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警察署長

田中貢太郎




 ニコリフスクに恐ろしい殺戮さつりくの起った時分のことであった。そのニコリフスクから五六里離れた村に過激派のクラネクと云う警察署長がいた。

 彼はある日事務室にいてじぶん某命あるめいをふくめて外へやった部下の帰って来るのを待っていた。それは浦塩うらじおから来て雑貨商を営んでいるローゼンと云う男のむすめのことをさぐらしにやったところであった。暖かな春の硝子戸がらすどからさしてねむいような日であった。彼はジンを飲みたくなったので傍にあったベルを鳴らした。そして、ちょっとの待っていたが、靴の音もしなければ返事もしないので、今度はやけに強く押し鳴らした。

 軽い小さな靴の音がした。部下のタスキンの兵隊靴にしてはちがった音だと思った。と、うしろドアいて女の子が顔を出した。それはクラネクのむすめであった。

「お前か、タスキンはいないのか」

「タスキンは、まきを割らしているのよ」

「そうか、では、ジンを一杯コップへ入れて、持っておいで」

 女の子は引込んで往った。クラネクは引込んで往くじぶんの小供のようやおんなになりかけた青い服に包まれたまるっこい腰の肉の隆起に眼をけた。そこにはんびりしたローゼンのむすめの影があった。彼は部下がもう帰りそうなものだと思った。白い馬に乗ったむすめの姿がまた眼前めさきに浮んだ。

 はじめのドアいて女の子がコップへ酒を入れて持って来た。クラネクはすぐそれを手にして一口飲んだ。そして、無意識にきつねのような小供の顔を見た。女の子はさっさと出て往った。クラネクはまたコップに口をつけた。

 せかせかしていた心がややしずまって来た。彼はコップをおいて椅子いすもたれた。まかりちがえばローゼンの一家を鏖殺おうさつしてもかまわないから、むすめはどうしても己のものにしなくてはならんと思いだした。と、嫉妬しっとの強い背の高い肩幅の広い細君さいくんの顔が見えて来る。かつて部下のわかい細君と関係した際に狂人きちがいのようになった細君にこづき廻されたことが思い出された。そこで彼はローゼンのむすめを手に入れた際に、どうすれば細君に知れないで媾曳あいびきを続けることができるかと云うことを考えたが、それにはそのむすめをニコリフスクの方へやっておいて、ニコリフスクの本部へ往く用事をこしらへて出かけて往けば好いと思いだした。

「署長さん、祝杯をおげになっておりますか」

 クラネクはびっくりして顔を挙げた。待ち兼ねていた部下のベルセネフが笑いながら入って来たところであった。

「ベルセネフか、あまり退屈だから、一ぱいやってたところだ」

 ベルセネフはその警察の刑事探偵で、彼はよれよれの背広服を着て労働者のふうをしていた。彼はもったいぶって腰をかけた。

「どうだ、好いことが見つかったのか」

 クラネクは首をさし出すようにして小声で云って微笑した。

「見つかりましたとも、そこが私ですよ、ローゼンのお嬢さんが、午後になると、時どき馬に乗って、山の方へ散歩に往くことまで、調べて来たのです、そのうえ、そのお嬢さんが、今もその馬で、家を出たことを突きとめて来たのです、偉いでしょう、署長さん、国事犯の書生っぽをつかまえたよりゃ、こうがあるのでしょう」

「好いとも、二倍の賞与を出してやる、ついでに、これから俺を山へれて往け、機をしっしないうちに、すぐ実行する」

「すぐこれからですか」

「幸運は、うしろに毛がないと云うじゃないか」

「よろしゅうございます、では、やっつけましょう、そのかわり、二倍の賞与はいただけましょうね」

「いいとも、旨く往けば、また別に出してやる」

 クラネクはもうちあがった。起ちながらコップを持って残りの酒を飲んだ。


 みちは丘と丘の間に挟まれていた。ローゼン家のエルマはその路を白い馬に乗って通っていた。雪の消えたばかしの谷間には短い草がきれいに生えて、西に廻りかけたがそれにしていた。エルマは丘のむこうの[#「むこうの」は底本では「むかうの」]池の傍へ来ている青年に会いに行くところであった。

