何時の
比のことであったか朝鮮の
王城から南に当る村に
鄭と云う老宰相が住んでいた。その宰相の家には
宣揚と云う
独り
児の秀才があったが、それが十八歳になると父の宰相は、同族の
両班の家から一人の女を見つけて来てそれを我が児の嫁にした。
宣揚の夫人となった女は花のような姿をしていた。宣揚は
従来にない幸福を感じて、夫人を傍からはなさなかったが、朝鮮の風習として結婚した両班の子弟は、すぐ山寺へ往って独居生活を始め、
科挙に応ずることのできるように学問文章を
修めることになっているので、宣揚もしかたなく夫人を家に残して山寺へ往った。
そして、山寺の一室に
行李を
解いた宣揚は、遠く本堂の方から
漏れて来る
勤行の声に心を澄まし、松吹く風に耳を
洗うて読書
三昧に入ろうとしたが、夫人の唇や
頬が
文字の上に見えて読書する気になれなかった。しかし、山をくだって夫人の処へ帰って往くと云うことは、父母をはじめ世間の手前もあるのでさすがにそれはしなかったが、そのかわりに
壮い
和尚に頼んで手紙を夫人の
許へ送り、その返書を得て朝晩にそれを読みながら、
僅かに
恋恋の
情を慰めていた。
宣揚が山へ登ったのは晩春の
比であった。そして、暑い夏を送って秋になると、夫人に
逢いたくなって
起ってもいてもいられなくなったので、父母を
省すると云う名目をこしらえて
某日山をおりた。
山の中程には大きな
巌石が
屏風を立てたように
聳えた処があった。宣揚はそこまでおりて来ると
疲労れて苦しくなって来たので、
路ぶちの
巌に腰をかけて休んでいた。空には白い雲が飛んで荒っぽい秋風が路の下の方の林に音を立てて吹いていた。宣揚は
手巾で
襟元ににじみ出た汗を
拭いながら、今日帰って往く
己を夫人がどんな顔をして迎えるだろうと思ってその喜んだ顔を想像していた。黒い瞳と
朱い唇が眼の前にあった。と、
背後の方でものの気配がして、宣揚が不審して振返ろうとする間もなく、彼の頭は黒い撃痛を感じて横に倒れた。倒れながら彼の顔は血に染まった。太い棒を手にした
壮い
和尚が意識を失いかけた彼の眼に映った。
黄金の金具を打った
轎が
町の
四辻を南の方へ曲って往った。轎の
背後にはお
供の少女が歩いていた。それは
麗な春の夕方で、
夕陽の中に暖かな微風が吹いていた。
慕華館で終日日課の弓を引いていた
李張と云う武科志願の秀才は、このとき弓と矢を肩にして己の家へ帰っていたが、きれいな轎が来るので見るともなしに眼をあげた。と、小さな
旋風が起ってそれが
薄すりと
塵を巻きながら、
轎夫の頭の上に巻きあがって青い
簾の
垂を横に吹いた。簾は鳥の飛びたつようにひらひらとあがった。
艶麗な顔をした夫人が坐っていた。李張は女の美にうたれた。この

な女はどんな秀才の夫人であろう、と、思いながら立ちどまってその轎を見送っていたが、その足は
何時の間にか轎の往く方へ動きだした。
金粉をまき散らしたような西の空に
紅い
陽がどんよりとかくれた。そこここの人家の
門口に咲いていた
李の花も灰色になった。きれいな
轎は郊外にある大きな邸宅の門へ入った。李張は夢が
醒めたようにその前に
衝立っていたが、心残りがして帰れないのでその邸宅の
周囲を歩きはじめた。そして、裏門の方に往ってみると裏門の横手の垣に添うて小さな丘があった。李張はふらふらとその丘の上にあがった。
黄昏の邸内には
燭火の光が
二処からちらちらと
漏れていた。垣はすぐ
一跨ぎのところにあった。彼はそこに
佇んで
燭の光を見ていた。
四辺は真暗に暮れてしまって
雨気をふくんだ風が出た。李張は
何時の間にか邸内へ入り、燭の見えている
東房の方へ往って、そこの窓から内を
覗いてみた。内では轎の中にいた夫人が老婆の前で物語らしい書物を読んでいた。老婆は
姑らしかった。
老婆を
牽きつけていた書物の一章が終ったのであった。
「今日はお墓参りに往って、
疲労れておりましょうから、もう、それにして置いて、あとは
明日の晩にしてもらいましょう」
老婆が顔をあげて云った。
「そんなに
疲労れはしないですけれども、
······では、
後は明晩にいたしましょう」
夫人は
愛嬌のある顔を見せて
淑やかに
拝をして
房を出て往った。
李張は
燭火の前に浮き出た花のような姿を見たうえに、奥ゆかしいその物ごしを見せられてますますその女が
慕わしくなった。彼は女のさがって往く
房はどこだろうと考えたあげく、
西房の方へ往ってその窓から
覗いた。
東房からさがって来た夫人が物悩ましそうに坐って耳を
澄ますようにしていた。
遠くの
房にいる
良人の来る
