山根謙作は
三の
宮の停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ
支那の方へ往ってその
年まで内地に帰って来なかったので、うっすらした
輪廓が残っているだけであった。
謙作は台湾で雑貨店をやっていた。汽船会社の先輩の世話で
上海航路の汽船の事務員になって、上海へ往く途中で病気になり、その汽船会社と関係のある上海の病院に入院中、福岡県出身の男と
知己になって、いっしょに
広東へ往き、それから台湾へわたって、あっちこっちしているうちに、今の店を独力で経営するようになって、
細君も出来、小供も出来て、すこしは金の自由も
利くようになったので、商用をかたがけて
墓参に帰って来たところであった。
空気は冷たかったが
静な
煙ったように見える日で、
輝のない夕陽がそのまわりをほっかりと照らしていた。彼は気が
注いてその
陽の光にやった眼をすぐそこの建物にやった。青いペンキの
剥げかかった木造の二階建になった長い長い洋館で、下にはたくさんの食糧品を売る店がごたごたと入口を見せていた。
生のままの肉やロースにしたのや、さまざまの
獣肉を
店頭に
吊した処には、二人の
壮い男がいて
庖丁で何かちょきちょきと刻んでいた。そこには三四人の客がいたが、その一人は
耳輪をした
支那人の老婆で、それは孫であろう五つばかりの女の子の手を握っていた。
好く見ると老婆の右側に並んでいるのも、耳輪をした壮い支那の婦人であった。壮い婦人の右側には
白痘痕のある労働者のような支那人が立っていた。
彼はふとここは支那人
街だなと思った。彼はそう思いながらあたりに眼をやった。そこは狭い黒ずんだ
街路になっていて、一方にも食糧品を売る店がごたごたと並んで、支那人がおもにそこを往来していた。大きな
酒瓶のような物を並べた店も、野菜を並べた店も、
乾して蛇とも魚とも判らない物や、また
芋とも木の根とも判らない物などを並べた店も眼に
注いた。その店さきのガラス戸や内の
鴨居などには赤い
短冊のような
紙片を貼ってあるのが見えた。それは謙作が見慣れている支那街の色彩であった。
謙作は酒のことを思いだした。そして内地に帰って来て一箇月ばかりの間に飲み
馴染んでいた
灘の酒に、いよいよ別れて往かなくてはならぬと云う軽いのこり惜しさを感じて来た。彼は六時
出帆の船を待つ処をまだはっきりと
定めていなかったので、すぐどこかで一杯やりながらそれを待とうと思いだした。彼は既に十里手前の町で船室を定め、一切の荷物も積んで、着たままの洋服に
籐のステッキ一本と云う身軽な自由な体になっていたので、身のまわりのことに
就いては気になることはなかった。彼はちょっと左の手をあげて手首に
着けている時計に眼をやった。時計は三時を過ぎたばかりであった。六時までにはまだ三時間ある、二時間はどこにゆっくりしていても
宜いと思った。彼はどこか入るに
宜い簡単な処はないかとむこうの方に眼をやった。すぐ右側に赤いポストの立っている処があって、そこから
横街の入口が見え、そのむこう
角になった処に
黄な
覆を垂らした洋食屋らしい店があった。
洋食ではいけない、なるべくなら日本料理が
宜いが、日本料理はないだろうかと思った。しかし、それは絶対に洋食が
厭と云うでもなかった。彼は洋食と云っても魚のフライ位は出来るだろうと思った。彼はもうその洋食屋の前へ往っていた。
もうすこし
前へ往ってみたら何かあるかも判らないと思った。彼はちょと足を止めて、
前へ往こうか入ろうかと考えたが、ぐずぐずしていて時間が
経ってはつまらないと思いだした。彼は横街の方から洋食屋へ往った。
磨りガラスの
障子がすこし
開きかけになっていた。もう夕方のように
微暗い土間には七つか八つの円いテーブルが置いてあって、それに三人ばかりの客が別れ別れに腰をかけていた。謙作の眼はすぐ入口のテーブルに内の方を向いて腰をかけている、茶のぼろぼろになった洋服を着た日本人とも支那人とも判らないような男の横顔へ往った。右のむこうの隅には濃い髪を
束髪にした女が
錦紗らしい
羽織の
背後姿を見せて、前向きに腰をかけていたが、その束髪に
挿した
櫛の玉が蛇の眼のように暗い中にちろちろと光って見えた。
好い女がいるな、と謙作は男の
何人でも思うようなことをちょと思い浮べながら、右側のテーブルへ往ってぼろぼろの洋服の男の横顔の見えるように、白く塗った板壁を背にして腰をかけた。
壮い
女給の一人がひらひらと
蝶のようにその前へやって来た。
「召しあがり物は」
謙作は
籐のステッキを右側の壁に立てかけていた。
「魚を
喫いたいが、何か魚のフライでももらおうか、フライは何ができるかね」
「
鯛でも
鰆でも、どっちでもできます、お
魚軒がお
入用なら、お魚軒もとれます」
謙作は嬉しかった。
「あ、あ、魚軒がとれる、これはありがたい、では、ね、
姐さん、その魚軒とフライをもらおうか」
「承知いたしました、
御酒も召しあがりまして」
「そうだ、その
御酒が第一の目的と云うところだ、これから
復た
暫らく飲めないことになるからね、船が出るまでには
心遺りのないように、うんと本場の酒を飲んで置こうと云うところだ、好い奴を持っといで」
謙作は台湾の
陽に焦げた肉の締った
隻頬に
笑をちょと見せた。
「承知いたしました」
女も口元に笑いを見せてから引返して往った。謙作は
宜い気もちになって
衣兜から
敷島の袋を出し、その中から一本抜いて火を
