日本の幽霊は普通とろとろと燃える
焼酎火の上にふうわりと浮いていて、腰から下が無いことになっているが、有名な
円朝の
牡丹燈籠では、それがからこんからこんと
駒下駄の音をさして
生垣の外を通るので、ちょっと異様な感じを与えるとともに、そのからこんからこんの下駄の音は、牡丹燈籠を読んだ者の神経に
何時までも
遺っていて消えない。
この牡丹燈籠は、「
剪燈新話」の中の
牡丹燈記から脱化したものである。剪燈新話は
明の
瞿佑と云う学者の手になったもので、それぞれ特色のある二十一篇の怪奇談を集めてあるが、この説話集は文明年間に日本に
舶来して、日本近古の怪談小説に影響し、
延いて江戸文学の
礎石の一つとなったものである。
牡丹燈記の話は、
明州即ち今の
寧波に
喬生と云う
妻君を無くしたばかしの
壮い男があって、正月十五日の
観燈の晩に
門口に立っていた。この観燈と漢時代に
太一の神を祭るに火を
焚き
列ねて祭ったと云う遺風から、その
夜は家ごとに
燈を掲げたので、それを
観ようとする人が
雑沓した。
本文に「初めて
其の

を
喪うて
鰥居無聊、
復出でて遊ばず、
但門に
倚つて
佇立するのみ。十五
夜三
更尽きて
遊人漸く
稀なり。
鬟を見る。
双頭の
牡丹燈を
挑げて
前導し、一
美後に
随ふ」と云ってあるところを見ると、喬生は
妻君を失うた悲しみがあって、遠くの方へ遊びに往く気にもなれないで、門に
倚りかかってぼつねんとしていたものと見える。そして三
更がすぎて観燈の人も稀にしか通らないようになった時、
稚児髷のような髪にした女の
児に、
頭に二つの牡丹の花の
飾をした
燈籠を持たして怪しい女が出て来たが、その女は年の
比十七八の
紅裙翠袖の美人で、月の光にすかしてみると
韶顔稚歯の
国色であるから、喬生は
神魂瓢蕩、
己で己を抑えることができないので、女の
後になり
前になりして
跟いて往くと、女がふりかえって微笑しながら、「初めより
桑中の
期無くして、
乃ち
月下の
遇有り、偶然に
非ざるに似たり」と持ちかけたので、喬生は、「
弊居咫尺、
佳人能く回顧すべきや否や」と、云って女を己の家へ
伴れて来て歓愛を極めた。
素性を聞くと
故の
奉化県の
州判の
女で、姓は
符、名は
麗卿、
字は
淑芳、
婢の名は
金蓮であると云った。
女はまた父が
歿くなって一家が離散したので、金蓮と二人で
月湖の西に
僑居をしているものだとも云った。
女はその晩を初めとして、日が暮れると来て
夜が明けると帰って往った。半月ばかりして喬生の隣に住んでいる老人が、壁に穴をあけて
覗いてみると、喬生がお化粧をした
髑髏と並んで坐っているので、
大に
駭いて翌日喬生に注意するとともに、月湖の西に女がいるかいないかを探りに往かした。喬生は老人の
詞に従って
湖西へ往って女の家を探ったが
何人も知った者がなかった。夕方になって湖の中に通じた
路を帰っていると、そこに
湖心寺と云う寺があったので、ちょっと休んで往こうと思って寺へ入り、東の廊下を通って西の廊下へ往ったところで、廊下の
往き
詰めに暗室があって、そこに
棺桶があって紙を
貼り、
故の奉化府州判の
女麗卿の
柩と書いてあった。そして、その柩の前に二つの牡丹の飾のある燈籠を
懸け、その下に一つの
盟器婢子を立てて、それには背の処に金蓮と云う文字を書いてあった。喬生は恐れて寺を走り出て隣家まで帰り、その
夜は老人の家に泊めてもらって、翌日
玄妙観と云う道教の寺にいる
魏法師の
許へ往った。魏法師は喬生に二枚の
朱符をくれて、一つを
門に貼り一つを
榻に貼るように云いつけ、そのうえで二度と湖心寺へ往ってはいけないと云って
戒めた。
喬生は帰って魏法師に云われたようにしたので、その晩から怪しい女は来なくなった。一月あまりして
袞繍橋に住んでいる友人の許へ往って酒を飲み、酔って帰ったが魏法師の
