広巳は品川の方からふらふらと歩いて来た。東海道になったその街には
晩春の
微陽が
射していた。それは
午近い
比であった。右側の民家の背景になった丘の上から、左側の品川の海へかけて煙のような
靄が
和んでいて、生暖かな物悩ましい日であった。左側の川崎屋の入口には、
厨夫らしい
壮い男と酌婦らしい島田の女が立って笑いあっていたが、厨夫らしい壮い男はその時広巳の姿を見つけた。二十五六の痩せてはいるが骨格のがっしりした、眉の濃い浅黒い顔が酒を飲んでいるために

く沈んでいるのを
閃と見たが、気もちの悪いものでも見たと云うようにしてすぐ眼をそらした。
対手の
態度によって島田の女も小さな
河豚のような眼をやったが、これも気もちの悪い物でも見たと云うようにして、すぐ眼を
反らして対手の視線を追いながら
嘲るような笑いを見せあった。
広巳はのそりとその前を通りすぎた。川崎屋をすこし離れたところの並びの側に空地があって、そこには
簀につけた
海苔を並べて乾してあった。空地の前には鉛色をした潮が
脹らんでいて、風でも吹けばどぶりと
陸の方へ崩れて来そうに見えていた。
縁には咲き残りの
菜種の花があり、遥か沖には二つの白帆が
靄の中にぼやけていた。空地に向った右側は魚屋になって、店には
鮟鱇を
釣し、台板の上には
小鯛、
海老、
蟹。入口には
蛤仔や
文蛤の
笊を置いてあった。そこには
藻のむれるような海岸特有の
匂があった。
広巳はふと何か考えこんだ。七八人の少年がどこからか出て来た。
玩具の
洋刀を持ち海老しびの竹
屑を持った少年の群は、そこで
戦ごっこをはじめた。
「
俺は東郷大将だぞ、ロスケに負けるものかい」
「
汝はクロバトキンだろう」
「やっつけろ、クロバトキンをやっつけろ」
それは日露戦役の直後で、当時の少年の
何人もが東郷大将を夢みている時であった。広巳は足をとめた。
「東郷大将、うう、東郷大将か」物の影を追うようにして、「
沙河の
戦は、面白かったなあ、
俺もあの時、
鵜沢連隊長殿と
戦死するところだった」
少年の群はその時
鯨波をあげて右側の路地の中に入って往った。広巳は気が
注いた。
「東郷大将は、もう往っちゃったのか、東郷大将は」淋しそうに笑って、「
俺もなあ、あの時鵜沢連隊長殿と
戦死してたらなあ」
広巳は歩きだした。広巳の眼の前には
落寞とした世界がひろがっていた。
「これが日露戦争の勇士か」
右側に
嫩葉をつけた
欅の大木が
一団となっているところがあった。そこは八幡宮の境内であった。広巳はそこへ入った。
華表のしたに風船玉売の老婆がいた。広巳は見むきもしないで華表を
潜った。欅の嫩葉に彩られた境内は
静であった。右側の社務所の前には一人の老人が黙もくと
箒を
執っていた。左側に御手洗、金燈籠、石燈籠、
狛犬が左右に建ち並んで、それから拝殿の
庇の下に
喰つくようになって天水桶があった。その天水桶は
鋳鉄であった。その右側の天水桶の縁に
烏のような水だらけになった一羽の鳥がとまって、それがばさばさと羽ばたきをやっていた。
拝殿の前の金の緒の垂れさがった下には、一人の御隠居様らしい切髪の老媼がこちらへ背を見せて拝んでいた。広巳の眼は烏のような水だらけの鳥へ往った。広巳は鳥の方へ往った。それは
鵜であった。長い
嘴の上の方の黄ろい古怪な形をした水禽は、境内の左側になった池にでも棲んでいるのか人に恐れなかった。
「なんだ、鵜か」
鵜は羽ばたきをやめなかった。その眼はきろきろと
鬼魅悪く光っていた。
「
厭な眼をするない」手を
揮って、「おい、こら」
鵜はそれでも逃げなかった。汚い天水桶の上には鳥の
柔毛が浮んでいた。右の方の横手の入口に近い処に小さな
稲荷の
祠があって、
半纏着の中年の男がその前に
蹲んでいた。広巳は鵜に興味がなくなったので、天水桶の傍をぐるりと廻って、社の横手へ往ってそこの階段へ腰をかけた。
豆腐屋の
喇叭の音がどこからかきこえて来た。広巳は腕組をして眼をふさいでいた。二人
伴が横手の入口から入って来た。一人は素肌に
双子の
袷を着て一方の肩に
絞の
手拭をかけた
浪爺風で、一人は紺の
腹掛に
半纏を着て突っかけ
草履の大工とでも云うような
壮佼であった。
「なんだ、
暢気そうに
睡ってるじゃねえか」
「
終夜稼いだお疲れか」
二人は
斜に拝殿の前の方へ往こうとしていた。広巳の眼が大きく開いた。
「野郎待て」
右側を往っていた双子がちらりと
揮りかえった。広巳はついと
起った。双子は
有意らしい
沈静を見せた。
「
俺に用があるのか」
「あるとも、
俺を
盗児と云ったのは、
何人だ」
「ぬすっと、何人が
汝さんを盗児と云ったのだ」
広巳はずいと進んで往った。
「
汝か、
伴か二人のうちだ」
双子はそれと見て体を整えた。
「云わねえ、云うものかい、盗児と云うものかい」
「云わねえことがあるか、
終夜稼いだと云やがったくせに、云やしないもすさまじいや」
「
終夜稼いだと云ったっていいだろう、急ぎの仕事がありゃあ、終夜稼があな」
伴の方を見て、「なあ、与ちゃん」
紺の腹掛は
頷いた。
「そうとも、そうとも、急ぎの仕事がありゃあ、二日でも三日でも、寝ずにやるとも」
広巳はもう双子に
躍りかかった。
「ふざけるない、この野郎」
双子も負けてはいなかった。双子は広巳の
拳を避けて広巳に立ち向った。紺の腹掛は双子と力をあわして広巳を
撲り倒そうとした。三人の拳は
搦みあった。広巳の足は拳とともに
閃いた。双子は足を蹴られて倒れてしまった。
「野郎」
「こん畜生」
紺の腹掛と広巳は取っ組みあってしまった。双子は
放ねおきて広巳の
片頬へ拳を持って往った。
「この野郎」
広巳は紺の腹掛を
揮り放そうとした。三人の体は黒い渦巻を作ってぐるぐると
縺れあった。
「これ、これ、何と云うことだ、ここで喧嘩をして、神罰を恐れないか、何と云うことだ、これ」
そこには社務所の前で
箒を
執っていた老人が来ていた。老人は三人を叱って
諍闘をとり鎮めようとしたが鎮まらなかった。黒い渦巻を作って縺れあった三人の口からは野獣のような
呻きが聞えた。
「これ、これ、これ、よせと云うのに、これよさないか、罰あたり、神様のお
咎めが恐ろしくないか、これ、これ」
老人は
箒を中へ入れようとしたが、入れることができなかった。同時にもつれあっていた黒い渦巻が眼の前に倒れた。老人は驚いて一足
退った。老人の小さな頭には
胡麻塩になった略画の
烏そのままの
髷が乗っかっていた。
「こ、これは、まあ、なんと云うことだ、
狼の噛みあうように」
広巳は双子に帯際に
掻きつかれながら、
俯伏に倒れた紺の腹掛の上に
馬乗になっていた。
「く、く、く」
「う、う、う」
「む、む、む」
「う、う、う」
三人はまた獣のように
呻きあった。
剥きあっている三人の歯が獣の牙のようにちらちらした。
「
何人か来てくれ、何人か来てくれ」
老人はもう
己の手ではどうすることもできないとおもった。
牡丹か何かの花が咲いたようについと来て立った者があった。
「おや、喧嘩してらっしゃるの」
二十七八に見える
面長な色のくっきり白い女であった。黒い筋の細かい髪を目だたないような洋髪にして、
微黄ろな地に
唐草模様のある
質実な
羽織を
被ているが、どこかに侵されぬ気品があった。老人はどこかの
邸の
夫人が参詣に来あわしたものだろうと思った。
「ほんとに困っちまいます、私が云ってもだめですから、どうか
夫人が」
どうか
夫人がとは
夫人が引き別けてやってくれと云うのであった。女はちょっと老人の方へ眼をやるようであったが、
対手にはならなかった。その時広巳は二人の対手を
膝の下に押し敷いていた。
「
豪いわ、ねえ」と云って気が
注いたように、「おや、
貴下は」
貴下は何某ではないかと云う知っている人を探し求むる
詞であった。広巳は
拳を
揮いながら眼をやった。それは知っている人ではなかったが、どこかで逢ったような気がするのであった。広巳はきまりが悪かった。広巳は二人を放して立った。広巳の口元には血があった。広巳にとりひしがれていた二人は、それと見て飛び起きて広巳に
躍りかかろうとした。二人の眼はぎらぎらと光っていた。紺の腹掛の左の頬は血だらけになっていた。女はついと広巳の前へ出て広巳をかばって立った。
「およしなさいよ、この方は、もう手を引いたではありませんか、それに貴下方は二人じゃありませんか」
二人で一人にかかって往くのは卑怯だと云うのと同じであった。紺の腹掛は立ち
縮んだ。双子の眼は依然としてぎらぎらと光っていた。
「もういいではありませんか、さっぱりなさいよ、男は斬り結んだ刀の下で笑いあうと云うではありませんか」
双子は進めなかった。
「私が仲裁するのですから、男らしくさっぱりなさいよ、それでもいけないと仰しゃるなら、私がお
対手をいたします」
女の口元には威厳があった。それに
腕節の強い男を向うにまわして、お対手をすると云うからには武術の心得があるか、それとも
懐に何か忍ばしているか。双子も立ち
縮んでしまった。女はくるりと体の向きをかえて広巳を見た。広巳はその顔が
眩しかった。
「もういいから、お帰りなさい、だが、気をおちつけて、人と喧嘩をなさらないようにね、
貴下はいい方だが、この
比気がたってらっしゃる、それには
事情もおありでしょうが、よく気をつけてね」
広巳は母親から何か云われているように思った。
「では、お帰りなさい、心配なすってらっしゃる方がおありでしょう」
広巳の頭は覚えずさがった。
「へい」
広巳はそうしてお辞儀をするなり、体をかえして正面の
華表の方へ歩いた。そこにはあちこちに喧嘩と知って集まって来ている人の顔があった。広巳はきまりが悪いので急ぎ足になって外へ出た。そして、方角の見当もつけずに歩いているうちに、
(おや)
と云う気もちが浮んで来た。その気もちは、面長な色のくっきりと白い、黒い筋の細かい髪を洋髪にした女につながっていた。
(あれじゃないか)
広巳はぴたりと足をとめた。広巳の眼の前には初春の寒い月の晩
海晏寺の前の
大榎の傍で、往きずりに擦れ違った女の姿が浮んでいた。
(どうもあの女だ)
大榎の女はさながらの
錦絵になって、
火照ったようなその唇は、その晩の
詞を口にするのであった。
(今晩は)
広巳は女に逢いたくなった。
(参詣に来たのなら、まだいるだろう)
広巳は眼を開けた。そこは海晏寺の前のあの大榎の見える処であった。
(おや、
反対に往ってたか)
広巳はすぐ引返そうとしたが、醜い
争闘を引き別けてもらったばかりの女に逢うのはきまりも悪ければ、争闘を見ていた者がまだその
辺にうようよしているようで足が進まなかった。しかし、ぐずぐずしていて女に往かれては、どこの
何人と云うことも判っていないので、また今度
逢おうと思っても
何時逢えるやら判らなかった。
(今逢って、居所をつきとめておかないと、また逢おうと思っても逢えやしない)
広巳は気まりの悪いことには眼をつむらなくてはならなかった。
(くそっ、本渓湖の
戦の思いをすりゃ、なんでもねえや)
広巳の耳には砲弾の
唸りがよみがえり、かたかたと鳴る機関銃の音がよみがえった。砲煙、銃火、連隊旗、剣、赤鬼のような敵兵。
(左の脇腹に
擦過傷を一つ負うただけで、
金鵄勲章をもらって、人からは日露戦争の勇士だの、なんだのと云われるが、なにが面白い)
広巳の感情はたかぶって来たが、それでもその感情の
前方には錦絵の女があった。広巳の感情はすぐやわらいだ。広巳は八幡宮の前へ往っていた。
(ここだ)
広巳は入ったがすこし後めたくなった。広巳は眼をやった。あの風船玉売の老婆が、二三人集まって来ている小さな女の子に、商売物の風船玉を見せびらかしている他には
何人もいなかった。広巳は安心して
華表を
潜って往った。華表を潜りながら拝殿の方へ眼をやった。拝殿の方から
嬰児を負った
漁夫のお
媽さんらしい女が出て来るところであった。
(もう、帰ったのか)
広巳は社の左右へ眼をやった。稲荷の
祠の傍には
岡持を持った
小厮と
仮父らしい肥った男が話していた。
(それとも、あの二人に何か
因縁をつけられて、どうかしたのだろうか)
因縁をつけられて
料亭へでも
伴れて往かれているとなると、黙ってはいられなかった。
(聞いてみようか)
広巳は社の右側へ廻って往った。さっき
己が腰をかけていた右側の階段に、あの
箒の老人が傍へ箒をもたせかけて腰をかけていた。広巳は急いで老人の前へ往った。
「
爺さん」
老人の眼はつむれていた。老人は
仮睡をしているところであった。
「おい、
爺さん」
老人は
吃驚したように眼を開けて広巳を見た。
「あ、今の
壮佼か」
広巳は
冗漫な口を利きたくなかった。
「それよりも
爺さん、今の女を知ってるかい」
老人はけげんそうな顔をした。
「今の女、今の女って、私が話していた女のことかな、二十七八の脂の乗った、こたえられねえ
年増だが、ありゃ水神様だ、人間がへんな気でも起そうものなら、それこそ神罰で、眼が
潰れるか、足が利かなくなるか」
老人の話はたわごとに近いものであった。広巳はいらいらした。
「そ、そんなことじゃねえのだ、今の、それ、あの女のことだよ」
老人はおちつきすましたものであった。
「あの女って、水神様のことだろう、今まで私の傍にな、こんな梅干爺でも
平生の心がけがいいからな、神信心をして、嘘を
吐かず、それでみだらな心を起さずさ、だから神様が
何時でもお姿を拝ましてくださるのだ、あのお池の中に祭ってござる水神様だ」
広巳は老人の横面をくらわしてやりたいように思った。
「何云ってるのだ、
爺さん、
俺の云ってるのは、今、喧嘩のとき、仲へ入ってくれた女のことだよ、
何人だい、ありゃ、なんだか俺を知ってるような口ぶりだったじゃねえか、この
辺の人かい」
「なに、喧嘩の時、仲へ入った女、そ、それが水神様じゃないか」
「水神様だなんて、神様じゃないよ、色の白い、
夫人のような女じゃねえか、判らなかったかい」
「判ってるから、水神様だと云ってるじゃないか、まさか
汝さんがそれを拝むのじゃねえだろう」
たった今の事実を、それも傍にいながら
明瞭覚えていないのは、頭がぼけているのだろう。
「
爺さん、すこし、ぼけてるね」
老人の眼はいきいきとした。
「おい、
壮佼、気をつけろ、
私がぼけてる、眼は
秋毫の
尖もはっきり見える、耳は千里のそとを聞くことができるのだ、
汝なんざ無学だから、こんなことを云っても判らないだろうが、私はこう見えても、
安井息軒の門にいたのだ、西郷さんの
戦に、熊本城に立て籠って、
薩摩の大軍をくいとめた
谷干城さんも、安井の門にいたのだ、私は運が悪くて、こんなことになっちまったのだが、それでも谷さんとは同門の友人だ」
安井息軒の名は判らないが、谷村計介の話で、谷干城の事は知っていた。広巳はつい釣りこまれた。
「谷さんと
朋友かい」
「朋友だとも、だから
痴にするものじゃないよ、こう見えても、
経書はもとより、
史子百家の書に通じてるのだ、つまり王道に通じているのだ、この王道とはとりもなおさず神の道だ、今度の日露の戦争だってそうだ、日本には神の道に通じているものがいるから、
夷狄の
露西亜に勝ったのだ、鉄砲を打ったり、人を殺すことが豪かったから、勝ったと云うわけのものでない、王道つまり神の道だ、だから私には水神様が時どきお姿を拝ましてくだされるのだ」
広巳はその女が水神社の方にでも往ってるのではないかと思いだした。広巳はいきなり老人の前を離れて、拝殿の前を横ぎって池の方へ往った。池の
周囲を石畳にして
蒼どろんだ水を
湛え、その中に小さな島をおいて二つ三つの小さな
祠をしつらえてあった。広巳は島へ渡した石橋を渡った。島には
何人もいなかった。それは橋を渡らなくても一眼に見わたされる島であった。前の端の祠が水神社であった。広巳がその前へ往った時、雪のような物がぼろぼろと落ちて来た。
(おや)
それは八重桜の花片であった。広巳は
四辺に眼をやった。一方から
欅の
嫩葉の枝が出て来ているばかりで、桜らしい樹はなかった。
(
間部山あたりからでも飛んで来たのか)
広巳の眼は水神社の古ぼけた木連格子へ往った。そこに水神社と云う小さな木札をさげてあった。
(これが水神様か、こんなうす汚い水神様がお姿をあらわしたところで、たいしたこともねえだろう)
広巳が口元に
嘲りを見せた時、黒い物の影が落ちて来た。それは
鳶か
烏かの影のようでもあった。
(
前刻の
鵜か)
広巳はまた空を見たが何も見えなかった。広巳の眼は池の水の上へ往った。しかし、そこにも鳥らしいものはなかった。
(なあんだ、ばかばかしい)
広巳は引返した。広巳は他に女のことを尋ねる手がかりがないので、もう一度老人に
逢って確めようとしていた。
(どうも、この
辺の人らしいぞ、あれが、まさか、水神様の化身でもないだろう)
広巳はまた嘲りを浮べながら老人のいる処へ往った。老人は略画の烏の
髷を見せて稲荷の前を掃いていた。
「
爺さん」
「ほい」
老人は
吃驚したように
箒の手をとめた。広巳はおかしくてたまらなかったが笑わなかった。
「
前刻の女のことだが、ほんとに知らないかい」
老人はまたけげんな顔をした。
「前刻の女って、なんだな」
「
俺が喧嘩してた時に、仲へ入ってくれた女さ、ありゃこの
辺の女じゃないかね」
「見かけない女だよ」
見かけない女と云うことは女を認めてのことで、さっきのように夢をごっちゃにしたような返事でもなさそうであった。
「そうかね、ほんとに知らないかね」
「知らないよ」
「そうかね」
それ以上聞いたとて何にもならない。広巳は何か
己の頭の中の物を無くしたような気もちになってふらふらと歩いた。
広栄は縁側に近いところで店男の定七と話していた。土地の大地主で、
数多の借家を持ち、それで、
住宅の
向前に酒や醤油の店を持っている広栄の家は、
鮫洲の
大尽として通っていた。
そこは表の客座敷の次の
室で、定七の腰をかけている縁側の敷板は、木の質も判らないまでに古びて
虫蝕があり、これも木目も判らないまでに古びた柱によって、その家が