点け、それをゆっくりと吸いながら、やるともなしにぼろぼろの洋服の男に眼をやった。
洋服の男は
盃を口のふちに持って往ったままで、とろりとした眼をしてなにか考えている
容であった。その洋服の男の前のテーブルにも
街路の方を背にして、鳥打帽を
冠た
筒袖の店員のような
壮い男がナイフとホークを動かしていた。そこには女給の一人が傍の
椅子に腰をかけて、その男と何か話していた。
謙作はふと女のことを思いだしたので右の方に眼をやった。女の束髪の
櫛からはやはり蛇の眼のようなちろちろした光が見えていたが、何か物を飲んでいるのかすこし体を
反して、右の手をちょと曲げていた。
「お待ちどおさま」
はじめの女給が
銚子と盃を持って来て、もう盃を出していた。
「や、ありがとう」
謙作は
煙草の吸いさしを前の灰皿の中へ入れてから盃を持って女に
酌をしてもらった。
「すこしお
温いかも知れません、お温ければなおします、
如何でございます」
燗は飲みかげんであった。
「けっこう、けっこう」
「では、すぐお料理を持ってまいります」
女は銚子を置いてくるりと
背後向きになった。
「おい、酒だ」
洋服の男が右の
指端でテーブルの上を軽く
叩いた。謙作のテーブルから離れて往きかけた女が足を止めた。
「まだおあがりになります」
それは
愛嬌のない聞く者をして反感を起させる
詞であった。と、洋服の男のテーブルがどんと鳴った。
「おい、なにがまだだい、
姐さん、ばかにしちゃいかんよ、俺はお前さんのおしきせを飲んでるのじゃないよ、が、まあ、
宜い、黙って酒を持って来た」
女は洋服の男の権幕に驚いたのかそのままむこうへ往った。
「あの
玉があってみろ」
洋服の男は独りでこんなことを云ってから、またテーブルの上を叩いて思いを遠くの方へ
馳せるようにしたが、その拍子に
隻方の
赤濁りのした眼がちらと見えた。謙作は玉とはなんのことだろうと思って、考えてみたがさっぱり見当がつかなかった。
「お待ちどうさま」
女が
魚軒の皿とフライの皿を
提げて来ていた。
「あ、これは宜い、後をすぐ
浸けておくれ、すこし時間があって、ね、船に乗るところだからね」
「どちらへいらっしゃいます」
「台湾へ帰るところだよ」
「おや、台湾へ、それは大変でございますのね」
「あ、あ、ちょと
途が遠くってね」
謙作は
魚軒に添えた
割箸を裂いて、ツマの
山葵を醤油の中へ入れた。
「台湾は
宜いな、台湾にいたのですか」
それは洋服の男が
己の方へ向って云った
詞であった。謙作は箸を控えて顔をあげた。洋服の男は
赧黒い細長い顔をこっちへ向けていた。
「そうです、もう十年あまり、むこうで商売をやってるのです」
「
基隆ですか、
台中ですか」
「台中です」
「そうですか、台湾は
暢気で宜いのですなあ、私も台湾にすこしいたことがあるのです、私はシンガポールにも、バタビヤにも、広東にも、マニラにも、上海にも、
南京にも、東洋の名高い港と云う港は渡り歩いてるのですがね」
「そうですか、私も上海と広東へは、ちょと往ったことがあります、何か御商売でも」と謙作は云ったものの、その男の
風体から押して
漂泊癖のある下級船員ののんだくれであろうと思った。
「なに風来坊ですがね、すこし探しているものがあるのですが、ね、しかし、もうだめです」
洋服の男はどろんとした手でまたテーブルの上をどんと打った。
「なんです、何か旨い
儲け口ですか」
謙作はそう云って魚軒を口にしながらその後で
盃を持った。
「そんなものじゃないのです、石です、へんな石ですがね」
謙作はふと洋服の男がさっきあの玉があってみろと云ったことを思いだして好奇心を動かした。
「そうですか」
そこへ女が
後の銚子を持って来た。謙作は洋服の男が
前に酒を注文したことを思いだしたので、ちょと指を洋服の男の方へ差した。
「このお客さんが早かった、まあ、
前へあげておくれ、後で好い」
女はちょとへんな顔をしたが、そのまま黙って洋服の男の方へそれを持って往った。
「
姐さん、まあ、
憤るなよ、お客さんの好意じゃ、俺にくれ」
洋服の男は
嘲るような笑いかたをして、女の置いた銚子をすぐ
執って
盃に
注いだ。
「石ってなんです、宝石かなんかですか」
謙作は深入りしてはいけないと云う用心を一方に持ちながら
訊いてみた。洋服の男はなんと思ったのか、口のふちにやっていた盃を急いでぐっと飲んで、下に置くなり
起って来て、謙作の前の椅子を引寄せた。
「あなたに一つお話しましょう、すこし、へんな話しですが、聞いてくれるのですか」
そう云って洋服の男は腰をおろした。謙作は
煩さい話になっては困るなと思ったが、断るわけにもゆかないのでしかたなしに盃をだした。
「一つあげましょう」
洋服の男は
隻手でそれを
遮るようにした。
「いや、それは
戴きません、そう云うことは煩さいことですから、いただきません、あなたはかまわずに飲んでください、私も飲みたくなったら、
己で執って来て飲みます」
「そうですか、では、あげますまいか」
「そうしてください、そうしていただくと私も自由で
宜いのです」
「では、どうぞ御自由に」
謙作はその
盃に己で酒を
注いで飲みながら洋服の男の云いだす話を待っていた。
「それじゃ、これからお話しますがね、すこしへんな話ですよ、アインスタインだの、なんだのと云う今の世の中に、ちょっと変った話ですからね」
「まあ、まあ話してください」
「では話しますが、ね、私の生れた処は申しますまい、私は支那におれば、支那の
