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黄燈

田中貢太郎




 入口の障子しょうじをがたがたとけて、学生マントを着た小兵こがらな学生が、雨水の光る蛇目傘じゃのめがさ半畳はんだたみにして、微暗うすくら土間どまへ入って来た。もう明日あすの朝の準備したくをしてしまって、ぜんさきの二合をめるようにして飲んでいた主翁ていしゅは、さかずきを持ったなりに土間の方へ目をやった。

「いらっしゃい」

 それは見覚えのある坂の下のおやしきにいる書生しょせいさんであったが、たしかにどのお邸の書生さんと云うことは浮ばなかった。

絹漉きぬごしがありますか」

「絹漉ですか」主翁はこう云って、食卓ちゃぶだいの向うでとうにめしをすまして行火あんかにあたっている女房の方を見て、「絹漉とおっしゃるのだ、まだ少し残っているのだな」

「ああ、すこしありますよ」女房は入口の方へ体をけて、客をすかすようにしたが、障子の陰になって客の姿は見えなかった。が、それでも、「いらっしゃいまし」

「三つあれば好いのですが」と云って、書生は咳を三つばかり続けてした。

「三つぐらいならあります、何方様どちらさまでございましょう」

 女房は腰をあげようとした。

「下のおやしきさ、ええと」主翁ていしゅはまだ思い出せない。

「下の桐島きりしまですよ」と書生が云った。

「そうだ、桐島さんだ、何時いつ胴忘どうわすれをしましてね、で、絹漉きぬごしは、ちりか何かになされるので」

「どうですか、やっこに切ると云ってましたよ」

「そうですか、やっこに、では、すぐお届けいたします」

 女房が立って来て顔をだした。

「いらっしゃいまし、どうも御苦労さんでございます、殿様が大変お悪いと聞きましたが、如何いかがでございます」

「どうも腎臓が悪うございましてね、今晩も夜伽よとぎに来てくれた方が、寒いからあたたかい物で、酒を出すと云っておりますよ」

「そうですか、それは大変でございますね、ほんとにね、どんなことでもできるご地位みぶんでも、病気はしかたがございません」

「博士の二人もついていて養生ようじょうしているのですが、面倒な病気になりますと、すぐ治らないのですからね」

「ほんとにね」

「僕が貰って往きましょうか」

「なに、すぐお届けいたします」主翁ていしゅあとから云った。

「僕が貰って往っても好いのですよ、遅いし、雨も降ってますから」

「なに、よろしゅうございます、すぐお届けいたします」

 女房は余計な口さえ出さなければ、書生さんに持って往ってもらうのに、と、夫の贅言ぜいげん小面憎こづらにくかった。

「では、すぐ願います」

 書生はちょっと頭を動かしながら、くるりと体の向きを変えて外へ出て往った。と、障子しょうじしまって続いてぱっと傘をひろげる音がした。

「お前さんが持って往くだろうね、持ってくと云ったら、持っておいでよ、余計なことを云わなけりゃ、書生さんに頼んだのに、この寒いのに、二つや三つの豆腐で風邪を引いちゃ、あわないじゃないの」女房は突っかかるように云って主翁を見おろした。

 主翁は書生が帰ったので、待兼まちかねていてさかずきを持ったところであった。

「出入のおやしきじゃないか、大事のお顧客様とくいさまだ、そう云うなよ」

「お顧客とくいだって、お邸だって、書生さんなら好いじゃないか、持って往きよ」

「まあ、そう云うなよ、大事なお顧客様とくいさまだ、しかたがない、お前持って往け」

「私、いやだよ、お前さんが持ってくと云ったから、持って往きよ」

「まあ、そう云うなよ、お前持ってって来い、大事なお顧客様とくいさまだ」

「それ、よう往かないでしょう、月夜の晩でさえ、お寺の傍がこわいとか何とか云ってるじゃないか、今晩は真暗だよ、それに雨も降ってるし、私だって恐いじゃないか、お前さんが持って往きよ」