戒を忘れて湖心寺のほうの
路から帰って来た。そして、寺の門の前へ往ってみると、金蓮が出ていて、「
娘子久しく待つ、何ぞ
一向薄情
是の
如くなる」と、云って遂に喬生と
倶に
西廊へ入って暗室の中へ往くと、
彼の女が坐っていて喬生をせめ、その手を握って柩の前へ往くと、柩の
蓋が
開いて二人を
呑んでしまった。喬生の隣家の老人は喬生が帰らないので、あちらこちらと尋ねながら湖心寺へ来て、暗室へ往ってみると柩の間から喬生の衣服の
裾が
微に見えていた。で、僧に頼んで柩をあけてもらうと、喬生は女の
髑髏と抱きあって死んでいた。
これが牡丹燈籠の
原話の
梗概であるが、この原話は
寛文六年になって、
浅井了意のお
伽婢子の中へ
飜案せられて日本の物語となり、それから有名な円朝の牡丹燈籠となったものである。
伽婢子では牡丹燈籠と云う題になって、場所を京都にしてある。五条
京極に
荻原新之丞と云う、近き
比妻に
後れて
愛執の涙
袖に余っている男があって、それが七月十五日の
精霊祭をやっている晩、
門口にたたずんでいると、二十ばかりと見える美人が十四五ばかりの
女の
童に美しき
牡丹花の燈籠を持たして来たので、魂飛び心浮かれて
後になり
前になりして
跟いて往くと、女の方から声をかけたので、
己の家へ
伴れて来て和歌を
詠みあって
懐を述べ、それから
観眤を極めると云う
殆んど
追字訳のような処もあって、
原話からすこしも発達していないが、西鶴以前の文章の第一人者と云われている了意の筆になっただけに
棄てがたいところがある。そして、その物語では女は
二階堂左衛門尉政宣の
息女弥子となり、政宣が京都の乱に
打死して家が衰えたので、
女の
童と
万寿寺の
辺に住んでいると荻原に云った。荻原は
隣家の
翁に注意せられて万寿寺に往ってみると浴室の後ろに
魂屋があって、
棺の前に二階堂左衛門尉政宣の息女弥子
吟松院冷月居尼とし、
側に古き
伽婢子があって
浅茅と云う名を書き、
棺の前には
牡丹花の燈籠の古くなったのを
懸けてあった。荻原は驚いて逃げ帰り、
東寺の
卿公と云う
修験者にお
符をもらって来て
貼ると、怪しい物も来ないようになったので、五十日ばかりして東寺に往って卿公に礼を云って酒を飲み、その帰りに女のことを思いだして、万寿寺に往って寺の中を見ていると、
彼の女が出て来て奥の方へ
伴れて往ったので、荻原の
僕は
肝を
潰して逃げ帰り、家の者に知らしたので皆で往ってみると、荻原は女の墓に引込まれて白骨と重なりあって死んでいた。
円朝の牡丹燈籠はこの了意の牡丹燈籠から出発したものである。ただ場所も東京になり物語も複雑になって、怪談は飯島家のお家騒動の挿話のようになっているが、了意の
飜案から出発したと云うことについては争われないものがある。それはお
露と云う女に関係した浪人の
萩原新三郎の名が、荻原新之丞をもじったものであるにみても判ろう。円朝の物語は長いからここにははぶくとして、新三郎が怪しい女に
逢った晩の数行を引用してみると、「
今日しも盆の十三日なれば、
精霊棚の
支度などを致して仕舞ひ、
縁側へ
一寸敷物を敷き、
蚊遣を
燻らして新三郎は、白地の
浴衣を着
深草形の
団扇を片手に蚊を払ひながら、
冴え渡る十三日の月を眺めて居ますと、カラコンカラコンと珍らしく
駒下駄の音をさせて、
生垣の外を通るものがあるから
不図見れば先へ立つものは、年頃三十位の
大丸髷の人柄のよい
年増にて、
其頃流行った
縮緬細工の
牡丹芍薬などの花の附いた燈籠を
提げ、
其後から十七八とも思われる娘が、髪は
文金の
高髷に
結い、着物は
秋草色染の
振袖に、
緋縮緬の
長襦袢に
繻子の帯をしどけなく結び、
上方風の
塗柄の
団扇を持つてパタリパタリと通る姿を月影に
透し見るに、どうも飯島の娘お