詞を
遣います、ジャワにおれば、ジャワの詞をつかいます、私がどこの者であるかは、あなたの推測にまかせますが、私の家はその土地でも有数な
富豪で、父には七人の
妾があったのです、私は他の兄弟もない
独り
児のことでしたから、非常に父からも母からも可愛がられていたのです、教育もフランス人とイタリヤ人の二人の教師を家へ呼んで、それからひととおりのことを教わったのですが、私には、みょうに
奇を好む性癖がありまして、今でしたら飛行機にも乗ったでしょう、珍らしい遊戯とか、
興業物とかがあると、金にあかしてそれを教わったものです、その結果、私は
印度から来た女奇術師の一座を
暫らく別荘へ置いて、それからいろいろな奇術を教わったのです、石を投げると、それが
鳩になって飛んだり、ステッキを地べたへ置くと、それが蛇になって
這ったり、帽子の中から犬を出したり、皆、ちゃんと仕掛けがあって、教わってみればつまらないものですが、見ている者が感心するので、それがばかに面白くって、時どき裏庭へ隣の人や
朋友を入れて、それに見せてやったのです、そうです、ね、そのとき、私は十七でしたよ、お話の
眼目はこれからですが、どうか、さあ、私にかまわずに、あなたは飲んでください」
洋服の男はそう云って思いだしたように
双手を
兜衣に入れた。
「ああ」
謙作は
頷ずいてみせた。洋服の男は一本の葉巻とマッチをだして、面倒くさそうに火を
点けた。
「事件はこれからですが、ね、ある日、それは夏でしたね、私の裏庭には、一本の大きな
棗の木があって、それに棗の実がいっぱいに
実っていたのです。私はその棗の木の下へ仕掛けのある箱を置いて、二つ三つ得意の奇術をやり、それから石を投げて
鳩にして飛ばしたところで、
(ふうう)
とさもおかしくてたまらないと云うような
嘲り笑いをする者もあるのです、私は
怪しからん奴だと思って、見ると赤い帽子を
著た、
顎髯の白い、それもまばらに
生えた老人が笑ってるのです、私は後の
詞によっては、
撲り倒してやろうと思って、その顔を
睨みつめると、
(若旦那、そんな小供のするような奇術は駄目ですよ、私の奇術を見せましょうか)
と云うのじゃないですか、私は腹が立つし、種も仕掛けもない手ぶらの老人が、気の利いたことができるものか、何かやらして、気の利いたことができなかったら、
大にとっちめてやろうと思ったので、
(そうか、では、やってもらおう、お前さんは、どんなことができるのだ)
と云うと、老人はにやにや笑って、
(若旦那、私にはなんでもできますよ、私は若旦那を
猿にしろとおっしゃれば、ほんとうに猿にしてみせますよ、しかし、まあ、それよりも、一ばん早いところをお眼にかけましょう、若旦那、その大きな
棗の木を枯らしてみましょうか)
と云うのです、いくら奇術が
巧いからと云って、
立木が枯らされるものでない、私は老人がでたらめを云って、私を笑わせて銭でももらおうとしているのだな、と思ったので、ますます腹が立って、
(よけいなことを云わずに、この棗の木が枯らされるなら、枯らしてもらおう)
と云いますと、老人は十字架をかけたように首にかけていたプラチナの鎖をはずして、その鎖に附けてあった小さな袋を出し、それを右の手の
掌に握ってから、
(それ、すぐ枯れますよ)
と云って、その手を上にあげて棗の木を
呪うとでも云うようにすると、どうでしょう、今まで青あおしていた棗の葉が急に
萎れて来て、棗の実がぼろぼろと落ちるのじゃありませんか、私はびっくりして驚くと云うよりも恐ろしくなったのです、すると老人は、
(どうです若旦那、私の云うことに嘘はないでしょう)
とすまして云うのです、
(私が疑ったがわるいのです、どうか許してください)
私はしかたなしに老人にあやまったのです、すると老人は、
(若旦那が判ってくだされるなら、この木を枯らすも可哀そうですから、
活かしましょう)
と云って、この手を横に二三度動かすと、今まで落ちていた
棗の実が落ちやんで、
萎れていた葉がみるみる青あおとなるのじゃありませんか、私は老人を神様のように思って、奇術の箱などは、もう打っちゃらかしといて、老人を上へあげて、父も母も呼んで来て引き合せたうえで、
大に
饗応をして、その日から老人にいてもらおうと思って、老人にそのことを云ってみると、老人は、
(若旦那の御親切はありがたいのですが、私は家族を
伴れておりますから、一人こちらで御厄介になることはできません)
と云うから、その家族も伴れて来ていっしょにおれと云っても、
(いや、また御厄介になります、私の法術は若旦那のお気に入ったように思われますから、そのうちにお教えします、しかし、これは手品と違って、不思議な術ですから、
腹が出来ないとお教えしても
駄目です、そのうちに若旦那に腹が出来たなら、
何時でもお教えします、これからちょいちょい遊びにあがります)
と云って、いくら止めても帰って往くのです、
居処を聞いてもそのうちに知れると云って云わないものですから、私は老人をますます
豪い異人だと思うようになったのです、それから老人は、二日
隔き、三日隔きに、どこからともなしに
飄然とやって来ては、石を
蛙にしたり、壁へ女の姿を現わしたりして見せて、その
後で
饗応を
喫って帰って往ったのですが、それから一箇月ばかりすると、私の家に大きな不幸が起ったのです、午後の茶を飲んでいた父が、病気でもなんでもないのに、そのまま倒れて亡くなったのです、私の家は他に近い親類もないので、母が