 左側の丘が駱駝らくだの背のように出っ張って来ているのが見えた。エルマはその丘のはなの方を見た。そこを折れ曲って林の中を抜けて往くと、すぐ水の青い池があって水際みずぎわにはいろいろの形をした岩が立っており、その岩の陰になったところに髪の黒い青年が彼を待っているのであった。

 エルマは暖かな青年の腕と唇を感じながらうっとりとなっていた。丘の出っぱなが近くなった。いじけたまつが出っぱなの背に飛び飛びに生えていた。

 物の気配を感じたように馬の耳が動いた。エルマはうっとりとした眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。労働者のような男が一人丘の陰から出て来た。

「お嬢さん、ローゼンのお嬢さん」

 エルマは町の人と思ったので鬼魅きみ悪く思いながらも馬を止めた。馬はおびえたようにいなないた。

「ちょと馬から降りてください、貴女あなたに御紹介したい方がございます、うさんな者じゃありません、おいになればすぐ判ります、貴女のお父さんも、貴女もよく知った方です」

 エルマにはその用事が何の用事であると云うことがすぐ判るような気がした。彼はそんなみだらな者の対手あいてになりたくはなかった。

「どなたか存じませんが、御用なら宅でお目にかかります、ここでは困ります」

「そんなにお嫌いになる方じゃありませんよ、立派な方ですよ、お逢いになれば、すぐ判ります、地位みぶんのある方ですよ」

 労働者のような男はベルセネフであった。ベルセネフは馬の前に廻った。

「でも困ります、こんな野の中では」

「まあ、そう、そんなにおっしゃるもんじゃありませんよ、貴女あなたにしても、関係がない方とは云えませんから」

「でも困ります、それに、すこし用事もありますから、これで失礼いたします」

 エルマは一思いに馬を飛ばそうとした。ベルセネフはいきなり馬のくつわつかんだ。馬は身をもだえるように轡を掴まれたなりにぐるぐると廻わった。

「まあ、ちょっとおりてください、ちょっとでいいのですよ、そんなにするもんじゃありません」

「困ります、放してください、こんなところでは、どなたにもお眼にかかりません」

「あまり強情じゃありませんか、それじゃおためになりませんよ」

「かまいません、はなしてください、失礼じゃありませんか」

「そんなに云わずにちょっとおりてください、貴女あなたが嫌いなら、私が馬をれて往きましょう」

 ベルセネフは馬の轡をしっかり持って丘の陰の方へ歩きだした。

「何をなさるのです」

 エルマは手にしているむちで無礼な男をたたこうと思ったが、鞭がそれにとどきそうにもなかった。

 出っぱなの下に一人の男の姿があった。エルマはそれを見るとこのままにいては大変だと思いだした。丘のむこうの林の木立こだちが見えた。林のさきの池の傍にはあの青年がいるのであった。彼はいきなり馬から飛び降りて林の方へ向って走った。ベルセネフは驚いてまごまごした。

おっかけろ、追かけろ」

 丘の下に立っていたクラネクが叫んだ。ベルセネフは馬を捨てておいて女の方に向けて走りだした。走りながらななめに見るとクラネクの走って来るのが見えた。

 左に折れ曲った丘に沿うて白樺しらかばもみの林が荒涼としてつらなっていた。エルマはその林に近い灌木かんぼくの中へ往った。ベルセネフがもう追っついて来た。彼はむちを放さずに握っていた。彼はり向いて鞭をふった。ベルセネフの鼻端はなさきにその鞭が来た。ベルセネフはそれを避けて体を右にして立ちどまった。エルマはそのすきにまた走った。

 灌木の枝がかかって思うとおり走れなかった。ベルセネフの双手りょうてが肩に来た。エルマはまた鞭をふろうとしたがもうその隙がなかった。エルマは抱きすくめられてしまった。彼は大声を出して叫んだ。ベルセネフは叫ばすまいとして隻手かたてを口にやろうとした。それがために女をつかんだ手が緩んだ。エルマは揮り放して林に沿うて逃げた。

