雪国の東北人は概してさうだが、わが津軽地方人も老若男女を問はず話好きで、且つ大概話上手である。特に津軽百姓がさうで、所謂水呑百姓の果てまでも日本の他の地方の百姓のやうにはコセつかず、余裕綽々たるものが在り、ユウモアに富み、舌鋒鋭く、警句の多々交はる談話をかはす。菊池仁康君の所謂東京の言葉をコチラの言葉で飜訳出来ても、コチラの言葉を東京の言葉に飜訳できぬ例が随分多いといふ意味で、地方的に独特な、含蓄味の多い用語例の談話をする。ところでこの警句にはこの地方特有に流布されてゐると思はれるところの、奇警な諺が間々這入つてゐることがある。で、どれくらゐあるか知れないが、自分でときどき小耳に挟んだり、友人故老達から聞いたものの内、詩的なものや、ユウモアのあるのを地方語のままに摘録して見る。無論その個々に註釈、時には用例なぞもつけなければ、他の地方の諸君に解るものでないから、これも附け添へてその特色味を充分に発現させることにしよう。
○
手間取りは日雇労働者のことである。「春風ア」のアの発音はアを独立して発音するのでない。上の「春風」の結尾の音、ゼとあはせて、みじかく二重母韻に発言して、英語の there の ere の音になる。「ア」の意味は天爾遠波「は」と等しい。この諺は春風が主であつて、手間取りの仕事が一日一杯行はれると同様、春風が吹き出せば一日吹続くといふことを語つてゐる。春風に労働者を対照にもつて来たところに、百姓味が津々と溢れてゐる。なほこの諺は日本の他の地方にも辞句が多少変つてあるかも知れぬと思ふ。
○春風ア
春先きの風の身に浸みて、寒いのを言つてゐる。これも他の地方にあるかも知れない。寒い大気の揺らぎを鋭どく感覚的に述べたところが面白い。
○あだりバヅア
あだりバヅは当り鉢で摺り鉢のことである。バヅアのアは前のアと同じく、この言葉の主格たるを示す。
○ゴデエの
ゴデエは地名で五代と書く。中津軽郡大浦村内にある部落名である。才兵衛はその昔近郷で名の響いた侠客風の男で、性質頗る豪快、無理なことも無理とせず、痛快にやつてのけた男で、今も石碑が残つて村民から崇敬を受けてゐる。アは前例どほり上の音と二重母韻をなし、万国音標文字を使ふと bie といふ発音になる。坊主の発音は殆ど bonz、ならネは「ならない」ではなく、東京語の所謂「ならアね」である。この一句の意味は「五代の才兵衛ほどの豪のものでも、運が尽きれば我を折つて坊主にもなる」といふことで、友人が何か失敗でもした時に慰めの言葉として使ふ。無理をすることを戒める意味もあるようだが、その方はわたしは今知らぬ。
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エバはいいばであり、即ち好ければである。ならネは前の通り東京語の「成らアね」。汚いことを露骨に言つてゐる諺。一句の意味頗る明瞭。
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藤崎は弘前から出る街道筋の取つ附きの大邑、鎌倉時代より文献にあり、Funchaki と発音する。あんペエは兄息子に対する卑称であり、また東京語の所謂「与太」に近い。一句の究極の意味は「藤崎へ与太を便りに出したと同様、一向用が足りぬ」といふことになる。
○
「あの人の
○ホガの
ホガは他で他人の家を指す。竈はここでは家の身代を意味する。見デるは見てゐる、見物してゐるの意、事アねエは「事は無い」たることは明瞭である。「よその家が破産するのを高みから見てゐる位面白い事がない」といふことが一句の意味である。人間の悪性質を露骨に暗示してゐる俚諺だが、往々金持が幅を利かせ過ぎてゐる地方社会に於て、下層民の欝勃たる不平が恁ういふ言葉を産むに到らせたものと思はれる。
○
エサのエは家で、サは天爾於波の「に」である。ついデモは「ついたにしても」であつて「火事になつて燃えついても」である。ゴグ休のゴグは時刻のコクであらうと推定する。へは正確の発音は独逸語の Tag のgの音である。「せ」の音の訛りで、意味はしろ、なせといふことである。「舅の家に火事が燃えうつつても、昼とかおやつとかの時間をきめての休みは定めどほり休め」といふことで、この俚諺は休みの時間がきた場合に仕事をやめてるテレ臭さを、冗談めかしていふのである。