雇人を指揮して、やっと
葬式をすましたところで、父が亡くなってから十日目の朝になって、その母がまた宵に寝たままで亡くなっているのです、これは後で判ったのですが、そんなことを知らない私は、もう力にする者はその老人一人だと思いまして、母の亡くなった後のあとしまつは、一いち老人に相談したものです、それでも老人は、私の家に
泊るようなことはしなかったのです、すると、ある日のこと、老人が
壮い可愛らしい女を伴れて来たのです、それが老人の
女です、その
女は三度老人に
伴れられて来て、三度目に私の家に泊ることになったのですが、私と
女との間は、その晩からもう他人でなくなったのです、しかし、これは恐ろしいわなだったのです、父も母もその
妖賊の手に死に、私もその手に死のうとしていたのです、私は翌日、その
女が帰ると云うので、送って往ったのですが、
女の家は入江の
水際に繋いである怪しい舟です、私はそのまま舟の一室へ
閉じ
籠められるように入れられたのです、もし
強いて帰ろうとしたなら、
女の姉の使う
剣と、老人の
毒手が待っているのです、
女の姉は跛の醜い女でしたが、七本の短剣を使うのです、
後から後から空に投げあげるさまが、魔神の手がそれを手伝うように思われたのです、私が往った時、老人はその
姉女を呼んで、
饗応だと云って剣を使わせたのですが、それは私に死の命令をしたものです、しかし、
女は私をかばってくれたのです、何も知らない私は、老人がどうしても帰さないので、しかたなしに泊って、夜中
比に一度目を覚ましてみると、次の
室で
女が姉と激しく云い争っているのです、
(あまり
可哀そうじゃありませんか、私は
厭です、あの方は、私に免じて助けてやってください)
その声の後から姉の
詞がするのです、
(あんな男にふざけやがって、
痴、お前が厭なら、私がやるよ)
私はその
夜殺されようとしていたのです、私は歯の根もあわずに
顫えてると、
隣の声はすぐ聞えなくなって、ひっそりとなったのです、私は私に好意を持っている
女がどうかして助けてくれると
宜い、もし金で往くことなら、
自家の財産を皆投げ出しても宜いから、それを
女に話して、助けてもらおうと思っていると、
夜の明け方になって、そっと
女が入って来て、黙って私の手に鎖の附いた小さな袋のような物を握らして、
(これは私の父の持っている
靺鞨の
玉です、もし、危険なことがあれば、これを
揮ってくだされば宜いのです、これさえあれば、何事でも思うとおりになります、これを持っとれば、もう父も姉も、あなたに害を加えることはできないのです、帰ってください、もう、これっきりお目にかかりません)
と、云ってから、
女は泣きだしたのです、私は心に余裕があれば、何か云ってやったのですが、まだ恐ろしさが
除かないものですから、そのまま急いで戸を開けて
舳に出たのです、気が
注くと老人の
呻るような怒る声が聞えていたのです、もう
黎明で東のほうが白くなっているのです、私はそれから家に帰ったのですが、
女のことが気になるし、老人のこともうすきみがわるいので、五六人の
壮い男に銃を持たして、入江の岸へ往ってみると、逃げたのか舟はもういなくなっていたのです、私はそれでも
女のことが気になるので、その
後も人を頼んで詮議をさせたのですが、とうとう判らなかったのです、その玉は木の葉の形をした
瑠璃紺の石です、その玉を手に入れた私は何をしたのでしょう、私には金がたくさんあったので、強盗の
真似をする必要はなかったのです、私はそれを女に用いたのです、私は知事の奥さんとも、公使の奥さんとも、市長の
姉女とも、
歌妓とも、女優とも関係したのです、そして、それが世間の問題になりかけた時、マニラ生れの日本人だと云う歌劇の一座が来たのです、私は
性懲りもなくまたその
座頭だと云う女優に眼をつけて、それに関係をつけたのですが、その女優のために、その玉を盗まれてしまったのです、私は世間の攻撃が
煩さいし、その玉が
惜いので、一切の財産を金にして、それから十年あまり
······」
洋服の男がそれまで云いかけたところで軽いゴム
裏の音がした。謙作はふと顔をあげた。前の隅のテーブルにいた女が帰りかけているところであった。
長手な重みのある、そしてどこか
艶かしいところのある顔を見せて、洋服の男の
背後の方から出ようとする
容で、長い青っぽい
襟巻の襟を
掻き合せていた。謙作は
背後姿も
好かったが、
好い女だなと思ってちょっとその
容貌に引きつけられた。と、洋服の男が顔をあげた。洋服の男は女の顔を見ると驚いたような眼をして、じっと眼を
見据えるようにしたが、いきなり飛びあがるように
起ちあがった。
「おい、
天華じゃないか」
謙作は夢から覚めたように洋服の顔と女の顔を見くらべた。女は冷然とした顔をしていた。
「うむ、天華じゃ、天華」
洋服の男は女の肩のあたりに手をやろうとして、体の向きを変えて
背後向きになった。女は
見向もせずにその前をつかつかと通ろうとした。
「待て」
洋服の男の手は女の左の肩のあたりに往った。
「なにをなさるのです、失礼な」
女の強い声とともにどうしたのか洋服の男は、土間の上に
仰向けに倒れてしまった。と、ガラス戸が
開いて女の姿は外へ出てしまった。
「この
盗人」
洋服の男は跳ね起きるなり女の締めかけにしてあったガラス戸を開けて走りでた。
「もし、もし」
謙作と洋服の男のテーブルを受持っていた