「そんなことを云うなよ、お前が往って来い、暗けりゃ、提燈ちょうちんがあるじゃないか」

「お前さんが、その提燈で、持っておでよ」

「そんなことを云うなよ」臆病な主翁ていしゅは、しかたなしにさかずきの酒を飲んで、あとぎながら、「つまらんことを云わずに、早く往って来いよ」

「恐い癖に、余計なことを云わなけりゃ好いのに」

 云いたいことを云ってしまった女房は、やっと体が軽くなったので、土間どまへおりて微暗うすぐらい処で、かたかたと音をさしはじめた。主翁はその音を聞きながら苦笑をうかべて、何か口のうちでぶつぶつ云った。そのうめきが女房の耳におかしく聞えた。

「ほんとに、この寒いのに、よけいなことを云うものだから、しょうがないよ」

 女房は豆腐を入れた岡持おかもち番傘ばんがさげて出て往った。主翁はその後姿うしろすがたを見送っていたが、障子しょうじが閉まると舌うちした。

「ばか」

 食卓ちゃぶだいの上には微暗い電燈がさがっていた。主翁はその電燈のたまをちょと見たあとで、右側をちらと見た。そこには庖厨かっての方へ出て往く障子があった。障子には二処三処ふたとこみとこ穴がいて暗い燈影ほかげがそれにかかっていた。その障子に物の影が薄く朦朧もうろうと映っているように見えた。主翁は軽い悪寒おかんを感じながらおずおずした眼をそれに向けた。何の影らしいものも見えなかった。主翁はやっと安心して盃を持ちながら一口飲んだ。

 土間どまの方が気になって来た。主翁ていしゅはまた左側へ眼をやった。じめじめと降る雨の音が聞えて来た。主翁の心は豆腐を持って往った女房の方へ往った。岡持おかもちげた女房の体は、勾配こうばいの急な坂をおりて、坂の降り口にあるお寺の石垣に沿うて左へ曲って往った。寺の門口かどぐちにある赤松の幹に、微暗うすぐら門燈もんとうが映って見える。長い長い石垣の上に、杉の生垣いけがきが続いて、その隙間すきまから石碑がのぞいている。電柱がその石垣に沿うて一つ二つ見えて来る。右側の人家は戸が閉って、その戸のすきからかすかに燈の光が見え、小さな冷たい雨がその燈の光を受けて、微なしまっているのが浮んで来る。

 街が左にすこし折れまがって、曲り角に電柱が見えて来た。青い蛍火ほたるびかたまったような一団の鬼火ひとだまがどこからとなく飛んで来て、それが非常な勢いで電柱に突きあたった。あたったかと思うと、それが微塵みじんに砕けてばらばらと下におちた······

 主翁は怖ろしさに呼吸いきが詰るように思った。彼は食卓ちゃぶだいすがりつくようにもたれたが、四辺あたりが気になるのでやっとの思いで土間の方を見てから、そのあとで右の方の障子しょうじを見た。障子の破れ穴の一つに怪しい者の眼球めだまが光るような気がした。彼は逃げるように行火あんかに掛けてある蒲団ふとんを頭からかぶって、猫か犬かが寝たように円くなって寝た。

 主翁の心がやっと静まって来た。彼はもう女房が帰ってくる時分だと思いだした。女房が帰って来たなら、内へ入らないうちに起きなくてはいけないと思った。彼は被っていた蒲団をすこしかして、下駄げたの音が聞えはしないかと耳を澄ました。

 じめじめとした雨の音が聞えるばかりであった。彼はまた二三日前に人から聞いた鬼火ひとだまのことを思いだした。青い蛍火ほたるびかたまったような火の団りが電柱にぶっつかって、粉粉こなごなになったさまが眼の前に浮んで来た。

(ありゃ、桐島の書生の鬼火ひとだまだ、乗手の判らない自動車にかれて死んだと云うことになってるが、何か込み入ったわけがあるかも判らない、それでなくて、鬼火ひとだまになって出て来るものかね)