跫音を聞いているだろう、こんな美婦の良人であるから、良人になる人も
容貌の好い男だろうと思った。そう思うと李張は
妬ましいような気になって来た。そして、
己の行為がばかばかしくなって来た。で、引返そうとしていると
庭前の方に人の跫音がした。彼は己がこうしているのを
邸の人が知って、捕えに来たのではないかと思って、そっと窓を離れて傍の
竹叢の中へ身をかくして注意していた。
怪しい人影が戸口に近づいて扉をことことと打ちはじめた。では己ではなかったか、と、李張は安心してその方を見ていた。すると、扉が内から
開いて外の人影は中へ入った。それではここの良人は留守で、不義者が出入しているらしいぞ、と彼はまた竹叢の中から出て窓の処へ往って
覗いた。
夫人と
壮い
和尚が手を
執りあっていた。李張は驚いて眼を

った。そして、今まで美しかった知らず
識らず尊敬していた夫人に対する感情は、
忽ちがらりと変って汚い醜い腹立たしいものとなった。
夫人は棚のなかから小さな
壺を出して来て、それを二つの
盃に
注いで一つを和尚の手に持たし、その一つを己で飲んだ。李張は燃えるように感じる眼をそれにやっていた。
二人は壺の液体を飲みあった。そして、
艶かしい
囁きを囁きあったが、和尚の態度は夫人以上に醜悪なるものであった。李張はまず和尚を踏み
潰してやりたかった。
和尚は夫人を横抱きにして
洞房の方へ往こうとした。夫人は抱かれながら両手を和尚の首にからまして
朱い唇を見せた。李張は手にしていた弓を持ち直して、それに腰につけた
矢壺の矢を抜いて添えた。
和尚はすこし首を
屈めて夫人の唇を己の
頬に受けようとした。と、李張の手にした矢が飛んでその
前額から
後脳にかけて
貫いた。夫人の倒れた上に血に
染んだ
和尚の体が重なった。
李張の姿は暗闇の中に消えてしまった。
その夜李張が家へ帰って寝ていると、その
枕頭へ青い
衣を着た小柄な秀才が来た。李張はこうして締め切ってある
房の内へどうして入って来たろうと思って不審して見ていた。と、秀才は
恭しく
拝をした。
「
貴君は
何方ですか」
李張は聞いてみた。
「私は、この
南村に住んでいる、鄭宰相の
独り
児の宣揚と云う者でございますが、
今日貴君に
讐を打ってもらいましたから、お礼にあがりました」
秀才は弱よわしい声で云った。李張にはその意味がどうしても判らなかった。彼は黙って秀才の
蒼白な顔を見つめていた。
「これだけ申しましたのでは、
貴方にはまだお判りになりますまいが、私はこの三年
前、
妻室を迎えるとともに、例によって山寺へ往って、学問をしておった者ですが、時おり私の家へ
使にやっていた和尚が、
妻室を
誑かし、二人で共謀して、私が帰省しようとして、山の中途までおりたところを、
後からつけて来て
撲りつけ、死骸は
巌窟の中にかくして、世間へは虎に
喫われたと云いふらして、今に
妻室と密会を続けておりましたが、それが、今晩、
貴君に見られて殺されることになり、私の
怨みも
報いられましたが、私の両親はまだ何も知らずに、
彼の
淫婦に
欺かれておりますから、どうか私の父に
逢って、まず私の死骸を改葬したうえで、
淫婦の始末をしてください、私の死骸は山の中程の、
巌石の
聳えている処へ往ってくだされば、すぐ判ります、淫婦を白状さすには、
貴君に殺された
和尚の死骸を、
被に包んで床の下にかくしてありますから、それを引出してからやってください」
李張が何か云おうと思っていると、怪しい夢は破れてしまった。
朝になった。李張は前夜
何人の邸宅とも知らずして往った鄭宰相の処へ往った。
「若旦那の死骸の在る処を知っておる者だ、宰相にお眼にかかりたい」
こう言って門番に取次を
請うと、すぐ
大庁へ通された。そして、ちょっと待っていると、
髯の白い
痩せた老宰相が出て来た。
「
伜の死骸の在る処を知っておられると云うのは、
貴君かな」
「はい」
「伜は虎に
喫われて死骸が無いことになっておるが、それでも
貴君は知っておられるかな」
「これに
就きましては、いろいろ申しあげたいことがございますが、
兎に
角、御子息の死骸をお眼にかけたうえで、申しあげます」
「そうか、それでは、その死骸はどこに
在るかな」
「山寺に登る
路の中程の、
巌窟の中に在ります」
老宰相と李張は馬に乗って、数人の
供人を
伴れて山寺の方へ往った。そして、山の
麓へ着くと、老宰相も李張も馬からおりて、
勾配の急な
山路を登って往った。山桜がぽつぽつ咲いていた。十
丁ばかりも登ると、
屏風を立てたような
巌石が
路を挟んで