女給は、急いで洋服の男の
後から追って往った。謙作はもしかすると今の女が、あの男の玉を盗んだと云う女優ではあるまいかと思った。しかし、それにしてもあまり現実にかけ離れている
荒唐無稽に近い話であるから、その話と今の女をいっしょにすることはできなかった。謙作はふとあれは
狂人ではあるまいかと思った。
もう時間はどうだろう、謙作はふと時間のことが気になった。彼は急いで手首の時計に眼をやった。時間は四時十分になっていた。
まだ二時間はあるが、ぐずぐずしていては、またどんな
係りあいが出来るかも判らない、いっそ船へ往って船で飲もうと思いだした。謙作は
勘定をして出ようと思って顔をあげた。
朋輩の出て往ったのを気にしていた、三人の女給が、
開いたガラス戸の
側に立って外の方を見ていた。
「おい、
姐さん」
謙作が右の
指節で軽くテーブルの上に音をさすと、一人の女がすぐ来た。
「勘定をしてもらいたい、いくらかね」
女は皿と銚子を眼で読んでいたがすぐ
価を云った。それは二円と少しのものであった。謙作は小銭を三円出した。
「後はさっきの姐さんにやって貰おう」
謙作は女が金を持って往くのを見て煙草を出し、それにマッチの火を
点けて、
一吸してから腰をあげた。
「大変よ、大変よ」
おびえたような声をしながら出て往っていた女が、ガラス戸の処に姿を見せた。
「どうしたの、どうしたの」
「どうしたって、大変よ、今のお客さんが、
己で首を突いたのよ、私、もうどうしようかと思ったわ」
謙作は煙草をとり落した。
「あの
横町の
水菓子屋の前まで走ってって、いきなり短刀を出して首を突いたのですよ、おっそろしい」
「どうしたと云うのでしょう、あの女の
方を追っかけて往ったのじゃないこと」
「そうなのよ、でも女の方は見えなかったわ」
「いったいどうしたと云うのでしょう、
狂人でしょうか」
「まあ
狂人だ、わ、よ、女の方に怨みがあるなら、女の方を殺したら好いじゃないの」
謙作もその
詞を聞くとあの男はたしかにどうかしていたのだ、だからあんなことを云ったのだと思った。そして、己が今その男の
対手になっていたことを思いだして、係りあいになって出発が出来ないようなことがあっては大変だと思いだした。
「そいつは
豪いことになったものだ」
謙作はすこしも心にかけていないようなことを云い云い女の傍を通って外へ出たが、
横街のほうは見ずにそのまま初めの
街路を逃げるように歩いて往った。
何時の間にか電燈が
点いていた。謙作は洋食屋を出る時の物に追われているような気もちは改まって、ゆっくりした足どりになって
微暗い
黄昏の
街路を歩いていた。
天気が変ったのか
重んもりした空気が酒のある
頬にそそりと触れて暖かった。彼の頭には自殺したと云う怪しい洋服の男の印象が残っていたが、それは何年も昔のことのようなまたちがった世界の出来事のような気がしていた。
ふと煙草のことを思いだした。彼はちょと立ち止まってステッキを
左脇に
挟み、
衣兜に入れた煙草の袋から一本抜いて口に
喞え、それからマッチをだして火を点けながら燃えさしのマッチの棒を地べたに捨て、ひと吸いしてから歩こうと思って、顔をあげて右側につらつらと眼をやった。
そこには電燈の明るい洋館の二階があって、その窓から
長手な顔の女が胸から上を見せていた。女の顔はにっと笑った。謙作はその女の顔に見覚えがあるようであったからじっと眼を
止めて見た。それは今のさき洋食屋にいた女であった。謙作は怪しい洋服の男が口にした
天華と云う名をちょと思いだした。女は頭をさげて見せた。
「今、失礼いたしました、ちとお立ち寄りくださいまし、お茶でもさしあげましょう」
謙作は時間のことは心配しなかったが、女の
素性が判らないうえに、一度位それも洋食屋などで顔を合せた位の人の内へ慣れなれしく入って往くのも気が
咎めるし、また
壮い女があまり慣れなれしくするのもうす
鬼魅がわるいので
躊躇した。
「おあがりくださいまし、よ、他に
何人も御遠慮なさる者はいませんから」
謙作はふと考えた。この女の物ごし
風体はどうしても
良家の子女じゃない、女優のあがりか
歌妓のあがりである、それに一人でおると云うのは、旅にでも来ているのか、それともと考えて、金のある男を待っているある種の女の群に思った。彼は船にはまだ時間があると思った。
「さあ、どうぞ」
「では、ちょっと失礼しましょうか」
謙作は煙草の
喫みさしを捨てて入口の方へ注意した。
門燈のぼんやりと
燭っている入口のガラス戸がすぐ見えた。
「そこの入口を入って、右側の階段をおあがりくださいまし、四つ目の
室でございます」
謙作はちょと女の顔を見てから入口の方へ歩いて往った。そこには
磨りガラスのように
埃の白く附着したガラス戸が彼の来るのを待っているように、ハンドルがはずれて口を細目に
透けていた。彼はそのガラス戸を軽い気もちで
開けた。
見附に受附のような出っぱった室の窓ガラスが見えて、中に肥った
頬ペタの
赧い老婆が鼻眼鏡のような黒い
紐の附いた玉の大きな眼鏡をかけて、横向になって表紙の赤茶けた欧文の
小本を
覗いていた。その室の右にも左にも
微暗い
板の
間があって、その
前に
梯子の階段が見えていた。謙作は右の板の間の
端についた
棕櫚の毛の
泥拭いで靴の泥を念入りに拭ってからゆっくりと階段をあがって往った。
彼はそうして白い
煉瓦の階段を一段一段あがりながら、うっかり女の誘惑に乗ると帰りの旅費まで無くする恐れがあるので、めんどうと見たなら
