落下の速度がのろくなり、大きな水のうねりに二、三度急激に押し上げられたと思うと、舟は洞門をくぐりぬけ、唐突に羊歯や
鬱然たる亜熱帯の沼沢地。一同の眼前に、ボルネオの
水は
流れの岸には、奇妙なようすをした
ここもひどい暑さだった。大気はソヨとも動かず、その中に、
誰も彼も、汗になってとけてしまいそうだった。熱気はおそろしく高く、どんなに勇気を出しても、五分とはつづけて漕がれなかった。そのうえ、同じような羊歯の岸をもった流れが迷路のように右にも左にもあって、磁石を見ては幾度もはじめからやり直さなければならなかった。
モローゾフ教授は、ここでも自在に舟を停めさせて、花や羊歯に眼を近づけて熱心に観察したり写生をしたりした。鉛筆も手帳も取り上げられてしまった博士のほうは、眼の中へ書きつけておこうとでもするように、灼きつくような眼差でそれらを眺めていた。
そのうちに、水路はだんだん狭まって来て、はるか向うに緑色の木賊で蔽われた広い湿原がひらけ、その上で、四、五匹の大きな爬虫獣の群がさまよっていた。
博士は、急に手をあげて、舟を停めさせた。教授が、たずねた。
「どうしたというんです」
博士は、指で爬虫獣のほうを指した。
「危険だから······」
「あれは、
博士は、首を振った。
「信じがたいことだけれど、われわれは、もう、ジュラ紀にはいないのだ。白亜紀にいるのです。われわれをとりまいている
「ここに、
「つまり、われわれは、この一時間ほどの間に、唐突にジュラ紀から白亜紀へ
「一時間で、一千万年の
そして、口をすぼめて、ほう、と冷笑した。しかし、無理に舟を進めようともしなかった。
磁針の指すところでは、どうしても湿原を横切って行進をつづけるほかはない。一同は、流れの中に舟を停めて、獣群が立去るのを辛抱強く待っていた。夕方近くになって、ようやくそれが動き出し、はるか向うの黒い蘇鉄の森の中へノソノソと入っていった。
櫂の音を忍ばせながら、そろそろと舟を進め、根茎が
モローゾフ教授とナターシャは、いつものとおり、五人から三十
およそ、半
戦慄すべき出来事が起っていた!
一匹の巨大な
体長はゆうに五十フィート以上あり、立上ったその頭は、三十フィートもある
博士と四人の漁夫は、ひと塊りになって、ややしばらくの間
ナターシャと教授だけの問題ではない。まごまごすると、ここで一人残らず殺されてしまわなければならない。万死に一生を得るには、こちらから攻勢に出て、ぜがひでも相手を
教授とナターシャは、恐怖に顔を引きゆがめ、何か聞きとりにくい切れぎれな叫び声をあげながら、息も絶えだえに走りつづけている。しかし、一と飛びに三間ずつも跳ねてくる恐竜の歩度には
「ぎゃあーッ!」
赤ん坊の泣声のような鋭い悲鳴が、寂然たる中生代の湿原の中に響きわたった。
恐竜は、最後の一と跳躍をすると両手で教授を掴みとり、三十フィートもある高い胸のところに抱きあげた。
最初に飛び出したのは北原だった。長い柄のついた泥炭の銛を水平に肩の上に引きあげ、ギリシヤの
猿のような顔を額ぎわまで紅潮させ、丹精して作りあげた銛が使えるのが嬉しくてたまらないといったふうに、顔中を笑皺だらけにしてニコニコと笑っていた。
「なアに、鯨と一つごっこだ。でッけえぐれえにおどろくけえ、阿呆!」
体当りでもするように恐竜にぶつかって行き、両後肢の間に突っ立つと、ふり仰ぎざま、右の眼をめがけて、発止と銛を打ちつけた。
銛は、綱にひかれるように真直ぐに上って行って、恐竜の眼の下にのぶかく突き刺さると、ブルンといちど柄を
恐竜は、ぐわッとものすごい悲鳴をあげ、胸に抱えていた教授を
これが、気丈な北原の最後だった。
断崖の下には、大海の波が押しかえし、巻きかえし、四時止むときなく轟くような音を立てている。海から上った灰色の霧が、屍衣のようにぼんやりと岩角へまといつき、あらゆる鋭角を曖昧にし、不気味な島のようすをいっそうミスチックなものにする。
周囲、十
怒濤の
ツルノニア圏の湿原で、
ヤロスラフスキー博士は、今日から二週間前の朝、この島の断崖の下に棲んでいる
ナターシャは、これも同じころ、
「あー、あー」
と、叫ぶだけだった。
われわれには、それが、どういう意味なのかすぐわかった。ナターシャは、自分の歯を日本の土(Nagasaki?)に埋めてくれと頼んでいるのだった。臨終の一週間ほど以前、彼女の
彼女は、六人の漁夫の生命を庇護し、私の殺戮から救うためにやって来た。日本人だった彼女の母の血に対する敬意と
彼女は成功した。沼のかたわらの洞門で、一人の犠牲者を出しただけで、あとの六人(博士も含めて)の命を私の殺戮から完全に救うことができた。なぜなら、あの時、私の拳銃の弾倉には、じつはもう、一発の弾丸も残っていなかったからである。
彼女は、母の血に対する儀礼をすますと、今度は、私の調査中、空の拳銃を握って、漁夫達の不意の反撃から、最後まで私を護ってくれた。ところで、この優秀な
漁夫の篁が、懇篤に
われわれがこの地底の孤島に停滞してから、もう二十日になる。
ツルノニア圏の湿原を出てから、
怒濤に取包かれた、木一本ない不毛の岩島。どんな方法でこの海を渡ろうというのか! われわれは、あと二百キロというところで、完全に進行を阻まれてしまった。嘆声をあげながら鉛色の海を眺めるばかりだった。ヤヌッセンは、
われわれは、食糧の欠乏を補うために魚を釣ることを思いついた。
一千万年前の鱈! われわれは、それを貪り喰った。
次の日、清水と亀井が軟足類の奇妙な貝を拾って来た。見ると、それは、石炭紀のあの貴重なプレウロトマリアだった。生きている
手紙(モスクワ大学地質学部ニコライ・ラザレフ教授宛)
これは、全同盟科学研究計画会に提出した、「ψ62°30′N. λ140°17′0″E における学術調査報告」とは何の関係もなく、純粋に、あなた個人にあてた私信であることを、あらかじめご承知おきください。訣別にあたり、報告書には記載しなかったちょっとした隠れた事実をお伝えして、
この島へ釘づけされてから、ちょうど二十三日目、つまり、九月十三日の朝の九時二十分ごろ、突然、島の南側で、ゆるい汽笛の音がきこえ、
この時の私の混乱と狼狽はどのようなものであったか、あらためてここへ書きつける必要はありますまい。
ヤロスラフスキー博士は成功しました。
地底の道は、たしかにロバトカ山から日本領地の一部へ貫通しています。しかし、それは南樺太恵須取山の旧火口ではなく、カムチャッカ半島に接した
この事実は、今度の学術探検の真の目的たる、あらゆる軍事上の意味を失わせました。その島は、カムチャッカ作戦基地たるペトロパウロスク港から、わずか八十
われわれが、地底の海だと思っていたのは、じつはオホーツク海なのでした。АЙ と名づけた島は、すでに、
これらの、ちょっとした
私は?······私は、「