A操縦士とT機関士はその日も旅客機を
操って朝鮮海峡の空を飛んでいた。その日は切れぎれの雲が低く飛んで、二〇メートルと云う
烈しい北東の風が、水上機の両翼をもぎとるように吹いていた。下には荒れ狂う
白浪が野獣が牙をむいたようになっていた。
機体は木の葉のように揺れた。それは慣れているコースではあるが、二人にとってこれほど苦しい飛行はかつてなかった。A操縦士はハンドルに、T機関士はエンジンにそれぞれ全神経を集めていた。
突風に乗ったと見えて機体がぐらぐらとなった。T機関士ははっとして眼をあげた。機体は真黒い雲の中に入っていた。
(あぶない)
同時に体が浮くようになった。機体は猛烈な
勢で落ちていた。
「あ」
T機関士は思わず叫んだ。しかし、それも瞬間、飛行機はそのまままたぐんぐんとあがって往った。
(よかった)
T機関士はほっとした。そして、
額の
脂汗を拭きながら、見るともなしに
後の客席に眼をやった。左側の二番の客席に、
痩せぎすな一人の紳士が腰をかけていた。発動機の整備と云う重大な任務をもっているT機関士は、出発の時には
何人よりもさきに機上の人となるので、したがって
何んな客が幾人乗るか、そんな事にはすこしも注意しなかった。
(お客さんは一人か)
その時A操縦士がちらと
後をふりかえった。風はますます
烈しくなって、そのうえ雨さえ加わって来たので機体は無茶苦茶に揺れた。T機関士は鉛筆を
執ってメモに何か書いていたが、やがてそれを前にいるA操縦士に渡した。それには、
「客は一人か」
と書いてあった。するとA操縦士は前方を向いたまま軽く頭を
揮った。T機関士はまたメモに鉛筆を走らした。
「では、二人か」
A操縦士の頭がまた左右に動いた。
(客席には一人しか見えないが、おかしいなあ)
T機関士は不思議に思って
後を見た。客は依然として身うごきもしないで
窓外を眺めている。
(やっぱり一人だ)
T機関士がそう思った時、A操縦士の右手が動いて、前の防風ガラスに指が往った。
「なし」
A操縦士は明らかに客はなしと書いたのであった。同時にT機関士は背すじに水をかけられたように思った。T機関士はあわてて鉛筆をとると、何かに追われるようにしてメモの上に走らした。
「そんなことはない、左側二番目の
椅子に、たしかに一人いる」
その紙片を受けとってちらと眼をやったA操縦士は、これもはじかれたようにして
後を見た。
「あ」
T機関士の云ったように、たしかに
後の客席に
痩せぎすな一人の紳士がいるのであった。その日たしかに乗客のないことを知っていたA操縦士はぞっとした。A操縦士は頭がぐらぐらとした。
しばらくたってからA操縦士はやっと心をおちつけた。そして、T機関士に
手真似で、
「往ってみよ」
と云うようにした。T機関士はうす
鬼魅が悪かったが、それでも勇気を出して客室の方へ進んで往った。客室はがらんとしていた。
(へんだぞ)
T機関士はドアの
後から椅子の下をきょろきょろと見まわしたが、今までいたはずの客の姿はどこにも見えなかった。
やがて
蒼白い顔をして座席へ帰って来たT機関士は、夢中で三本の
気弁桿を握った。三個の発動機は狂気のような大きなうなりを立て、回転計の指針は最大の速度を示していた。
T機関士は無言のままその指針を見つめていた。その時機体が
生のあるもののようにぐらぐらと揺れた。
この話は次の二題とともに、
平野嶺夫君の「航空日本」による話である。