茶代に相当する物を置いてさっさと逃げだそうと思った。彼はそうして
宜い考えの浮んで来る
己の頭に、
快い満足を感じながら二階の廊下に出た。
微暗い
窟穴のような廊下の
前に
一処扉が
開いていて、内から射した明るい
燈が扉を背で押すようにして立っている者を照らしているところがあった。謙作はそれがあの女であろうと思ったので、その方へ歩いて往った。それはたしかに
彼の女であった。
「ようこそ」
「失礼します」
謙作は曖昧な返事をしながらちょと頭をさげるようにした。
「ひどい処でございますわ、さあどうぞ」
「失礼」
謙作は中へ入った。
雲母のようにぎらぎら光る
衝立が立っているので、それを左によけて通った。そこは
室の中程に
角なテーブルを
据えて、
薔薇のような花の咲いた
鉢をのっけ、そのまわりに
真紅な
天鵞絨を張った
椅子や安楽椅子を置いてあった。窓のほうには緑色のカーテンが垂れていた。その窓の下にも真紅な天鵞絨を張った
寝椅子をはじめ
種種の椅子が

に置いてあった。
謙作はそれを見ると
外套を脱がなくてはすまないように思った。彼は帽子掛けはあるまいかと思って左の方に注意した。三段になった小さな棚がそこにあった。彼はその傍へ往って下の段にステッキと帽子を置き、それから外套を脱ぎかけた。ふわりとした暖かい手が
背後にあった。
「おとりいたしましょう」
外套はそのままするりと脱がされてしまった。謙作はきまりがわるかった。
「これはどうも」
「では、どうかおかけくださいまし」
女はそう云い云い外套を
畳んで二つに折って棚の上に置いた。謙作はテーブルの方に往きながら手首の時計に眼をやった。時計は四時四十分になっていた。
「私は、すぐお
暇します、船に乗ることになってますから」
「それでも、まあ、すこしお話しくださいまし」
女はもう傍へ来ていて
廻転椅子の口をこっちに向けて勧めた。謙作はそれに腰をかけて鉢の
微白い花に眼をやった。
「さっきは失礼いたしました、私は
独りこうやっておりますものですから、淋しくなると、つい独りであんな処へ出かけてまいりますの、でもさっきは、変な男に係り合って、びっくりいたしましたわ、どうしたと云うのでしょう、私に天華とかなんとか云いましたの、ね」
女は右横の椅子に腰をかけていた。
「そうですよ、ありゃ
狂人ですよ、あれから
豪いことがありましたよ、あなたは御存じないのでしょう」
「ちっとも存じません、私を追いかけて来るようでしたから、変な
巷を抜けて逃げてまいりましたわ、何かありまして」
「あなたの
後から、追っかけるようにして出て、あの
前で
咽喉を突いて死んだと云うのですよ、私は見なかったが、
婢が
後から往って、見て来ての話でしたよ、どうも
狂人ですね」
「ま、咽喉を突いて、どうしたと云うのでしょう、可哀そうでございますの、ね」
「可哀そうですよ、私のテーブルへ来て
靺鞨の
玉と云うのを人に盗まれたから、それを探して、東洋の港から港をさまようていると云ったのですよ、へんな夢のようなことを云ってましたから、どうしても
狂人ですね」
「そうでしょうか、それにしても、可哀そうじゃございませんか、どこの
方でしょう」
「さあ、どうも支那人らしいです、ね」
「そうでございましょうか」
謙作はこの時、この女は思ったような女でないと思って軽い失望を感じた。彼はすぐ切りあげようと思って
衣兜から煙草をだした。
「今、何か持ってまいりますから、どうぞ御ゆっくり、
独りで淋しくって淋しくって困ってるところでございますから」
女は
隻手をテーブルにかけて
縋るようにしていた体を起して、鉢の陰からマッチを
擦って出した。謙作はその火に煙草をだした。
「すみません、お茶を一つ
戴いて帰りましょう、六時の船に乗ることになってますから」
「でも、すこしはおよろしゅうございましょう」
その
途端に扉の
軋る音がして入った者があった。それは白い
前垂をした
壮い女が盆の上に
瓢箪の形をした
陶品のビンを載せ、それに小さな
脚の長いコップを
添えて持って来たところであった。
「ここへ持ってらっしゃい」
白い前垂の女は
島田に
結うていた。彼女はその盆をテーブルの隅へ置いてからお
辞儀をして出て往った。
「つまらんものがありますから、さしあげましょう、そのうちに何か出来ましょうから」
女はビンを持ってそれをコップに
注いで謙作の前へだした。謙作はここでぐずぐずしていては船に遅れるから、一ぱい飲んだらすぐ帰ろうと思った。
「それでは
折角ですから、一ぱい
戴きましょう」
謙作はちょとお辞儀をして、煙草を前の灰皿に置いて
微青く見えるその液体を口にした。それはウイスキーの薄いような味の物であった。と、その液体の匂いであろうかそれとも鉢の花の匂いであろうか、
快い
牛蒡の
匂のような匂が脳に
浸み
徹るように感じた。
「
如何でございます、お口にあいまして」
謙作はふた口にそれを飲んでしまってコップを置いた。
「たいへん
甘い物ですね、
······では、遅くなりますから、これで失礼いたします」
謙作はそう云って体を起そうとした。
柔な女の
足端がその右の足首にふわりと
触っていた。謙作はその足をのけるのが惜しいように思われた。謙作はそうして鉢の花に眼をやった。今まで
微白いように見えていた花は
鮮な
真紅の色に染まっていた。彼は驚いて女の顔を見た。女の
濃艶な
長目な顔が浮きあがったようになっていた。