 桐島邸の左隣になった長屋で、何時いつか聞いた話が主翁ていしゅの耳によみがえって来た。

(おやしきの若様と云っても、恥かしくないような、好い男の書生さんだった、何か理があるだろうよ)

 坂の下の散髪屋の主翁の云ったことばも浮んで来る。

(あんな大きなお邸だ、俺達には判らない、いろんなことがあるだろう)

 主翁は活動で見る上流社会のお家騒動のようなことを頭に浮べていた。と、がたがたと気忙きぜわしそうに障子しょうじを開ける音がした。主翁はびっくりして蒲団ふとんをはねけて起きあがろうとした。

「寒い、寒い、えらい目にあったよ」女房は寒そうにびしょぬれの傘のかしらつかんで入って来たが、蒲団をはねけて半身はんしんを起した主翁を見つけると、「ほんとに恐がりねえ、恥かしくはないの」

「ばか、何が恐いのだ、めしの給仕をしてくれるものがねえから、待ってたんだい」

 主翁は女房に悟られまいと思って、平気をよそおうて行火あんかを出てもとの処へ坐った。

「恐くなけりゃ、何故なぜ一人でさっさと飯をしまわないの、何時でも食べられるようにしてあるじゃないか」

 女房は暗い方の棚へ岡持おかもちを置きに往った。

「主翁が一人で、めしなんかる奴があるかい」

「もう、外へ出る用事が無くなったと思って、急にえらくなったね」女房は小さな縁側えんがわをあがりながら、主翁ていしゅをおどしてやる気になった。「でも、お前さんをやらなくってよかったよ、私も恐かったけれども、お前さんだったら、どんなことになったか判らなかったよ」

「な、なんだ」主翁は顔色を変えた。

いやなものがね」女房は恐そうな顔をして長火鉢ながひばち食卓ちゃぶだいの間を通り、主翁のいであった蒲団ふとんを直して行火あんかに入りながら、「見たのですよ、ただ人の噂だと思っていたが、ほんとに見たのですよ」

「なんだ、なんだ」

「帰りに、あすこの曲り角の電信柱の処まで来ると、青い鬼火ひとだまがふわふわと飛んで来て、ぶっつかったのですよ」

 主翁は食卓ちゃぶだいすがりつくようにした。女房はそれをじろじろ見ていた。

「私はどうしようかと思ったのですよ、坂の下まで夢中に駆けて来ると、書生さんが三人上からおりて来たので、やっと人心地ひとごこちがついたのですよ」

 主翁は返事のかわりに溜呼吸ためいきをした。女房は笑いだした。

「ほんとに恐がりね」

 主翁も女房のかついでいたことに気がいた。

「なんだ、俺をかついでいるのか、そんなことは恐くはねえや」

「ほんとに、お前さんは臆病だよ」女房は笑うのをして真顔になり、「さ、御飯ごはんを早くおあがりよ」

「ふざけるねえ、なにが恐い」

 主翁ていしゅ両臂りょうひじを張るようにした。


 主翁は枕頭まくらもとに坐った女房にり起されてやっと眼を覚したが、眠くて眠くてしかたがないので、伸ばした右の手の手首を左の指端ゆびさききながら寝ぼけ声を立てた。

「まだ早いじゃねえか、そんなに早く起きたってしかたがねえ」

「早くはないのだよ、もう四時だよ、さっさとお起きよ」

「四時になってからでも好いよ」

「いけないのだよ、早くしないと、日の短い時は、何もするあいだがないじゃないの、お起きよ」

 女房がまた体を揺るので、主翁はしかたなしに起きて、蒲団ふとんの上にしゃがみ、ねむい眼をしょぼしょぼさした。微暗うすくらい電燈の光が寒そうに光っていた。女房はもう黒いうわっぱりを着て、長火鉢ながひばちには鉄瓶てつびんをたぎらしてあった。

