「イーリアス」とは「イーリオン(トロイエー即ちトロイア)の詩」といふ意味である。本詩の歌ふところは、アカイア(ギリシヤ)軍勢が十年に亙つて、小亞細亞のトロイアを攻圍した際起つた事件中の若干部分である。是より先、トロイア王プリアモスの子パリス(一名アレクサンドロス)が、スパルタ國王メネラーオスの客として歡待された折、主公の厚情を裏切つて、絶世の美人、王妃ヘレネー(ヘレン)を誘拐して故國に奪ひ去つた。ヘレネーは其昔列王諸侯が一齊に望む處であつたが、遂にメネラーオスの娶るところとなつた。其以前に佳人の父は彼等に、誰人の妻となるにせよ、若し其夫より佳人を奪ふ者あらば、協力して夫を助けて

なほ二十四卷の一々に亙つてその梗概を記せば左の通りである。
第一 アポローンの祭司クリューシュース、アガメムノーンに辱しめられ、復讐を祈る(第一日)。疫病(二日|九日)。評定の席開かる、續いて爭論。アガメムノーン其戰利の美人クリセーイスを失へる償として、アキリュウスの美人ブリイセーイスを奪ふ。アキリュウス悲憤のあまり神母テチスに訴ふ(十日)。神母はオリュンポス山上に、十日の後歸り來れる大神ヂュウスに見え、アキリュウスが今の屈辱に代へて光榮を得る時まで、トロイア軍に戰勝あらしめ給へと乞ふ(二十一日)。
第二 大神ヂュウス「夢の精」を遣はして、アガメムノーンを欺き、トロイア軍と戰はしむ。兩軍の勢揃ひ(二十二日)。
第三 兩軍の會戰並に休戰。パリスとメネラーオスとの一騎討ち。負けたるパリスは愛の神アプロヂーテーに救はる(同日)。
第四 トロイアの將パンダロス、暗に矢を飛ばしてメネラーオスを射り、休戰の約を破り戰鬪起る(同日)。
第五 ヂオメーデースの戰功。アプロヂーテーと戰ふ(同日)。
第六 敵將グローコスとヂオメーデースとの會見。ヘクトール城中に歸り、妻子に面す(同日)。
第七 ヘクトールとパリス戰場に進む。アイアースとヘクトールとの決鬪、未決に終る。兩軍おの/\評議。トロイアの媾和使斥けらる。(二十三日)死者を葬るために休戰。アカイア軍水陣の周圍に長壁を築き、塹壕を穿つ(二十四日)。
第八 戰鬪。トロイア軍クサントスの岸に夜中の屯營(二十五日)。
第九 アガメムノーン謝罪の使をアキリュウスに送り救援を乞ふ。アキリュウス之を拒む。(二十五日)
第十 ヂオメーデースとオヂュッシュースとの夜間の進撃、敵の間諜ドローンを屠る(二十五日夜より二十六日迄)。
第十一 アガメムノーンの戰功、其負傷。ヂオメーデース及びオヂュッシュースの負傷。軍醫マカオーンの負傷(二十六日)。
第十二 トロイア軍進んで敵の壘壁を襲ふ(二十六日)。
第十三 海神ポセードーン竊にアカイア軍を助く。兩軍諸將の激戰(二十六日)。
第十四 天妃ヘーレー計つて天王を睡らしむ(二十六日)。
第十五 天王覺めてトロイア軍を助く。アイアース水陣を防ぐ(二十六日)。
第十六 パトロクロスはアキリュウスの戰裝を借りて陣頭に進み、サルペードーンらの猛將を斃し、最後に遂にヘクトールに殺さる(二十六日)。
第十七 パトロクロスの屍體を爭ひて兩軍の激戰(二十六日)。
第十八 パトロクロスの死を聞き、アキリュウスの慟哭。神母テチス來つて彼を慰め、新たの武裝をヘープァイストスに造らしむ(二十六日)。
第十九 アキリュウスとアガメムノーンとの和解。復讐の決心(二十七日)。
第二十 諸神戰場に出現。アキリュウス勇を奮つてアイナイアース及びヘクトールと戰つて之を走らす(二十七日)。
第二十一 スカマンダロスの河流、屍體に因て溢る。アキリュウス溺れんとして、ポセードーンに救はる(二十七日)。
第二十二 ヘクトール獨り踏み留つてアキリュウスと戰ひ、遂に殺さる(二十七日)。
第二十三 パトロクロス夢にアキリュウスに現はる。パトロクロスの葬儀(二十八日)。弔祭(二十九日)。
第二十四 ヘクトールの屍の凌辱(三十日||三十八日)。之を憐みて諸神の集會(三十九日)。プリアモス王竊かに敵陣を訪ひ、ヘクトールの屍を贖ふ。贖ひ得たるヘクトールをトロイアの諸人悲しむ(四十日)。ヘクトール火葬の準備(四十一日|四十九日)。火葬(五十日)。
註 日の分ち方はオスカール・ヘンケ博士による。





