露のやうだから、新三郎は伸び上り、首を
差延べて向ふを
看ると女も立ち止まり、「マア不思議じゃア
御座いませんか、萩原さま」と、云はれて新三郎も気が浮き、二人を上にあげて歓愛に耽る」と云うことになっているが、この物語では、萩原の
裏店に住む
伴蔵と云う者が
覗いて、
白翁堂勇斎に知らし、勇斎の注意で萩原は女の住んでいると云う
谷中の
三崎町へ女の家を探しに往って、
新幡随院の
後で
新墓と牡丹の燈籠を見、それから白翁堂の紹介で、新幡随院の
良石和尚の
許へ往って、お守をもらって怪しい女の来ないようにしたところで、伴蔵が怪しい女にだまされてお守をのけたので、怪しい女は新三郎の家の中へ入って、新三郎をとり殺すと云うことになっている。
元の末に
方国珍と云う者が
浙東の地に割拠すると、
毎年正月十五日の
上元の
夜から五日間、
明州で
[#「明州で」は底本では「明州でで」]燈籠を
点けさしたので、
城内の者はそれを
観て一晩中遊び戯れた。
それは
至正庚子の
歳に当る上元の夜のことであった。家家の
簷に掲げた燈籠に明るい月が
射して、その
燈は
微紅くにじんだようにぼんやりとなって見えた。
喬生も
己の家の
門口へ立って、観燈の
夜の模様を見ていた。
鎮明嶺の下に住んでいるこの
壮い男は、
近比愛していた女房に死なれたので
気病のようになっているところであった。
風の無い暖かな晩であった。観燈の人人は、面白そうに
喋りあったり笑いあったりして、騒ぎながら喬生の前を
往来した。その人人の中には壮い女の群もあった。女達はきれいな燈籠を持っていた。喬生はその燈に映しだされた女の姿や容貌が、己の女房に似ていでもするといきいきとした眼をしたが、
直ぐ力の無い悲しそうな眼になった。
月が傾いて往来の人もとぎれがちになって来た。それでも喬生はぽつねんと立っていた。軽い
韈の音が耳についた。彼は見るともなしに東の方に眼をやった。
婢女であろう
稚児髷のような髪をした少女に燈籠を持たせて、そのあとから壮い女が歩いて来たが、少女の持っている燈籠の
頭には真紅の色のあざやかな二つの牡丹の花の
飾がしてあった。彼の眼はその牡丹の花から
後の女の顔へ往った。女は十七八のしなやかな姿をしていた。彼はうっとりとなっていた。
女は白い歯をちらと見せて喬生の前を通り過ぎた。女は青い
上衣を着ていた。喬生は吸い寄せらるるようにその
後から歩いて往った。彼の眼の前には女の姿が一ぱいになっていた。彼はすこし歩いたところで、足の遅い女に突きあたりそうになった。で、
左斜にそれて女を追い越したが、女と親しみが無くなるような気がするので、足を遅くして女の往き過ぎるのを待って歩いた。と、女は
揮り返って笑顔を見せた。彼は女と己との隔てが無くなったように思った。
「燈籠を見にいらしたのですか」
「はい、これを
伴れて見物に参りましたが、他に知った方はないし、ちっとも面白くないから帰るところでございます」
女は無邪気なおっとりとした声で云った。
「私は宵からこうしてぶらぶらしているのですが、なんだか燈籠を見る気がしないのです、どうです、私の家は他に家内がいませんから、遠慮する者がありませんが、すこし休んでいらしては」
「そう、では、失礼ですが、ちょっと休まして
戴きましょうか、くたびれて困ってるところでございますから」
と、云って燈籠を持った少女の方を見返って、
「金蓮、こちら様でちょっと休まして戴きますから、お前もお
出で」
少女は引返して来た。
「
直ぐ、その家ですよ」
喬生は
己の家のほうへ指をさした。少女は燈籠を持って
前に立って往った。二人はその
後から並んで歩いた。
「ここですよ」
三人は喬生の家の
門口に来ていた。喬生は
扉を開けて二人の女を内へ入れた。
「あなたのお
住居は、どちらですか」
喬生は女の
素性が知りたかった。女は美しい顔に