如何に旧家であるかと云うことが
窺われるのであった。もう一時を過ぎていた。広栄は左の脚の故障があるので、室の中でも松葉杖をはなさなかった。松葉杖は傍にあった。広栄はセルの
単に茶っぽい縦縞の
袷羽織を着て、体を猫背にして両脚を前へ投げだしていた。広栄は広巳の兄であった。
「
汝は知らないのか」
「それでございますよ」
定七は
皺だらけの馬のように長い顔を見せていた。定七は広栄兄弟が生れない
前からそこの店にいる番頭格の老人であった。
「どうしたと云うのだろうな、
汝はどう思う」
「そうでございますよ、旦那が御心配なされているようだし、私もへんに思いますから、せんだって、それとなしに聞いてみたのですが」
「聞いたら、何と云った」
「
俺は、べつに何もないのだ、兄は俺を小供のように面倒をみてくれるし、不足も何もあるものかと云うのですよ」
広栄は親子ほども年の違う広巳を、
己の小供のように可愛がっているところであった。
「それじゃ、何だろうね、凱旋して来た当座は、やっぱり昔のとおりだったが、どうしたと云うのだろうな」
「それでございますよ。若旦那がへんにしだしたのは、昨年の暮
比からでございますよ、元は無邪気で、きびきびして、
始終旦那に小遣をねだって、旦那が
煩がると、
私が仲へたってもらってあげるものだから、戦争から帰ってらしても、
私に、今日は
兄の機嫌はどうだなんて、よく
仰しゃってたものですよ、それが昨年の暮比からみょうに黙りこんで、
厭な物でも
眼前にいるようにしてるのですよ」
「女のことじゃないだろうか」
「旦那がせんだっても、そう仰しゃるものですから、それとなしに
壮佼に聞かしたのですが、
何人も知らないのですよ」
「そうか、この
比は、
私に顔をあわすのも
厭と云うように、私をさけるのだよ」
「ほんとにどうしたと云うのでしょう、あんな無邪気な、きびきびしてた方が」
「どうしたと云うのだろうな、それで、
昨夜から帰らないのか」
「そうでございますよ」
「そうか」
広栄は後の
煙草を
点けて庭の方へやるともなしに眼をやった。白沙を敷いた広い庭には
高野槇があり、
榎があり、
楓があり、ぼくになった
柾などがあって
微陽が射していた。
「おう」
広栄は庭に何物かを見つけたのであった。それは見るべくして見ることのできなかった物を見つけたような
容であった。それと知って定七の眼も広栄の眼を追った。
「おう、これは」
庭の右の隅になった楓の老木の根方に一
疋の蛇がにょろにょろと
這っているところであった。それは三尺近くもある青黒い中に粉のような
丹い斑点のある尻尾の切れた
長虫であった。広栄は眼を放さなかった。
「それじゃ、明日は雨だな」
「そうでございますとも、神様がお出ましになったら、雨でございましょうよ」
「今朝から生暖かい、どうも天気が落ちたと思ってたが、やっぱりそうだったか」
「
御神酒をあげましょうか」
「そうだ、そうしてくれ」
「へい」
定七は腰をあげた。蛇は二人の正面になった柾の方へにょろにょろと
這っていた。定七は蛇の方を見い見い
斜に往って表庭と入口の境になった板塀の方へ往って、そこにある
耳門の
桟を
啓けて出て往った。広栄は顔を右斜にして
背後の方を見るようにした。
「おい」
それは女房を呼ぶところであったが返事がなかった。
「おい」
それでも返事がなかった。広栄はすこしじれた。
「おい、お高、お高」
「呼んだのですか」
それは気のない返事であった。
「ちょっとお
出で」
「ちょっと待ってくださいよ」
「何かしてる」
「
衣服の始末をしてるのですよ」
「衣服ならいいじゃないか、ちょっとお出で、お出ましになったのだから、あの
楓の」
「そう」
「だから、ちょっとお出でよ」
「ちょっと待ってくださいよ」
「衣服は後でもいいじゃないか」
「だって」
広栄はちょっと顔をしかめたが、もう何も云わないで蛇の方へ眼をやった。
耳門の方へ往っていた蛇はその時こちらの縁側の方へ方向をかえた。それは何かを暗示しているように思われた。
「何かおぼしめしがあるのか」
耳門が
啓いて定七が小さな白木の
三宝へ
瓦盃を二つ三つ載っけて入って来た。
「定七、塩もいいか」
「よろしゅうございます」
「そうか」
定七は庭の隅の楓の下へ往った。楓は
微紅い
嫩葉をつけていた。定七はその楓の根元へ三宝を供えて、その前へ
蹲んで掌を合せた。
「定七、上を見てみな」
「へい」
定七は腰を延ばして片手を
額にかざして
梢の方へ眼をやった。
「どうだ」
「神様がお出ましになったから、きっとおつれあいも」
定七は幹から左側の枝へ眼をやった。その左側の枝の
中央に一
疋の蛇が巻きついていた。
「おう、やっぱり」
「いらっしゃるか」
「いらっしゃいます」
「そうか」
「あらそわれないものでございますよ」
広栄のいる
室の
背後の
襖が
啓いて、
円髷の肉づきのいい背の高い女が出て来た。それがお高であった。お高は長方形の渋紙に包んだ
量ばった物を抱いていた。
「出たのですの」
「そうだよ、お出ましになったのだ」
「どこ」
庭の方へやったお高の眼に、縁側の近くまで来て、それから右の方へ方向をかえている蛇が見えた。
「ああ、そうね」
「ありがたいことだ、もったいない」
「そうね」気のなさそうに云って、「やっぱり尻尾が切れてるわね」
広栄は顔をしかめた。
「そ、そんなことを云うものじゃない、そんなことを」
お高はちらと
嘲りを口元に見せた。
「
我家がこうしていけるのも、神様のおかげだ、おろそかに思ってはならない」
「そうね」
定七は
楓の下からお高の方を見た。
「
夫人、おつれあいも、お出ましになっておりますよ」
「そうかね」
「お庭へ、ちょっとお
出でになっては」
「わたし、これから冬着の始末をしなくちゃならないからね」間をおいて、「平どんにでも手伝わしておくれよ」
「すぐでございますか」
「すぐさ、こうして持ってるじゃないの」
「よろしゅうございます、それでは、平吉を呼んでまいります」
「すぐだよ」
「よろしゅうございます」
「それじゃ、わたしは、土蔵の前にいるからね」
「へい」
定七は急いで出て往った。お高はすまして立っていた。
「ちょっと手間がかかるのですが、ほかに用はないのですか」
「ない」
「それじゃ、ちょっと手間がかかりますよ」
「いい」
広栄は蛇の方を一心になって見ていた。蛇は表座敷の前から右の方へ姿を消して往った。
「
例年のとおりだ、もったいない」
お高は広栄の
詞を聞きながして引込んで往ったが、間もなく裏手の三つ並んだ土蔵の右の
端の口へ往って立っていた。お高の頬はつやつやしていた。お高の眼は物置と
庖厨の間になった出入口へ往っていた。と、十七八の色の白い小生意気に見える
小厮が土蔵の鍵を持って来た。
「早くいらっしゃいよ、なにをまごまごしてるの」
小厮はすました顔をしていた。
「鍵が見つからなかったものだから」
「鍵が見つからないなんて、
平生の処に置いてあるじゃないの」
土蔵は三戸前ともに古かった。土蔵の入口にはそれぞれ厚ぼったい土戸が締っていた。小厮の平吉はその戸の錠口へ鍵を入れて錠を放したが、重いので手ぎわよく
啓けることができなかった。
「弱虫ね、このひとは」
「だって、なかなか、この戸は、ね」
「男の癖に、そんな戸が重いなんて、だめだよ」
お高の
詞はひどくはすっぱであった。
「だって、この戸は、なかなか千人力でないと、あかねえのです」
戸はやっと
啓いた。戸は二重戸になっていて土戸の次には金網戸があった。
「だめだよ、
口端できいたふうな事を云ったって、からっきしだめじゃないか、しっかりおしよ」
「へッ」
平吉はとぼけるように云って金網戸の錠を啓けた。金網戸は錠前も軽ければ戸も軽かった。お高は石段の上へ履物を脱いで中へ入った。
「
鼠が入るから、早く入って、お締めよ」
「へい」
平吉は後から急いで入るなり、内から金網戸を締めた。諸道具をぎっしり積みあげてある土蔵の中は
微暗かった。
「用心がわるいから、鍵をかけるのだよ」
「へい」
平吉は手さぐりに鍵をかけた。
「かけたの」
「へい」
「それじゃ、二階へ往って窓を
啓けておくれよ」
「へい」
平吉が左の方にある階段へ眼をやった時、お高はまたはすっぱな声をだした。
「だめよ、
汝、手ぶらで往っちゃ、これ持ってくのよ、お婆さんに持って往かして」
それは抱きかかえている渋紙包を持って往けと云うのであった。
「へい」
「そうじゃないの」
「へい」
平吉はまたとぼけるように云って渋紙包を受けとった。
「ぼやぼやしてると落っこちるよ」
「へいッ」
平吉は階段をあがって往った。お高はその平吉の
厚子の下から露出している
蒼白い足
端のちらちらするのを見ていた。そして、その蒼白い足端が見えなくなったところで、ごとごとと云う音がした。それは窓の戸を啓ける音であった。同時に二階の
昇口が明るくなった。
「啓けたのですよ」
「そう」
お高はあがって往った。二階は昇口の処に三畳敷位の空間をおいて
箪笥や
長櫃を置いてあった。平吉は窓の傍に渋紙包を持って立っていた。
「なにをぼんやりしてるの」
平吉は眼に
微笑いを見せていた。
「
胡蓙を敷いておくれよ」
お高は渋紙包に手を持って来た。
「ここへ」
「そうよ」
平吉は渋紙包をわたして胡蓙を探した。胡蓙はすぐ傍の
箪笥の横手に巻いて立てかけてあった。平吉はそれを
執って敷きかけた。
「ここには、
御一新前からの
埃があるからね」
「へい」
「気をつけてね」
「へい」
胡蓙が解けるとともにもう薄すらと埃が見えた。お高は片手を
団扇にして顔の前を
煽いだ。
「云わないことか、それ、こんなに埃が立つじゃないの、しっかりおしよ」
「へい」
「へいじゃないよ、ほんとだよ」
「へい」
平吉は平気で
胡蓙を敷いた。胡蓙は二枚あった。
「ほんとに
厭、ねえ」
お高は渋紙包を胡蓙の上においてその上へ横すわりに坐った。
「これから
衣服の始末をするから、手伝うのだよ」
平吉は
昇口の方を背にして立ちながら何か嗅ぐようにしていた。
「臭いなあ」
お高も鼻をやった。
「
黴じゃないの」
「黴でしょうか」
お高は
艶かしい笑いを見せた。
「
汝、黴の
匂を嗅いで、へんな気がしやしないこと」
平吉には判らなかった。
「黴の匂ですか」
「そうよ、黴の匂を嗅いで、何か思いだしやしないこと」
「べつに、何も」
「ないの」
「ねえのです」
「私は思いだすよ、私は黴の匂を嗅ぐと、娘の時のことを思いだすよ」
「へえ」
「
汝はぼくねんじんね」
「へえ」
「
痴ねえ、この人は」
「へえ」
「いいから」窓の左側になった
箪笥へ指をやって「あの
引抽を開けておくれよ」
「へい」
平吉はうごかなかった。平吉はなにかしら主婦から重大なものを求められそうな気がしているので、箪笥の引抽を開けると云うようなあっけないことをする気になれなかった。
「あの引抽だよ、上から二番目だよ」
「へい」
平吉はしかたなしに箪笥の前へ往って二番目の引抽に手をかけた。
「そっくり
脱いて来ておくれよ」
「へい」
平吉は引抽を
啓けた。中には
単衣らしい女物が入っていた。平吉はその引抽を脱いてお高の前へ持って往った。
「やっと持てたね」
お高は何かしら平吉にからむのであった。
「へえ」
「これをすましたら、佳い物を見せてあげるから、ね」
「なんです」
「立ってもいてもたまらないと云うものだよ、どう」
「へえ」
お高は引抽の中の
衣服を手早く
胡蓙の上へ出して、傍の渋紙包を解き、その中の
畳んで二つにしてあるのを延ばし延ばし
引抽の中へ入れた。平吉は主婦の
詞を待っていた。
「ぼんやりしてないで、引抽を元へやっておくれよ、佳い物を見せてやるじゃないの」
「へい」
平吉は急いで引抽を持って往ってさした。お高は出した
衣服を二つに折り折り渋紙の中へ入れた。
「それじゃ、ついでに
蒲団を出しておくれ、洗濯しなくちゃならないからね」
「へい」
返事をしたものの蒲団がどこにあるか判らないので、平吉は
四辺をきょろきょろと見た。お高は渋紙包の緒を結び終ったところであった。
「あれさ、あの
長櫃の中だよ」
お高の指は左側の壁に沿うて並べた長櫃の一つへ往っていた。平吉はこちらから三つ目の長櫃の前へ往った。
「その中に入ってるのを、皆出しておくれよ」
「へい」
平吉は
長櫃の
蓋を
啓けた。中には松に鶴の模様のある
懸蒲団が三枚入っていた。裏は
萌黄であった。
「それも
黴臭いだろう」
なるほど黴の
匂がむうとした。
「どう」
「臭いのです」
「佳い匂じゃないの、私はこたえられないよ」
「
好奇だなあ」
「好奇と云や、好奇かも判らないが、私はこたえられないよ」ちょっと切って、「一枚敷いてごらんよ」
「そこへですか」
「そうよ」
平吉は主婦のすることが判らなかった。平吉は傍の長櫃の上に重ねた蒲団の一枚を
執った。お高は渋紙包を持って
起ち、それを傍の
具足櫃の上へおいた。平吉はそこで蒲団の萌黄の裏を上にして
胡蓙の上へ敷いた。お高はその上へすぐ坐った。
「佳い
匂じゃないの」
「へえ」
「
汝もお坐りよ」
「へい」
平吉はその横手に
蹲んだ。
「どう、こたえられない匂じゃないの、私ゃ、この匂を嗅ぐと気が
壮くなるよ」
「
好奇だ」
「好奇かも判らんが、私は好きさ、佳い匂じゃないの、この匂を嗅いでると、人が恋しくなるよ」
「へえ」
「そうだった、
汝に見せてやるものがあったね、それでは見せてあげるから、わたしを
伴れてっておくれよ」
伴れて往けとは道の悪い遠い処であろうか。
「どこです」
「どこでもいいから、私を
負っておくれよ」
平吉はさすがに眼を見はった。
「そんな、へんな顔をするものじゃないよ」
「へい」
「負っておくれよ」
「へい」
平吉は主婦の前へ往った。
「あっち向くのだよ、こっち向いてちゃ、負われないじゃないの」
「へい」
平吉は主婦に背を向けて中腰になった。お高の体がそれに
重んもりと負ぶさった。
「重い」
「なあに」
平吉は主婦を負って体を起した。
「あっちよ」
お高の手が眼の前にあった。平吉は主婦の手の指している方へ往かなくてはならなかった。そこは
長櫃の並んだ処で、長櫃の前には
葛籠が並んでいた。平吉はその間を入って往った。
「ここよ」
「へい」
平吉が停まるとお高はおりた。そこに葛籠の上に寺小屋用の文庫があった。お高はその中に手をやって二三冊の
草双紙のようなものを
執った。
「それじゃ、帰るのだよ」
「へい」
平吉はまた背を向けた。お高はまた重んもりと負ぶさった。平吉は引返した。そして、
蒲団の上に帰ったところで、お高の手にした書物が目の前へ来た。それは極彩色の
錦絵であった。
「これ、見えるの」
庭前に
這っていた尻尾の切れていた蛇は、
楓の木へ登りかけた。平吉を呼びに往っていた定七は
縁側へ引返して来て、広栄とともに蛇に注意していた。
「もう、お
疲労になったと見える」
広栄は
頭を
揮った。
「いや、何かおぼしめしがある、そんなもったいないこと」
「へい、これは、どうも」
「そうじゃ」
蛇は上へ上へと登って、やがて
微紅い
嫩棄に覆われた梢に姿を隠して往った。
「もったいない」
「ほんとに、もったいないことでございます」
広栄の頭を
掠めたものがあった。広栄は定七に眼をやった。
「
汝は、も一つお
神酒とお
洗米を持って来てくれないか、お倉の方へな」
「よろしゅうございます、すぐ持ってまいります」
「それじゃ、俺は
前へ往ってるから」
「それじゃすぐ持ってまいります」
定七はすぐ腰をあげて出て往った。広栄も傍の松葉杖を引き寄せて体を起し、故障のある左の脚を引きずるようにして、玄関と
庖厨の入口を兼ねた古風な土間へおり、そこにあった
藤倉草履を
穿いて、ばったの飛ぶようにぴょいぴょいと裏口から出て往った。
出口に花をつけた
桐の古木があった。羽の黒い大きな
揚羽の
蝶がひらひらと広栄の眼の前を流れて往った。
「蝶か」
広栄はやがて土蔵の前へ往った。広栄の往った土蔵は真中の皆古い中でも一ばん古い土蔵であった。右の土蔵はお高と平吉が入っている土蔵。広栄は松葉杖に
縋って休みながら右側の土蔵の口へ眼をやった。
「お待たせしました」
定七は一方の手に
神酒徳利と
洗米の盆を乗っけた
三宝を持ち、一方の手に土蔵の鍵を持っていた。
「三宝を持とう」
戸を
啓ける間は持たなくてはならなかった。定七は三宝を広栄にわたして戸を啓けにかかった。戸はすぐ啓いた。定七は広栄の傍へ来て三宝を
執った。
「それでは」
「そうか」広栄は松葉杖を執りなおしてぴょいぴょいと土蔵の中に入った。広栄が入ると定七も入って金網戸を締めた。
「
鼠はいいかな」
「よろしゅうございます」
「彼奴は油断もすきもできないから」
「そうでございますよ」
微暗い土蔵の中には
中央に古い
長櫃を置いて、その
周囲に
注連縄を張り、前に白木の台を
据えて、それには
榊をたて、その一方には
三宝を載っけてあった。
「それでは、三宝をとりかえてくれ」
「へい」
定七は
何時の間にか鍵を腰にさして三宝ばかり持っていた。定七は白木の台の前へ往って三宝を
除り、持っている三宝をそれに置きかえた。
「いいか」
いいかとは
準備が出来たかと云うのであった。
「よろしゅうございます」
「それでは」
広栄は
一脚ぴょいと進んで、そのまま
蹲んで白木の台に向って拝礼をはじめた。そして、ちょっとの間合掌していてから起きた。起きて長櫃の方へ眼をやった。
「お塔は」
「そうでございますよ」
「拝見しよう」
広栄は
斜にぴょいぴょいと往って長櫃のうえへ眼をやった。そこには小さな
玩具のような三寸位の富士形をした
微白い物があった。それは
蟻の塔で白蟻の糞であったが、広栄は神聖視しているのであった。
街路一つ距てて母屋と向きあった
肆は、四
間室口で
硝子戸が入り、酒味噌酢
類を商うかたわらで、
海苔の問屋もやっていた。それはもう三時近かった。肆には二三人の客があった。
そのとき広巳はのそりと入って来た。その広巳の眉の濃い浅黒い顔は土色に沈んでいた。広巳は肆の者には眼もやらないで、肆の左側の通りぬけになった