 けだもののような双手がまたエルマにかかった。それはクラネクの手であった。エルマはまた叫んだ。

「お嬢さんお嬢さん、そんなに騒がなくってもいいのですよ」

 エルマは首を捻向ねじむけるようにして対手あいての顔を見た。それは見覚えのある警察署長の顔であった。

「何をなされるのです、失礼じゃありませんか」

「そんなに云うものじゃありませんよ、私は貴女あなたにお話したいことがありましたから、お呼びしましたけれど、貴女が逃げるじゃありませんか」

「何の御用ですか、云ってください、御用なら、口で云って判るでしょう、放してください」

 エルマは怒りを押えてひややかに云った。

「放したら逃げるでしょう、まあ、そんなにしなくってもいいでしょう」

 酒臭い男の息がかかった。

「何の御用ですか、云ってください」

 ベルセネフが来て立っていた。

「お嬢さん、そんなことをおっしゃらずに、署長さんは大変貴女あなたのことを思っていらっしゃるのです、署長さんのおことばに従ったがいいでしょう、シベリヤが革命騒ぎで大変なことになってても、この町がすこしも騒がないのは、この署長さんのおかげじゃありませんか、この署長さんがいなかったら、貴女のお父さんも、お母さんも、貴女の家の財産も、貴女も、どうなってたか判らないじゃありませんか、署長さんのお詞に従いなさい」

 クラネクはエルマをつかんだ手を緩めて、その手を軽く女の双手りょうてにかけた。

「いやです、私は脅迫せられて、じぶんの意志を曲げるのは嫌いです」

「脅迫なんかしやしないじゃありませんか、貴女があのとき、馬から降りてくだされりゃ、こんなかけっくらなんかしなくてもすんだのですよ」

「そんなことをおっしゃっても駄目ですよ、脅迫じゃありませんか、私はいやです、どなたのおっしゃることでも聞きません、放してください、私は嫌です」

 エルマはり放して林の方へ往こうとした。ベルセネフがその前に立ちふさがった。

退いてください、失礼なことをすると承知しませんよ」

 ベルセネフは女を抱きすくめた。

「署長さん、この女は口で云っても駄目ですよ」

「よし、あっちへれて往け」

 クラネクは隻手かたてげて林の方をさした。女は叫んで身もだえした。

「やかましい」

 ベルセネフは隻手でポケットからハンケチをつかみだした。クラネクが来て前から女に手をかけた。

 クラネクとベルセネフの二人は、猿轡さるぐつわをかまし両手を縛った女を林の中へ運んで往った。女はベルセネフの肩にかつがれていた。

 立ち枯れになった白樺しらかばの根本へ女の体は仰向あおむけに寝かされた。野獣のような二人のすぐあとからそっとつけて往くわかい男があった。彼は池の傍からエルマの叫び声を聞いてけつけて来た者であった。壮い男はそこへ飛び出て来た。

「何をする」

 クラネクは驚いてりかえった。二人は顔を見合した。

「貴様は警察の署長だな、署長ともあろう者が、そのざまは何事だ」

「貴様は何人たれだ」

「名を云う必要はない、その女を知っておる者だ」

「では、貴様と、媾曳あいびきに来たところだな、この女は」

「黙れ」

不埒者奴ふらちものめ、貴様が黙れ」

「何」

 署長の右の手が動くと共に激しい音がして、わかい男はそのままに仰向あおむけに倒れてしまった。

 クラネクは嘲笑あざわらいの顔をして立っていた。その手にはピストルがあった。

 死んだようになっている女の体が動いて頭があがりかけた。

「邪魔があって、塵埃ほこりが出来た、あちらへれて往け」

 あっけにとられて立っていたベルセネフは、そこで女を肩にして林の奥へ歩いた。クラネクは黙ってそのあとからいて往った。身もだえして動かす女の足の動きがその眼に入った。


 エルマを乗せて往った馬がその日の夕方になって帰って来た。ローゼン家では驚いて主人のローゼンをはじめ、店と関係のある町の人が手を分かって尋ねに出るとともに、一方警察の方へも捜索方そうさくがたを依頼したが、その日はとうとう見つからなかった。

 ローゼン家ではその翌日も町の人を頼んで、近郊を捜さそうとしていると、ニコリフスクから恐ろしい報道が伝わって来た。町の人びとはもうじぶんの生命と財産を気づかってローゼン家の不幸をかえりみるものがなくなった。