微かに疲労の色を見せていた。
「私は
湖西に住んでいる者でございます、もとは
奉化の者で、父は
州判でございましたが、その父も、母も亡くなって、家が
零落しましたが、他に世話になる、兄弟も親類もないものですから、これと二人で、毎日淋しい日を送ってます、私の姓は
符で、名は
淑芳、
字は
麗卿でございます」
喬生はたよりない女の身が気の毒に思われて来た。
「それはお淋しいでしょう、私も、この
比、家内を
亡くして一人ぼっちになってるのですが、同情しますよ」
「奥様を、お
亡しなさいました、それは御不自由でございましょう」
「家内を持たない時には、そうでもなかったのですが、一度持って
亡くすると、何だか不自由でしてね」
「そうでございましょうとも」
女はこう云って黒い眼を
潤ませて見せた。喬生はその女と二人でしんみりと話がしたくなった。
「あちらへ往こうじゃありませんか」
女はとうとう一泊して
黎明になって帰って往った。喬生はもう亡くなった女房のことは忘れてしまって夜の来るのを待っていた。夜になると女は少女を
伴れてやって来た。軽い
小刻な
韈の音がすると、喬生は急いで
起って往って
扉を開けた。少女の持った真紅の鮮かな牡丹燈が
先ず眼に
注いた。
女は毎晩のように喬生の
許へ来て
黎明になって帰って往った。喬生の家と壁一つを境にして老人が住んでいた。老人は、
鰥暮しの喬生が夜になると
何人かと話しでもしているような声がするので不審した。
「あいつ寝言を云ってるな」
しかし、その声は一晩でなしに二晩三晩と続いた。
「寝言にしちゃおかしいぞ、人も来るようにないが、それとも
何人かが
泊りにでも来るだろうか」
老人はこんなことを云いながらやっとこさと腰をあげ、すこし
頽れて時おり隣の
燈の
漏れて来る壁の破れの見える処へ往って顔をぴったりつけて
好奇に
覗いて見た。喬生が人間の
骸骨と抱き合って
榻に腰をかけていたが、そのとき嬉しそうな声で何か云った。老人は怖れて
眼前が暗むような気がした。彼は壁を離れるなり寝床の中へ
潜りこんだ。
翌日になって老人は喬生を
己の家へ呼んだ。
「お前さんは、大変なことをやってるが、知ってやってるかな」
老人は物におびえるような声で云った。喬生はその意味が判らなかったが、女のことがあるのでその忠告でないかと思ってきまりが悪かった。
「さあ、なんだろう、私には判らないが」
「判らないことがあるものか、お前さんは、大変なことをやってる、気が
注かないことはないだろう」
女のことにしては老人の顔色や
詞がそれとそぐわなかった。
「なんだね」
「なんだも無いものだ、お前さんは、おっかない骸骨と抱き合ってたじゃないか」
「
骸骨、骸骨って、あれかね」
「笑いごとじゃないよ、お前さんは、おっかない骸骨と、何をしようと云うんだね、お前さんは、
邪鬼に
魅られてるのだ」
喬生もうす
鬼魅悪くなって来た。
「
真箇かね」
「嘘を云って何になる、わしは、お前さんが毎晩のようにへんなことを云うから、初めは寝言だろうと思ってたが、それでも不思議だから、
昨夜、あの壁の破れから
覗いて見たのだ、お前さんは、邪鬼に
生命を
奪られようとしてるのだ」
「観燈の晩に知りあって、それから毎晩泊りに来てたが、邪鬼だろうか」
「邪鬼も邪鬼、大変な邪鬼だ」
「
奉化の者で、お父さんは
州判をしてたと云ったよ、
湖西に
婢女と二人で暮してると云うのだ、そうかなあ」
「そうとも邪鬼だよ、わしがこんなに云っても真箇と思えないなら、湖西へ往って調べて見るが好いじゃないか、きっとそんな者はいないよ」
「そうか、なあ、たしかに麗卿と云ってたが、じゃ往って調べて見ようか」
その日喬生は
月湖の西岸へ往った。湖西の人家は湖に沿うてあっちこっちに点在していた、湖の水は
微陽の
射した空の
