花の
咲く
前には、とかく、
寒かったり、
暖かかったりして
天候の
定まらぬものです。
その
日も
暮れ
方まで
穏やかだったのが
夜に
入ると、
急に
風が
出はじめました。
ちょうど、
悪寒に
襲われた
患者のように、
常磐木は、その
黒い
姿を
暗の
中で、しきりに
身震いしていました。
A院長は、
居間で、これから一
杯やろうと
思っていたのです。そこへはばかるような
小さい
跫音がして、
取り
次ぎの
女中兼看護婦が
入ってきて、
「
患者がみえましたが。」と、
告げました。
「だれだ?
初診のものか。」と、
院長は、
目を
光らしました。
「はい、はじめての
方で、よほどお
悪いようなのでございます。」
まだ
年の
若い
彼女は、こんなものを
院長に
取り
次いだのは
悪いとは
思ったけれど、それよりも、
目にうつる
哀れな
男の
姿のほうが、いっそう
強く
心を
動かしたのです。けれど、
院長は
容易に
座を
立ち
上がろうとしなかった。
「そんなに
悪いのに、ここへやってきたのか。」
「はい。」
院長は、きたときいては、
捨ててもおけなかったのでした。どんな
身分の
患者であって、またどこが
悪いのか、それを
知りたいという
職業意識も
起こって、
「いま、ゆくから。」と、
静かに、
答えて、
苦い
顔つきをしながら、
居間を
出ました。
控え
室をのぞくと、
乞食かと
思われたようなよぼよぼの
老人が、ふろしき
包みをわきに
置いてうずくまっていました。
院長は、その
老人と、
取り
次いだ
看護婦とを
鋭く
一瞥してからいかにも、こんなものを
······ばかなやつだといわぬばかりに、
「みてもらいたいというのは、この
方かね。」と、ききました。
「さよう、
私でございます。
遠いところ、やっと
歩いてまいりました。」と、
老人はとぎれとぎれに
答えました。
「
遠いところ? なんで、もっと
近所の
医者にかからなかったんだね。」
「だめです、いいお
医者さんがありません。」と、
老人は
頭を
左右に
揺すりました。
(そうだろうとも、だれが、こんなものを
見てやるものだ。このばかな
女でもなければ、
一目見て
追い
帰すにちがいない。いったい、
医者というものをなんと
心得ているのだろう。)
「おじいさん、せっかくだが、
私は、これから
急病人の
迎えを
受けているので、
出かけなければならないのだ。だからすぐみてあげることができない。どうか、よそへいってもらいたい。」
院長は、そばに、まごまごしている、
看護婦の
顔をにらんで、
奥へさっさとはいってしまいました。
「じゃ、どうしてもみてくださらんのか。」と、
老人は、つぶやきました。
「お
気の
毒ですけれど、
先生はたいへんお
忙しいので、みられんとおっしゃいますから、よそのお
医者さまへいってくださいまし。」と、
看護婦は、そういいました。
「ははあ、よそのものはみても、
私をばみられないとおっしゃるのだな。どうせ、この
老耄はくたばるのだからいいけれど、そうした
道理というものはないはずじゃ。もう
私は
歩けないが、どこか
近所に、お
医者さまはありますかい。」と、
老人は、やっと
小さな
荷物をせおってから、ききました。
「じき、すこしゆくとにぎやかな
町になります。そこには、
幾軒もお
医者さまがあります。」
少女は、
暗い
外の
方を
指して、
町へ
出る
方向をおじいさんに
教えました。ところどころに
点いている
街燈の
光が
見えるだけで、あとは
風の
音が
聞こえるばかりでした。
ちょうど、その
時分、
B医師は、
暗い
路を
考えながら
下を
向いて
歩いてきました。
彼は、いま
往診した、
哀れな
子供のことについて、さまざまのことを
思っていたのです。
その
家は
貧しくて、かぜから
肺炎を
併発したのに
手当ても十
分することができなかった。
小さな
火鉢にわずかばかりの
炭をたいたのでは、
湯気を
立てることすら
不十
分で、もとより
室を
暖めるだけの