 二三日するとニコリフスクの方面から一団の暴徒が来て、たちまちのうちに家を焼き人を殺し強暴のありだけを尽した。町の警察がその暴徒の本部となっていた。ローゼン家もその犠牲になって町の大街路おおどおりに面した店は焼かれ、主人夫婦の生死も判らなくなってしまった。

 暴徒の引きあげたあとでは、警察署長のクラネクが悠然としてその殺戮さつりくの後の町を歩いていた。


 日本軍の来港は血にいていた暴徒を四散せしめた。クラネクはベルセネフをれ、家族の者といっしょにチタの方を心当てに逃げて往った。それぞれ馬に乗ってその馬にはトランクに積め込んだ荷物を積んであった。馬は五匹いた。一番さきの馬には警察署長の制服を脱いで汚い脊広せびろを着たクラネクが乗っていた。次の馬には十七になる男の子が乗り、その次の馬には女の子が乗っていた。の高い細君さいくんが四番目の馬に乗り、最後の馬にはベルセネフが神経的な眼をして乗っていた。

 三日ばかりしてちょとした山の中の村へ往って一軒の宿を求めて入った。主翁ていしゅ支那しな人で家の作りも支那風であった。

 一行は汚いへやへ通された。クラネクは微暗うすぐらくなった汚い室の中をじろじろと見まわした。

「汚い室だな、宿屋へ入ったなら、もすこし室らしい室に入りたいな」

 ベルセネフが荷物のしまつをしてあとから入って来た。

「今、馬に餌をやる時に見ると、好い室があるようですよ、談判して入ろうじゃありませんか」

「どこだね」

「私達がはいって来たところから、左寄ひだりよりに室がありましたね、そこから折れ曲った処ですよ、広い室らしいですよ」

「では主人に談判しようじゃないか」

「往って来ます」

 ベルセネフが出て往った。クラネクは小供を対手あいてにして話をはじめた。細君は隅の暗い処でトランクを開けて何かがさがさと出していた。

 ドアいてランプを持った主翁ていしゅの支那人と、ベルセネフが入って来た。

「談判してみましたが、あのへやは怪しいことがあるので、何人たれも入れないと云ってるのです」

 ベルセネフが云うと主翁がそのあとから云った。

「室は広い室で、客室きゃくまにわざわざこしらえたものでございますが、怪しいことがありますから、何人も入れないことにしてあります」

 クラネクの顔にあざけりの色が浮んだ。

「怪しいって、どんなことなのだね、怖がり屋が、じぶんの影法師なんかを見て、なにか云うのだろう」

「そんなこともありましょうが、なにしろ変なことがありますから、何人も入れないことにしてありますよ」

「俺達が好いなら、かまわないだろう、そこへ入れてらおうか」

「お客さんさえよろしければ、私の方はかまわないですが、また変なことでもありますと、お気の毒ですから」

「好いよ、妻室かないや小供はここへ置いといて、この男と二人で男同志が寝るさ」クラネクはベルセネフに向って、「二人で一ぱいやりながら寝ようじゃないか」

「それが宜しゅうございますね、なに大したことはないでしょう」

「お客さんがたってとおっしゃるなら、お入りになってもよろしゅうございますが、変なことがありましても、私の家では責任を負いませんよ」

 クラネクは細君さいくんと小供をそのへやに残しておいて、ベルセネフといっしょに主翁ていしゅいて往った。主翁は二人を廊下へ待たしておいて、ランプをかまえ、それを持って家の左端ひだりはしに続いたその室へ往った。ランプの光りは真中にまるいテーブルを置いた室の中をてらした。