譬へば大美術館を訪ひ、美術品を研究翫賞せんとする。何らの豫備知識なくこゝに臨まば、目は應接に暇なく、得る處は茫然漠然たる印象のみであらう。かゝる場合には、案内記を讀み、館中の何物が優秀の作品なるかを辨へ、先づ之に視線を注ぎ、よく/\其傑作を鑑賞して然る後全體に向ふがよろしい。
文學上の雄篇大作に對する場合も同樣である。内容のあらましを知了した後、先づ篇中の優秀の部を再三讀み味ひ、然る後、初めから順を追つて最後まで讀了するのが賢い遣口である。
ホメーロス以外の他の例を取らば「バイブル」である。「バイブル」はホメーロスと共に萬古不朽の書であるが、「創世記」第一章から「默示録」の最後まで讀み通すことは容易でない。ヘレン・ケラアは「バイブル」全部を通讀したことを寧ろ後悔したといふ事である。「バイブル」中、先づ第一に讀むべきものは何々か、之に關する委細は此文の正面の目的でないから省略する。
そこで「イーリアス」に返る。全篇の梗概を知了した上は、詩中の優秀な部分若干を讀み、之を讀み馴れた上で初めから順を逐つて最後に至るが宜しい。
優秀な二三の例を左に擧げる。





ギリシヤ語の發音は今日に傳はらぬ。種々の學者が各其意見に隨つて、好む通に發音してゐる。※[#丸一、9-12]英國風※[#丸二、9-13]大陸風※[#丸三、9-13]近代ギリシヤ風※[#丸四、9-13]古典風の少くも四通の發音がある。私は比較的一般に多く用ゐらるる※[#丸四、9-13]を取つて固有名詞を發音した。
(Brass の『古代ギリシヤ語發音』(一八九〇年英譯)に詳説がある)
一般に外國の固有名詞の發音は難題である。特に詩歌に於て左樣である。『假名手本忠臣藏』をロンドンで英譯した時、固有名詞の或者は英語に調和せぬので、自由に取捨したさうだ。「新約全書」の日本譯にはギリシヤ原音ヨーアンネースをヨハネ、ペトロスをペテロと直してある。ちと極端の譬だが日本、東京、神田區、冨山房をニホ、トキヨ、カダク、フザボと直すやうなものである。ホメーロスの原名を歐洲各國は勝手に直してゐる、英國はホーマー、獨逸はホメール、佛蘭西はオメール、伊太利はオメーロである。皆其國語の調のためである。(中華民國はホメーロスを荷馬と書く!)
ギリシヤ文法によると固有名詞も格に因つて形が變る。其上所謂詩的
漢文學の上に見ると、固有名詞の詩的特權は同じく甚だしい。杜甫の『秋日詠懷一百韻』の中に六朝の畫聖顧


私も此譯に於て同樣の原理に由る固有名詞の發音を採用した。例へば第一歌劈頭近くにアカイアと發音したものは、原音はアーカイアーである、が、調のために縮めて、斯くしたのである。アートレーデースをアートレ,デース、メネラーオスをメネラオスとしたのは他の例である。