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藤の瓔珞

田中貢太郎




※(ローマ数字1、1-13-21)


 憲一は裏庭づたいに林の方へ歩いて往った。そこは栃木県の某温泉場で、下にはみきったK川の流れがあって、対岸にそそりたった山やまの緑をひたしていた。まつすぎならなどのまばらに生えた林の中には、落ちかかった斜陽ゆうひかすかな光を投げていた。そこには躑躅つつじが咲き残り、皐月さつきが咲き、胸毛の白い小鳥は嫩葉わかばの陰でさえずっていた。そして、松や楢にからまりついた藤は枝から枝へつるを張って、それからは天神てんじん瓔珞やぐらのような花房はなぶさを垂れていた。

(いいなあ)

 憲一は足をとめた。

(こんな処にいると、帰るのがいやになるぞ)

 憲一の眼には汚い四畳半の下宿が浮んで来た。拓殖たくしょく大学に通っている憲一は、小石川の汚い炭屋すみやの二階に下宿しているのであった。

(汚いって、お話にならないや)

 何年かおもてがえをしたことのない、真黒くなって処どころに穴のあいた畳のことを考えてみた。

(いくら汚いたって、あれじゃやりきれないや)

 どこからか一羽のちょうが来て、ひらひらと皐月さつきの花の上を飛んで往った。

(とにかく、いい処だ)

 憲一はもう汚い下宿のことも忘れていた。林は奥へ往くにしたがって、躑躅つつじと皐月が多くなった。しゅべにしろといちめんに咲き乱れた花は美しかった。憲一はその花の間をうて往った。

 林のはずれは広い草原くさはらになっていた。そこに十坪位の小さい池があってきれいな水をたたえていたが、その池のへりにも紅紫こうしとりどりの躑躅や皐月の花があった。憲一はその池のへりへ往って腰をかけた。

「あら、きれいだこと」

 ふいに人声ひとごえがしたので、憲一はおやと思ってその方へ眼をやった。今出て来た林の中にあおかわらいた文化住宅のような家があって、明けはなした二階の窓から白い二つの顔がのぞいていた。

(おや)

 憲一は首をかしげた。

(あんな処に家があったのか)

 来るときにはどこにもそれらしいものが見えなかったので、憲一は不思議でならなかった。

(どうした家だろう)

 その時また女の声が聞えて来た。

「もう、しめましょうよ」

 すると二つの顔が引こんで窓の戸が音もなく締った。憲一の好奇心が動いた。憲一はその方へ往った。建物のまわりには円竹まるたけの垣根があって、玉椿たまつばきのような木の花がいちめんに咲いていたが、それは憲一がこれまで見たことのない花であった。

(何の花だろう)

 憲一はその垣根にいて往った。垣根が右に曲った処に青い石の門があった。憲一はちょっと立ちどまった。

 門の中には右のほうに水のきれいな泉水せんすいがあって、そのへり仮山つきやまがあった。仮山の上には二三本の形のおもしろい小松が植わっていた。その時泉水に面したへや障子しょうじいて、そこから三十位に見える洋髪ようはつ※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな女の顔が見えた。憲一は今窓から顔を出した人だろうかとおもって、それに注意したところで、女の※(「女+朱」、第3水準1-15-80)な顔がこっちをむいてにっとした。

 憲一はどぎまぎした。憲一はあわてて眼をそらした。その時女の何か云う声がした。と、一方の室の障子が開いておさげにした少女が顔を出した。少女は青い簡単服を着ていた。

 少女は女の方へ眼をやったが、やがてその眼をこっちへ持って来た。憲一は女が少女にじぶんのいることを云っていると思った。

(己を怪しいものとでも思ってるだろう、そうだとすれば長くいないがいい)

 憲一は急いで門から離れようとした。と、少女は庭へおりてそこにあった草履ぞうり穿くなり、胡蝶こちょうの飛ぶようにひらひらと駆けだして来た。

「あなた」

 憲一はしかたなしにりかえった。少女は憲一のうしろへ来ていた。

「どうかお入りくださいまし」

 憲一は眼を見はった。憲一は人違いをして呼びに来たものだろうと思った。

「私は、このむこうの旅館へ来てる者ですが、人ちがいでしょう」

 すると少女がにっとした。

「いいえ、貴郎あなたよ」

 貴郎よと云われてもそうして呼ばれる心あたりがないのであった。

「でも、私じゃないでしょう」

 少女はまた莞とした。

「貴郎よ、奥さまが、お待ち申しておりますわ」

「お、く、さま、奥さまって、どうした方です」

「いらしてくだされば、すぐお判りになります」

 少女は憲一の手をってぐんぐんと引っぱった。憲一はしかたなしについて往った。


※(ローマ数字2、1-13-22)


 憲一は少女に導かれてへやの中へ入って往った。そこは十畳位もある広い室で、室のなかはいちめんに装飾をほどこしてあった。真中には印度※(「糸+哽のつくり」、第4水準2-84-30)インドさらさをかけた長方形の紫檀したんテーブルがあって、その左右にはそれぞれ三脚の椅子いすが置いてあった。テーブルのむこうには燦然さんぜんとした六枚折の金屏きんびょう。壁には宝玉ほうぎょくが塗り込んであった。憲一は眼を見はった。

「さあ、どうぞ」

 少女はぽかんとしている憲一に椅子をすすめた。少女は憲一が腰をかけるのを待っていた。

「ちょっとお待ちくださいまし、すぐ、奥さまがまいります」

 少女はにっとして出て往った。憲一はまた考えた。

(どうした家だろう)