土室を通って往った。そこに腰高障子が入っていて、その敷居を
跨ぐと
庖厨であった。そこは行詰に釜のかかった
竃があり
流槽があって、右側に板縁つきの
室があったが、その縁側は肆の者が朝夕腰をかけて食事をする処であった。
「お帰んなさい」
乾からびたような声ではあるが、懐しみのある声であった。
胡麻塩の髪の毛を小さな
髷に結った老婆が、室の中で
半纏のような物を縫っていた。それは定七の女房のお町であった。定七夫婦はそこに
起臥していた。広巳はぼんやりお町を見た。
「うん」
「どこへ往ってらしたのです」
「うん」
「ほんとにどこにいらしたのです、皆さんが心配してらっしゃるのよ、ほんとにどこにいらしたのです」
広巳は上唇をちょっと
顫わすようにした。それは広巳の笑う時の表情であるが笑いにはならなかった。
「まあ、いいさ」
お町の眼はその時広巳の右の
袖口へ往った。
「まあ、袖口が
綻びているじゃありませんか」
袖口の綻びているのは
争闘か、それとも長い
煙管で巻きつけられたがための綻びか。
「品川ですね」
広巳はまた上唇を顫わしたばかりで何も云わなかった。
「そうでしょう、きっと」
広巳はお町のほうへくるりと背を向けて縁側へ腰をかけた。
「まあ、いい」
「御飯はどうなさいました」
「
喫えるのか」
「おすみになっておりませんか、すぐ出来ますよ」
「それじゃ喫おう」
「もすこしお待ちになると温い御飯も、お
菜もできますが」
「お菜はどうでもいい」
「それでは、すぐめしあがりますか」
「うん」
「それでは」
お町はもう
起っていた。お町は一方の戸棚を
啓けて
準備にかかった。広巳はそのままぼんやりとしていた。
「上へおあがりになっては」
膳の
準備はもう出来てお町は長火鉢の鉄瓶を見ていた。
「いい、ここで」
「それでは」お町は膳を持って広巳の右側へ往った。「
薩摩あげと、
佃煮しかありませんが」
「いい」
広巳は体を
斜にした。お町は後から大きな
飯櫃をやっとこさと
拘えて来た。
「おつけしましょうか」
「いい」
広巳はむぞうさに飯櫃の
蓋を
除って飯をつけて
喫いだした。品川の妓楼へ一泊した広巳は、家へかえるのが
厭だから、朝帰りの客を待っている
小料亭へあがって、旨くもない酒を
喫んで気もちをまぎらし、飯も
喫わないで帰っているので、喫いだしてみるとひどく旨かった。広巳は夢中になって喫った。
「若旦那」
お町は下へおりて
流槽で何か洗っていた。広巳は茶碗ごしに眼をやった。
「
昨夜は、品川ですか」
広巳はまた上唇を
顫わしたが、それはいくらか笑いになった。
「なに」
「品川でしょう、それとも大森」
「なに」
「ほんとに若旦那は、この
比へんじゃありませんか、若旦那は、どんなりっぱな家からでも、ものによっては、華族のお嬢さんでも、奥さんにもらえるじゃありませんか、つまらない遊びはよして奥さんをもらったらどうです、旦那さまも御心配になっておりますよ」
「ふん」
広巳はそれに深く触れたくなかった。広巳はそれをはぐらかすために勢よく飯を
掻きこんだ。お町は前へ来て立っていた。
「ほんとですよ、
山県さんとか伊藤さんとか、豪い方の奥さんは、
歌妓だと云いますから、歌妓でもお
妓でも、それはかまわないようなものの、お宅は物がたい家ですから、
堅気のうちからお嫁さんをもらわなくちゃなりませんが、どうかしてるのですか、奥さんも心配してらっしゃいますよ」
「へッ」
広巳の口から吐きだすような
詞が出た。お町は広巳を見なおした。
「ほんとですよ、奥さまが、心配してらっしゃいますよ、今朝も奥さまがいらしたのですよ」
「
俺、
己の女房は、己でもらうんだ、
他の世話にならないや」
お町は眼を
円くした。
「そ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんよ、奥さまや旦那さまが、
貴下を我が子のように、可愛がってるじゃありませんか」
「あまり可愛がられたくないや、
俺、嫌いだ」
その時店の方で男の子の軍歌を唄う声がした。広巳はそれに気をとられたようにした。
「ああかい、ゆうひに、てらされて、とうもは、のずえの、いしの、した、
||まっさき、かあけて、とっしんし
||」
「ひろぼうか」
男の子をからかっているのか
壮い男の声が軍歌に
交りあった。広巳は気が
注いて残りの飯を
掻きこみ、落すように茶碗を置いて、お町の持って来てある番茶の土瓶を
執って
注いだ。
「やあい、やあい、
痴やあい」
七つか八つに見える子が駈けて来た。それは広栄の一人子の広義で、広巳の可愛がっている
甥であった。広義は広巳の方へ
隼のように駈け寄った。一方の手に茶碗を持っている広巳は、その茶碗の茶を
甥にかけまいとして、一方の手で走りかかって来た広義を支えた。
「あぶない、茶がかかる」
「かかったって、いいや」
広巳はすばやく茶碗を置いた。
「茶が眼にでもかかったら、眼が
潰れるぞ」
「潰れたっていいや、東郷大将だ」
「眼が潰れたら、軍人になれんぞ、軍人になれなきゃ、東郷大将にも、
乃木大将にもなれんぞ」
「なれるのだい、なれるのだい、眼が潰れたって、なれるのだい」
広義は広巳の首ったまに飛びつこうとしていたが、広巳がかわして飛びつかせなかった。
「眼が潰れたら、鉄砲が打てないや、鉄砲が打てない軍人があるものかい」お町に気がついて、「なあ、
姨さん」
お町は笑っていた。
「眼が潰れたら
按摩さんになるのだよ、ねえ坊ちゃん」
広義は広巳の首ったまに手がやれないのでじれていた。
「
痴、お町の痴やあい」
「だって、そうじゃありませんか、眼が潰れて、鉄砲が打てなけりゃ、按摩さんになるより他に、しようがないじゃありませんか」
「なに云ってやがるのだ、お町の
痴の、婆あやあい」
その時広巳の支えていた手に
隙が出来た。広義はいきなり
膝の上へ飛びあがって、それから一方の足を背のほうから右の肩へ廻すなり、肩の上に馬乗になって
額に両手をかけた。
「やあい、やあい、肩車になったのだ」
広巳は広義の足に両手をかけた。
「
按摩さんの大将は、馬に乗れないから、肩車に乗ったのか」
「なんでもいいやい」お町のほうを見て、「お町の痴やあい」
お町は広巳に云いたいことがたくさんあった。
「坊ちゃん、叔父さんは、お疲れになってるのですよ」
「疲れるものかい、叔父さんは、
昨夜、品川のお
妓楼へ往ったのだい」
お町は口がふさがった。広巳は笑いだした。
「そうか、そうか、叔父さん、品川へ往ったのか」
「往ってたのだあい、品川のお妓楼へ往ってたのだあい」
「
何人がそんなことを云ったのだ」
「お
母さんが云ってたのだあい」
「なに、お母さんが」
「云ったのだあい、云ったのだあい」
同時に広巳は腰をあげた。広義は落されまいとして広巳の額にやっていた手に力を入れた。
「この
小厮をどこかへおっぽりだして来る」
広巳は
庖厨口からゆるゆると出て往った。出口には車井戸があって
婢の一人が物を洗っていた。車井戸の向うには一軒の
離屋があった。それが広巳の
起臥している
室であった。広巳は離屋の前を通って広場へ出た。そこに梅の木があり
槇の木などがあって、その枝には
物干竿をわたして洗濯物をかけてあった。
「おい、ひろ坊」
「うん」
「この木の上へほりあげてやろうか」
そこには枝の延びた槇の木があった。
「
厭だい」
「それじゃ、天へほりあげてやろうか」
「厭だい」
「そんな弱いことで、どうする、男は
何時でも、腹を切らなくちゃならんが、
汝は腹が切れるか」
「厭だい」
「厭だ、
怕いのか」
「怕くなくっても、厭だい」
「怕くないのに厭だと云う奴があるか、弱虫、しっかりしろ」
「しっかりしてるのだい」
「しっかりするものか、しっかりしてないよ、ほんとにしっかりしないと、たいへんだぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかもわからんぞ、
汝になにを云ってもわかるまいが、ほんとにしっかりせんと、
鮫洲の
大尽の山田も、屋根へぺんぺん草が生えるぞ、しっかりしろよ、しっかり」
「しっかりするのだい」
「そうかしっかりするか、しっかりせんといかんぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかも判らんぞ、しっかりしろよ、汝はまだ何も判らんが、困った奴を背負いこんだものだ、畜生、弟にまでふざける奴だ、兄貴が可哀そうだ」
「あにきって
何人だい」
「何人でもいいから、しっかりしろよ、汝がしっかりしてくれんと、ぺんぺん草だぞ」
「ぺんぺん草って、なんだい」
「ぺんぺん草は、草だよ、家が
潰れて、貧乏になると、ぺんぺん草が生えるのだよ」
「
自家は、
富豪だい」
「さあ、その富豪が、しっかりしないと潰れるのだ、家が潰れないようにするには、皆が人の道を守って、子は親に孝行するし、兄弟は仲好くするし、女房は女房で、
所天を大事にしなくちゃならん、その女房が所天を
痴にして、
品行の悪いことをしよると、家が潰れるのだ」
「女房ってなんだい」
「お
媽さんのことだよ」
「おかみさん、それじゃ
自家のお
母さんも、女房かい」
「そうだよ」
「それじゃ、
自家のお母さんが、自家を
潰すのかい」
「お母さんが潰しはしないさ、これは物の
譬だよ、しかし、お母さんだって、悪いことをすりゃあ、自家が潰れるのだよ」
「そう」
「そうさ、だから、お母さんもお父さんを大切にして、
痴にしちゃならんよ」
「うん」
「判ったか」
「判ったのだい」
「よく覚えとれ」
「うん」
媚びるような
艶かしい声がした。
「また叔父さんに、そんなことをして、叔父さんが重いじゃありませんか」
広巳は立ち
縮んだようになった。
「
厭ねえ、この子は」
お高が傍へ来て立った。
「いいのだい、叔父さんはいいのだい」
「重いのですよ、叔父さんは、苦しいのですよ」
「いいのだい、いいのだい、叔父さんはいいのだい」
「いいことはありませんよ、苦しいのです、それに叔父さんは、お疲れよ」
莞として
反している広巳の眼を追っかけて、
「ねえ、叔父さん」
広巳はよろよろと体をよろけさした。
「あ」
広義は驚いて広巳の
額に
掻きついた。広巳は
甥を
躍らすことによって気もちの悪い
対手のまつわりをすこしでも避けようとしていた。広義は騒ぎだした。
「
厭だい、厭だい、びっくりさして、厭だい」
「そんなことで、びっくりする奴があるかい」
「だって、だって、黙っててやるじゃないか、厭だい、厭だい、どうしても降りないやい」
お高がまたまつわって来た。
「叔父さん、そんな小供、うっちゃりなさいよ」
「うっちゃられるものかい、厭だい、厭だい」
「だめよ、ほんとにだめよ、叔父さんはお疲れよ、だから、今晩、お
母さんが精のつくものを、御馳走してあげるのだよ」ちょっと間をおいて、「叔父さん、今晩は家にいらっしゃいよ、叔父さんは、私が嫌いだから、
何時も逃げるのだが、今晩は逃がさないわ、叔父さん、いいでしょう、今晩、御馳走しますからね」
広巳はまたよろよろと体をさした。広義はまた驚いた。
「
痴、叔父さんの痴、痴」
広義は広巳の顔を平手でばたばたと叩いた。それには広巳が困った。
「痛い、痛い、降参、降参」
「
厭だい、厭だい、痴」
広義は
嬌ったれて泣き声をたてた。広巳は広義の足にやっていた手をはずしてその両手を捕えた。
「降参、降参、降参だよ」
「厭だい、厭だい」
広義は手を動かすことができなくなった。
「どうだい、もう動けないだろう」
「動けるのだ、動けるのだ」
広義は体をもがいた。
「ほんとに、叔父さんがくるしいじゃないの、おりなさいよ、それに今日は、まだ復習をしないじゃありませんか」
「厭だい、厭だい」
「この坊主、どこかへおっぽり出せ」
広巳は何かを払い落すように叫ぶなり、ぐるりと体の
方向をかえて井戸の方へ走りだした。
「もし、もし」
おっとりした女の児の声がしたので広巳は足をとめて後を見た。十四五ぐらいに見える二人の少女が右側の生垣のある家から出て来たところであった。少女だちは同じように紫の
矢絣の
袖の長い
衣服を
被ていた。広巳は知らない女の児のことであるから、他の人を呼んでいるのだろうと思ってそのまま往こうとした。
「どうかお入りくださいまし」
少女だちはしとやかに
頭をさげた。それでも広巳は
己へ云っているとはおもわれないので、そこをはなれようとした。
「あの、もし、
貴郎は、鮫洲の」
鮫洲と云えば確に鮫洲である。広巳は足をとめて少女を見なおした。
「貴郎は、山田さんでいらっしゃいましょう」
鮫洲の山田と云えば
己のことである。
「鮫洲の山田ですが」
広巳は眼を見はった。少女の一人は
莞とした。
「奥さまがお待ちかねでございます」
逢う約束をしている者はなかった。広巳は人違いだろうと思った。
「それは、人がちがってましょう。おいらは、いや、わたしは、鮫洲の山田広巳ですが」
「人違いではございません、
貴郎でございます」
違わないと云っても
己には覚えがない。
「だが、わたしは、そんな方は知らないですが」
「お入りくださいましたら、すぐお判りになります」
ついしたら不倫な
嫂ではないか。だが、まさか。
「
何人です」
「貴郎の御迷惑になるような方ではございません、お
姓名を申しあげても、貴郎は御存じないと思いますから」
こっちは名も知らない人か、それでは嫂でもなさそうであるが、それなら
何人か。己には他に交渉を持っている女はない。
「どうもおかしいなあ」
広巳は考えた。
「お入りくださいましたら、すぐお判りになります、どうぞ」
嫂でなければたいしたこともない。どこへ往こうと云う
当もなしに歩いているところである。とにかく入ってみようと思いだした。広巳は
前方が知っていて己の知らないと云う女に好奇心を動かした。
「ほんとに、わたしですか、人違いじゃないですか」
「けっして人違いではございません、どうかお入りくださいまし」
「そうですか、じゃ」
広巳は少女の方へ往った。垣根には
茨のような白い小さな花を点々とつけていた。
「こっちですか」
こっちは判っているが何かしらきまりがわるいので聞いてみた。
「はい」
少女は紫の
矢絣の
袂をひるがえして
前に立って往った。門の中には
禿びて枝の踊っているような松の老木があり、
椿の木があり、
嫩葉の間から実の
覗いている梅の木があって門の中を覆うていた。少女はその樹木の枝葉の間を
潜って広巳を導いた。そして、ちょっと往ったところで樹木の枝葉がなくなって、お花畑のような赤白紫黄、色とりどりの葉を持ち花をつけた草庭になって、その前に
枌葺の庵室のような建物があった。
四方には
麗な
陽があった。水の澄みきった小さな流れがあって、それがうねうねと草の間をうねっていたが、それにはかちわたりの石を置いてあった。少女はその石の上を
福草履のような草履で踏んで往った。広巳はうっとりとなって少女に
跟いて往った。そこには
丁子の花のような
匂がそこはかとしていた。少女の声が耳元でした。
「さあ、どうぞ」
建物の前には黒い虎の
蹲まっているような
脱沓石があった。広巳は
室の中を見た。室の中には二十七八に見える
面長の色のくっきり白い女が、侵されぬ気品を見せて坐っていた。
(おや)
広巳は胸のときめきをおぼえた。海晏寺の前の
榎の傍で擦れちがい、八幡祠の
諍闘の際に見た女にそっくりであった。女は広巳と眼をあわすなり
莞とした。
「さあ、どうぞ」
「は」
はと云ったものの女の気品に押されて立ち
縮んでしまった。
「他には
何人もいないのよ、ささ、どうぞ」
「は」
「ほんとに何人もいないから、遠慮はいりません」少女の方を見て、「お客さんは、はにかんでいらっしゃるから、
汝だちがあげておやりよ」
女は莞とした。それは
己の
姨さんのような温みのある
詞であった。少女の微笑が聞えた。
「さあ、どうぞ」
「おあがりなさいましよ」
少女の手がそれぞれ双方の手に来た。広巳は気もちが浮きたった。
「あがります」
広巳は少女の手を
揮りはらって上へあがった。広巳は笑っていた。広巳に
跟いてあがった少女の一人は、女に近く
座蒲団を敷いた。それは
菰の葉のような
蒼白い蒲団であった。
「さあ、お坐りなさい」
「は」
広巳は坐ったものの
眩しいので顔を伏せた。少女の一人がもう茶を持って来た。
「どうかお茶を」
広巳はちょっと頭をさげた。女の軽く少女に云いつける声がした。
「お茶じゃ、話ができないから、あれを持っていらっしゃい」
「は」
少女は小鳥のように身を
飜えして往った。広巳はやっぱり眩しかった。
「こんな処で何もありませんが、何か持って来さしますから」
何か持って来さすとは酒であろうか。ここでは
謹んだうえにも謹まなくてはならない。
「どうか、それは」
「なに、こんな処ですから、何もありませんよ」
広巳は押えつけられているようで、それ以上は何も云えなかった。広巳は困っていた。そこへ少女だちが引返して来た。少女だちは広巳の前へ何かことことと置いた。
「それでは、めしあがれ、ほんとに何もありませんよ」
そこで飲食するのは何だか物の霊を汚すように思われるのであった。
「どうか、それは」
「いいでしょう、めしあがれ、
貴郎は、私をあまり御存じないでしょうが、私はよく存じておりますわ」
「は」
「まあ、そう堅っくるしくしないで、めしあがれ、それじゃ話がしにくいじゃありませんか」
「は」
「男子の癖に、遠慮なんかするものじゃないことよ、貴郎は、日露戦役の勇士じゃありませんか、それに、この間はね」
女の
微に笑う声がした。この間とは八幡祠のことであろう。それではやっぱり
彼の女であり、海晏寺の前の
榎の傍の女であったのか。広巳はそっと女の方を見た。女のあでやかな顔があった。広巳は恥かしい中にもひどく嬉しかった。
「私が判りまして」
「ああ」
「とにかく、一つめしあがれ、話がしにくいじゃありませんか」
広巳は一ぱいもらう気になった。広巳は顔をあげた。細長い
脚のついた二つ三つの銀盆に菓子とも何とも判らない
肴を盛ってある傍に、