「雨はどうだ」

「やんでるよ、すぐ御飯ごはんにするから、瓦斯ガスけて、表の戸を開けておくれよ」主翁は寒い風に当りたくなかった。それに家の外には鬼魅きみ悪い暗い夜があった。

めしのあとで好いじゃないか」

「好かあないよ、仕事のきまりがつかないから、お開けよ」

 庖厨かっての方で飯の焦げつく匂いがした。女房は庖厨の方へ往った。

 主翁はいやであったがそのうえぐずぐずしていると、また女房から臆病だとか何んとか云ってあざけられるので、しかたなしに体を起して長火鉢ながひばち猫板ねこいたの上に乗っているマッチを持ち、土間どまへおりて爪立つまだつようにして瓦斯ガスのねじをひねり、それにマッチの火を移した。威勢の好い蒼白あおじろい光が燃えて、豆をひく石臼いしうすや豆腐釜などを照らした。

 瓦斯の火が済むと、マッチの箱をふところへ入れて、入口へ往って障子しょうじを開け、それから懸金かけがねになった錠前じょうまえに指をかけた。錠前は氷のように冷たかった。指端ゆびさきの痛くなるほど力を入れてそれをはずし、雨戸へ手をかけたが、得体えたいの知れない怪物が戸の外に立っているような気がするので、こわごわ開けた。

 暗い中から冷たい風が吹いて来た。主翁ていしゅは肩のあたりで呼吸いきをした。しかし、別に怪しい物もいそうにないので、やっと安心して雨戸を外すつもりで外へ出た。

「豆腐屋さん」

 不意に人声ひとごえがしたので主翁はびっくりして、動悸どうきをさしながらすかして見た。学生のマントを着た少年が眼の前に立っていた。

昨夜ゆうべは遅く気の毒でした」

 それは昨夜豆腐の注文に着た桐島の書生であった。

「おや、桐島さんの書生さんですか」

「ああ、桐島だがね、今日、また沢山注文するから、ちょっとこれから、おやしきまでいっしょに往ってくれないかね」

 主翁はすぐ曲り角の電柱が気になったが、そのうちにが明けてくるだろうと思ったので、往って好いと思った。

「朝早くから気の毒だが、ちょっと往ってくれないかね」

「まいりましょう」そう云って主翁ていしゅは内の方をふり返って、

「おい、桐島さんから、御用があると云うから、ちょっと往ってくるぜ」

 家の中から女房の返事が聞えて来た。

「じゃまいりましょう、それにしても、ばかに早いじゃありませんか」

「殿様が御病気だから、家の者は皆寝ずにいるのだ、だから、宵も朝も無くなっているのだ」

 二人はいっしょに歩きだした。

「ああ、そうですね、大変ですね、殿様の病気は、ちとよろしい方でございますか」

「どうも、よくなくって困っているのだ」

 主翁は歩きながら空を見た。ところどころ雨雲の切れた黎明よあけの空に、うすい星の光があった。主翁はんと云っても黎明であると思って嬉しかった。

 きつい坂をおりかけてから二人の話はんだ。主翁は書生の右側を雁行がんこうして歩いていた。寺の門口かどぐちにある赤松の幹に電燈のが依然としてかかっていた。坂の上にいるときには、今にもが明けてしまいそうに見えていたが、下へおりてみると、真暗で黎明らしい趣きはなかった。主翁は不安になって来た。

「まだこんなに早いでしょうか」

 白い学生の顔の半面が見えた。

「なに、すぐが明けるよ」

 石垣に沿うて電柱が恐ろしい形に見えていた。生垣いけがきの上の方をすかすと、石碑の頭が一種の光を持って見えていた。主翁ていしゅの心は暗くなった。彼は書生とぴったりならんで歩いた。

 みちの曲り角がそこに来た。主翁はこわごわそこの電柱に眼をやった。黒ぐろと立った柱には何の怪しいこともなかった。それでも主翁は呼吸いきめるようにしてその下を通って往った。

