デパートの
内部は、いつも
春のようでした。そこには、いろいろの
香りがあり、いい
音色がきかれ、そして、らんの
花など
咲いていたからです。
いつも
快活で、そして、また
独りぼっちに
自分を
感じた
年子は、しばらく、
柔らかな
腰掛けにからだを
投げて、うっとりと、
波立ちかがやきつつある
光景に
見とれて、
夢心地でいました。
「このはなやかさが、いつまでつづくであろう。もう、あと二
時間、三
時間たてば、ここにいる
人々は、みんなどこかにか
去って、しんとして
暗くさびしくなってしまうのだろう。」
こんな
空想が、ふと
頭の
中に、一
片の
雲のごとく
浮かぶと、
急にいたたまらないようにさびしくなりました。
そこを
出て、
明るい
通りから、
横道にそれますと、もう、あたりには、まったく
夜がきていました。その
夜も、
日の
短い
冬ですから、だいぶふけていたのであります。そして、
急に、いままできこえなかった、
遠くで
鳴る、
汽笛の
音などが
耳にはいるのでした。
「まあ、
青い、
青い、
星!」
電車の
停留場に
向かって、
歩く
途中で、ふと
天上の一つの
星を
見て、こういいました。その
星は、いつも、こんなに、
青く
光っていたのであろうか。それとも、
今夜は、
特にさえて
見えるのだろうか。
彼女は、
無意識のうちに、「
私の
生まれた、
北国では、とても
星の
光が
強く、
青く
見えてよ。」といった、
若い
上野先生の
言葉が
記憶に
残っていて、そして、いつのまにか、その
好きだった
先生のことを
思い
出していたのであります。
すでに、
彼女は、いくつかの
停留場を
電車にも
乗ろうとせず
通りすごしていました。ものを
考えるには、こうして
暗い
道を
歩くのが
適したばかりでなしに、せっかく、
楽しい、かすかな
空想の
糸を
混乱のために、
切ってしまうのが
惜しかったのです。
先生は、
年子がゆく
時間になると、
学校の
裏門のところで、じっと
一筋道をながめて
立っていらっしゃいました。
秋のころには、そこに
植わっている
桜の
木が、
黄色になって、はらはらと
葉がちりかかりました。そして、
年子は、
先生の
姿を
見つけると、ご
本の
赤いふろしき
包みを
打ち
振るようにして
駆け
出したものです。
「あまり
遅いから、どうなさったのかと
思って
待っていたのよ。」と、
若い
上野先生は、にっこりなさいました。
「
叔母さんのお
使いで、どうもすみません。」と、
年子はいいました。
窓から、あちらに
遠くの
森の
頂が
見えるお
教室で、
英語を
先生から
習ったのでした。
きけば、
先生は、
小さい
時分にお
父さんをおなくしになって、お
母さんの
手で
育ったのでした。だから、この
世の
中の
苦労も
知っていらっしゃれば、また、どことなく、そのお
姿に、さびしいところがありました。
「
私は、からだが、そう
強いほうではないし、それに
故郷は
寒いんですから、
帰りたくはないけれど、どうしても
帰るようになるかもしれないのよ。」
ある
日、
先生は、こんなことをおっしゃいました。そのとき、
年子は、どんなに
驚いたでしょう。それよりも、どんなに
悲しかったでしょう。
「
先生、お
別れするのはいや。いつまでもこっちにいらしてね。」と、
年子は、しぜんに
熱い
涙がわくのを
覚えました。
見ると
先生のお
目にも
涙が
光っていました。
「ええ、なりたけどこへもいきませんわ。」
こう
先生は、おっしゃいました。けれど、
先生のお
母さんと、
弟さんとが、
田舎の
町にいらして、
先生のお
帰りを
待っていられるのを、
年子は
先生から
承ったのでした。
また、
先生のお
母さんと、
弟さんは、その
町にあった、
教会堂の
番人をなさっていることも
知ったのでした。
だが、ついにおそれた、その
日がきました。せめてもの
思い
出にと、
年子は、
先生とお
別れする
前にいっしょに
郊外を
散歩したのであります。
「
先生、ここはどこでしょうか。」
知らない、
文化住宅のたくさんあるところへ
出たときに、
年子はこうたずねました。
「さあ、
私もはじめてなところなの。どこだってかまいませんわ。こうして
楽しくお
話しながら
歩いているんですもの。」
「ええ、もっと、もっと
歩きましょうね、
先生」
ふたりは、
丘を
下りかけていました。
水のような
空に、
葉のない
小枝が、
美しく
差し
交じっていました。
「
私が
帰ったら、お
休みにきっといらっしゃいね。」と、
先生がおっしゃいました。
年子は、あちらの、
水色の
空の
下の、だいだい
色に
見えてなつかしいかなたが、
先生のお
国であろうと
考えたから、
「きっと、
先生におあいにまいります。」と、お
約束をしたのです。すると、そのとき、
先生は
年子の
手を
堅くお
握りなさいました。
「たとえ、
遠いたって、ここから
二筋の
線路が
私の
町までつづいているのよ。
汽車にさえ