神酒徳利のような銚子を置いて、それに
瓦盃を添えてあった。
「お酌しましょう」
少女の一人がもう銚子を持っていた。広巳は気もちがほぐれた。広巳は瓦盃を持って少女から酌をしてもらった。
「二三杯つづけてめしあがれ」
女は広巳の気もちを
硬ばらさないように勤めているように見えた。広巳は一杯の酒を
空けた。すると少女がもう後を
充たした。
「続けてめしあがれ、そうしないと、堅っくるしくて面白い話もできないじゃないの、私いつからか、
貴郎にゆっくりお眼にかかりたいと思ってたのよ、今日はやっと見つかったものだから」
やっと見つかったとは、庭でも歩いていて見つけたものであろうか。広巳の手はしぜんと
瓦盃へ往った。女は
詞を続けた。
「でも、貴郎は、私が判らないでしょう」
「そうです」
「今に判りますよ、判らなくたって、これからお
知己になりゃ、いいでしょう」
「あ」
広巳は
曖昧な返事をしてまた瓦盃を持った。瓦盃は後から後からと充たされた。
「どう、これから、お
朋友になってくれます」
それは
己から願うところであり、どうしてもそうしてもらわなくてはならないのであったが、はっきりとそれを口に出すことができなかった。
「あ」
「いけないの」
広巳はしかたなしに微笑して女を見た。女は気品のある顔が心もち
火照っていた。
「どう」
「へ」
「
厭なの」
「そ、そんな」
「それじゃ、なってくれるの」
「あ」
「どう、はっきりおっしゃいよ、まだ御酒がたりないじゃないの」
酒と云われてみると佳い気もちになっていた。
「もう、酒はたいへん」
「でも、はっきり返事ができないじゃないの」
広巳はそれを微笑で応えた。
「どう」
「もう、たいへん酔いました」
「酔ってるなら云えるじゃないの、それともこんなお婆さんとお
朋友になるのは、厭」
「そ、そんな」
広巳はあわてた。
「それじゃ、なってくれるの」
「なります」
「なってくれるの、うれしいわ、ねえ、それじゃわたしに
盃をくださいよ、かための盃をしようじゃないの」
「は」
広巳は
瓦盃を手にした。瓦盃には酒がすこしあった。広巳はそれを飲んで
盃洗ですすごうとしたが、すすぐものがないので
躊躇した。
「それをいただきますよ、それがいいのよ」
「でも、これは」
「いいじゃないの、
貴郎のめしあがったものじゃないの」
女の手が延びて来たので広巳はしかたなしに瓦盃をだした。
「それじゃ、貴郎がお酌をしてくださいよ」
「は」
広巳はきまりがわるいけれども、そうしろと云われてみればしないわけにはゆかない。広巳は銚子を持った。
「ちょっと」
女が心をおくので銚子の手をひかえた。
「
児がいちゃ、じゃまっけだから、あっちへやりましょうよ」
それは二人でいるにこしたことはなかった。女は少女だちにつらつらと眼をやった。
「
汝だちは、あっちへいらっしゃい、こんな処を見せたくないからね」
少女だちは黙っておじぎをして
起った。起ったかと思うと鳥の羽ばたきをするような
恰好をした。広巳は眼を見はった。少女だちの姿はみるみる
鳶くらいの鳥になって、
室の中から外へ出てしまった。それは広巳が八幡祠頭で見た
鵜そっくりの鳥であった。広巳はぞっとして女のほうを見た。女は小さくなって
恰度内裏雛のような姿を見せていた。
「わっ」
広巳は一声叫んで逃げようとした。
「おい、おい、おい」
広巳の体は
忽ち
何人かに押えつけられた。
「いけねえ」
広巳は
揮り放して走ろうとした。相手は手を放さなかった。
「おい、山田君、どうした、しっかりしないのか、夢を見てるのか」
夢と云う声がはっきり頭に響いた。広巳はびっくりして眼を開けた。広巳は
道傍に積んだ
沙利の上に寝ている
己を見いだした。
「どうした、山田君、どうしたのだ、こんな処に寝て」
そこには
微紅い月があって一人の
壮い男が己の肩に手をかけていた。広巳は
対手の男を見た。
「
俺だよ」
それは秋山と云う友人であった。
「けんちゃんか」
「
暢気じゃないか、こんな処で寝るなんて」
沙利置場に寝ていることは判ったが、場所が判らなかった。
「ここはどこだ」
「判らないのか」
「さあ」
「困った男だな、ここは海晏寺の前の
榎の傍じゃないか」
「なに」
広巳は眼をやった。なるほど枝の茂った榎の老木が月の下に見えていた。
「君、そんな処に寝ていちゃ毒だよ」
「ああ」
「
何時比から寝ていたのだ」
「さあ、あちこち飲んでたから」
「判らないのか」
「ああ」
「暢気だなあ」
「ああ」
「もう、十二時まわってるよ、早く往って寝たらどうだ」
広巳は頭がはっきりしたので
起きた。
「おい、けんちゃん、つきあわないか」
「どこへ往くのだ」
「品川さ」
「じょうだんじゃない、これから往ったら、夜が明けるじゃないか、早く往って寝るがいい」
「あんな処へ帰るものか、
厭だい、往こう、なに、おおっぴけは、二時じゃないか、往こう」
「今晩はだめだよ、今度にしよう」何か考えて、「どうだ、
俺の家へ往かないか、この
比、親爺は、
田舎へ往って留守なのだよ」
「そうか」
「往こう、ビールでも飲もうじゃないか」
「そうだな」
洋燈の燈は沈んでいた。そこは賢次の家の二階であった。賢次の家は
蒲鉾屋であるからどことなしに魚の
匂が漂うていた。広巳と賢次はそこで話していた。二人の前にはビールの
壜があった。
「そんなことはないだろう、君んとこは、金はあるし、
兄さんはあんないい人だし、へんじゃないか」
「そりゃ、兄貴はお人好しで、
俺を
児のように可愛がってくれるが、他がいけないのだ」
「他と云ったところで、姉さんばかりじゃないか、姉さんといけないのか、君を可愛がるじゃないか」
「いかん、あれはいかん」
「どうした」
広巳はさすがに口に出せなかった。
「どうと云うわけもないが」云い方を考えて、「なんと云うのか、家が収まらん、兄貴が死にでもすると、家がめちゃめちゃになるのだ」
「まさか、そんなことはないだろう、
華美ずきで、あちこちへ往くようだが、てきぱきして、家のことでもなんでも、兄さんにかわってやってるじゃないか」
「それがいけないのだ、出しゃばって、華美好きな女なんて、ろくなことはしないのだ」
「無駄づかいでもするのか」
「無駄づかい、無駄づかいも、
衣裳道楽とか、
演劇道楽とか、そんな道楽なら、たいしたこともないが、いけないのだ」
「それじゃ、
素行でもわるいのか、
演劇なんかへ往ってると、俳優と関係があるとかなんとか、人はへんなことを云いたがるものだよ、何かそんな噂でもあるのか」
「そりゃ聞かないが、あんな女だから、そんなことを云われてもしかたがないよ、困った奴よ、児は小さいし、もし、兄貴でも死んだら、どうなるか判らないからね」
「
兄さんが死んでも君がありゃ、大丈夫じゃないか、君が広坊の後見をして、しっかりやるなら、なんでもないじゃないか、それとも姉さんが、君を邪魔者にして、兄さんにたきつけるのか」
「そうでもないが、姉貴はじめ、家の
雰囲気が
厭なんだ」
「そうか」賢次はふと考えて、「君、いっそお
媽さんをもらって、別家したらどうだ、気もちがかわって、いいじゃないか」
「
俺は、今、
細君をもらう気がしないのだ」
「何故だ」
「何故と云うこともないが、もらう気がしない」
その時
階下から
嬰児の泣き声が聞えて来た。それは賢次の
児であった。賢次はとうに妻帯して二人の児があった。
「児が出来て、ぴいぴい泣かれちゃ困るが、君は、お媽さんをもらうといいと思うね、そうすりゃあ気もちがかわって、いいよ、今晩だって、
沙利の上なんかに寝てて、体をこわすよ」思いだして、「夢を見てたのか、ひどくあわててたじゃないか」
広巳の唇に
微笑いが浮んだ。
「うん」
「どんな夢だ」
広巳はビールを一口飲んだ。
「へんな夢だよ、俺が歩いてると、二人の女の子が出て来て、奥さんがお待ちかねだと云うから、往ってみると、奥さんらしい女がいて、
響応になってると、女が
盃をくれと云うので、やろうとしているうちに、二人の女の子は
鵜になって飛ぶし、女は
内裏雛のようになったのだよ」
「それで、びっくりしたのか」
「そうだろう」広巳は笑って頭を
掻いて、「へんな夢だよ」
「女の子が鵜になった、鵜になるはへんだね、なにかい、この
比鵜を見たことがあるかい」
「見た、
何時か品川の帰りに、あすこの八幡様へ入ってみると、天水桶さ、あの拝殿の傍にある
鋳鉄の
縁に、鵜がいて、ばさばさやってたのだ、ありゃあすこの池にいるだろうか」
「さあ、それは知らないが、それを見たのか」
「そうだよ」
「
蒲鉾にいろいろの魚を入れるように、夢も見た材料で出来るのだね」
「そうだなあ」
「それじゃ、その奥さんのような女は、どうだ」
広巳はにやりとした。
「見たのだ」
「だろう」賢次もにやりとして、「おかっぽれだな」
「人間と判っとるなら、おかっぽれかも判らないが、それがへんだよ」
「どうしたのだ」
「それがおかしいのだ、まだ寒い時、
俺が今往ってた
榎の傍を通ってると、二十七八の上品な佳い女が通ってたのだ、夜一人で通ってるから、どこかそのあたりの人だろうと思っていると、
鵜を見た日なんだ、くたびれたから、休んでると、へんな奴が二人来て、
俺を
盗人が
午睡してると云うから、
撲りつけて
諍闘になったところへ、その女が来て仲裁してくれたのだ、それで俺は八幡様を出て来たものの、その女の
素性を確めようと思って、引返してみると、女はいないで、諍闘の時にいた社務所の爺さんが、拝殿の横に腰をかけて、
仮睡してたから、聞いてみると、あれは水神様だ、人間じゃないと云うのだ、それだよ、夢に出て来たのは」
「君んとこは、すこしへんだぜ、蛇が出て来たり、
蟻の塔が出来たり、どうかしてるのじゃないか、神様が出て来て諍闘の仲裁なんかするものか」
茶かすつもりであった
詞の
端に何か神秘的なものがつながった。賢次は
洋燈へ眼をやった。
心の切りようでもわるいのか、洋燈は
火屋の一方が黒く
鬼魅わるく
煤けていた。広巳はその時
頷いた。
「そうだよ、俺の家には、魔がさしているのだよ」
「まさか、そうでもないだろうが、あまり迷信はいけないね」
「そうとも」
お杉は三畳の
微暗い
茶室へ出て来て、そこの長火鉢によりかかっている
所天の長吉に声をかけた。それは十時
比であった。
外出の千条になった
糸織を着た老婆の頭には、結いたての
銀杏返がちょこなんと乗っかっていた。
「それじゃ、おまえさん、往って来るよ」
黄ろな顔の狭長い長吉は、眼が見えないので手探りに煙草を詰めているところであった。
「どこへ往くのだ」
長吉の声は
乾からびていた。
「どこだっていいじゃないか、聞いてどうするの」
お杉の声は憎にくしかった。
「どうもしねえが、聞いてみたところさ、だしぬけに往って来ると云うから、どこへ往くか聞いたじゃねえか」
「だから、聞いてどうすると云ってるじゃないの」
「どうもしねえが、聞いたっていいじゃねえか、家の
細君の往く
前ぐらい聞いたっていいじゃねえか」
「家の細君を、一人で出すのが心配になるとでも云うのかい」
「そうじゃねえ」
「それじゃ、毎日遊んで、細君に稼がしては気のどくだから、たまにはかわりに往ってくれるとでも云うのかい」
長吉は黙って掌で
燠の見当をつけて煙草を
点けた。お杉の顔は
嘲りでいっぱいになっていた。お杉は次の
室へ顔をやった。
「お鶴、聞いたかい」
晴れた外気を映した明るい
室には、メリンスの
長襦袢になった娘のお鶴が、
前方向きになって鏡台に向って髪を
掻いていた。母親似の
額の出た
赧ら顔が鏡に映っていた。
「なにをよ」
「なにって、家の旦那さまが、家の
細君の往く
前ぐらい、聞いたっていいじゃないかとおっしゃるのだよ」
「そう、心配になるでしょうよ」
「なに、毎日細君に稼がして、家で無駄飯を
喫ってはすまないから、かわりにでも往ってくれるだろうよ」
「それじゃ、往ってもらったらいいじゃないの、とんとん走って往くでしょうよ」
「往ってもらおうかね、家には、皆りっぱな男が揃ってるから、何かの時にゃたのもしいよ」
「そうねえ、
矜羯羅のように走る男もあれば、千里眼の人もあるし、何かのばあいは、心丈夫だよ」
「稼ぎは出来るしね、わたしも安心だよ」
かちりと
煙管をすてる音がした。
「おい」
長吉の声は一段と小さくなった。お杉は長吉のいることを忘れていた。
「なんだね」
「まあさ」
「まあさがどうしたと云うのだね」
「まあ、ちょっと坐れ」
「坐れ、このせわしいのに、どうしようと云うの」
「まあさ、ちょっとだ」
「ちょっと、どうするの」
「ちょっとでいいから坐ってくれ、話がある」
「なんの話なの」
「なんでもいい、ちょっとでいい」
「また愚痴かい」
「愚痴じゃない」
「
煩いね」
「まあ、そう云うな、話だ」
「出かけなくちゃならないに、困るじゃないの」
「そんなに、てまをとることじゃない」
「てまをとられてたまるものかね」
「まあ、いい、たった一口云えばいい」
お杉はしかたなしに
蹲んだ。
「なんだね、早くお云いよ」
長吉はお杉の声に見当をつけて顔を出した。
「おい、おまえ、
俺のことはかまわないが」ちょっと
詞をきって、「
脚のことは云うなと云ってあるじゃねえかよ」
お杉は
嘲り笑いを浮べた。
「なんだね、なにを云うかと思や」
「いや、いかん、それは云うものじゃねえぞ」
「なにも、べつに云やしないじゃないか」
「いや、いかんぞ、そいつは、いいか」
「だって、なにも云やしないじゃないの」
「云わなけりゃいいが、云うなよ、いいか、頼むぞ」
「判ったよ」
「いいか、それじゃ云うのじゃねえぜ、人の嫌がることを云ったり、したりするものは、ろくなことはない、雷さんの悪口を云ってて、天気もわるくないのに、雷さまが落っこちたと云うからな」
「また、おはこかい、ばかばかしい」外出のことを思いだして、「奥さまがお待ちかねだ、ゆるゆるしちゃいられないよ」
「それじゃ、山田さんか」
「どこでもいいじゃないか」お鶴の方を見て、「それじゃ、お鶴往ってくるからね、ついすると遅くなるかも判らないよ」
お鶴は
起って
衣服を
被かえていた。
「いいよ」
「おまえは、遅い」
「わたしも奥さんのつごうで、どうなるか判らないよ、解き物があると云ってらしたから」
「そうかい、それじゃ往くがいい」
お杉はそのまま一方の
襖を
啓けて姿を消して往った。そして、何か云っていたがすぐ聞えなくなった。長吉は傍におろしてあった土瓶をそっと
執って火鉢にかけた。
「人間は、あまりあこぎを云うものじゃねえや」
長吉は
厭なものを吐きだすように云ってから口をつぐんだ。
短冊のような型のある
緋い
昼夜帯を見せたお鶴が、
小料亭の
婢のような
恰好をして入って来た。
「お
父さん、往って来るよ」
長吉はびっくりしたように顔をあげた。
「
小栗さんか」
「そうよ」
お鶴もお杉の出て往った方から姿を消して往った。そして、十分位するとがたびしと云う音がして、二人の出て往った処から
壮い男が
這って来た。壮い男は右の方の脚は
骭から下がなかった。壮い男はばったの飛ぶようにして長吉の前へ来た。
「音か」
それは長吉の
甥の音蔵であった。音蔵は砲兵
工廠に勤めていて、病菌が入ったので脚を切断したものであった。
「叔父さん」
音蔵の声は
顫えを帯びていた。音蔵は
這ったままであった。
「どう、どうしたのだ」
「お、おじさん、お、おいらは、叔父さんにすまないが、きょう、かぎり、叔父さんとこを出るのだ」
長吉はあわてた。
「ど、どうして、そ、そんな、そんなことを云うのだ、そんなことを」
「おじさん、叔父さんの親切は、おいらは、死んでも忘れないが、叔父さん、おいらはつくづく考えた、叔父さんにはすまないが、おいらは、今日かぎり、出て往くのだ」
「そりゃ、判ってる、判ってる、判ってるがここが
忍耐だ、まあ、気を大きくして、時節を待て、よく判ってる、あの二人は人間じゃない、おまえが居づらいのは判ってる、すまない」
「いや、叔父さん、おいらこそ、叔父さんにすまない、おいらがいるために、叔父さんが板ばさみになっているのだ、叔父さんにすまない、おいらは
諦めた」
「ま、待ってくれ、つらかろうが、もすこし
忍耐してくれ、そのうちには、叔母さんも考えてくる」
「叔父さん、もういい、おいらは、おいらが世話になっているために、眼の不自由な叔父さんが、なお苦しんでいるのだ、おいらは叔父さんにすまない」
「待て、待て、なに、叔母さんも
何時までもあんなじゃない、そのうちには考えて来る、おまえもそのうちには、何かいい目が出る、人間は
忍耐が第一じゃ、忍耐してくれ、それでお鶴も、考えなおしてくれたら、二人で世帯を持って、おいらと叔母さんの面倒を見てくれ」
音蔵は内職の
袋張をして食費を入れていた。
「すまない、叔父さんにはすまないが、おいらはもう
諦めた」
「まて、これ」
長吉は
黄ろに
萎びた手を出した。音蔵もそれと見ると思わず一方の手を出してそれを握った。音蔵の頬には涙が流れていた。こうして不幸な
叔甥が手を
執りあって泣いている時、お杉はお高の
室へ往ってお高に
逢っていた。
「大喜びでございますよ、りっぱな奥さまに呼んでいただくのですもの、喜ばないでどうするものですか、
罰があたりますよ」
お杉は
己まで嬉しいと云うような顔をしていた、お高は微笑した。
「そう、それじゃいいね」
「よろしゅうございますとも、待っていられないから、
前へ出かけて往ってるかも判りませんよ」
「どうだか」
「ほんとでございますよ」
「
前方は大丈夫だろうね」
「大丈夫でございますよ、あすこは裏門から出入ができますからね」
「そう、それじゃ大丈夫だね、
厭な奴に見られちゃ困るからね」
「大丈夫でございますよ」
「それじゃ、出かけようかね」
「お宅の方は、よろしゅうございますか」
「いいとも、今日も、また、あの蛇が出て、大騒ぎをしてるから、いいのだよ」
「そうでございますか」
崖の
離屋では三人の男が顔をあわしていた。三人のうちの一人は四十四五で、素肌へ茶の縦縞の薄い
丹前を
被ていたが、
面長の色の白い顔のどこかに