 半町はんちょうばかり往くと桐島のやしきが来た。花崗岩みかげいしを立てた大きな門の上には電燈が光っていた。その電燈の上に裸樹はだかぎの桜の枝がかすかに動いていた。

 書生は左側にある耳門くぐりから入った。主翁もそれにいて往った。門の中には門番のいる硝子ガラスの小さな建物があっていていたが、番人の姿は見えなかった。

 書生は正面の玄関のほうへ往った。庖厨口かってぐちのほうへ往くには、そこを左に竹垣に沿うて曲って往かねばならなかった。

「こっちじゃありませんか」

 主翁はちょと立ちどまった。白い書生の手がこっちへ来いと云うように動いた。主翁は書生の方へ歩いて往った。寒い風が庭の植木の枝を吹いていた。

 玄関の前には大きな蘇鉄そてつを植えた円形の植込うえこみがあった。電燈の燈がのこぎりの歯のようなその葉に明るくしていた。二台の自動車がその左側に置いてあった。玄関には十足ばかりの靴や下駄げたが見えて障子しょうじが閉っていた。書生は玄関をあがった。

「私はうち玄関の方で待っております」

 主翁はなんぼなんでも玄関からあがれないと思った。書生は障子にすこしの音もさせずに、すうと開けてふりかえり、白い手をあげて招いた。

「でも、あんまりでしょう」

 書生は黙ったなりにまだ招いている。主翁ていしゅはしかたなくあがった。玄関の火鉢ひばちの傍には一人の書生がいて、それが火鉢に隻肱かたひじを突いてねむっていた。

 主翁をれて来た書生は、そのまま奥の方へ入って往った。主翁はしかたなしにそのあとからいて往った。主翁は何時いつの間にか廊下を歩いていた。左側に並んだへやには、どの室にも電燈が明るくいていた。廊下を左に折れ曲って往きあたると、西洋室せいようまになってドアが締っていた。書生はそれを開けて入り、隻手かたてドアを押え、隻手でまた手招きした。主翁は入って見た。

 室の中は晩春のように暖かであった。そこにはねだいがあって、髪の黒い、黄いろな顔をした男が、呼吸苦いきぐるしそうにして左枕ひだりまくらに寝ていた。主翁はこれが御病気だと云う伯爵の殿様だなと思った。その枕頭まくらもとには二人の看護婦が椅子いすに腰をかけたなりに眠っていた。また榻の脚下あしもとになったほうには、絨緞じゅうたんの上に蒲団ふとんを敷いて五六人の男が坐っていたが、これも俯向うつむいたり、うしろの壁に寄っかかったりして眠っていた。

 主翁は書生と並んで立った。主翁はじぶんをこんな処へれて来てどうするつもりだろうと思って、そっと書生の顔を見た。主翁は怖れて眼前めさきくらむように思った。それは数月前すうげつぜんに自動車にかれて惨死ざんしした山脇やまわきと云う書生の顔であった。書生の顔は正面まともに主翁の眼に映った。

「豆腐屋、お前は俺の云うことを聞くんだぞ」

 主翁はがたがたと震えた。

こわがることはない、俺の云いつけどおりするなら、怖がることもなんにもない」

「は、はい」

 書生は隻手かたてふところに入れて懐の中から何か出した。それは黒いたすきのように輪にした小紐こひもであった。

「これを殿様のくびいて来い、ただ捲いて来さえすれば好い、お前がどんな音をさしたって、起きる者は無いから、大丈夫だ、捲いて来い」

「は、はい」

「早く、云うとおり捲いて来い、云うことを聞かないのか、早く捲いて来い、ただ捲いて来さえすれば好い、べつに何もしなくても好い」

 小紐は主翁ていしゅの手にかかった。主翁はふるい震いそれを手にした。

「それ、早く往って捲いて来い」

 主翁はしかたなくねだいの方へ歩いて往った。歩きながら何人たれかに眼を覚まされて見られては大変なことになると思った。彼の足は何を踏んでいるのか判らなかった。

 主翁は伯爵の傍へ往った。伯爵はうなっていた。主翁は小紐を出して、そっと伯爵のくびに捲こうとした。と、小紐は風に吹き寄せられるように手許てもとに寄って来た。主翁はこれは失敗しまったと思って、またあごの下からその紐をかけたが、かけてしまうとまた寄って来た。それはじぶん周章あわてているので好く捲けないと思った。で、主翁は気を引き締めてまた紐を頸にやった。が、その紐も手許にもどって来た。

