八百屋の長兵衛といふ男が、伊勢の海五太夫と、お座なりの碁をうつて、強い
くせに負けて御機嫌を取つたといふ事が、八百長といふ相撲社会の隠語を生んだ。この社会にはいろ/\の隠語があるけれど、八百長といふのが一番ウマイ言葉に出来上つてゐる。これを相撲道以外の事に流用しても据りのいゝ感じがする。
所で八百長の始りは、双方が別段妥協をしておかないで、強い方が加減をして
あしらつてゐる御機嫌取りの方法だつたが、それが又気持が変つて、強い方が弱い方と妥協して置いて、拵へ勝負をするのが八百長となつた。所が又更に転化して、強い同志が妥協して置いて、拵へ勝負をすることも八百長といふ事になつた。然るに又進んだ方法として、双方が妥協をして置かずに、お互の気分を呑込み合つて、拵へ勝負をするやうな八百長が現はれることになつた。従つて広い意味で社会万般の事に応用される八百長は、呑込み流の形式に拠るものも少くないやうである。
さて、八百長相撲について、私の実見上、所謂呑込流の八百長と感じたのは、大正十年の五月場所第二日目、東幕内力士小野川と、西幕内力士の
安蘇ヶ
嶽とが引分相撲を取つた時であつた。これが立上ると新入幕の小野川((後の大関豊国))が、十分な差手を差勝つて居るにも
拘らず、一向勝身に出て行かない。安蘇は一生懸命に喰ひ下つてはゐるが、これも後生大事と守勢を固めてゐる。而も安蘇の下手
褌は一枚でなくても、二枚でも三枚でも手が掛けられる程になつてゐるが、それも有利に進めて行かない。この
立合は所謂『呑込流』の八百長臭が多量に見えた。果して検査役の
入間川は、明敏な人であるから、容易に水を入れてやらない。この相撲は凡そ十分位は
ヤンワリと揉んでゐたやうである。安蘇ヶ嶽の方が非常な疲れ方で気の毒に感じられて来たが、見物側からも半畳が入りかけたので、入間川も遂に水入引分を宣言させた。
それは明かに八百長と認めて、懲戒処分の長立合を強行させたのである。あとで入間川検査役が
洩した言葉に『言葉道断ですよ』と嘆声を発してゐるを考へても、『
呑込み八百長』はすぐ看破されるに決つてゐるのだ。兎角此種の八百長は、私的関係の親密さから、土俵で顔が合ふ
トタンに、双方の妥協気分から、無条件な呑込み方をやるのが多いらしいのである。又最近の話であるが、幕下十両の好力士
清美川が、たしか同格の
峰幟と立合つた時のやうに思ふ
||非常に両力士は奮闘した。これは動きすぎる位動いて、危い所を残し合つたりして水が入つた。それから再度の番ひになつて、又両力士は大乱戦をやつて、見物は非常なる得心を以て、兎も角も一先づ引分をと希望したが、検査役は平気で散々に活躍させた上、遂々勝負をつけさせて仕舞つた。此結果が負けた清美川に取つて、何だか不憫な様に思はれた。元来現今の制度として、引分廃止の根拠といふものは、八百長防止を第一義としてある。従つて八百長を敢行するやうな不心得な者は無いに極つてゐるが、何等かの
融合気分が両者の立合中に発生して、無意識的の八百長臭を醸するかも知れない。
八百長
||といふ言葉に語弊があるとすれば、長期抗戦の間に醸生する『
平和気分』と解釈してもよろしい。そこで兎も角も水入引分で、仮令一時でもいゝから双方が無事に納つておきたいと思ふのであらう。斯ういつた
現はれを防遏するため、私の実見した清美川の一戦も、斯くは検査役が平気な顔で、遂に決戦させたものだと感得した。誠に残酷な様にも思はれたが、審判としては公平無私である。
以上の如き現今の相撲界には、恐らく八百長なる
ウマイ隠語も、最早現在は
其生命を失つて、寧ろ外の社会での移住勢力で、手足を伸してゐる事であらう。