凄味があった。
「それで、奴さん、何と云ったのだ」
丹前の前には円い
食卓があった。その食卓を中心にして右側にいるのは、三十前後のセルの
袴を
穿いた壮士風の男であった。それはばかに長くした
揉あげの毛が眼だっていた。
「私の方は、これまで我慢をしておったが、
前方の
行為が
怪しからんから、今度と云う今度は、断然処分をすると云って、とっても鼻息が荒いのだ、それで君の方は、これまでさんざ、利息を
執っといて、それも前方に有って払わないならともかく、前方は商売に失敗して困ってるところじゃないか、俺だちは義によって、解決しようとしているのに、それを聞かないでやるようならやってみるがいい、俺だちは
生命を投げだしてやってることだから、承知しない、もし、邪魔になると思や、警察なり、どこなり、云って往けって、たんかをきってやったのだ」
「それで、奴さん、何と云った」
「
何人が何と云っても、今度は承知しない、これは何人に聞かしても、私の方が正当だから、断然処分する、どうかこの事は、ほうっといてくれと云うのだ」
「そうか」
左側には二十五六の頭を角刈にした
壮い男がいた。角刈はその時口を挟んだ。
「また荒療治をやるかな」
揉あげがそれに応じた。
「そうだな、君がまた三四月往って来るか」
「どうせ往かなけりゃ、物になるまい」
「今なら往っても、暖かいからいいな」
「
俺をやっといて、おめえは、
新井宿の奴の家で、
納ろうと云うのかい」
二人は笑いあった。
丹前は
盃を持って飲みながら考えていた。
「待て、待て、俺に考えがある」思いだして、「まあ、飲みな」
「そうだ」
揉あげは銚子を引き寄せて空になっている
己の盃へ酒を
注いだが、酒はぽっちりしかなかった。丹前がそれを見た。
「酒がなけりゃ、呼べ」
揉あげは手をたたいた。そこは
池上本門寺の丘つづきになった
魁春楼と云う割烹店の
離屋で、崖の上になった
母屋から廻廊がつづいて、それが崖に
倚ってしつらえたあちらこちらの離屋に通じていた。そこは梅で知られている家であった。
「こんな処は、
半鐘でも
釣っとくがいいや」
揉あげは
起って
欄干の傍へ往って手を叩いた。上の方で
甲高い女の声が応じた。
「やっと聞えやがった」
揉あげはそう云い云い眼をまえへやった。それは二時
比で、
午近くから
嫩葉曇に曇っている空を背景にして、大井から大森の人家の
簷が
藍鼠の海に溶けこもうとしていた。眼を落すと嫩葉をつけた梅の幹がいちめんに
古怪な姿を見せていた。
「よし、いい」
丹前は気が
注いたように揉あげの
背後姿へ眼をやった。「大丈夫だ、うんと飲みな」
角刈は
対手になった。
「大将、
俺が
一度往ってみようか」
「待て、おめえは、まだいけねえ」
「だって、俺が往って、二つ三つ
撲りとばしたら、話が早くつくじゃねえか」
「待て、待て、俺に考えがある」
「どんな考えだ」
「待て、待て、ゆっくり飲みながら話そう」
そこへ一方の
襖が
啓いて眼の大きな年増の
婢が入って来た。婢はお時と云うのであった。お時は二本の銚子を手にしていた。お時は
丹前に愛想笑いをした。
「お酒でしょう、旦那」
揉あげが横あいから口を出した。
「お時、
半鐘でも
釣っとけ、呼ぶに骨が折れてかなわん」
お時は
揮りかえった。
「そうね、半鐘ね」
「そうだよ、それで酒の時は三つばんだ」
「
肴の時は」
「肴は二つか」
「それじゃ、あの時は」
揉あげは笑った。
「あれは、あの時は五つさ」
お時はあの時から思いだした。
「旦那、八千代さんは、どうするのです、まだ話はすまないのですか」
それは話をするために呼んでいた
歌妓を出してあるらしい。丹前は
頷いた。
「もすこし待たしとけ、だって彼奴、線香代をつけてもらって、かってに遊んでる方がいいだろう」
「そう」
「
肴がない、何か見つくろって持って来い」
「そうね、どんな物がいいでしょう」
「旨いもので、早く出来て、それで金がかからなけりゃ、なおいいや」
「ずいぶん、ねえ」
お時はまた愛想笑いをしいしい出て往った。
揉あげはどっかりと坐った。
「まずくって、遅くって、高くって、酒がわるくって、ここでいいものは、
室の風景だけだよ」
角刈がにやりと笑った。
「おめえでも、風景が判るかい」
「判るさ、
俺はこれでも、漢詩の
平仄を並べたことがあらあ、酔うて
危欄に
倚れば
夜色幽なり、
烟水蒼茫として舟を見ず、どうだい、今でも韻字の本がありゃ、詩ぐらいは作れるぞ」
丹前が口を入れた。
「詩を作るより、田を作れか」
角刈は揉あげに何か云いかえしをしなければ気がすまなかった。
「作る田がないから、東京へ来て
強請をやってるだろう」
「お
互さまだよ」
「お互さまじゃねえや、
俺はもとからの
破戸漢だ、おめえは学生から、おっこちて来たのだ、物が違わあ、いっしょにせられてたまるものかい」
丹前が笑いだした。
「あんまり自慢にならんさ、まあ、それよりおちついて飲みな」
三人は酒になった。三人は品川大井大森方面を縄張にしている
匪徒で、丹前は岡本と云う
三百代言あがり、
揉あげは松山と云って赤新聞の記者あがり、角刈は半ちゃんで通っている
博徒であった。三人はその時、貸借関係で紛糾している家を恐喝しているところであった。
何時の間にか一人の
歌妓が加わっていて一座は四人になっていた。三人は他愛ない話をして笑いあっていた。
「半ちゃん、どうだい、この
比は、佳い目が出るのかい」
揉あげの松山はいい気もちに酔っていた。角刈の半ちゃんは笑っていた。
「佳い目が出る、おい、松山、佳い目が出る、
俺はそんなことは知らねえや、ぜんたいそりゃ何だい」
「知らねえ、佳い目ってことを知らない」右の手で何か
揮るような
恰好をして、「これを知らねえのか」
「知るものかい、俺は
堅気の
商人だ」
「堅気の商人だ、何の商人だ」
「そりゃあ、その」云えないので、「何でもいいや」
「それ、みな、云えないだろう」
「ふざけるない、おい、おめえは、
俺が、
後暗いことでもやってると思ってるのか」
松山はまた何か
揮るような恰好をした。
「これだと思ってるが、やらないのか」
「やるもんか、俺は、堅気の
商人だ、そんなへんなことは知らねえや」
「しかし」また何か揮る
恰好をして、「これは判ってるだろうな、何を揮るか」
「知るものか、きちょうめんの商人だ、
賽ころなんか知るものか」
松山は大声に笑った。
「お、おい、賽ころだ、云うに落ちずして語るに落ちる、賽ころと云うことを知ってるな、それじゃ半ちゃん、佳い目が判るじゃねえか」
「判らねえ、知るものか」半ちゃんはその時便所に往きたかった。半ちゃんはずいと
起った。「これから往って賽ころがどんなものか考えて来る」
半ちゃんは笑い笑い出て往った。岡本の左側へぴったり寄りそうていた
歌妓は無邪気であった。
「あの方、あれ、やるの」
それは
二十位の眼の澄んだ

な女であった。岡本は松山をちらと見てにやりと笑った。
「どうだ、松山、あの
堅蔵が、そんなことをやるのかい」
松山もにやりと笑った。
「さあ、ねえ、彼奴とっても堅い奴だから、
博奕なんか知らないだろう」
「そうだろう、口じゃいいかげんなことを云っても、おもが堅蔵だから」
二人はおかしくてたまらないと云うようにして笑った。二人の話はまた他愛ない話になった。女はあくまでも無邪気であった。
暫くして岡本が気が
注いた。
「半ちゃんは、どうした」
歌妓も気が注いた。
「そう、ねえ、ほんとに長いわ、
便所へ往ったのでしょうか」
松山はまぜかえした。
「
便所の中で、
賽ころを
揮ってるじゃないか」
「まあいいや、廊下とんびでもやってるだろう」
岡本は
盃を持った。そこへ
襖が
啓いて角刈の頭が見えて来た。松山は待っていた。
「おい、半ちゃん、八千代が、
便所へ往って賽ころを揮ってるのだと云ってたぜ」
「うん」
半ちゃんは真顔になっていた。半ちゃんは立ったままであった。
「大将、ちょっと、また話が出来たのだよ」
「どんな話だ」
「ちょっとね」
「
秘密の話か」
「そうなのだ」
「そうか」
「また八千代に気のどくだが」
「おってはいけねえのか」
「いけねえ」
「そうか」岡本は
頷いて八千代に顔をやり、「それじゃ、また、あっちで遊んでてくれ、何か
喫いたいものがあるなら、姐さんにそう云うがいい」
「それじゃ、あっちへ往ってもいいのですか」
「いいとも」
女はすぐ出て往った。半ちゃんは女の坐っていた処へ往って坐った。
「
豪いことがある」
半ちゃんは緊張していた。
「なんだ」
「なんだって、豪いものを見つけた」
「どんなことだ」
「どんなって、こいつあ、
金の
蔓だよ」
「そうか、云ってみろ」
「
鮫洲の山田って云う家を知ってる」
「山田、どうした家だ」
「それ、地主で、
家作持で、商売もしてる、
鮫洲の
大尽と云や、あの
界隈じゃ、知らない者はねえぜ」
「ああ、鮫洲の大尽か、知ってる、
主翁は脚がわるいと云うじゃないか」
「そうだよ、
俺は知ってるのだ」
「それが、どうした」
「どうの、こうのって、大将、彼奴の
細君さんが」声を落して、「男を
伴れて来てるのだぜ」
岡本の眼に光があった。岡本の鼻は半ちゃんの鼻にくっつくようになった。
「男は、どんな奴だ」
「
俳優だな、したっぱの、品川あたりで見かけたことがあるのだ」
「
壮いか」
「二十二三と云うところだ」
「二人で
宜しくやってるのか」
「婆さんが
跟いて来てるのだ」
「どんな婆さんだ」
「どんなって、
俺が知ってる婆さんだ、お杉って云うのだ、
厭なばばあだ」
「それじゃ、三人で飲んでるのか」
「婆さんは、次の
室で、一人で飲んでるのだ、あのばばあ、酒くらいだ」
「どうして知ったのだ」
「婆さんを、廊下で見かけたから、そっと往って
覗いたのだ」
「どこだ」
「上の段の、あの
湯殿のついた
室があるだろう、あそこだ」
「そうか」
岡本は考えこんだ。半ちゃんは得意であった。
「どうだ、大将、
金の
蔓だろう」
「うん」
「なんとかしようじゃねえか」
松山はにやりと笑った。
「
俺が割りこむ」
岡本は頭を
揮った。
「いかん、待て、これには
謀がいるぞ」
松山はだまって半ちゃんといっしょに岡本の顔を見ていた。岡本は
半眼になっていた。半ちゃんはもう待っていられなかった。
「ぐずぐずしてちゃ、往っちまうぜ」
松山も好奇心に燃えていた。
「そうだ、こんなことは現行犯にかぎる」
岡本の眼がぱっちり
啓いた。
「よし、いい
謀を思いついた」
半ちゃんはむずむずしていた。
「それじゃ、どうする」
「あの婆さんを、半ちゃんが往って、
歎して
伴れて来るのだ、それで婆さんを伴れて来たら、今度はあの色男を伴れて来るのだ」
「それで、どうする」
「それから
演戯だ」
半ちゃんと松山は、岡本の意図にはっきりしないことがあったが、聞きかえすことができなかった。
「よし」
「そうか」
岡本は半ちゃんに命令した。
「それじゃ、婆さんを伴れて来い、ちょっと逢いたい人があるからって、いいかさとられるな」
「いいとも、それじゃ往って来る」
半ちゃんは出て往った。岡本は松山を見た。
「おめえは、障子を
締めて、外へ出て、
婢に気をつけとるがいい」
「いいとも」
松山は
起って障子を締めて出て往った。岡本はそれから
盃を持った。酒がなくなると銚子を
執って
注いだ。そして、三杯目の酒を注いだところで、
襖が
啓いて半ちゃんがお杉を伴れて入って来た。
「なに、ちょっとした話だよ」
半ちゃんは後を締めた。岡本はいきなり
起って往って、お杉のそばへ往くなりお杉の頭をいやと云うほど
撲りつけた。
「声をたてたら、殺してしまうぞ、坐れ」
お杉はつくばってしまった。
「
不埒な奴だ、
他に意見をしなくてはならない
老人が、不義のとり持をするとは、なんだ、何もかも判ってるぞ」
岡本は半ちゃんを見た。
「それでは、馬の脚だろう、
伴れて来い」
「うん」
半ちゃんはまた出て往った。岡本は元の座へ帰って
盃を持った。
「声をたてたり、逃げたりすると、半殺しにしたうえで、警察へ渡すぞ」
お杉は小さくなって
顫えていた。岡本はもう何も云わなかった。そして、十分ばかりすると、半ちゃんがまた
壮い色の白い男を伴れて来た。岡本はまた起って往って撲りつけた。
「野郎」
壮い男もそこへつくばってしまった。岡本は半ちゃんに眼をやった。
「二人の番をしとれ、じたばたするなら、殺してしまえ、これから俺がかけあって来る」
岡本は出て往った。
岡本は一時間近くもお高の
室にいて引返して来た。
離屋には半ちゃんが酒を飲んでいる前に、あの
壮い男とお杉が小さくなって坐っていた。
「帰ったな」
松山が岡本の顔を見た。松山は岡本の顔色によって事の成否を知ろうとしていた。半ちゃんは元より岡本の帰るのを待ちかねていた。
「お帰り」
岡本は
頷いて元の席へ往って坐りながら、壮い男とお杉を見なおすようにした。
「いるな、馬の脚と、
婆あは」
半ちゃんは岡本の
盃へ酌をした。
「じたばたしたら、
殴き殺すのだから、奴さん、動かれないのだ」
「そうか、そうだろう、ふざけたことをしやがってるから、だいち、その婆あがいけねえ、いい年をして、聞きゃ出入だと云うじゃねえか、大恩を忘れやがって、馬の脚なんかをとり持つなんて、
不埒千万だ」
岡本は室の中のむせむせするのが
厭だった。岡本の眼はお杉へ往った。
「おい、婆あ、そこの障子を
啓けろ」
お杉はおどおどと
起って往って障子を啓けた。風が出て梅の
嫩葉は風に
撫でまわされた。
「障子を
啓けるといい気もちだ」
岡本は心もちよさそうに酒を飲んだ。松山は岡本から女のことを聞きたかった。
「あの
媽あは、どうしたのだ」
「みっちりかけあった、
他の
亀鑑にならなくちゃならない富豪の細君ともあろうものが、
怪しからんと云って、みっちり意見をしたものだから、あの
女、泣いてあやまりやがった」
「そりゃ、そうだろう、
当然のことだ、
苟も有夫の女じゃないか、言語道断だ、それをまたとりもつ婆あは、一層言語道断だ、
天人ともに
赦さざる奴だ」
半ちゃんはむずかしい
詞は知らなかった。
「そうだとも、ふざけたことをしやがって、ぐずぐず云や、おいらが三人を縛りあげて、鮫洲大尽の家へ
曳きずってって、大将に引きわたすのだ」
壮い男とお杉の方を見て、「どうだ、
婆あと馬の脚」
松山が口を入れた。
「ただ曳きずって、
旦つくに怒らすばかりじゃいけねえ、新聞に書いてもらうのだ、三段打ち
脱きの
大標題で、鮫洲大尽夫人の醜行とかなんとか、処どころに四号活字を入れて書きゃ、ぺちゃんこさ、どうだ」壮い男とお杉を見て、「どうだ、馬の脚と婆あ、これでやられたら、婆あもそのあたりにはいられなくなるし、馬の脚は、もう東京附近では、馬の脚もできないことになるぞ」
岡本は何か考えついた。
「よし、こんな
手合に云ったところで、判らない、以後こう云うことをしないと云う
一札を
執って、追っぱらえ、うす汚い
婆あや、へんな奴がいちゃ、せっかくの酒が
拙くなるのだ」
松山も同感であった。
「それがいい、
一札を
執って追っぱらおう」
壮い男を見て、
「おい、
小厮、てめえは、字が書けるか」
壮い男は口が
硬ばっていた。
「野郎返事をしないか」
半ちゃんがいきなり
起って往って、壮い男の横っ
面を
撲りつけた。岡本はそれを止めた。
「待て、待て、半ちゃん、そんなことをしてもしかたがない、待て」
「この野郎、生意気だ」
「まあ、いい、坐れ」
半ちゃんも
対手が反抗しないのに続けて撲ることもできなかった。半ちゃんは
己の席へ帰った。松山は半ちゃんの席へ帰るのを待っていた。
「小厮、痛い目に
逢わないうちに、返事をしろ、字が書けるか」
「書けます」
「そうか、それじゃ書け、婆あは、どうだ、婆あは書けまい」
お杉は
文盲であった。
「私は、どうもね、その」
「くどい、書けんか」
「書けません」
「よし、それじゃ、婆あの分は、
俺が代筆をしてやる」筆のことを思いだして、「筆がないな、
婢を呼ぼうか」
岡本は注意深かった。
「婢じゃいかん、半ちゃんが往ってくれ」
「よし」
半ちゃんは
起って出て往った。岡本と松山は
盃を持った。松山は岡本に眼くばせをした。
「つるは」
「うん」
「いいのか」
「いいとも」
「そうか」
「飲め」傍の二人に聞かすように、「俺だちは、強きを
挫き弱きを
授ける
性分だから、しかたがない」
「そうだとも、義のためには
生命もいらない俺だちだ」
「わりにあわない商売だよ」
「損得を云ってられないのだ、が、考えてみりゃ、損な商売だなあ」
「そりゃ、しかたがない、これもお国のためだ、日露戦争で討死した軍人も、俺だちのすることも、することは変ってても、おんなじことだぞ」
「そうだとも」
半ちゃんが
硯と
半紙を持って入って来た。
「不便なところだな、硯と紙を
執りに往くに、野越え山越えだ」
松山が笑った。
「それも、お国のためじゃないか」
半ちゃんには通じなかった。
「なにが、お国のためだい」
「なにさ、俺だちが、こうして悪い奴をとっちめるのも、やっぱりお国のためだと、今、大将と話したところだ」
半ちゃんはやっと判った。
「そうとも、そうだとも、やっぱりお国のためだ」
壮い男を見て、「お国のために、
一札をとるのだ、さあ、書きやがれ」
その日
午近い
比であった。広巳は
山内容堂の墓地のある
間部山の近くを歩いていた。広巳の気もちは
混沌としていた。広巳は節操のない
嫂に対する憤りから、その嫂にまかれて不甲斐ない兄を憤る一方で、人とも神とも判らない女に心を
惹かれているところであった。
広巳は朝から飲んでいた酒で体はふらふらになっていたが、頭は冴えていた。狭い
街路には生垣のある家があった。その時広巳の頭にふと浮んだものがあった。
(おや)
広巳は
四辺に眼をやった。そこは右側に
茨の花の咲いた生垣があって、それが一度往ったことのある家のように思われた。
(どうもおかしいぞ、あの家じゃないか)
鵜になって飛んだ二人の少女に呼びこまれた家のように思われるのであった。広巳は気が
注いて笑いだした。
(まさか、まさか)