 主翁は震い震い引返して来たが、書生の顔を見るのが恐ろしいので、俯向うつむいたなり小声でおずおずと云った。

「どう云うものか、ねかえってきつきません」

「そうか、捲きつかんかも判らない、ではこれを枕頭まくらもとに置いて来い」

 書生はふところから小さな石を二つ出してそれを見せた。

「これを殿様の枕頭へ置いて来い、どこへ置いても好い、この石なら大丈夫だ、置いて来い」

 主翁ていしゅ小紐こひもを持ったなりにその小石を受とって、また伯爵の方へ往って、枕頭へそっと置いて逃げるように帰って来た。

「こっちへ来い、ここでは紐が捲けそうもないから、捲ける処へ往こう」

 書生はドアを開けて出ようとしてふり返った。主翁も引きずられるようにいて往った。主翁は庭前にわさきを歩いていた。庭には池の水が暗い中にねずみ色に光っていた。池のへりを廻ると離屋はなれ縁側えんがわになった。書生は縁側へあがって微暗うすくらへや障子しょうじを開けた。

 奇怪な絵画がそこに見られた。ねだいに寝た女が蒼白あおじろい左手を張り、そのてのひらで左の耳元を支えて、すぐ鼻端はなさきに腰をかけた男とはなしているところであった。緑色のおおいをかけた電燈の光が、なまめかしく榻の周囲まわりを照らしていた。主翁は一見て、女はいつも木彫の人形のような顔をしてる伯爵夫人で、男は自動車の運転手と云うことを知った。主翁は悪い処へ来たものだと思ったが、どうしたものかもう熱病患者の見ている幻覚のような気がして、それ以上に心を苦しめることはなかった。主翁は書生の顔を見た。主翁はもう奇怪な書生に対する恐れもなくなっていた。書生はすごい笑顔を見せたのちに右の手をあげて何も云うなと云うようにそれをった。

 夫人と運転手は二人が入って来たことが判らないのか、話をそのまま続けていた。二人は何を話しているのか話し声は聞えなかった。主翁ていしゅ演戯しばいでも見るような気になっていた。

「もすこし待っておれ、今に面白い事件が起るぞ」

 主翁の耳に書生の声が聞えた。

「この二人は、何をしている処でございましょう」

 主翁はこう云って聞いてみた。

「伯爵が病気になったのを好いことにして、二人でこうして媾曳あいびきしているのだ、これも、俺が復讐にさしていることだ」

「それは、またどうしたわけでございます」

「もとの起りは、やっぱしこの不品行ふみもちな夫人さ、俺と夫人との関係が知れると、あの悪党、ここにいるこの運転手に云いつけて、夜、俺が早稲田の先輩の家から帰るのを待ってて、石切橋いしきりばしの傍で轢殺しきころしたものだ、世間では、俺がぬしの知れない自動車に轢殺しきころされたと云うことになってるが、悪党のやった仕事さ、あの悪党奴、夫人と俺との関係をあばきたてて、夫人を追っ払って、下谷したやに置いてあるめかけを引きずりこもうと思ったが、養子という弱身があるので、いろいろ考えた末に、まず俺だけほうむって、夫人の方はあとまわしにしたのだ、もすこし待っておれ、あの悪党奴に復讐する時が来たのだ」

 書生はまた物凄ものすごく笑った。

「悪党と云いますと、殿様でございますか」

「そうさ、伯爵さ、貴族院議員なんて澄まし込んでやがるが、悪党だよ」と云った書生は、急に主翁の肩を突いて、

「見ろ、あのざまを、もう、すぐ演戯しばいが始まるぞ」

 主翁ていしゅねだいの方を見た。夫人の両手が蛇のように男のくびにからみついていた。同時にかすかな女の笑い声が聞えた。

「もすこしこっちへ寄るがよい、今に役者が入ってくる」

 書生は主翁の衣服きものつまんで引っぱった。主翁は云うとおりになって書生の方へ寄った。そこには書生が開けたままの障子しょうじいていた。主翁は障子の方へ注意していた。