力はなかった。しかし、
炭をたくさん
買うだけの
資力のないものはどうしたらいいか、それよりしかたはないのだ。
近所に、
宏荘な
住宅はそびえている。それらの
内部には、
独立した
子供部屋があり、またどの
室にも
暖房装置は
行き
届いているであろう。そこに
生まれ
育った
子供と、あの
貧しい
家に
病んでねている
子供とどこに、かわいらしい
子供ということに
変わりがあろうか。しかし、その
境遇はこうも
異なっているのだ。
私は、あの
哀れな
子供を
助けなければならない。
B医師は、
夕方、
自分を
呼びにきた、
子供の
母親の、おどおどした
目つきと、
心配そうな
青ざめた
顔とを
思いあわせたのです。
「あんなになるまで、
医者にかけないという
法はないのだが、もう
手後れであるかもしれない。」
悲壮な
気持ちで、
門を
入ろうとすると、
内部からがやがや
人声がきこえました。
一足前、
近所の
人たちが、
倒れている
老人を
連れてきたのです。
B医師は、すぐに
老人に
注射を
打ちました。
「
気がついた。おじいさん
泣かんでいい。ここは
医者の
家だから、
安心するがいい。」と、
顔をつけるようにして、
B医師は、
燈火の
消えかかろうとするような
老人をなぐさめました。
「あんたは、お
医者さまか。」と、
老人は、かすかに
目を
開いて
B医師を
見て、たずねました。
「そうです、だから、
安心なさるがいい。」と、
答えて
B医師は、
自ら
老人を
抱えて、
診察室のベッドの
上に
横たえて、やわらかなふとんをかけてやりました。
「
先生、この
人は、
助かりましょうか。」と、
老人をつれてきた
近所の
人たちが、ききました。
「わかりません。なにしろ
極度に
疲れていますから。
私は、できるだけの
手当てをいたしますが
······。」と、
B医師は
答えました。
その
夜、
老人は、
最後にしんせつな
介抱を
受けながら
死んでゆきました。すこしばかり
前、かたわらにあった
小さな
荷物を
指しながら、
訴えるように、うなずいて
見せたのでした。
夜明け
方になって、ついに
雨となったのであります。
B医師は、
老人が
身から
離さなかった
荷物を
開けてみました。
紙箱の
中には、すでに
芽を
出しかけた、いくつかのすいせんの
球根がはいっていました。また、
古びた
貯金帳といっしょに、なにか
書いたものがほかから
出てきました。それを
見ると、
「
私は、
親もなければ、
兄弟もない
一人ぽっちで
暮らしてきた。
私の一
生は、けっして
楽なものではなかった。
人のやさしみというものをしみじみと
味わわなかった
私は、せめて
死の
際だけなりと、
医者にかかってしんせつにしてもらいたいと
思って、
苦しい
中から、これだけの
貯金をしたのである。どこで
私は
死ぬかしれないが、おそらく、しんせつな
医者を
探しあてて、その
人の
手にかかって
死にたいと
思っている。この
金で
死後の
始末をしてもらい、
残りは、どうか
自分と
同じような、
不幸な
孤独な
人のために
費ってもらいたい。」
こういうようなことが
書いてありました。
終生独身で
過ごした、
B医師はバラック
式であったが、
有志の
助力によって、
慈善病院を
建てたのは、それから
以後のことであります。もちろん、
老人の
志も
無とならなかったばかりか、
B医師は、
老人の
好きだったらしいすいせんを
病院の
庭に
植えたのでありました。
しかし、
A病院は、いまも
繁栄しているけれど、
慈善病院は、
B医師の
死後、これを
継ぐ
人がなかったために
滅びてしまいました。その
建物も、いつしか
取り
払われて、
跡は
空き
地となってしまったけれど、
毎年三
月になると、すいせんの
根だけは
残っていて、
青空の
下に、
黄色い
炎の
燃えるような
花を
開きました。そして、この
人の
心臓に
染まるような
花の
香気は、またなんともいえぬ
悲しみを
含んでいるのです。