広巳は歩きだした。その広巳の後に物の気配がした。
「若旦那」
広巳は足を止めた。と、ちょこちょこと下駄の音をさして来たものがあった。広巳はちらりと
揮りかえった。それはお杉の娘のお鶴であった。
「今日は」
広巳はお鶴が時おり変にからまって来るので嫌っていたが、黙っているわけにもいかなかった。
「鶴坊か」
「どこへいらっしゃるの」
「ちょっとそこだ」
「そこって、どこですの、いい人のとこ」
広巳は気もちがわるかった。
「そんな処じゃないよ」
「それじゃ、どんなとこ」
広巳は
煩かった。
「云われないとこ、それじゃ、やっぱりいい人の処ね、若旦那のいらっしゃる処だもの」
広巳は苦笑した。
「そうでしょう、やっぱりそうでしょう、いい人の処でしょう」
広巳はもてあました。
「ほんとに若旦那は、
邪慳よ、そりゃあね、私のような、女のうちにも入らないものなんか、鼻もひっかけてくれないでしょうが、それにしてもあんまり邪慳よ、若旦那は」
広巳は
平生それで困らされていた。
「うう」
「ううなんて、ほんとに邪慳よ」
広巳はとっとと往こうと思った。
「そんなに邪慳にするものじゃないことよ、そんなに
何時も邪慳にするなら、わたし、若旦那に知らしてあげたいことがあるが、云わないことよ」
「なんだ」
思わずつりこまれて、しまったと思った。
「云わないわ、若旦那が、そんなに
邪慳にするなら、わたし、若旦那の喜ぶことを知ってるのだが、云わないことよ、若旦那のことを、
平生云ってらっしゃる方があるのだけど、それはただの方じゃないことよ、
地位のあるりっぱな方よ、でも云わないことよ、若旦那がそんなに邪慳にするなら」
広巳はちょっと好奇心が起ったが、お鶴が
己にからんで来る手のようにもあるから、うっかりしたことは云われないと思った。
「聞かなくてもいいの、ほんとのことよ」
「なんだ」
「いい方のことよ」
「
何人だ」
「云わないことよ、若旦那が、わたしに邪樫にしないようになったら、
何時でも云ってあげるわ」
「嘘だろう」
「嘘なら嘘にしとくがいいわ、聞きたくなけりゃ」
「ほんとなら、云ってみなよ」
「
厭よ、若旦那が、わたしに邪慳にしないようになったら、何時でも云ってあげるわ、ほんとよ、それも
徒の裏町のお
媽さんや娘じゃないことよ、りっぱな
地位のある方よ、若旦那がいくら気ぐらいが高くっても、その方の前へ出たらぞんざいな口が
利けないから」
「何人だ」
「云わないことよ、云わないわ」
「云えないだろう、嘘だから」
「嘘なら嘘にしとくがいいわ、若旦那のことを思ってらっしゃる方だから」
「まさか」
「ほんとよ、ほんとだから、云わないことよ」
広巳は
惹きつけられるものがあった。それは人か神かと思って探している女のように思われるからであった。それに場所が場所でもあった。
「嘘だよ、俺にはそんな心あたりがないよ」
「嘘なら、心あたりがなけりゃ、それにしとくといいことよ」
「だから、それにしとくのだよ」
「それがいいわ、そのかわり後になって、私を恨んでも知らないことよ、若旦那の家には、お
銭がたくさんあって、
鮫洲大尽と云や、
界隈で知らないものはないのだけど、そんな
地位のある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だから」
「いやに大きく出るじゃないか、ぜんたい、そりゃ、何だい」
「
粋で、上品で、
地位のある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方よ」
「
痴にするない」
「あれ、まだ、私がかつぐと思ってらっしゃるの」
「そうだよ、
担いでるのだよ」
「
痴、ねえ、若旦那は、ひとが親切に云ってあげてるに」
「それじゃ、はっきり云ったら、どうだ、ほんとなら、はっきり云えるじゃないか」
「そりゃ、云えますよ、云えますが、若旦那が
邪慳だから云わないことよ」
「
何時、俺が、
汝を邪慳にしたのだよ」
「
平生邪慳よ、私が何か話そうと思っても、逃げっちまうじゃありませんか」
「そんなことはないさ、逃げたことはないじゃないか」
「逃げることよ、何時かもお宅の御門の処で往きあうと、私を見ないふりをして往っちまったじゃないこと」
「そんなことがあるものか」
「あったわ、私、ほんとにあの時は、若旦那を恨んだわ」
「俺は知らないのだよ」
「知らんことないわ」
「ほんとに知らんよ、それとも俺が、何か考えごとをしてたから、判らなかったかも知れない、ほんとに知らんよ」
「知らんことないわ」
「そりゃ無理だよ」
広巳はばかばかしくなって来た。広巳はいきなりお鶴を離れて歩いた。お鶴は追っかけて来た。
「若旦那」
「もうたくさん」
「ほんとよ、若旦那、聞かなくってもいいの」
「たくさん、たくさん、あばよだ」
「いやな人ね、ひとが云ってあげると云うのに」
「たくさん、たくさん」
広巳は頭にかかっていた
塵を払い落したような気になって歩いた。
「おぼえてらっしゃい、若旦那」
「たくさん、たくさん」
たくさん、たくさんの
詞は足の調子に乗って来た。広巳の体はたくさん、たくさんで歩いた。そして、歩いているうちに空腹を覚えて来たので、
路傍で
蕎麦店を見つけて入り、そこで蕎麦を
喫ってまた歩いた。
(ぜんたい、なんのことだ)
広巳はお鶴の云ったことを思いだしていた。
(
粋で、上品で、
地位のある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方って、ぜんたいなんだ)
広巳は考えた。
(若旦那の家には、お
銭がたくさんあって、鮫洲大尽と云や
界隈で知らないものはないが、そんな
地位のある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だと云ったな)
しかし、広巳は海晏寺の前の
榎の傍で
逢い、それから八幡祠の境内で逢った女以外の女は、求めてはいなかった。
(その女といっしょなら、逢いたいが、
外の女には逢いたくないな)
広巳は
何時の間にか大森の
魁春楼の裏門口に近いところへ往っていた。と、その時人の気配がして裏門から出て来た者があった。それは盛装した
嫂のお高が血の
色のない顔をして、一人の
婢に送られて出て来たところであった。
(いけねえ)
広巳はそこの
巷へ隠れて往った。
広栄は次の
室で計算していた。
黒柿の机に向って預金の通帳のような帳面を見い見い、
玩具のような
算盤の玉を
弄っていた。
それは二時
比で、外には絹糸のような雨が降っていた。広栄はやがて算盤を置いて、傍の
硯箱を引き寄せて墨を
磨りだした。
「旦那さま」
頬の
赧い
壮い婢が名刺を持って傍へ来ていた。広栄は顔をあげた。
「お客さんか」
「はい」
広栄は
婢の手から名刺を
執った。名刺には松山良蔵としてあった。
「松山良蔵、どんな男だ」
「二人来ております、その名刺を出した人は、
揉あげの長い壮士のような人ですよ」
「揉あげの長い、壮士のような人」ちょっと考えて、「どんな用事か、聞かざったか」
「聞きませんが、聞きましょうか」
「そうだ、どんな用事か聞いてみよ」
「はい」
婢は出て往ったがすぐ引返して来た。
「聞いたか」
「はい」
「何だ」
「
当方の家庭のことで、お話ししたいことがあって、わざわざあがったと云いますが」
「当方の家庭のことで、家のことでか」
「そうだそうです」
「当方の家庭のことで」首をかしげて考えてから、「それじゃ、まあ、通してみろ、お座敷にしよう」
「はい」
広栄は急いで机の
引抽を
啓けて帳面と
算盤をしまい、それから
硯箱へ
蓋をしながら来客の用件について考えた。縁側に二三人の
跫音が聞えて来た。
婢が客を玄関脇から
伴れて来たところであった。広栄は左右に
啓けた障子の一方の陰にいたので
正面に客と顔をあわせなくてもよかった。客はあの
匪徒の中の松山と半ちゃんであった。広栄は客座敷へ入って往く二人の横顔を見て何かしら不安を感じた。そこへ婢が出て来た。
「それでは、旦那さま」
「そうか、それじゃ茶を持って往け、俺は後から往く」
「はい」
広栄は思いだして、煙草を
点けてみたが煙草の味は判らなかった。婢は
庖厨から茶を持って来て客座敷へ往くなりすぐ出て来た。広栄は黙って手をあげて招いた。婢もそれと見て黙って傍へ寄って来た。
「あのな、定七に、へんな奴が来たから、そっとここへ来ているように云っとけ」
広栄の声は小さかった。婢は
頷いた。
「いいか、そっとだよ」
広栄は
平生傍に置いてある松葉杖を
執って、それにすがってやっとこさと
起ち、境の
襖を啓けて入って往った。
「足が悪いものですから、失礼します」
松山と半ちゃんは
床の方を背にして
胡坐をかいていた。広栄はその前へ往って崩れるように腰をおろして足を投げだした。
「失礼します、こんな
恰好をして」
松山はすましていた。
「はじめてお眼にかかりますが、何か
当方のことで、いらしてくださいましたそうで」
「そうだ」
「どんなことでしょうか、
当方の家庭のことと申しますと」
「すこし、へんなことだから、他の者に聞かしたくない、
何人もこの
室の中へ通さないようにしてもらいたいが」
あいての語気が強いので広栄は
鬼胎を抱いた。
「そ、それは、私が呼ばなければ、呼ばなければ、
何人も来ませんから」
「そうかね」
広栄は、後の
詞が出なかった。松山はその顔をじろりと見た。
「それでは、話をするに当って、云っておくことがあるが、僕だちは東洋義団と云う結社のものだが、この東洋義団と云うのは、国家のために不義不正を摘発して、弱者は
授け、悪人は
懲して、社会を覚醒している結社だと云うことを承知してもらいたい」
「は、東洋義団、社会を覚醒なされる、結社の方でございますか」
「そうだ、その結社のものだ、だから僕だちは、金銭利得によって動くものじゃない、これもあらかじめ承知してもらいたい」
「それはもう、なんでございますから」
「よし、それが判ったら、用件に移るが、僕だちは、今も云ったように、国家のために社会の不義不正を摘発しているところで、不幸にして、ここな家庭が
紊乱しておるから、それを摘発に来たのだ」
広栄は眼を見はった。
「わたくしの、家庭が、紊乱しておると申しますか」
「そうだ、紊乱しておる、紊乱しておるから、それを粛正さすために来たのだ」
広栄はさすがに腹が治まらなかった。
「私の家は、私と、
細君と、それから弟が一人あって、その弟は、今度の戦役に従軍して、
金鵄勲章ももらっておりますが、べつに
他人から、家庭のことを、とやこう云われるようなことはないが、それは何かの」
「だめだ」松山は叱りつけた。「そんなことを云っても、種がちゃんとあがってるのだ」
「種と云いますか」
「そうだ種だ、種があがっておる、
鮫洲の
大尽と云や、人に知られた家で、人の
亀鑑になる家だ、その家が紊乱さしては、けしからんじゃないか」
広栄は何のためにそんなことを云うのだろうと思った。
「それは、どうも、それは、何かの」
「だめだ、
幾何隠したって証拠がある、それとも君は、それを知らないのか、町内に知らぬは
主翁ばかりなり、君は気が
注かんのか、おめでたい人間だな」
広栄は不思議でたまらなかった。
「それは、何かのまちがいだ」
「まちがいだ、まだそんなことを云うか、それじゃ、その証拠を見せてやろう、驚くな」松山は右の
袂へ手をやって
半紙に書いた物を二枚出して、「おい、これを見ろ」
松山はそのままそれを広栄の前へ
投りだした。広栄はしかたなしに拾ってまずその一枚に眼をやった。それはお杉の出したものであった。広栄の眼は次の一枚に往った。それは山田稔とした
壮い俳優の自筆であった。広栄の顔は
蒼黒くなっていた。
「どうだ、君、読んだのか」
広栄は何も云えなかった。
「おい、その小島杉としたのは、
汝の処へ出入するお杉と云う婆さんだ、もっとも婆さんは、字が書けないと云うから、俺が書いてやったのだが、一つの山田稔と云うのは、本人が書いたのだ、品川にごろごろしてる馬の脚だ、それを婆さんが
執りもって、ふざけた真似をさしていたのだ、おい、
一昨日、
媽あは、家にいなかったろう、どうだ、家にいたか」
広栄は眼を伏せていた。
「おい、
汝の媽あは大森の魁春楼にいたのだが、判ってるか」
その時客座敷の
背後の
室には、お高がそっと立って耳をすましていたが、その
詞を聞くなり、こそこそと室を出てどこへか往ってしまった。
店頭にいた定七が
婢が呼びに来たので、急いで番傘をさして
街路へ出た。広巳が
蛇目傘を
担ぐようにさして、大森の方からふらふらと帰って来たところであった。
「広巳さん、若旦那」
広巳は酔っていた。広巳ははじめて定七を見つけた。
「ああ、定七か」
「定七かじゃありませんよ、どこにいらしたのです、心配しておりましたよ」
「心配することは、家にいる
妖怪じゃ、
乃公は大丈夫だよ」
定七は笑った。
「家にいる
妖怪って、お宅には妖怪なんかおりませんよ、それよか、二日も三日も、どこにいらしたのです」
「妖怪を退治することを考えたり、妖怪を探したり、あっちこっちしてたのだよ」わざとらしく笑って、「蛇さまを拝みにでも往くのか」
「なに、へんな奴が」と云いかけて思いだして、「ちょうどいい、若旦那も往ってください、今、へんな壮士のような奴が二人来たので、旦那さまから呼びに来て往くところです、
貴方も往ってください。きっと
強請か何かだろうと思います」
「壮士のような奴が二人来た」
「だから往ってください」
「めんどうだよ」
「そんなことを
仰しゃらないで、往ってください、旦那さまは、気がお弱いから、きっと困ってるのですよ」
「そうか」
広巳もそうしたばあい、いやとも云えないので往く気になった。定七はその顔色を見てとった。
「それじゃ、往ってください」
定七は広巳を
伴れて
母屋へ往き、玄関からそっとあがって次の
室へ往った。その時客座敷では、松山が黙りこんでいる広栄を叱りつけていた。
「おい、何か云わないのか、俺だちが
義侠心を出して、家庭を粛正してやろうとしてることが判らないのか、
痴」
半ちゃんが口をそえた。
「おい、野郎、
鮫洲の
大尽だなんて、大きな
面をしやがって、ざまはねえぜ」
広栄はその時きっと顔をあげた。
「それでは、お礼を申します、どうも御親切にありがとうございました、それで私の方としましては、
細君もよく調べ、お杉も調べましたうえで、いよいよ
不埒をはたらいておりますなら」
「待て」松山は絹を裂くような声で押えつけて、「細君もよく調べる、よく調べると云うのは、俺の云うことが、
真箇にできないから、それでよく調べると云うのだな」
広栄は
対手に
逆ってはならなかった。
「いや、決して、そんなことはありません、調べると云ったのは、本人の口から白状さして、そのうえで話をつけようと思いまして」
「そうか、それで細君をどうするつもりだ」
「それは親類の者にも相談して、そのうえで離縁するなり、なんなり、それは私の方で話をつけます」
「私の方で話をつける、私の方で話をつけるから、他人はおせっかいをよせと云うのか、いやしくも人の
亀鑑になるべき者が、
不義不埒なことをしているに、うやむやにして、知らん顔をするつもりか」
「そんなことはありません、決して」
「それではどうする」
「それは、今も申しましたように、親類の者とも相談しまして、そのうえで話をつけます」
「話をつけるとは、うやむやにして、そのままにするつもりだろう、そうはいかねえや」
広栄は困ってしまった。
「そ、それでは、どうしたら」
「人の亀鑑になる者だ、社会風教上、よろしくない、叩きだせ」
「それは、私も、いざとなれば、離縁するなり、なんなりいたしますがいろいろ事情もありまして」
「事情じゃなかろう、ほれてるから、踏みつけられても、尻にしかれても、どうすることもできないだろう」
半ちゃんがまた口をそえた。
「そうだよ、鼻の下が長いのだ、この野郎は」
「そうだよ、だから、俺だちの
義侠心も思わないで、ふざけたことを云ってるのだ」広栄を見て、「野郎、どうだ、どうするのだ」
広栄はもう
詞が出なかった。松山はたたみかけた。
「どうするのだ、おい、野郎、
媽あを叩き出すか、俺だちの義侠心を踏みにじるか」
襖がずらりと
啓いて定七が出て来た。
「もし、失礼でございますが、私から、ちょっとお話をあげたいと思いますが」
松山はじろりと定七を見た。
「
汝は
何人だ」
定七は広栄の右側へきちんと坐った。
「番頭のようなものでございます」
「ようなものとは、なんだ」
「番頭のようにしておりますが、番頭だと云うことを主人から云われておりませんから」
「そうか、それで、俺だちにどんな話があるのだ」
「隣の
室で、主人の云いつけで、帳面をあわしておりましたので、
前刻からのお話を伺いましたが、それについて、ちょっと私から申しあげたいことがございまして」
「どんなことだ、云ってみろ」
「それでは申しあげますが、今
承われば、
当方の奥さまが、何かまちがいをしでかしまして」
「言語道断だ」
「それにつきまして、私がてまえ主人に代りまして、お願いでございます」
「なんだ」
「それは奥さまが一時の心得ちがいから、皆さまに御心配をかけましたにつきましては、それ相当のことをいたしまして、今回だけは、大目にみていただいて、みっちり意見をいたしまして、元の奥さまにしたいと思いますが」
「だめだ、あんな女は」
「ではございましょうが、てまえ奉公人といたしましては、
円く収めたいのでございます、どうか、皆さまも、お腹もたちましょうが、どうかてまえに免じてお
赦しくださいますように」
松山は態度をやわらげた。
「そうか、奉公人として、
汝がそう云うのは、もっとものことだ、奉公人としては、主人のためにそうしなくてはならんが、
苟も人の
亀鑑になる家のことだ」
「ではございましょうが、そこが
御堪忍でございます、どうかてまえに免じて、今回だけは、お眼こぼしを願います、それにつきましては、汚いことを申しあげてはすみませんが、皆さまにそれ相当のことをいたしまして、皆さまの御親切にお礼をいたしたいと思います、どうか今回だけは、お眼こぼしを願います」