「およろしければ、二三ばいつづけておあがりくださいまし、
宜い気もちになりますから」
女はビンを持って二度目の
酌をした。それと同時に女の二つの
足端が右の足首に
絡まるのを感じた。謙作はまぶしそうに眼を伏せた。
「お婆さんのお酌で、お気のどくですけれど」
謙作は
隻頬で笑ってコップを持った。
「私も
戴きますわ」
謙作がその方を見た時には、女はもうコップを赤く
火照った口元に持って往って
艶かしい
笑を見せていた。謙作のまわりには
華なかがやかしい世界が広がっていた。
「あなたの名はなんと云うのです」
「わたし名なんかありませんわ、そうですわ、ね、天華とでもして置きましょうか」
謙作はテーブルの
端にやった
己の右の手に暖かな手の
生なましく触れたのを感じた。彼はもどかしそうにその手を握ったのであった。
謙作は
呼苦しい眠りから覚めた。それは
花園の中を
孔雀か何かのようにして遊び狂うていた鳥の
翅が急にばらばらと落たような気もちであった。彼は二三度大きく
呼をしてから眼を開けた。白い暖かな裸の体が草色の
羽蒲団に
被われていた。
謙作はびっくりした。それと同時に奇怪な詩のような印象が頭に
蘇って来た。しらじらと明け離れた朝の光がその印象の
隙から
射して来るように感じた。彼は船に乗り遅れたことを思いだした。
「これは」
謙作は
腹這になった。彼はひどく後悔した。
昨日の船に乗って帰ると云う電報を打ったことを思いだした。彼はこの瞬間、八つになる女の子と五つになる男の子が
己を待って母親と噂をしている
容を
眼前に浮べた。彼はたまらなく苦しかった。彼は寝てはいられなかった。彼はいきなり
起きようとして、己も裸になっているのに気が
注いた。
「まだお早いですよ、もすこし休んでいらっしゃい」
女はうす目を開けていた。謙作はじっとしてはいられなかった。
「いや、こうしてはいられない、洋服はどこにあるのでしょう」
榻の
枕元の台の上に乱れ箱に入れて洋服やシャツが入れてあるのが見えた。彼はすらりと羽蒲団を横に
脱けだして下におりた。
「今から何をなさるのですよ」
「これから汽船会社へ往って来るのです」
謙作はシャツを着ながら云った。
「だって船はないのでしょ」
女はすまして云った。謙作はそれが
忌いましかった。
「今日はないが、三日目にありますからね、ちょと往って来るのです」
「そう」
女は冷笑を含んだように云った。謙作はこせこせとワイシャツを着、ズボンを
着け、靴もあるので靴も
穿き、それから
上衣に手を
挿しながら見ると、時計も
紙入もちゃんと箱の中に入れてあった。彼はふと金がどうかなっていはしないかと思ったが、そこで
検べることも出来ないので、それを上衣の
内兜に入れ、時計を手首に着けた。
「そんなにせかせかしたって、会社なんかが見つかるものですか」
女はもとの枕で寝ていた。
「なに、海岸通りへ往ったらありますよ、ちょと往って来ます」
「御飯は」
「どこかで
喫いましょう」
「そう」
謙作は入口と思われる方へ往ってそこの扉を開けた。そこは宵に見たままの
室であった。彼はその室を横切って
衝立の立っている方へ往った。そこの右側の棚には
外套も帽子もステッキも宵に置いたままであった。彼はそれを持って急いで外へ出た。
廊下は明かるかった。謙作は廊下へ出ると
内兜に手をやって紙入を出してみた。金にはすこしも異状がなかった。彼は
幾等か女に置いて往かなくてはならないと思ったが、なんだかばかばかしくもあった。彼はそのまま階段をおりた。
戸外へ出ようとして扉に手をかけた時、ふ、ふ、ふと笑うような声がした。
揮り返って見ると、
見附の窓の中に宵のままの老婆が大きな
眼鏡を見せていた。謙作は気もちがわるいので、
宜くは見もしないで
戸外へ出た。
朝陽がむこう側の屋根瓦を寒く染めていた。労働者が群をして狭い
街路を往来していた。謙作は海岸の方角が判らなくなっていた。彼は人に
訊こうと思った。
「しょうしょう
伺います、海岸の方へ往くには、どう往ったら
宜いでしょう」
三人
伴の道具箱を肩にした大工の一人を見つけて訊いてみた。
「俺達も海岸へ往くところだが、海岸はどこかね」
「台湾航路の汽船の会社のある処ですがね」
「それじゃすぐだ、俺達に
跟いて来るが宜い」
謙作は三人の
後から跟いて往った。狭い
街路から電車通りへ出て、線路を横切ってむこうの広い
街路へ入ったところで、三人の大工はどっかへ往ってしまった。
「しょうしょう伺います、海岸の、台湾航路の汽船会社のある方へは、どう往ったら宜いのでしょう」
謙作は海員のようなマドロスパイプを
啣えて来た男に訊いた。
「それは、この
横町を往って、それから三つ目の
街路を、右へ折れてけば宜い」
マドロスパイプはすぐ左の方に折れている横町に指をさした。謙作はその方へ歩いて往った。そして、三つ目の
街路を見つけて、それを右へ折れて往ったが、海岸へも来なければ会社らしい建物も見つからなかった。
「海岸はまだでしょうか」
謙作は
鰌汁の荷をおろしている老人に
訊いた。
「ここは
山の
手じゃ、
有馬の温泉ならそう往っても好いが、海岸はあべこべだよ」
老人はもと来た方へ指をさした。謙作はしかたなしにとぼとぼと引返した。そして、歩いているうちに
路が判らなくなった。
「海岸はどう往ったら
宜いでしょう」
「これから、右の方へ往ったら宜いが、よっぽどありますよ」
謙作はまたその方へ往った。しかし、依然として海岸は来なかった。