下に青どろんで見えた。そこには湖の中へ通じた長い
堤もあった。堤には
太鼓橋になった石橋が
処どころに
架って
裸木の柳の枝が寒そうに垂れていた。
喬生は
湖縁を往ったり堤の上を往ったりして、
符姓の家を
訊いてまわった。
「このあたりに、符と云う家はないでしょうか」
「さあ、符、符と云いますか、そんな家は聞きませんね」
「
壮い女と
婢女の二人暮しだと云うのですが」
「壮い女と婢女の二人暮し、そんな家はないようですね」
何人に訊いても同じような返事であった。そのうちに夕方になって湖の
面がねずみがかって来た。喬生は
幾等訊いても女の家が判らないので老人の
詞を信ずるようになって来た。彼は無駄骨を折るのが
痴ばかしくなったので、湖の中の
堤を通って帰って来た。
湖心寺と云う寺が
堤に沿うて湖の中にあった。古い大きな寺で眺望が好いので遊覧する者が多かった。喬生もそこでひと休みするつもりで寺の中へ往った。
もう夕方のせいでもあろう遊覧の客もいなかった。喬生は腰をおろす処はないかと思って、本堂の東側になった廻廊の中へ入って往った。
朱塗の大きな柱が並木のように並んでいた。彼は東側の廻廊から西側の廻廊へ廻ってみた。その西側の廻廊の往き詰めにうす暗い陰気な
室の入口があった。彼は
好奇にその中を
覗いてみた。そこには
一個の
棺桶が置いてあったが、その上に紙を
貼って太い文字が書いてあった。それは「
故奉化符州判女麗卿之棺」と書いたものであった。喬生は眼を見はった。棺桶の前には牡丹の花の
飾をした牡丹燈が
懸けてあった。彼はぶるぶると
顫えながら、牡丹燈の下のほうに眼を落した。そこには小さな
藁人形が置いてあって、その
背の貼紙に「金蓮」と書いてあった。
喬生は夢中になって逃げ走った。そして、やっと
己の家の
門口まで帰って来たが、恐ろしくて入れないのでその足で隣へ往った。
「ああ帰ったか、どうだね、判ったかね」
老人はこう云って
訊いた。喬生の顔は
蒼白くなっていた。
「いや、大変なことがあった、お前さんの云った通りだ」
「そうだろうとも、ぜんたいどんなことがあったね」
「どんなことって、湖西へ往って尋ねたが、判らないので帰ろうと思って、あの湖心寺の前まで来たが、くたびれたので、一ぷくしようと思って、寺の中へ往ってみると、西の廊下の往き詰めに、暗い
室があるじゃないか、何をする室だろうと思って、
覗いてみると、
棺桶があって、それに
故の奉化符州判の
女麗卿の
柩と書いてあったんだ、麗卿とはあの
女の名前だよ」
「じゃ、その女の邪鬼だ、だから云わないことか、お前さんが
骸骨と抱きあっている処を、ちゃんとこの眼で見たのだもの」
「えらいことになった、どうしたら好いだろう、それにあの女の
伴れて来る
婢女も、
藁人形だ、牡丹の
飾の燈籠もやっぱりあったんだ、どうしたら好いだろう」
「そうだね、
玄妙観へ往って
魏法師に頼むより他に
途がないね、魏法師は、
故の
開府王真人の弟子で、
符
にかけては、天下第一じゃ」
喬生は家へ帰るが恐ろしいので、その晩は老人の
許へ泊めてもらって、翌日になって玄妙観へ出かけて往った。魏法師は喬生の顔を遠くの方からじっと見ていたが、
傍近くなると、
「えらい妖気だ、なんと思ってここへ来た」
喬生は驚いた。そして、なるほどこの魏法師は
豪い人であると思った。彼はその前の地べたへ
額を
擦りつけて頼んだ。
「私は邪鬼に
魅られて、殺されようとしているところでございます、どうかお助けを願います」
魏法師は喬生から
理由を聞くと
朱符を二枚出した。
「一つを門へ
貼り、一つを
榻へ張るが好い、そしてこれから、二度と湖心寺へ往ってはならんよ」
喬生は家に帰って魏法師の
詞に従って朱符を門と榻に貼ったところで、怪しい女はその晩から来なくなった。
一月ばかりすると、喬生の恐怖もやや薄らいで来た。彼は