「そうか、
汝が主人のためを思うて、そう云うならいけないとも云えないが」
「どうぞお願いいたします、それにつきまして、てまえ主人にちょっと申したいことがございますから、ちょっとお
赦しを願います」
「よし、相談があるなら、往ってもいいが、長くはいけないぞ、それに俺だちを
欺しといて、警察なんかに云いつけたら、承知しないぞ」
「決して、そんなことはいたしません」
「云いつけるなら云いつけてもいい、ここな署長なんか、東洋義団の連中とは
朋友だから、そんなことは驚かんが、もし、へんなことをすると、結社には命知らずが幾人もいるのだ、殺してしまうからそう思え」
「いや、けっしてそんな
痴な真似はいたしません」それから広栄に注意して、「それでは旦那、ちょっとお話をあげたいから、あちらへいらしてください」
広栄はほっとしていた。
「そうか、それでは」
広栄は松葉杖を
執ってやっとこさと
起って、定七といっしょに次の
室へ往った。
広巳は
母屋の
庖厨へ入って往った。庖厨の
土室には年とった
婢が
筍の皮を
剥いていた。広巳は庖厨に
起ってあちらこちらを見た。それは何かを探し求めている眼であった。
「おい、お
小夜」
年老った婢は
何人か来たとは知っていたが、めんどうだから知らないふりをしていたところで、名を呼ばれたので顔をあげた。
「おや、若旦那、今日はお珍らしいじゃありませんか」
広巳が母屋へ来たことは
暫くぶりであった。
「そんなことは、どうでもいい、酒はないか」
広巳の眼は光って
怒に燃えている眼であった。年老った婢はいつもの広巳とかってがちがっているのでおやと思った。
「さけ、どうするのです」
「どうでもいい、持って来い」
年老った婢は筍をおいて起っていた。
「あがるのですか」
「判ってらあ」
「それでは、お
燗をつけますか」
「そんなことはいい、早く持って来い」
「そうですか」
年老った
婢は
流槽と
喰ついた棚の下にある
瓶子の傍へ往った。
「瓶子のままでいいのですか」
「いい、持って来い」
「お銚子と
猪口はいらないですか」
「いらない、瓶子と茶碗を
執れ」
年老った婢はさからわなかった。年老った婢は一升瓶子と湯呑茶碗を持って往った。
「これでいいのですか」
「いい」
広巳は
上框へ出て婢の出した瓶子と茶碗を引ったくるように執り、いきなりそこへ
胡座をかき、瓶子の栓を口で
脱いて、どくどくと
注いで飲んだ。
「うウ」
年老った婢は
呆れてその
容を見た。広巳は茶碗の酒を二口に飲んで、また後を注いだ。
「うウ」
その酒もまた二口に飲んで三杯目の酒を注ごうとして、何か気になるのか耳をすましていたが、それだけではいけないのか茶碗をおいて
起ち、玄関の方へ姿を消して往った。
「まあ」
年老った
婢はますます呆れたような顔をした。そこへ頬の
赧い
壮い婢が何かを
憚るように奥の方から出て来たが、年老った婢を見つけるなりその前へついと往った。
「お小夜さん」
「なんだね」
壮い婢は
何人か
己を見ているものでもないかと云うようにして、ちらと後を見ておいて年老った婢の
鼻端へ近ぢかと顔を持って往った。
「
汝さん、知らない」
「なんだね」
「たいへんよ」
「どうしたの」
「お座敷の方で、大きな声がしてたでしょう」
「そうね、
何人か来てるの」
「へんな、壮士のような男が、二人来てるのだよ」
「それが、どうしたの」
「それがたいへんよ」
「どうしたの」
「どうって、ここの奥さんよ」
「奥さんが、どうしたの」
「
汝さん」
周囲に眼をやって、「男があるのだって」
「まあ、奥さんが」
「そうよ、大森の
料亭かなんかで、男といっしょにいるところを、今来てる男に見つかって、書きつけを
執られたって」
「ほんと」
「ほんとだとも、だから、人の
亀鑑になる家のお
媽さんが、男をこしらえるなんて、ふざけてる、追んだしてしまえと云ってるのだよ」
「旦那にそんなことを云ったの」
「云ったとも、それに奥さんと男の執りもちをしたのは、あのお杉さんだって」
「まあ、お杉さんが、
呆れた人だね、それで、男って
何人だろうね」
「馬の脚、馬の脚って云ってたから、
俳優じゃないだろうかね」
「そうね、馬の脚って云や俳優だろう、だが奥さんがそんなことをするだろうかね」
「判らんが、奥さんはへんだから、店の平どんだって、どうしてるか判らないよ、よく
伴れて歩くじゃないか」
「そうね、お蔵なんかへ伴れて往くことがあるね」
「そうだよ」
「それで、奥さんは、どうしてるの」
「いないのだよ」
「どこへ往ったろうね」
「いたたまれないで、逃げだしたかも判らないよ、
前刻居室で新聞かなんか読んでたが、いないのだよ」
「里へ往ったろうかね」
「まさか里へは往かれないよ」
「それじゃ、どこだろう」
「杉本さんじゃないの」
「あの弁護士の杉本さん」
「そうよ、奥さんは、あの杉本さんとも、へんよ」
「まさか」
「ほんとよ、私は見たことがあるもの」
「ほんと」
「ほんとだとも、正月の
比よ、旦那がお蔵へ往ってる時に、杉本さんが来て、奥さんの
室へ入って、
秘密ばなしをして、二人で笑ったりなんかしてたよ」
「そう、そんなことがあったの、ずいぶん、ねえ」
「ずいぶんよ」
その時どかどかと
跫音をさして来たものがあった。二人はびっくりして離れ離れになった。広巳が引返して来たところであった。
「ふざけてやがる、こんなべらぼうなことがどこにある」
広巳は
壮い
婢を見つけた。
「そこで、何をまごまごしてるのだ」
周囲にあるものを蹴ちらすような
勢で入って来て、
瓶子の傍へ往くなりいきなり瓶子を
執って、それを口からぐいぐいと飲んだ。
「
痴、どいつもこいつも、承知しないぞ、痴」
壮い婢は恐ろしそうにしてこそこそとどこへか往ってしまった。
年老った婢は
筍の傍へ往って
蹲んだ。
「痴野郎だから、だめなんだ」
広巳は三口四口続けて飲んだが、気が
注いたようにしてまた耳をたてた。
松山と半ちゃんは、山田を出て大森の方へ向って歩いていた。松山は
蝙蝠傘をさし、半ちゃんは
紺蛇目をさしていた。絹糸のような雨は依然として降っていた。山田の塀の前を往きすぎると、半ちゃんが右側を歩いている松山の傍へ寄って往った。
「おい、旨くいったな」
「いったとも、吾輩が
蘇張の弁をもってすれば、天下何事かならざらんやだ、どうだい」
「また、ちんぷんかんぷんか、悪い癖だよ、よしなよ、そんなことを云って、威張ったところで、どうせ人をおどして金を
執る悪党じゃねえか」
「悪党じゃないよ、国家のためだよ、国家のためにやってることだよ」
「国家のために、好いことをしてる奴を、ふんづかめえて、さんざ
撲りつけたうえに、金を執るだろう」
松山は笑った。
「まあ、そんなものさ、
鑵詰の中へ石ころを入れて、兵隊に
喫わしても、国家のためだと云う実業家があるじゃないか、それに
較べりゃ、
姦通をつかまえて、悪いことをさせないようにするのは、たいした違いじゃないか、天と地との違いだよ、すこし位、金を執ったっていいだろう」
「それもそうだが、裁判の
紛糾を横あいから往って、裁判所で両方を撲りつけて、金を執るなんざ、あんまりなあ」
松山は
周囲に注意した。店員風の
壮い男と、会社員風の洋服男が来て
擦れちがおうとしていた。松山は
叱と云って半ちゃんに注意した。
「つまらんことを云うのは、よせよ、聞かれるぜ」
半ちゃんは口をつぐんで苦笑した。松山は話をかえた。
「半ちゃん、車がほしいな」
「そうだ、車があるといいな」
「川崎屋へでも往きたいなあ」
「川崎屋は面白くねえや、やっぱり松浅だよ、それに自由も聞くじゃねえか」
「そりゃ判ってるが、遠いや」
「なにすぐだよ」
「かなりあるぜ」
「そりゃ、すこしは遠いが、大将が来るからな」
「だから、まあ、往くようなものさ、この雨の中をぴちゃぴちゃ歩くのは気が利かないや、それに
癪じゃないか、俺だちに
婆あと馬の脚の番をさしといてよ、大将はふざけてるぞ」
「しかたがねえや、そこが
仮父の役得だ」
「そりゃそうだよ、だからはやく仮父にならなけりゃいかんぜ」
「そうとも、おめえは、
乃公とちがって、学があるから、すぐ仮父になれるさ、岡本さんの後は、おめえがつぐんだ」
「ついでもいいが、乃公は、こんな狭い日本じゃだめだ、満州へ往って、馬賊にでもなろうと思ってるのだ」
「満州なんかだめだよ、酒は
高粱の酒で、
喫うものは、
豚か犬かしかないと云うじゃねえか、だめだよ、
魚軒に
灘の
生一本でなくちゃ」
二人は
何時の間にか
泪橋の傍へ往っていた。そのあたりには
漁夫の家が並んでいた。そこには
店頭へ
底曳網の
雑魚を並べたり、あさりや
蛤の
剥身を並べている処があって、その
附近のお
媽さんが、番傘などをさしてちらほらしていた。
松山と半ちゃんは、その傘の中を
潜って
一跨ぎの
泪橋を渡った。その時
壮い男が
燕のように後から来て二人に
躍りかかった。壮い男は
円木棒を持っていた。円木棒は
忽ち
紺蛇目を
潰し
蝙蝠傘を飛ばしてしまった。
「うぬ」
「野郎」
二人の叫ぶまもなく、円木棒は忽ち半ちゃんをなぎ倒し、ふりむいた松山の右の肩をしたたかに
撲りつけた。円木棒は広巳であった。
「
盗人」
半ちゃんは起きあがって広巳に飛びかかろうとした。
「野郎」
「なにを」
円木棒は半ちゃんの胴に来た。半ちゃんはまた倒れてしまった。松山は眼を怒らすばかりでどうすることもできなかった。広巳は円木棒を
揮って松山に
躍りかかった。松山はその
勢に
辟易して後すさりした。半ちゃんは半身を起しただけであった。
「野郎」
広巳はどこまでもと松山にせまった。松山はとてもかなわないと思ったのか、くるりと体を返して逃げようとした。
「待てっ」
広巳は飛びかかって
円木棒を
揮った。円木棒は松山の背に当った。松山は
前方向けによろよろとなって倒れてしまった。
「ざまみやがれ」
広巳は松山を捨ててふり向いた。半ちゃんが起きあがって組みかかろうとした。
「この
盗人」
広巳は丸木棒を横に揮った。半ちゃんはまた胴を打たれて横倒れになった。
川崎屋の奥まった
室では、二人の客が話していた。一人はお高で一人は色の白いでっぷり肥った童顔の
髭のある男であった。それは杉本と云う山田の地所や貸家を管理している裁判官あがりの弁護士であった。
室の中には明るい
洋燈の光があった。杉本は童顔に
愛嬌をたたえていた。お高はその時黙って杉本の
盃へ酌をした。杉本はまたそれを黙って飲んだ。
「だから、もういいのだ、黙って僕と帰ってけばいい」ふざけるようにお高の眼を見て、「それで、仲なおりをすりゃ、いいじゃないか、夫婦喧嘩と西の風は、日の入りかぎりだと云うことがある、それでいいでしょう」
お高は
意のある眼づかいをした。
「よかあないことよ、いやよ、帰るのは」
「帰るのはいやって、大事の旦那さまが嫌いかね」
「嫌いよ、あんな跛なんか、見たくもないわ、飽き飽きしたから、杉本さんにどうかしてもらうわ」
「それはお門違いだろう、あれじゃないか」
「
痴」
「だってそうじゃないか、それで事件が起ったじゃないか、やっぱり男に生れるなら、
壮い、きれいな
俳優のような男に生れたいものだな」
「痴」
「痴は、ないでしょう」
「痴、痴、痴よ、そんなことを云うものは、ただ、お杉が知ってると云うから、いっしょに飯を
喫ってたじゃないの、それをあの悪党が、二人を
伴れだして、
一札をかかしたじゃないの、無実の罪よ、
貴方は弁護士じゃないの、そんな無実の罪の弁護するのが、職務じゃないの」
「だから、すぐ往って、旦那に
逢って、奥さんは、決してそうじゃないと云って、旦那の誤解をといて、今晩
伴れて往くと云うことにして来たじゃないか、りっぱに、弁護士の職務をつくして来たじゃないか」
「だめよ、貴方の弁護士は、女を
口説く弁護士よ」
「ところが、僕は女を口説くが
拙なのだ」
「だめよ、そんなことを云ったって、ちゃんと種があがってるから」
「それこそ無実の罪だ、こりゃ
何人かに弁護を頼まなくちゃいけない」
「頼んだってだめよ」
「こいつは困ったぞ」
「困ったっていいよ、
他を痴にするのだもの、今日も私の家へ往って、何を云ったかも知れやしないことよ」
「こいつは驚いた、奥さまは品行方正だ、そこは私が受けあうからと云って、旦那をなだめたじゃないか」
「ちょいと、その品行方正が受けあえて」皮肉な笑いを見せて、「どう、杉本さん」
「受けあえるさ、現に受けあって来たじゃないか」
「だから、
貴方は
狸よ」
「すると、夫人は、
狐か」
「
痴」
「痴はもうたくさん、これから飯でも
喫って帰ろうじゃないか」
「いやよ、帰らない、帰らないで、今晩は、貴方を引っぱり出して、どこかへ往くから」
「うちの夫人に叱られる」
「叱られたっていいわ、そんなこと」
お杉の家では狭い
茶室へ小さな
釣洋燈を
点けて夕飯を
喫っていた。
「おまえさん、まだ飲むかい」
お杉は
己の
盃へ酒を
注ぎながら、汚い
食卓の
向前にいる長吉の方を見た。眼の不自由な長吉は、空になった盃を前へ出していた。
「もう、一杯注いでくれ」
「もう一杯だなんて、おまえさん、もう三杯飲んだじゃないか、そんなに飲んじゃ、体の毒だよ」
「なけりゃいいが、あるなら、もうちょっぴりくれ」
「二合買ってあるから、ないことはないが、毒だよ」
お杉は憎にくしそうに云って己の盃を手にして一口飲んだ。長吉はきまりわるそうにしていた。
「今日は、ばかに佳い気もちだ、ちょっぴりくれ」
「毎日あげ
膳すえ膳で、飯を喫わしてもらってて、それで、悪い気もちになられちゃ、かなわないよ」
さすがにお鶴はそれを見かねた。お鶴はお杉の右横の
長火鉢の傍で飯を喫っていた。
「お
母さん、注いでおやりよ」
お杉は盃を持ったままでお鶴を見た。
「酒は惜しくないが、また、せんきでも起されちゃ、困るからね」
「一杯ぐらい、いいじゃないか、一杯ぐらいで、せんきも起らないだろう」
「そうは云われないよ、
何時かもおこったことがあるのだよ」
「だって、まあ、今晩は、いいじゃないか、
注いでおやりよ、そんなことを云うものじゃないよ」
「今晩にかぎって、いやに
座頭さんのかたを持つじゃないか」
嘲るように云って
盃をおき、「それじゃ、親孝行のお嬢さんの、お
詞どおりにするかね」
「ばかにしてるよ」
「ばかにするものかね、親孝行のお嬢さんの、お詞どおりにすると、云ってるじゃないか」
銚子を
執って長吉の盃の近くへやり、「お嬢さんのお詞によって、注いであげるから、
滴しちゃいけないよ、一滴でもお
銭だ、それも、みんな、私の汗と
脂が入ってるのだ」
「ふんだ」
お鶴は不快そうな顔をして飯を
喫いだした。お鶴の
向前にいた音蔵は、
何時の間にか
箸をやめていたが、お杉が長吉の盃へ酒を注いだのを見ると、ほっとしたように箸を動かした。お杉は飲みさしの酒を飲んだ。
「親孝行のお嬢さんが、
白粉や香水を買う金がありゃ、たまには活動の一つも見に
伴れてってくれるといいが、親孝行は違ったものだ」
お鶴はすましていた。
「何云ってるのだ、家へ入れるものは、ちゃんと入れてあるのだ、白粉を買おうと、香水を買おうと、
己のはたらきで、己がするのだ、へんだ」
「そうそう、己のはたらきで、買い
喫いもすれば、男狂いもするのだよ、みあげたお嬢さんだ」
長吉は手をあげて二人を押えるようにした。
「これ、これ、お鶴、お杉、そ、そんな、そんなことを云うものでねえ、みっともない、親子が、そんなことを云うものでねえ、みっともない」
お鶴はいきりたっていた。お鶴はお杉を
睨みつけた。
「何云ってやがるのだ、この
比こそ、あんまりへんなこともしないが、大酒を
喫って、お
父さんをふみつけにして、眼にあまることばかりしてたくせに、わたしが何も知らないと思って、ふざけたことをお云いでないよ」
長吉はまた手を
揮った。
「お鶴、まあ、これ、みっともない、そ、そんなことを云うものでねえ、みっともない、他へ聞えるのだ」
「聞えたっていいわよ」
「いいことはねえ、
他に笑われる、そんなことを云うものでねえ、だいち、親子が喧嘩するなんて、みっともないことじゃ、やめろ」
「やめないわ、わたし、あんなことを云われて、親だって何だって、承知しないから」
「そりゃ、いけねえ、みっともない、いけねえぞ」
お鶴は何と思ったかふいと
起った。
「こんな家なんかに、
何人がいるものか」
長吉はもてあました。
「お鶴、お鶴、そんなことを云うものでねえ、これ、お鶴」
「いやだよ、こんな家に何人がいるものか」
お杉は平気な顔をして酒を
喫んでいた。
「へッ、お嬢さんの御立腹か、いやならどこへなりといらっしゃいませだ」
お鶴はもう歩いていた。
「往ってやるとも、こんな家に、何人がいるもんか」
長吉はお鶴を追っかけるように体を浮かしたが、さすがに
起っては往けなかった。
「これ、お鶴、お鶴」
お鶴はもう次の
室へ姿を消して往った。お杉は酒を
注いでいた。
「おまえさん、いいよ、出て往きたけりゃ、出て往かすがいいよ、好きな男の傍へでも往くだろうよ」
「そ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うから喧嘩になるのだ、お鶴を呼びなよ」
「いやだよ、わたしは」
その時がたびしと入口の障子を締めて出て往く下駄の音がした。
「困ったものだ」
長吉はほんとに困ったような顔をした。
「うっちゃっておきよ、あんな奴は、くせになるよ」
「そうはいけねえ、娘の子だから、どんな
不了見を起すかも判らねえ」
「元から不了見だよ、あれは」
「そんなに云うものでねえ、親子じゃねえか、親は子を可愛がり、子は親を大事にしなくちゃならねえ」
「あれが、親を大事にしたことがあるの」
「大事にするじゃねえか」
「おまえさん、ばかだよ、あれで、大事にしてくれると思ってるの」
その時入口の障子が
開いて人の声がした。それは
壮い男の声であった。音蔵はもう
箸も何もおいていた。
「
何人か来たよ」