「この室ですよ、隣が寝室になっております」

 主翁はランプを差しあげるようにした。かば色のカーテンがそこに垂れていた。クラネクとベルセネフはその方に眼をやった。

「好い室だ、ここで食事をするから、すぐ運んでもらう」

 主翁はランプをテーブルの上に置いてから出て往った。

「好い室だ、こんな好い室があるのに、あんなぶた小屋のような処で寝られるものじゃない」

 クラネクは笑いながら腰をかけた。ベルセネフもそれといっしょにそのむこう側に腰をかけた。

「すこし窓を開けようじゃないか、暑いな」

 赤や紫の硝子ガラスをきれいに入れた硝子があった。ベルセネフは起って往ってその一枚を開けた。暗いところから涼しい風が入って来た。

「何かいやしないかね、例の怪しい奴がさ」

 クラネクが笑って云った。

「夜と云う奴が、星の眼を光らしているのですよ」

 ベルセネフは冗談に調子をあわせながら元の椅子いすへ戻った。

「今晩はゆっくり飲もう、もう、ここへ来るなら、日本人も来やしない、大丈夫だ」

「そうですね、ここなら大丈夫ですね、やりましょう、好いへやがあるが、残念なことには、美人がおりませんね」

「いつかの、林の中の美人がおると好いがね」

 二人は顔を見あわして笑いあった。

「しかし、好い女でしたね、生かしておきたかったですね」

「そうだな」

 ベルセネフがまた何か思いだして云おうとした時に、主翁ていしゅが食事の準備したくをして持って来た。二人は話をめて主翁の並べる料理の皿を見ていた。びんに入れた酒も持って来てあった。

 料理を並べてしまうと主翁は、二人の前に置いた小さなコップへ酒を一杯ずついで出て往った。

 クラネクとベルセネフとは酒を飲みながら料理をった。宵からみょうにはしゃいでいるクラネクは、よいが廻って来るに従うてますます声を大きくして愉快そうに話した。

「日本人なんかそう怖くもないが、なんだかあの美人のことが気になってね、それに、ローゼン家を鏖殺おうさつしたのだからね」

 ベルセネフはそれを人に聞かれるのが恐ろしいので、クラネクの話を他へ向けようとしたが、クラネクは話を他へ移さない。

「ローゼンの、あの細君さいくんをやっつけたのは、君だろう、むすめを殺したうえに、おふくろまで殺しちゃ、ちと可哀そうだね」

 ベルセネフは対手あいてがいなければ云わないようになるだろうと想った。

「奥さんやお嬢さんだちを、ちょっと見てまいります」

「好いよ、もすこしあとでも好い」

「でも、かってが判らない宿屋ですから、お困りになるようなことがあってはなりません、ちょと見てまいります」

 ベルセネフは急いでちあがって、何か云っているクラネクのことばを耳に入れないふうで出て往った。

「ばかだなあ」

 クラネクはしかたなしに酒を飲んでいた。いつの間にか体が重くなって来た。彼はテーブルに両肱りょうひじいた。

 ドアを開けて人の入って来る跫音あしおとがした。クラネクはふと顔をあげた。わかい男と女がすぐテーブルの前に来て立った。それは恥かしめたあとに殺したエルマとの壮い男の二人であった。

「来やがったな」

 クラネクはいきなり腰の隠しに手を入れて、ピストルをり出してず壮い男にむけて放した。壮い男は倒れた。クラネクのピストルはエルマに向けられた。エルマの体もくずれるように倒れてしまった。

「どうだ、こんなもんだ」

 クラネクはあざけり笑った。

 がまたいた。二人の者が入って来た。それはローゼンとローゼンの細君さいくんであった。

「また来やがった、こら」

 クラネクはローゼンに向けてピストルをはなした。ローゼンの体もくずれるように倒れた。ピストルはまたローゼンの細君さいくんへも放たれた。細君も倒れてしまった。

 家の周囲まわりが騒がしくなった。主翁ていしゅの支那人は五六人の者をれて飛び込んで来た。クラネクはその人びとによってとり押えられた。

 朝になってクラネクは夢が覚めたようになった。彼がわかい男と思って撃ったのはじぶんの長男で、エルマと思ったのはその妹の小供であった。そしてあとから倒したローゼンと思った男はベルセネフで、その細君と思ったのは己の女房であった。


 この話は本年の春尼港にこうから帰った某聯隊れんたいの将校から聞いた話であるが、それ以後のクラネクの消息は判らなかった。






底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会

   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行

底本の親本:「日本怪談全集 第三巻」改造社

   1934(昭和9)年

入力:川山隆

校正:門田裕志

2012年5月2日作成

2012年6月22日修正

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