某日、
袞繍橋に住んでいる
朋友のことを思い出して訪ねて往った。朋友は久しぶりに訪ねて来た喬生を
留めて酒を出した。
二人はいろいろの話をしながら飲んでいたが、そのうちに夕方になって
陽がかげって来た。喬生は驚いて帰りかけたが、遠慮なしに打ちくつろいで飲んだ酒が心地好く出て来たので、彼は伸び伸びした気になって歩いていた。
蛙の声が聞えて来た。
喬生は
湖縁の
路を取らずに湖の中の
堤を帰っていた。堤の柳は芽を
吐いてそれが柔かな風に動いていた。彼の体は湖心寺の前へ来ていた。
何時の間にか日が暮れて夕月が
射していた。
喬生はふと魏法師の
戒めを思いだした。彼は
厭な気がしたので
足早に通り過ぎようとした。
「旦那様」
それは聞き覚えのある女の声であった。喬生は驚いて眼をやった。金蓮が来て前に立っていた。
「お嬢さんがお待ちかねでございます、どうぞいらしてくださいまし」
喬生の手首には金蓮の手が
絡って来た。喬生はその手を
揮り放して逃げようとしたが逃げられなかった。金蓮は強い力でぐんぐんと引張った。喬生は濁った
靄に
脚下を包まれているようで足が自由にならなかった。
「旦那様は、
真箇に薄情でございますのね」
喬生は金蓮の手を揮り放そうと
悶掻いたが、どうしても放れなかった。
「そんなになさるものじゃありませんわ」
喬生はもう西側の廻廊の往き詰に
伴れて往かれていた。
「さあ、お入りくださいまし、ここでございます」
喬生は
室の中へ引き込まれた。真紅の色の鮮かな牡丹燈籠が
微白く燃えていた。
「あなたは、
妖道士に
騙されて、私をお疑いになっておりますが、それはあんまりじゃありませんか、真箇にあなたは、薄情じゃありませんか」
麗卿が燈籠の下にしんなりと坐っていた。喬生はまた逃げようとした。
「真箇にあなたは薄情でございますわ、でもこうしてお眼にかかったからには、どんなことがあってもお帰ししませんわ」
女は
起って来て喬生の手を握った。と、その前にあった
棺桶の
蓋が急に
開いた。
「さあ、この中へお入りくださいまし」
女はその
棺桶の中に
先ず
己の体を入れて、それから喬生を引き寄せた。棺桶は二人を内にしてそのまま閉じてしまった。
翌日になって喬生の隣の老人は、喬生が帰って来ないので、心配してあちらこちらと探してみたが、どうしても居所が判らない。いろいろ考えた
結果、湖心寺の棺桶のことを思いだして、附近の者を頼んでいっしょに湖心寺へ往って、棺桶のある
室へ往ってみた。
棺桶の
蓋から喬生の着ていた
衣服の
端が見えていた。老人は驚いて住職を呼んで来た。住職は棺桶の蓋を
除った。喬生は
未だ生きているような
壮い女の
屍と抱き合うようにして死んでいた。
「この女は奉化州判の符君の
女でございますが、今から十二年
前、十七の時に亡くなりましたので、仮にここへ置いてありましたが、その後、符君の処では家をあげて北へ移りましてから、そのままになっておりました」
住職はそれから
女と喬生を
西門の方へ
葬ったが、その
後雨曇の日とか月の暗い晩とかには、牡丹燈を
点けた少女を
伴れた喬生と麗卿の姿が見えて、それを見た者は重い病気になった。土地の者は
懼れ
戦いて、玄妙観へ往って魏法師にこの怪事を
祓うてくれと頼んだ。
「わしの
符
は、事が起らん
前なら
効があるが、こうなってはなんにもならん、
四明山に
鉄冠道人と云う偉い方がおられるから、その方に頼むがいい」
土地の者は魏法師の
詞に従って、
藤葛を
攀じ
渓を越えて四明山へ往った。四明山の頂上の松の下に小さな
草庵があって、一人の老人が
几によっかかって坐っていた。草庵の前には童子が
丹頂の鶴を世話していた。人びとは老人の前へ往って礼拝をした。
「わしは、こんな処へ
籠っている隠者だから、そんなことはできない、それは何かの聞き違いだろう」