お杉もそれを聞いていた。
「お客さんがあっても、取次に出るような者は、一人もいねえのだ、何と云う因果なことだ」
さすがに声はちいさかった。お杉はさも
癪にさわると云うようにして
起って往った。そこは
土室に臨んで三畳の畳を敷き、音蔵が手内職の
袋張の台を一方の隅へ置いてあった。
土室の暗い処に三十前後の店員らしい男の眼が光っていた。
「今晩は」
「何方さまでございましょう」
「わっしは、山田から来たのだが」
お杉は内心恐れていた山田の
使に来られてぎくとした。お杉はべったり坐った。
「や、やまだ」
「そうだよ」
「何か御用で」
「あの、旦那からだが、
理由は覚えがあるだろうから何も云わないが、今日かぎり、
出入をしないようにって、そう云いつかって来たのだが」
お杉は何も云えなかった。
「わっしは、何も知らないが、それだけ云えば、判ると云うのだから、それを云いに来たのだ」
「そう、ですか」
「判ってるかね」
「判りました」
「それじゃ、これで」
「まあ、いいじゃありませんか」
「まだ一軒まわる処がある、それじゃ」
壮い男はそのまま出て往った。お杉は
暫くそこに坐っていた。長吉が
茶室から呼んだ。
「おい、お杉」
お杉は返事をしなかった。
「おい、お杉」
お杉はふいと
起って茶室へ引返した。長吉は待っていた。
「山田さんのお使らしいが、なんだね」
お杉は黙って坐り、
盃を持って飲みさしの酒をぐっと飲んだ。
「何の御用だね」
「やかましいや」
長吉はびっくりしたように
潰れている眼の
瞼をびくびくとさした。
「どうしたのだ、何をそんなに腹をたてるのだ」
「
煩いよ」
長吉はちょっと黙った。お杉は
銚子の酒を
注いだ。
「何云ってやがるのだ、おまえさんなんかの口を出すことじゃないよ」
長吉は首をかしげた。
「どう、どうしたと云うのだ、怒鳴らないで云ってみな、何か山田さんから云って来たのか」
お杉は注いだ酒をあおった。
「やかましい、どう盲人のくせに引込んどりよ」
「引込んでてもいいが、心配になるから聞いてるのだよ、どうしたのだ」
「聞きたけりゃ、云ってやるよ。今日かぎり、山田さんへ
出入をしないことになったのだよ」
「でいり、出入ができないのか」驚いて、「どうしたと云うのだ」
「この間、奥さんのお伴をして、
池上へ往ってて、
破戸漢に
因縁をつけられたのだが、それを何かかんちがいしたものだろう、出入をさせなけりゃ、させてもらわなくてもいいや、
何人があんな処へ往ってやるものか」
長吉はおどおどした。
「お、おい、そ、そりゃ、いけねえ、いけねえぞ、今まで御恩になった処じゃねえか、かんちがいをされたことがありゃ、りっぱに
明しをたてなくちゃ、いけねえ、そんなことを云うものでねえぞ」
「やかましい」
お杉は手にしていた
盃を投げつけた。盃は長吉の
額に当って
食卓の上にある漬物の皿の中へ落ちた。音蔵は手を出してその盃を
遮ろうとしたがおそかった。
「叔母さん、そ、それは」
お杉は憎にくしそうに音蔵を見た。
「何云ってやがるのだ、このばった」
音蔵の顔は
真蒼になった。
「お、叔母さん、叔母さん、それは」
「やかましい、黙ってろ、
不具者のくせに、引込んでろ」
長吉は体を
顫わした。
「何と云うあくたれだ、てめえは、気がちがったか、なんと云うことだ」
お杉はやけくそであった。
「やかましい、どう盲人と、足のちぎれたばった野郎、よくもよくも、
一処へ集まったものだ」銚子で
食卓の上を叩いて、「こんな
不具者ばかりの処で、酒なんか飲めるものでない」とついと
起って、「どこかへ往って、飲みなおす」
お杉はどんどん歩いて往ったが、やがて障子を
啓けて外へ出て往く気配がした。音蔵は歯をくいしばって考えこんでいた。
「おと」
音蔵の耳には入らなかった。
「おと」
荒い南風の吹く中を広巳は歩いていた。その広巳の瞳には、人や車が影絵のように映り、建物が
歪んで映り、時とすると
灰汁のような色をして飛んでいる空の雲が鳥の
翅のように映り、風のために裏葉をかえしている
嫩葉が銀細工の木の葉となって映った。
(へんだなあ、今日は)
それは
午すぎであった。広巳は足にまかして歩いた。
(どうしたと云うのだ)
広巳はどこへ往っているとも、またどこを歩いていると云うことも判らなかった。
(俺は、どうかしてるぞ)
何故、こんなことになったのだと考えた広巳の頭に、醜い
嫂の姿が浮んだ。
(彼奴のせいだ、あの
畜生のせいだ、彼奴がいなかったら、俺はこんなことになりはしないぞ、あの畜生のせいだ)
あの畜生さえいなかったら山田家は
朗かで、
鮫洲大尽として人にも尊敬せられて往くのであるが、あの畜生のいるばかりにこんなことになった。
(それと云うのも、兄貴がお人好しだからだ)
兄貴がお人好しで蛇を拝んだり、
白蟻の糞を拝んだりしているからだ。兄貴の眼を
覚すには、あの蛇からどうかしなくちゃならない。
(あの蛇と白蟻の糞をどうかして、兄貴の眼が覚めたら、兄貴も
何時までも女房の尻にしかれてはいないのだ、女房に踏みつけられて、それで
他から金をとられるなんて、こんなばかばかしいことがあるものじゃない)
広巳の口元にはその時微笑が浮んだ。広巳は二人の悪党にせめてもの復讐したことを考えだしているのであった。
(それにしても、
撲りつけたものが、
己だと知れると、また何か云って来やしないか)
云って来たところで正義はこっちにある。
「何、
戦に往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ)
[#「「何、戦に往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ)」はママ] 広巳の眼に
己の入ろうとしている門が映った。広巳は驚いて足をとめた。それは己の家の
母屋の門であった。
(おや、俺はどこからか帰って来たのか)
広巳は門の中へ入った。表庭との境いになった板塀の
耳門が半ば
啓いていた。広巳はその方へふらふらと往った。
庭の樹木も風に
掻きまわされていた。広巳は兄の姿が見えないのかと思ってちょっと眼をやった。風を入れないためか
室の障子は皆締めてあった。
(締めてあるな)
広巳はふと何かの気配を感じた。広巳の眼は
白沙を敷いた地べたへ往った。そこにあの蛇が
蠢いていた。
(出てやがるな、糞蛇)
広巳は
忽ち蛇に憤りを感じた。広巳はそっと
四辺へ眼をやった。
客座敷の方で不意に人声がした。
「どうだね、御主人、返事をしてもらおうか」
それは
愛嬌のない
詞であった。広巳はそれに耳をやった。次の
室の障子が音もなくすうと
啓いた。広巳は
何人だろうと思って眼をやった。定七の顔とともに定七の一方の手が出てこっちを招いた。広巳は
頷いておいて
跫音をさせないようにして縁側をあがり、障子の引手に体を当てないように用心しながら入った。定七は広巳の入るのを待っていた。定七は急いで口を持って来た。
「また、来たのですよ」
広巳は
囁きかえした。
「
何人だ」
「やっぱり
破戸漢ですよ」
「そうか」
その時客座敷で声がしはじめた。
「もう、いいだろう、
鮫洲大尽と云えば、何人知らぬ者もない家の主人だ、
何時までもぐずぐずしていられては困る、それとも返事を延ばしておいて、警察へでも云ってやるつもりかね」
それは
嘲りを帯びた声であった。
「そんなことはない」
「それじゃ、警察へは云ってやらんのか、しかし、云ってやろと思えば、云ってやってもいいよ、ほんとを云や、吾輩も悪いのだ、罪悪を犯しておいて、それに未練があって、細君をもらいに来ているのだから、君に怒られて、まかりまちがえば、警察へ突き出されて、赤い
衣服を
被せられるかも知れんと思って、それを覚悟で来ているのだ」
広栄の返事はなかった。広巳の眼には
怒が湧いた。広巳は定七の耳へ口を持って往った。
「関係があるから、渡せと云って来ているのか」
「そうですよ」
「けしからんぞ」
「云いがかりですよ」
「いや、ほんとかも判らん、あれは、そんなことをする畜生だ」
広巳の声が大きくなりかけたので、定七はあわてて
掌をその口へ持って往った。
「聞えますよ」
「聞えたっていいや」
「ま、若旦那」
客座敷の声がまた聞えて来た。
「おい、
何時まで黙ってるのだ、しびれがきれるぜ、御主人、
鮫洲の
大尽君、女をくれるか、
厭か、返事をしてくれないのか」
「返事もしますが、家の家内が、
何日、どこで、そんなことをしたでしょうか」
「日か、五六日前だ、入用がありゃ云ってやる」
「五六日前」
「そうだ」
「それはどこでしょうか」
「大福帳へでも書きつけるつもりかね」
広栄は返事をしなかった。
「書きつけたけりゃ、はっきり云ってやるが、場所は、池上の
魁春楼だよ」
「池上の魁春楼」
「そうだよ、その日、君の細君は、婆さんを
伴れて、
壮い馬の脚をくわえこんでいるところを、壮い奴にひどい目に
逢わされて、困ってたから、吾輩が慰めに往ってやって、すまないがそれからだよ」
「そうか」
「判ったかね」
広栄は何も云わなかった。広巳は
狂人のように
室を飛びだした。飛びだすひょうしに体が障子に
衝つかって大きな音をたてた。定七は驚いて広巳をつかまえようとしたが及ばなかった。広巳はそのまま庭へ飛びおりて庭の上へつらつらと眼をやった。
楓の老木の近くにある
高野槇の根方に、あの蛇がいて鎌首をもったてながら針のような赤い舌を出していた。
「くそ」
広巳の眼は
脱沓の方へ往った。そこに庭下駄が一足揃えて置いてあった。広巳はそれを見ると脱沓の方へ往って、その下駄の片方を
執るなり、蛇の処へ走って往っていきなり
撲りつけた。
「あ」
それは定七の叫びであった。広巳は定七の声を聞くと一層力を得たように続けて蛇を撲った。蛇は
紐を解いたようにそのままぐったりとなってしまった。
「くそ」
広巳は手にしていた下駄を投げ棄てるなり、その蛇の胴体をむずと
掴んで客座敷の縁側の方へ走って往った。
「あれ、あ、若旦那」
定七ははらはらしていた。広巳の耳にはもう定七の声などは入らなかった。広巳は縁側へ駈けあがるなり、客座敷の障子をがらりと開けた。
室の中ではあの岡本と広栄がさしむかっていたが、魔鳥のように駈けこんで来た広巳に驚かされてきょときょとした。広巳は岡本をめがけて手にした蛇を投げつけた。
「これでも
啖え」
蛇は岡本の顔へ当って畳の上へ落ちた。岡本の手は
羽織の
紐にかかった。
「乱暴するか」
「この
破戸漢、ふざけやがるな、ここをどこだと思ってるのだ」
岡本は広巳を
睨みつけた。
「へん、ここをどこだ」声をおとして、「ここは
鮫洲のお
大尽のお
邸さ、お邸と知って、奥さまをもらいに来てるのだが、
汝はなんだ」
「
乃公か、乃公はこの家の者だが、
汝こそなんだ、ふざけたことをしやがると、その蛇のように
敲き殺すぞ」
広栄ははらはらとするばかりでどうすることもできなかった。定七が縁側から顔を出した。
「もし、もし、どうか、もし」
広巳は火のように怒っていた。
「やかましい、黙れ、
乃公がこの
破戸漢を
敲き殺すんだ」岡本を睨みつけて、「野郎、出て往きやがれ、ぐずぐずすると敲き殺すぞ」
広巳は傍の
唐金の火鉢に眼をつけた。広巳はいきなりそれに手をかけた。広栄がその手にすがりついた。
「広巳、そ、そんなことをしては、広巳」
「いけねえ」
岡本は羽織をぱっと後に
放ねた。放ねると同時に背の方にまわして持っていた日本刀を
執った。
「乱暴するか」
「なにを」
広巳は火鉢を持ちあげようとしたが、広栄が死力を出してしがみついているのであがらなかった。
「
汝は、
泪橋の下で、
壮い奴をひどい目に
逢わした奴だな」
「やかましいや、この破戸漢」
「破戸漢であろうと、なんであろうと、そんなことに用はない、ここな奥さんをもらって往けば、それでいい、
痴なことをしないで、旦那にそう云って、奥さんを俺にくれるようにしてくれ」
「あんな腐った
女は欲しくはないが、
汝なんかに渡すものか、渡すようなら、首にして渡さあ」
「こりゃ面白い、首にして渡してくれるか、受けとろう、俺も、男の意地だ、こうなりゃ、首でも体でも、渡してもらわなくちゃ帰らない」
「なに」
広巳は火鉢をすてて
床の方へ走った。床には
刀架があって、広巳が記念の軍刀と日本刀が架けてあった。広巳は日本刀を
引掴んで
執り、すらりと
脱きながら岡本の方を
揮り向いた。
「女の首を渡す前に、まず
汝の首を渡せ」
岡本は刀の
柄に手をかけた。
「なにを」
定七が
室の中へ飛びこんで来た。
「いけない、いけない、若旦那、そ、そんなことをしては、いけない、若旦那」
「なに、今日は、この家の邪魔をする
妖魔を斬っちまうのだ」
「いけない、若旦那、あなたは」
定七は広巳のけんまくが荒いので傍へ寄ることができなかった。広巳は岡本の前へ出た。
「野郎」
岡本は同時に刀を脱いたが、広巳のけんまくに気をのまれて腰が浮いた。同時に広巳の刀が頭の上に
閃いた。岡本は逃げ走った。
「逃がすものかい」
広巳は
悪鬼のようになって追っかけた。定七も広栄もどうすることもできなかった。
「たいへんだ、たいへんだ、
何人か来てくれ」
「広巳、広巳、そ、そんな」
「あれ、あれ」
「
何人か来てくれ」
岡本は玄関の方へ逃げる
隙がないので、奥との境になった
襖を突き倒すように
啓けて逃げた。
「くそ」
広巳も夢中であった。奥の室へ入った岡本は、今度は縁側の障子をこれも突き倒すように啓けて裏庭へ出た。裏庭には柿や梨の木が植わっていた。風はますます吹きつのって、その柿や梨の木を
掻きまぜていた。
「くそ、逃がすか」
広巳を追って出た定七は、そこでも大声かけた。
「たいへんだ、たいへんだ、
何人か早く来てくれ」
それと知って二人の
婢も裏庭へ顔を出した。
「あれ、あれ、たいへん、たいへん」
「あれ、あれ」
岡本は果樹の間から出て土蔵の方へ走った。広巳はどこまでも追って往った。定七や婢が後から来て叫んだ。
その時右の
端の土蔵の口が内から
啓いて、お高と
小厮の平吉がひょこりと出て来た。広巳の体はお高の前にあった。夢中になっている広巳の眼にもすぐお高の姿が映った。広巳はお高に走りかかった。
「この
妖魔」
広巳の刀はきらりと
閃いた。
「わっ」
お高は一声叫んだなりに倒れてしまった。広巳は倒れたお高の上にまた刀を
揮った。
「よくもよくも、家に泥をぬりやがったな」
広巳は肩で
呼吸をした。広巳の刀には血が赤く笑っていた。広巳はその刀を
揮りまわしながら岡本を尋ねて走った。
「くそ」
広巳は定七に
伴れられて家を出た。広巳も定七も黒の
紋附羽織を
被、
袴を
穿いて、何か儀式へでも臨む日のような姿をしていた。広巳が品川の警察へ自首して往くところであった。
風はますます強く雲も濃くなって、今にも雨が添いはしないかと思われるような天候になった。帽子を
冠っている広巳は、その風のために時どき帽子を持って往かれそうになった。羽織の
袖は
靡き、袴の
裾はまくれあがった。
広巳は
蒼白い沈痛な顔をして黙々と歩いていた。定七は広巳の後を歩いていた。定七は広巳から眼をはなさなかった。二人は八幡祠の前を往っていた。
「おや、若旦那だ、ちょうどよかった、若旦那」
はすっぱな女の声がどこからか飛んで来た。広巳は重くるしい眼をやった。お鶴と品のある中年の

な女がいた。お鶴は
平生の調子であった。
「若旦那、どこへいらっしゃるのです」
広巳はお鶴の顔を見るばかりであった。
「若旦那、どうかなさったのですか、今日は奥さまのお伴をして、あなたにお眼にかかりに往くところよ」
定七は困ったが、お鶴といっしょにいる
地位のありそうな女に気がねして何も云わなかった。広巳はやっぱり何も云わなかった。
「どうしたの、若旦那、私がこの間話した奥さまじゃありませんか」
広巳の眼はお鶴の傍にいる女へ往った。女はしとやかにおじぎをした。
「山田さま、
暫くでございました、もう十五六年にもなりますから、お忘れになってらっしゃると思いますが、私は森山節でございます」
精神の
混沌としている広巳にはものを考える力がなかった。広巳は
痴のように女の顔を見た。お鶴がそれをもどかしがった。
「若旦那、思い出せないですか、
何時も若旦那と遊んでいらした方ですよ、忘れたのですか、ここの八幡さまの中で、若旦那が
諍闘してた時に、
留めてくだされた方ですよ」
広巳の混沌としている気もちを揺りうごかすものがあった。広巳は女を見なおした。
「あ」
それは広巳の尋ねている海晏寺の前の
榎の下で見た女であった。女は心もち顔をあからめていた。
「月の晩に、海晏寺の前でお眼にかかりました」
「ああ」
しかし、幼な
朋友としての女は思い出せなかった。女は定七の方へ顔をやった。
「
小父さん、
海苔をつけていた新吉を御存じでしょうか」
定七はすぐ記憶を呼びおこした。
「そうだ、新吉の、それじゃ
汝さんは、せつぼうだ」
女は
莞とした。
「その節でございます、
暫くでございました」
「どうも暫くだ、暫くだから、ゆっくり話もしたいが、今日はとりこみがあって、ゆっくりしていられない、明日でも、また」
「これは、どうも失礼いたしました、それでは、また、明日にでもあがります」
女はそう云ううちにも広巳の気配に注意していた。女は広巳をしっかりと見た。
「山田さま、それでは、また、明日でもお邪魔さしていただきます、それでは」
女はおじぎをしてお鶴を
伴れて往ってしまった。定七は気をせいていた。
「それでは、若旦那、まいりましょう」
「うん」
二人は歩きだした。そして、海晏寺の前を通りすぎたところで、どこからか竹杖にすがった
壮い男が、とんとん飛び歩きをしながら
豪い
勢で出て来た。それは長吉の
甥の音蔵であった。音蔵の両手は血に染まっていた。音蔵の後から音蔵を追っかけるようにして四五人の者が来ていた。音蔵は
揮りかえった。
「
乃公は、警察へ往くのだ、邪魔しやがると、ついでにやっつけるぞ」
夜になって雨が降りだして珍らしい
暴風雨になったが、その暴風雨の中で山田家のあの
中央の
蟻の塔のある土蔵が
潰れた。