こがらし、筑波おろし、そういう言葉を明治中期の東京の少年達は早くから知って居た。そうして其の言葉を、自分達の書くものの中などにも使って居た。それは寒さが今よりも早く来たし、衣料も今のように温い毛の物などが無く、風がひどく身に
沁みて、始終人がそういう言葉を口にしたからであった。十一月三日という日は何時も霜が深く、時には
みぞれが小雪になるような日さえあった。子供達は大抵紀州ネルの
シャツを着ていて、それは袖口に瀬戸物の
ボタンの有るものであった。無論マントなどというものは着なかったのである。いや、それよりも、東京市中には殆ど高層建築というものがなく、地勢によっては、何処からでも富士も筑波も見通しで、分けても北の筑波おろしが身に沁みたのである。
一の
酉が済んで七五三の祝い日ごろに成ると、大拡の木の葉が吹き落され、毎日
こがらしが吹きすさむ。夜は戸を
閉めて灯の色が暖く、人けも多くなるので、何か拠りどころが有るような気がするが、昼間吹く
空ッ風は明るいだけに妙に頼りなく、風の子の子供達にさえ索漠としておちつかない気持を与える。こんな日に火事があると大変だな、遊んで居た子供がふとそんなことを言い出す。それは大風の日、神田から火事が出ると、きまって京橋鉄砲洲まで燃え抜けるという伝えを、常々年寄達も云って居たし、現に近頃神田に起った火事が、翌日の午後になってもまだ消えずに居たことを知って居るからであった。当時町なかでない静かな所に住んで居た私の家にさえ、一人々々が背負うように、
連尺という紐の着いた小
つづらが残って居たし、又火事の時に雑物を入れて運び出すために、用心籠と称する長持のような大きな竹籠が用意されて居た程であった。
そういう晩秋の或る日、私が独りで外で遊んで居ると、不意に耳近くビューという、而もそれが多少高低曲折のある、いやむしろ微妙なと云ってもよい程の風の音のするのに気がついた。見るとそれは、直ぐ近くに掛けてある物干竿の一本が鳴って居るのであった。遠く近く集って一つの声になって居る
こがらしの声は何時も聞いて居たが、こう身近な一つの物に風が当って、而もそれが微妙な音を立てて居るのに気がついたのは初めてであった。少年の私は「こがらし」の正体を見付けたような気がして、此の何でもない不思議に暫く注意を集めて居た。こういう、東京も
こがらしの烈しかった時代に、私は品川の奥に住んで御殿山の小学校に通って居た。晩秋初冬の頃になると、毎日烈しい風の音が気味わるく、大通りからは遥かに遠い場所であるのに、ひどく火事を恐れる子供であった。そうして、その
いやな
こがらしが吹く或る薄曇った寒い月に、私は近所の寺の裏手の墓地へ
耶蘇教の葬式が来ることを知って、無気味に思った。
その寺というのは、元は近くの大きな寺の
塔頭の一つであったのだろうが、それは或る大名の菩提所で、今は其の家の
控邸になって居て、
乳鋲のついた扉のある大きな開き門をはいると、境内はかなり広く、梅林や茶畑や草原などもあって、二三軒の貸家もあった。然し、住僧は居ないで、切り
下げの老婦人が一人、寺の片隅に居るだけで、塗り骨の
まいら戸のある玄関から庭に面した部屋々々まで、全部を或る役人に貸して居るので、そこの子供が私の友達であった。私も時々その辺を遊び廻ったが、墓地はその寺の裏手、山蔭の森も近く、淋しい所である。耶蘇教の人を葬るのだから、勿論寺の墓地ではないであろう。私達も平生其処へは余り行ったことがなかったのである。
子供達は、今日珍しく開かれて居る大門の外で待って居たが、そのうちこんなことを云い出した子供があった。耶蘇教というものは、死者の手足を十字架に釘で打ちつけて葬るものだというのである。私もそういう絵は見たことがあった。白い顔をして髯をのばし、十字架にかかって手足の肉から血のにじみ出た基督、それは異教徒の子供には気味の悪い絵であった。
こがらしの吹きすさんで居る中で、そういう教祖の受難の形をそのまま死者に行うという話を聞いて居ると、ひどく恐しくなるが、私達は
怖い物見たさの好奇心で、葬列の来るのを待って居た。やがてそれが来たが、黒い布を掛けた、平たい柩が比較的人数の少い葬列に随われて静かに歩いて来ただけで、別に気味の悪い変ったものではなかった。十字架を担いだ人も交っては居たが、それは単に木で造ったもので、もし死者が手足を釘で打付けられて居るとすれば、それは彼の柩の中にそうされて居るのかと思った。強い
こがらしの中を、葬列は門をはいって暗い墓地の方へ消えて行った。いつもは思いもよらぬ
わるさを仕出す悪童達も、今日は誰もそれに
随いて行って見ようとする者がなかった。
私は其の時から遥か年を経て、津の国の
昆陽寺から黄金の交って居る釣鐘を盗み出す群盗の話を読んだ。話は昔の中国の
偸盗説話に
繋るような狡智をきわめた手段を用いたもので、それは、黒風吹きすさみ、人々も家の戸を閉じて居たような日に行われた面白い話であった。私はその物語を読んで、ふと少年の日に出会った此の耶蘇教の葬儀を思出した。その古い物語を読んだのは、深く基督教の匂いを
湛えた或る中学校を終える頃であったが、その頃でもまだ/\東京の
こがらしは烈しいものであった。それから私が其の中学を終えて更に上の学校へはいったのは、明治時代後期の初めである。この文章の中で、初期、中期、後期などというのは、単に明治時代を三分してそう呼んで居るのである。
さて上の学校にはいってから、私の組には三十人ばかりの学生が居た。それが妙なことに、其の中の五人までが生え抜きの東京生れの学生であった。其の時こそ下谷、本郷、四谷、牛込、麻布という土地に住んで、大方が山の手組であったが、家の系統を聞くと、総て
ずっと古くから此の都会に住んで居る者であった。皆家庭から通って居たので、
はめをはずした怠け方をする者はなかったが、それでも時々は妙な理由をつけては早帰りをした。可笑しいのは、こがらしが吹いて空が暗く物わびしい午後などになると、きまって誰か、僕はもう帰ろう、と言い出す者があった。和服の
懐へ無精らしく入れて居た手を出して荷物を包み出すと、又一人が、こんな日に火事でも始まっちゃ
堪らない、と
巫山戯たように言い出す。すると何かおちついて居られないような気持がして来て、五人とも皆帰ってしまうのである。
私の母などは
厳しい人で、私の出入にも相当気を配って居たらしいが、風がひどいから帰って来たというと、そうかい、と云って、よく帰って来たというような顔をしたのである。子供の時分、風の強い夕方などは早く
御飯にしてしまおうと云い、何処の家もそういう心構えは持って居たのであった。農村出の学生の大家族を擁して、火事など余り経験の無かった者などの眼からは、馬鹿げた怠け方をすると可笑しかったであろう。然し今でも私などは、
こがらしの烈しい声を聞くと、やはり気味が悪くおちつかないのである。