○上げだウヂの屋根石
上げだ「上げた」である。ウヂはウチ即ち「······の中の」のうちで、ヂの発音は「氏ウヂ、蛆ウジ」の鼻音がかつたものでなく、明瞭に強く英語の t-h(唇歯音)を発音すると思へば真に近いだらう。一句の意味は津軽地方は秋季中の暴風のために屋根を攫はれるのを防禦する為、海岸に遠い平原、山地の都会、農村の家々も、その屋根が柾葺きたる場合に子供の頭ぐらゐの石を屋根に何十、何百と載せたものであつた。この石はいづれ上げきりに上げて置くものであるから、漬物石にもなり兼ねる屑見たいな不恰好な石ばかりである。この俚諺はここに生れたもので、「どれを見ても屋根石とも言ひさうもない石のなかで、これ一つがさう呼べるかしらん」ぐらゐの意味で、他人を冷かしつくらして何時も負けてばかりゐる男が偶々巧いことをいつた場合とか、不器用な男が手細工で品物を幾つか作つて孰れも物になつたのがないのに、たつた一つ幾らか出来のいいのがあるといふ場合などに、偶々の巧い言葉、或は珍しく出来のいいのを卑下して言ふのである。(自分が自分のものに対し自卑していふ場合が多い。)
○アツラエダ股引。
アツラエダは「誂へた」である。で一句の意味は物事が自分が前がたから註文して置いた股引の様に、しつくり当て嵌つてる場合の事をいふ。この俚諺は日本の他の地方にもありさうだ。
○山背風ア七日吹く。
当地方で冬季の終りに吹く或る方向からの生温い風をいふ。言海に「
○
人間の心のムラ気なのを嘲つていふ言葉である。八百は無論「嘘八百」の八百とおなじく数多いといふ事を意味してゐる。
○
シジメはスズメ(雀)である。金のないくせに身分不相応な身なり、綺羅を装ふものを笑ふ言葉であるとされる。
○ケガジ
ケガジは饑饉、ホイドは乞食、ケエは
○桃
喰バは「喰はば」で「喰へば」の意である。ケは喰への約音である。桃には虫が多くついてゐるものである。だから桃を喰つたとき虫が実のなかに這入つてゐたとて構はず食へといふことを言つてゐるので、これは物事にあまり愚図々々言はず、難癖をつけずやれといふことを寓意してゐるものと思はれる。但し未だ私にはその真の意味が不明である。今かう解釈して置く。
○
面ヅラ「
○鮟鱇も一生、チエツチエも一生。
鮟鱇は頭の大部分が口と見えるほど口の大きい魚である。これに対しチエツチエといふ魚は同じやうな大きさの、そして口が先細がりになつた馬面、トボケ面の魚である。諺の意味は鮟鱇のやうに口が大きく生れたのも天命であれば、チエツチエのやうに口が小さく生れたのも天命であると言つて、人間が各々異る身の上に生れ、異る栄華、憂き苦労を享ける運命を巧みに寓意した俚諺である。
○オンダの
オンダは北津軽郡畑岡村字太田のこと、鴨コ汁のコは「子」でなくて名詞に添へる尾辞である。この諺は前触れが大変で、実際は空騒ぎに詰らなく終つた物ごとに言ふのである。或る時太田の百姓二三人が鴨を一羽捕つて大に悦び、早速近隣に触れをまはし、仲間を語らひそら葱だ、豆腐だと言つて料理をはじめたが、味、塩梅を見ると言つては肉を突つ突き、豆腐を摘まみ、こんな事で肝腎の料理が出来たといふ時は、一羽の鴨の肉が一と切れも無かつたといふことが、笑ひ話に残つてゐる。これがこの諺の由来である。所謂「泰山鳴動、鼠一疋」「竜頭蛇尾」こんな場合に使はれる。
○
坊様は盲人をいふ。盲人が杖を頼りに一本橋を渡るのが危ぶないといふ意味で、世渡りのことに関し危ぶなつかしいやり方を他人が採らうとしてゐる場合等に比喩的にこれを言ふ。
○南部の火つけ、津軽の
日本東北部のこれ等三地方人の気質を説明した言葉として用ひられてゐる。南部人は何かといふと他人の家に火をつける。性質乱暴。津軽人は手が長い。敏捷で油断がならぬ。秋田人は享楽的で物欲しがりだといふ。ホイドとは乞食の事である。一説に南部の人殺し、津軽の手長、秋田の火つけといふことも言はれる。地方人に対する斯ういふ悪口は多いものである。「近江泥棒、伊勢乞食」といふ様なものである。