土曜日の
晩でありました。
お
兄さんも、お
姉さんも、お
母さんも、
食卓のまわりで、いろいろのお
話をして、
笑っていらしたときに、いちばん
小さい
政ちゃんが、
「ぼく、きょうペスを
見たよ。」と、ふいに、いいました。
すると、みんなは、一
時にお
話をやめて、
政ちゃんの
顔を
見ました。
「
政ちゃん、ほんとうかい。」と、
正ちゃんが
叫びました。
「ほんとうに、
見たよ。」と、
政ちゃんは、まじめくさって
答えました。
「まあ、
逃げてきたんでしょうか?」と、
姉さんは、おどろいた
顔つきをなさいました。
「ペスなら、
逃げてきたんでしょう。よく
逃げてこられたものね。」と、お
母さんは
感心なさいました。
「ペスでない、きっとほかの
犬だよ。
政ちゃんは、なにを
見たのかわかりゃしない。」と、いちばん
上の
達ちゃんが、いいますと、
「うそかい、ぼく、ほんとうに、
見たんだから。」と、
政ちゃんは、
目をまるくしました。
みんなが、そう
疑うのも、
無理はありません。
昔から、
犬殺しにつれられていって、
帰ってきた
犬は、めったにないからです。
「お
母さん、ほんとうでしょうか。ペスだったら、いいけど。」と、お
姉さんは、いいました。
「ペスだったら、うちで、
飼ってやろうね。」と、
正ちゃんがいいました。
「
印刷屋の
犬じゃないか。」
「だって、あすこでは、もうかまわないのだもの、どこのうちの
犬でもないだろう。」
お
兄さんたちは、この
後、ペスをどうしてかばってやったらいいかと
議論をしました。
「まだ、ほんとうに、ペスかどうか、わかりゃしないじゃないの。」と、お
姉さんが、いいますと、お
母さんは、ぼんやりとして、お
兄さんたちの
話をきいている、
政ちゃんをごらんになって、
「もう、
政ちゃんは、ねむいんでしょう。きっとペスの
帰ってきた、
夢でも
思い
出して、いったのでしょう。」と、
笑いながら、おっしゃいました。
「あるいは、そんなことかもしれん。」と、いままでペスの
今後の
相談をしていた、
達ちゃんと
正ちゃんは、そのほうの
話を
中止して、もっと、くわしいことを
知るために、
「
政ちゃん、どこで、ペスを
見たんだい。」と、まず
正ちゃんは、たずねました。
「
橋のところで、
遊んでいて、
見たんだよ。」
「
政ちゃん、ひとりしか、ペスを
見なかった?」と、
正ちゃんは、さらに、ききました。
「
健ちゃんも、
徳ちゃんも、みんな
見たから
······。」と、
政ちゃんは、
疑われるのが、
不平でたまらなかったのです。
「じゃ、
明日、
徳ちゃんなんかにきいてみるよ。うそなんかいったら、
承知しないから。」と、
正ちゃんが、いいますと、
「なにも、
怒ることはないでしょう。」と、お
姉さんが、
正ちゃんをにらみました。
「だって、うそをつくことは、わるいことじゃないか。」
「うそをつこうと
思っていったのでない。まちがいということは、あるもんでしょう。」と、お
姉さんが、おいいなさると、
「まちがいじゃない、ほんとうに、ペスだったよ。」と、
政ちゃんは、
頭を
振って、がんばりました。
お
母さんも、お
姉さんも、
政ちゃんの、いつにない
真剣なようすを
見て、おかしそうに、お
笑いになりました。
「なぜ、
政ちゃんは、ペスを
呼ばなかったのだい。」と、いちばん
年上の
達ちゃんが、こんどは、たずねました。
「ぼく、ペス、ペスと
呼んだよ。」
「そうしたら。」
「こっちを、じっと
見たよ。」
「
飛んで、こなかったかい?」
「いくら、
呼んでも、こなかった。そして、とっとと、あっちへいってしまった。」と、