人びとは玄妙観の魏法師から教えられて来たと云った。
「そうか、わしは、今年でもう六十年も山をおりたことはないが、
饒舌の道士のために、とうとう引っ張り出されるのか」
道人は鶴の世話をしている童子を呼んで、それを
伴れて山をおりかけたが、鳥の飛ぶようで追ついて往けなかった。人びとがへとへとに疲れて、やっと西門外へ往ったときには、道人はもう
方丈の
壇を構えていた。
やがて道人は壇の上に坐って
符を書いて焼いた。と、三四人の武士がどこからともなしにやって来た。皆
黄ろな
頭巾を
被って、
鎧を着、
錦の
直衣を着けて、手に手に長い
戟を持っていた。武士は壇の下へ来て並んで立った。
「この
比、邪鬼が
祟をして、人民を悩ますから、その者どもを即刻捕えて来い」
武士は道人の命令を聞いてからいずこともなしに往ってしまったが、間もなく喬生、麗卿、金蓮の邪鬼に
枷鎖をして伴れて来た。
武士は邪鬼にそれぞれ
鞭を加えた。邪鬼は
血塗れになって叫んだ。
「その方どもは、
何故に人民を悩ますのじゃ」
道人は
先ず喬生からその罪を白状さして、それをいちいち書き留めさした。その邪鬼の
口供の概略をあげてみると
喬生は、
伏して念う、某、室を喪って鰥居し、門に倚って独り立ち、色に在るの戒を犯し、多欲の求を動かし、孫生が両頭の蛇を見て決断せるに傚うこと能わず、乃ち鄭子が九尾の狐に逢いて愛憐するが如くなるを致す。事既に追うなし。悔ゆるとも将た奚ぞ及ばん。
符女は、
伏して念う、某、青年にして世を棄て、白昼隣なし、六魄離ると雖も、一霊未だ泯びず、燃前月下、五百年歓喜の寃家に逢い、世上民間、千万人風流の話本をなす。迷いて返るを知らず、罪安んぞ逃るべき。
金蓮は、
伏して念う、某、殺青を骨となし、染素を胎と成し墳壟に埋蔵せらる、是れ誰か俑を作って用うる。面目機発、人に比するに体を具えて微なり。既に名字の称ありて、精霊の異に乏しかるべけんや。因って計を得たり。豈敢て妖をなさんや。
武士はその
供書を道人の前にさしだした。道人はこれを見て判決をくだした。
蓋し聞く、
大禹鼎を
鋳て、
神姦鬼秘、
其形を逃るるを得るなく、
温
犀を
燃して、
水府竜宮、
倶に
其状を現すを得たりと。
惟れ幽明の異趣、
乃ち
詭怪の
多端、
之に
遇えば人に利あらず。之に遇えば物に害あり。
故に
大
門に入りて
晋景歿し、
妖豕野に
啼いて
斉襄
す。
禍を
降し
妖をなし、
災を
興し
薜をなす。
是を
以て
九天邪を
斬るの
使を
設け、十
地悪を罰するの
司を
列ね、
魑魅魍魎をして以て
其奸を
容るる無く、
夜叉羅刹をして
其暴を
肆にするを得ざらしむ。
矧んや
此の
清平の世
坦蕩のときにおいてをや。
而るに
形躯を
変幻し、
草に
依附し、
天陰り雨
湿うの
夜、月落ち
参横たわるの
晨、
梁に
嘯いて声あり。其の
室を
窺えども
睹ることなし。
蠅営狗苟、
羊狠狼貪、
疾きこと
飄風の如く、
烈しきこと猛火の如し。
喬家の
子生きて
猶お悟らず、死すとも何ぞ
恤えん。
符氏の
女死して
猶貪婬なり、生ける時知るべし。
況んや金蓮の怪
誕なる、
明器を仮りて以て
矯誣し、世を
惑わし
民を
誣い、条に
違い法を犯す。
狐綏綏として
蕩たることあり。
鶉奔奔として良なし、
悪貫已に
盈つ。罪名
宥さず。
陥人の
坑、今より
填ち満ち、迷魂の陣、
此れより打開す。
双明の
燈を
焼毀し、九幽の獄に
押赴す。
武士達は泣き叫ぶ邪鬼を
曳いて往った。そして、武士達が見えなくなると、道人も
起ちあがって童子を
伴れて往ってしまった。
翌日土地の者は道人に前日の礼を云おうと思って、四明山頂の
草庵へ往ったところで、草庵は
空になって
何人もいなかった。土地の者は道人の
行方を
訊こうと思って玄妙観へ往った。魏法師は唖になっていて口が利けなかった。