 家のかまえから見て、これはどうしても富豪の別荘であるが、人違いでないとすれば、何のために貧乏学生のじぶんを呼び入れたのであろう。

(どうもおかしいぞ)

 それに奥さまと云うのはどうした方だろう。憲一はどう考えても判らなかった。

「お待たせいたしました」

 憲一ははっとして眼をやった。の三十位の背のすらりとした※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな女が入って来たところであった。女はすそに花模様のある黒の錦紗御召きんしゃおめしを着ていた。憲一はその気品のある姿に圧せられるように思った。憲一はちあがった。

「どうか、そのままで」

 女は微笑を見せながら憲一の傍へ来た。

「は」

 憲一は棒のようになっていた。

「そのようにかたくるしくなさらないで、どうか」

「は」

 憲一はまぶしそうに女を見た。

「おかけくださいまし」

 女は堅くなっている憲一を促した。女はそれから憲一のむこう側に腰をかけた。そこへの少女がはいって来た。少女の手には酒肴しゅこうを乗せた盆があった。少女はそれをテーブルの上に置いてから、小さなさかずきをそれぞれ二人の前へ持って来た。

「おしゃくしましょう」

 少女は四角なびんを持って憲一の傍へ来た。憲一はきまりがわるいので俯向うつむいていた。女がそれに眼をつけた。

「さあ、どうぞ」

 憲一はしかたなしに盃を出した。少女がそれに酌をした。それはあおみをおびたどろどろしたものであった。

「あちらからまいりました、お酒でございます」

 女はそう云いながらじぶんさかずきった。少女がまたそれにしゃくをした。

「めしあがってくださいまし」

「は」

「男のくせに、遠慮なんかなさるものじゃありませんわ」

 憲一は思いきって盃を口のふちへやった。それは香気こうきの高い酒であった。

「二三杯つづけてめしあがれ」

 女は憲一の気もちをこわばらさないようにと勤めているふうであった。憲一もいくらか気もちがほぐれて来た。憲一は思いきってそれを飲んだ。すると少女がすぐあとみたした。

「わたくしは、永い間、貴郎あなたのような方のいらっしゃるのをお待ちしておりました」

 憲一には女のことばいみが判らなかった。

「は」

「今日は、やっとその望みがかないましたから、これから家にいらしてくださいまし」

 憲一は胸がわくわくした。憲一は思いがけない幸福にっつかって己ながら驚いた。

 そのうちに憲一は酔うて来た。その時どこからかわかい女の歌う声が聞えて来たが、それは人間の魂を揺りうごかすような声であった。憲一の心はその方へ往った。その時女の何か云う声がした。

「おまえも、あちらへ往ってらっしゃい」

 するとの少女がひらひらとって往った。

「二人っきりでゆっくりいたしましょう」

 憲一はその声に気がいて女を見た。酒にほてった女の顔はいっそう美しかった。

「もすこしめしあがれ」

 憲一はもう遠慮がなかった。憲一はすすめられるままに酒を飲み、さかなった。そのうちに女は憲一の傍へ来て腰をかけた。

「めしあがれ」

 女はじぶんさかずきって憲一の口へ持って往った。憲一は微笑しながら一口飲んで女を見た。女のうるおいのある眼がじっとこちらを見ていた。女はその時憲一の口へやっていた盃を己の口へ持って往った。

 女の左手はいつのまにか憲一の肩に来ていた。憲一はうっとりとなっていた。


※(ローマ数字3、1-13-23)


 夢のような幸福がつづいた。三日目の朝になって、憲一はふと旅館のことを思いだした。

「ちょっと往って、荷物を持って来ます」

 女は淋しそうな顔をしていた。

「そんなことを云って、もういらっしゃらないつもりでしょう」

「そ、そんなことは」

「私は貴郎あなたとお別れしては」

 女はもう眼に涙をめていた。

「すぐ来ますよ」

 まもなく女はの少女とともに、泣く泣く憲一を見送った。


「ほう、これは」

 旅館の主翁ていしゅは憲一の顔を見るなりとびだして来た。旅館では憲一がいなくなったので心配していたところであった。

「どこへ往ってらしたのです」

 憲一はそれよりも女の素性すじょうを聞こうと思った。

「このむこうにあるのは、どうした家です」

 すると主翁が首をかたむけた。

「このむこう」

「そうですよ、林のなかに、立派な家があるじゃありませんか」

「林の中に、そんな家はありませんよ」

「ないことがあるものか、※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな奥さんが、いるじゃないか」

※(「女+朱」、第3水準1-15-80)な奥さん、お客さんはどうかしてるのですよ、このあたりには、第一そんな家なんかありませんや」

 憲一は主翁ていしゅがどうかしているだろうと思った。

「たしかにあるよ、往って見れば、すぐ判る」

 そこで憲一は主翁をれてその家へ往った。

「すぐそこだ」

 二人は林の中をうて往った。やがて見覚えのある草原くさはらの中の池が見えて来たが、の家らしいものは見えなかった。憲一は首をかしげた。

「たしかにこのあたりだ」

 ふと見ると、そこに山小屋か何かの腐朽ふきゅうしたようなかやや小枝のちたのが一かたまりになっていた。






底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会

   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行

底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社

   1934(昭和9)年

入力:川山隆

校正:門田裕志

2012年3月8日作成

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