乗れば、ひとりでにつれていってくれるのですもの。」
そうおっしゃって、
先生の
黒いひとみは、
同じだいだい
色の
空にとまったのでした。
流れるものは、
水ばかりではありません。なつかしい
上野先生がお
国に
帰られてから三
年になります。その
間に、おたよりをいただいたとき、
北の
国の
星の
光が、
青いということが
重ねて
書いてありました。そして、
雪の
凍る
寒い
静かな
夜の、
神秘なことが
書いてありました。
青い
星を
見た
刹那から、
彼女を
北へ
北へとしきりに
誘惑する
目に
見えない
不思議な
力がありました。
とうとう、二、三
日の
後でした。
年子は、
北へゆく
汽車の
中に、ただひとり
窓に
凭って
移り
変わってゆく、
冬枯れのさびしい
景色に
見とれている、
自分を
見いだしました。
東京を
出るときには、にぎやかで、なんとなく
明るく、
美しい
人たちもまじっていた
車室の
内は、
遠く
都をはなれるにしたがって
人数も
減って、
急に
暗くわびしく
見えたのでした。そのとき、
汽車は、
山と
山の
間を
深い
谷に
沿うて
走っていたのです。
「まあ、
山は
真っ
白だこと、ここから
雪になるんだわ。」
年子は、
思わずこういって
目をみはりました。
「
山を
越してごらんなさい。三
尺も、四
尺もありますさかい。おまえさんは、どこから
乗っていらしたの。」
黒い
頭巾をかぶったおばあさんが、みかんをむいて
食べながらいいました。
年子は、
話しかけられて、はじめて
注意しておばあさんを
見ました。なんだかあわれな
人のようにも
見え、また
気味悪いようにも
感じられたのです。
「
東京から
乗ったのです。そして、つぎのつぎの、
停車場で
下りますの。」
「
着くと
暗くなりますの。」
おばあさんは、それぎりだまってしまいました。
雪の
曠野を
走って、ようやく、
目的地に
着きました。しかし、
急に
思いたってきたので、
通知もしなかったから、この
小さな
寂しい
停車場に
降りても、そこに、
上野先生の
姿が
見いだし
得ようはずがなかったのです。
手に、ケースを
下げて、
不案内の
狭苦しい
町の
中へはいりました。
道も、
屋根も、一
面雪におおわれていました。
寒い
風が、つじに
立っている
街燈をかすめて、どこからか、
枯れたささの
葉の
鳴る
音などが
耳にはいりました。
どちらへ
曲がったらいいかわからなかったので、しばらくたたずんで、きかかった
人に、
教会堂の
在所をたずねますと、すぐわかって、そこから三、四
丁のところでありました。
雪催いの
曇った
空に、
教会堂のとがった三
角形の
屋根は、
黒く
描き
出されていました。そして、かたわらの
小さな
家から、ちらちらと
灯がもれていました。
年子は、
刹那の
後に
展開する
先生との
楽しき
場面を
想像して、
胸をおどらしながら
入ってゆきました。
先生のお
母さんらしい
人が、
夕飯の
仕度をしていられたらしいのが
出てこられました。そして、
年子が、
先生をたずねて、
東京からきたということをおききなさると、
急にお
言葉の
調子は
曇りを
帯びたようだったが、
「それは、それは、よくいらしてくださいました。さあお
上がりなさいまし。」と、ちょうど
我が
子が
遠方から
帰ってきたように、しんせつにしてくださいました。
年子は、
先生の
姿が
見えないのを、もどかしがっていると、お
母さんは、おちついた
態度で、
静かに、
先生は、もうこの
世の
人でないこと、なくなられてから、はや、
半年あまりにもなること、そして、その
節は、お
知らせせずにすまなかったとお
話しなされたのでした。
これをきくと、
年子は、
前後をわきまえず、そこに
泣きくずれました。やがて、
北国の
夜はしんとしました。
静かなのが、たちまちあらしに
変わって、
吹雪が
雨戸を
打つ
音がしました。このとき、
家の
内では、こたつにあたりながら、
年子は、
先生のお
母さんと、
弟の
勇ちゃんと、三
人で、いろいろお
話にふけっていたのでした。
「スキーできる?」と、
勇ちゃんがききました。
「ちっとばかり。」と、
年子は
答えた。
「じゃ、
明日、お
姉さんのお
墓へ、いっしょにゆこう。」と、
勇ちゃんが、いいました。
翌日は、いいお
天気でした。ふたりは、
町を
距たった、
林の
下にあった
寺の
墓地へまいりました。
墓地は
雪に
埋まっていましたけれど、
勇ちゃんは、
木に
見覚えがあったので、この
下にお
姉さんが
眠っていると
教えたのでした。
「
先生、
私はお
約束を
守っておあいしにまいりました。それだのに、
先生は、もうおいでがないのです。
私は、ひとりぽっちで、さびしく
帰ってゆかなければなりません。」と、
年子は
目を
泣きはらして、
手を
合わせました。
勇ちゃんは、ハーモニカを
唇にあてて、
姉さんの
好きだった
曲を、
北風に
向かって
鳴らしていたのです。