政ちゃんが
答えました。
「どっちの
方へ、いってしまったい。」と、だまってきいていた、
正ちゃんが、ききました。
「
原っぱの
方へ、
川について、とっとと、いってしまったよ。あっちの、
赤い
空の
中へ、はいっていってしまったよ。」
政ちゃんは、
寒い、
木枯らしの
吹きそうな、
晩方の、なんとなく、
物悲しい、
西空の、
夕焼けの
色を、
目に
描いたのです。
「どっちから、ペスが、
歩いてきたか、
知っている?」と
正ちゃんは、
政ちゃんに、たずねました。
「
市場の
方から、
歩いてきた。」
「そのとき、ほかの
子は、ペス、ペス、と
呼ばなかったの。」と
達ちゃんがききました。
「
呼んだとも、
健ちゃんも、
徳ちゃんも、
呼んだけれど、ペスは、
振り
向かんでいってしまったよ。」
お
母さんも、お
姉さんも、
政ちゃんの、そういうのをきくと、はたしてペスが
帰ってきたのかしらんと
考えるようになりました。そして、
子供たちの
話を、いまは、じっときいていられたのであります。
「おかしいね、あんなに、いつも、
走ってきて
飛びつくのに、
呼んでも、こないのは
······。」と、
達ちゃんが、
頭をかしげました。
「おかしいね。やはり、ペスでは、ないんだろう。」と、
正ちゃんがいいました。
「ペスだよ。」
「そんなら、どうして、
呼んでもこなかったのだい、
政ちゃんにわかる?」と、
正ちゃんが、いいました。
政ちゃんはだまっていました。お
母さんも、お
姉さんもしばらく、
政ちゃんの
顔を
見ていられました。
政ちゃんは、
頭の
中では、わかっているが、どう
言葉に、あらわしたらいいかと、
惑っているようすでした。が、どもりながら、
「また、
人間が、だますと
思ったから、こなかったのだろう
······。」と、いいました。
「だますから?」と、
正ちゃんが、ききかえすと、
「
政ちゃんのいうことは、よくわかるじゃないの。いつも、あんなに、かわいがっていて、
見殺しにしたからというのだよ。」と、お
姉さんは、
目に、
涙がためていらっしゃいました。
「ほんとうに、そうだな。すぐにわかったら、もらいにいってやればいいに、
印刷屋でも、うちでも、まただれも、
犬殺しにつれられていったぎり、もらいにいってやらなかったのは
悪いと
思う。」と、
達ちゃんも、
同意しました。
ひとり、
達ちゃんばかりでありません。みんなは、
政ちゃんの、いうことをきいて、ほんとうだと
思いました。
平常、かわいがっていながら、ペスが、
犬殺しに、つれられていったと
知っても、もらいにいってやらぬというのは、なんたる
不人情なことだろう。ペスは、
心のうちできっとだれかもらいにきてくださると
思っていたのにちがいない、そして、とうとうだれもきてくれないと
知ると、
死にもの
狂いで
逃げ
出してきたのだ。
心のうちで、みんなの
不人情をうらんでいるのだ。もうけっして、
人間を
信じてはならない。それは、
政ちゃんの、いうとおりだと
思ったからです。
「まあ、それにしても、よく
逃げ
出して、きたものね。」とお
姉さんは、
感嘆なさいました。
「
生きたい、一
念で、
逃げ
出してきたのでしょう。」と、お
母さんも、おっしゃいました。
「ワン、ワン、ほえたり、かみついたりしたんだろうな。」と、
正ちゃんが、いうと、
「ばか、そんなことをすれば、すぐなぐり
殺されてしまうじゃないか。」と、
達ちゃんがいいました。
「そんなら、どうして、
逃げてきたんだい。」と、
正ちゃんが、ききました。
「すきを
見て、いっしょうけんめいに