「このあたりに食事をする処はないでしょうか、どこでも宜いのですが」
謙作は空腹のことから
旅館へ入って、
旅館から電話をかけるなら宜いと思いだした。彼は
旅館を尋ねて往った。
「
旅館ならこの
前にあるよ」
謙作は教えられた方へ往ったが、
旅館は見つからなかった。
謙作はへとへとになって
黄昏の
街路を歩いていた。
「まあ、今まで何をしていらしたのです、奥様がどんなにお待ちしているか判りませんわ」
謙作は不思議に思ってその方を見た。そこには洋館の入口の扉を半ば開けて
島田髷の女が
半身を
露わしていた。それは
昨夜飲み物を
搬んで来た女であった。謙作は
昨夜の家の前に帰っていることに気が
注いた。
「あ、君か」
謙作はしかたがないので二階へあがって往った。
室の中はもう
燈が
点いていた。
彼の女は室の中のテーブルに寄りかかって、彼の入って来るのを笑って見ていた。
「汽船会社へいらしって」
謙作は判らなかったとは云えないので、
曖昧な返事をしながらその前へ往った。
「お疲れになったのでしょう、おかけなさいまし、お
腹も空いたのでしょう、すぐ何か持ってまいります」
女は始終笑顔をしていたが、なんだか皮肉に見えるところがあった。謙作は煙草を飲もうと思って
衣兜に手をやった。煙草は無くなって内には
敷島の袋ばかり残っていた。彼はしかたなしにじっとしていた。
「今まで会社にいらしったのですか」
「いや、そうでもないのです、あっちこっち歩いていたのですから」
謙作はその日のことが奇怪でたまらなかった。彼は海岸も
旅館も見つからないと云うのは、
己がどうかしているためかも判らないと思った。彼は恐ろしかった。
島田髷の女が
広蓋に入れて料理を
搬んで来てテーブルの前に置いた。
「私はとうに
戴きましたから、あなたがあがってくださいまし」
謙作は
空腹いのですぐ
箸を持った。それはパンまで添えた洋食であった。
「
昨夜のお酒をおあがりなさいまし、気がせいせいしますわ」
陶品のビンから
注いだ飲み物が女の手から渡された。謙作は
箸を置いてそれを口にした。と、謙作の前には
華な世界が来た。
朝になった。謙作は
昨日と同じ状態の
下に体を置いていた。謙作は今日こそ車に乗って会社に往こうと思った。彼はまた起きて洋服を着た。
「またどこへいらっしゃるのです」
女は寝たままであった。
「ちょっと往って来る」
「そんなつまらないことはおよしなさいましよ」
謙作はそれでも出かけて往った。老婆の、ふ、ふ、ふと云うような笑声が
嘲るように聞えた。外へ出たところで
空車が来た。彼はまずその事で
旅館へ往って朝の食事をしてから会社へ往こうと思った。
「どこか海岸通りの
宜い
旅館へ伴れて往け」
車は謙作を
積んで走りだした。
街路から
街路を休みなしに往ったが、
旅館がないのかちっとも止まらなかった。
「おい、
旅館はまだかい、
旅館がなければ、台湾航路の会社へでも
宜いぞ」
それでも車は止まらなかった。謙作はしかたなしに車を
代えて走らしたが、その車もまたどこにも止まらなかった。車の上を一日照らしていた
陽が
何時の間にか
掠れてしまった。
「もう宜い、おろしてくれ」
謙作は車からおりて
車賃を払って歩こうとした。
「おや、お帰りなさいまし」
二階の窓からあの女が顔を出していた。謙作は内へ入りながら俺はどうかしていると思った。
翌日になって謙作は
己の身が恐ろしくなったので、警察の保護を願おうと思って、警察を尋ねて往った。
「警察はこの
前ですよ」
いくら
前へ往っても警察はなかった。警察署がなければ交番でも
宜いと思った。
「交番ならこの
街路を抜けたところにありますよ」
しかし、交番も見つからなかった。謙作はがっかりして歩いていると、
何時の間にか洋館の前へ来ていた。二階の窓にはあの女の顔。
その翌日、謙作はその町を逃げだすつもりで三ノ宮駅へと往ったが、三ノ宮駅も見つからなかった。気が
注いてみると女の顔が二階の窓から
覗いていた。
その夜、
彼の女は謙作の頭を己の胸のあたりに持って来さして、その耳に何か
囁いていたがなんと思ったのかその体を起さなかった。
「うちの坊ちゃん、
宜いことをして見せてあげようね」
女はそう云ってから右の手を左の
袖口に入れて、何か握ったものを引出した。
「その花が
生意気だから枯らしてみましょうよ」
謙作の夢のようになっている頭にぴんと響いたことがあった。謙作はうっとりとなっている眼を
務めて
開けた。
「こんな花は枯れってしまえ」
女が右の手を鉢の上にさしたが、みるみるその花は
萎れて花弁がぼろぼろと落ちだした。
「うちの坊ちゃん、どう」
謙作はそれをちょと見た
後に、眼をつむってしまった。
「おや、
睡っちゃったのだよ」
謙作は
彼の女と島田の女で
己を寝室に
伴れて往くのを知りながら睡ったふりをしていた。夜の明け方になって一
夜中睡らずにいた謙作の手は、女の左の腕に往った。
「なにをする」
女は急に起きあがろうとした。と、同時に女の腕に
鎖で附けてあった袋が謙作の手に移った。
「あ」
女は叫ぶなり
兎のように下へ飛び下りて寝室の外へ逃げた。
謙作はその袋を口に
啣えて、手早く洋服を着て外へ出たが、
彼の女はもう姿も見せなかった。
夜はもう明けていた。謙作の頭ははっきりしていた。彼は一
丁ばかり往ったところで、一軒の
旅宿を見つけたので入って往った。
謙作はその日の夕方
出帆した
高雄丸と云う台湾航路の船に姿を見せていた。