聳えている処へ出た。一番前を歩いていた李張は、夢のなかの秀才が云った処はここだなと思った。が、それでもまだどこと云う見当がつかないのですこし困っていた。
「このあたりかな」
背後の方で老宰相のあえぎあえぎ云うのが聞えた。小さな青い鳥が左側の
巌の
尖にとまって、く、く、くと耳に
染みるように鳴いた。李張の眼がそれに往った。青い鳥はまだ、く、く、くと鳴いていた。
······死骸は山の中程の巌石が聳えている処へ往ってくだされば、すぐ判りますと云った秀才の
詞が思いだされた。青い鳥は鳴きながら巌の尖を伝って右へ右へ往った。李張はその
後から
跟いて往った。
青い鳥は巌の一方へ廻ってやはり尖を伝って往ったが、巌が次第に低くなって
四辺に
荊棘の茂った処へ往くと見えなくなった。李張はその
辺へ注意した。巌がぐるりと
刳れて地の底深く
陥窪んだ処が
脚下に見えた。李張は
躊躇せずにその
巌窟へはいった。人の
背丈け位の穴が
斜にできていた。で、それに跟いて往くと、三畳敷位の広い巌窟になって、その下の
微暗い処に白骨になりかけた死骸が
横わっていた。
胆力のある李張はその死骸に近寄った。
老宰相と
供の者は
窟の口へ来て内を
覗いていた。李張は
朽ちかけた
衣服に包まれた白骨を抱いてその眼の前にあらわれた。
「
伜だ、伜の
衣服だ」
老宰相は泣きながら白骨に
縋りついた。
「閣下、いよいよ御子息にそういありませんならば、
更めて山寺へお
葬りになるが
宜しゅうございましょう、そのうえで、私から閣下に申しあげたいことがございます」
李張は白骨を抱いたなりに云った。
「お前さんは
神人だ、どうして
伜の死骸がここに在ることを知りなされた」
老宰相は涙を眼に
湛えて聞いた。
「これは
昨夜、御子息が、夢に私にお話になりましたから、知っております」
「ほう、伜が」
「そうでございます、御子息が私の夢にあらわれて、まだ他にもいろいろお話がありました」
「それでは、伜は、虎に
喫われたのじゃないだろうか」
「虎ではありません、
悪漢の手にかかったものであります」
老宰相はまた泣きだした。
老宰相は伜の
寡婦のいる
内房の
西房へ入って往った。寡婦の夫人は
愛嬌を湛えて
舅を迎えた。
「
今朝、
鵲が鳴いたと思いましたら、お父さまのお出ましがありました」
「ほう、今朝、鵲が鳴いた」と、老宰相は
厳い眼をして夫人の顔を見たが、またおもいかえしたように、「二十年も昔のことだが、盗賊が
怖いので、ここの床の下へ玉を
埋めてある、それを掘りだして、お前にあげようと思って来た」
「おお、玉を、
埋めてある玉を、私にくださいます、それはありがとうございますが、お父さまがお手をくださなくっても、
何人かに申しつけましょう」
「いや、こんなことはまちがいの起り安いものだから、
乃公がする」
「でも、そんな軽がるしいことは」
夫人は笑顔をして云った。
「好いよ、好いよ、床の板さえ
剥げばすぐだから」
「でも」と、云った夫人は急に思いついたことがあるようにさも
耻かしそうな顔をして、「お父さま、どうぞ、床をあげることは、ちょっとの間お待ちくださいませ」
「どうしたとお云いだ」
「
······私の汚れ物を皆入れてありますから、それを
除ける間、ちょっとお母さまのお
房でお待ちしてくださいませ、すぐ
執り除けますから」
「そんなことは好い、ちょっとそこを
退いてくれ」
「でも」
と、夫人の声は
顫えた。
「さ、好いから退いてくれ」
老宰相は強く云って夫人の傍に進んだ。夫人は
蒼い顔をして立っていたが、急に身を
飜えして入口の
扉を開けて走りでた。出口には李張の手があった。
老宰相は夫人が
掴まえられたことを見届けると床の板を剥いだ。床の下には
被に包んだ悪僧の死骸があった。被には
生生しい血の斑点があった。
老宰相は
使をやって夫人の父と兄を呼んでその
面前で夫人を
鞠問した。夫人は罪悪を包みかくさず自白した。
夫人の実父の老
両班は、いきなり腰の刀を抜いて夫人の
咽喉元を刺した。
その
夜李張の夢にまた宣揚があらわれた。
「近いうちに
謁聖がありますから、それに応ずるが
宜しゅうございます、
貴君は武科が御志願でございますけれども、まず文科をお受けになるが宜しゅうございます、今回の
賜題は私が教えてあげます」
と、云って一つの文章を朗読した。李張は一心になってその文章を暗記した。宣揚は二度も三度も朗朗と
誦した。
「お判りになりましたか」
「よく判りました」
「それさえ覚えておれば、必ず及第いたします」
李張は科挙に及第して文官になったが、鄭宰相が
陰に
陽に
推輓してくれるのでめきめきと
栄達した。