逃げてきたんだろう。」と
達ちゃんがいいました。
その
夜は、ペスが
帰ってきたことにして、みんなは、いろいろ
話をしましたが、
夜が、
明けたら、それを、たしかめようと、
達ちゃんと、
正ちゃんとは、めいめい
胸に
思って、やがて、
床の
中に
入ったのであります。
寒い
晩で、
木枯らしの
音がきこえていました。
床にはいってからも、
正ちゃんは、
風の
音に
耳をすまして、
逃げてきた、かわいそうなペスのことを
思って、なかなか
眠りつかれなかったのでした。
翌日は、
日曜日でした。
朝飯を
食べると、
正ちゃんは、
外へ
駆け
出してゆきました。
往来で、
徳ちゃんたちが、
遊んでいました。
徳ちゃんは、
政ちゃんと
同じ
年ごろでした。
「
徳ちゃん、ペスが
帰ってきたって、ほんとうかい。」
正ちゃんは、
徳ちゃんの
顔を
見ると、すぐこうたずねました。
「ああ、
昨日見たよ。」と、
徳ちゃんは
答えたのです。
「ほかの
犬だろう。」
「そうじゃない、ペスだよ。
日の
丸が、ついていた。」と、
徳ちゃんは、いいました。
「
日の
丸が、ついていた?」と、
正ちゃんは、
念を
押しました。
日の
丸というのは、ペスの
白い
脊中に
赤い
毛のまるい
斑があったので、みんながそういっていたのでした。
「
日の
丸があったよ。」と、
徳ちゃんははっきり
答えました。
そうきけば、もうペスの
帰ってきたのに、
疑う
余地がなかったのです。
正ちゃんは、
走って、
家へもどると、その
話を
達ちゃんにしたのです。
ちょうど、そのとき、
小田と
高橋が、
釣りざおとバケツを
下げて
達ちゃん
兄弟を
誘いにきました。
日曜日に、
川へ
寒ぶなを
釣りにゆく、
約束がしてあったからです。
「どうしよう? ペスをさがしにゆくのをよして、
釣りにゆこうか。」と、
正ちゃんは、
兄の
達ちゃんを
見上げました。
「おまえは、
釣りにいってもいい。
僕は、ペスをさがしにゆくから。」と、
達ちゃんが
答えました。
小田も、
高橋も、よくペスのことを
知っていました。
達ちゃんと
正ちゃんの
話をきくと、
「
僕たちも、いっしょに、ペスをさがしにゆこう。そして、はやく
見つかったら、みんなで
釣りに
出かけよう。」と、
小田がいいますと、
高橋も
賛成しました。
「
釣りざおとバケツを、ここに
置いてくれない。」
やがて、みんなが、一
団となって、ペスをさがしにゆきました。その
中に、
小さい
政ちゃんもはいっていました。
橋のところから、ペスのいったという、
道を
歩いて、
原っぱへ
出て、
半分は、
散歩の
気分で、
愉快そうに
話しながら、
足の
向く
方にあるいていったのであります。
あちらに、
自動車や、
自転車の
走っているのが
見える、
駅の
付近にきたとき、
「ほら、あすこに、ペスがいるじゃないか。」と、ふいに
政ちゃんが、
指さしました。
見ると、なるほど、
牛肉屋の
前に
白い
毛に
日の
丸の
斑のはいった、ペスそっくりの
犬がいました。
「ペスかしらん。」と、
正ちゃんは、
駆け
出してゆきました。あとから、みんながつづきました。しかし、その
犬は、ペスと
兄弟のように
似ていたけれど、やはり、ペスではありませんでした。
政ちゃんや、
徳ちゃんの
見たのは、この
犬だとわかると、みんなは
道をもどることにしました。
「ああ、ペスは、もう
殺されてしまったのだろう。」といって、
中にも、
達ちゃんと
正ちゃんは、ペスを
助けなかったのを、
後悔しながら、
木枯らしの
吹く
中を、みんなと
歩いていたのです。