 よたよたと歩くような跫音あしおとが聞えた。いよいよ何人たれかが入って来た。と、思っていると、今まで母屋おもや西洋室せいようまで寝ていた病人の伯爵の顔が見えた。大変悪くて寝ずの番までしている病人が、どうして歩いて来たのだろうと思って、主翁は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。伯爵はよろけるように中へ入ったが、榻の醜怪なさまが眼にると、けだもののようなうなり声を立てた。

 運転手は夫人の手をふり払うと、横倒しになっていた体を起した。伯爵の左の手がその胸倉むなぐらにかかった。夫人も驚いて榻の上に起きなおろうとした。伯爵の右の手が頭髪かみのけの多いその頭にかかった。伯爵はまた獣のようにうなった。そして、大きな呼吸いきを苦しそうにした。

「何を遊ばされます、そんな野蛮な、しもじもの者のなさるようなことはつつしんでください」

 夫人は伯爵の手をけようとしたが放さなかった。

「放してください、そんな乱暴なことを遊ばされては困ります」

 伯爵はまた唸り声を立てた。

「旦那、もうこうなったうえは、私も卑怯ひきょう真似まねはいたしません、放してください、そんなにせられちゃ、呼吸いきもできねえのだ、まあ、ゆっくり話しましょう、何も騒ぐことはありませんよ」と運転手が冷やかに云って、その手をけようとしたが除かなかった。

「さあ、今だ、今往って、あのひもけて来い、今ならきっとかかる」

 書生はこう云って主翁ていしゅを突くようにした。主翁は足が進まなかった。

「あんなことをしてるから、いくらお前がそばへ往ったって判らない、ただ、その紐を、くびへ掛けて来さえすれば好い」

 主翁はしかたなしに伯爵の方へ近寄って往った。伯爵は大きな呼吸いきをついていた。主翁は握りしめていた小紐こひもの輪を両手にひろげて、背の高い伯爵のうしろから投げかけた。紐はふわと伯爵の体にかかった。と、同時に伯爵の体は仰向あおむけに倒れた。主翁は書生のそばへ逃げて往った。

「よし、よし、うまくいった」

 書生は主翁を迎えて気もちよさそうに笑った。主翁はそのことばを聞きながらうしろの方をふり返った。夫人と運転手が伯爵の枕頭まくらもとに立って何かささやいていたが、やがて運転手は夫人と別れてあたふたと部屋の外へ出て往った。

「人が来てはめんどうだから、あいつ逃げて往く処だ、もう、俺達の用も済んだから、いっしょに帰ろう」

 書生が往きかけるので、主翁もすぐあと引添ひきそうて往った。池のそばや林の中に書生の姿が見えた。主翁はただ書生に遅れまいと思っていて往った。

 微暗うすぐらい門番のへや燈火あかりが見えた。真暗い空から毛のような霧雨きりあめが降っていた。書生の体はもう耳門くぐりもんから出た。主翁ていしゅもそのあとから耳門くぐりもんを出たが、ほっとしたような気になって心がのびのびした。

 門の前には一台の自動車が黄色な橙黄色とうこうしょく燈火あかりけて横たわっていた。主翁は何人たれか見舞に来た客を待っている車だろうと思っていた。と、書生がその方へ歩いて往って中へ入った。書生の顔はもう自動車の中で黄いろな燈火あかりの中に浮いていた。

「おい豆腐屋、今晩は世話になった、おかげで俺のかたきは打った、まだ片割かたわれは二人残っているが、それは三月みつき四月よつきのちだ、しかし、その時は、別にお前の手を借りなくても好いから、心配しなくって好い、では別れよう、別れのしるしに、それ、お前に見せてやるものがあるぞ」

 主翁は書生の右の手に眼をやった。そのの上には伯爵の首が乗っていた。

 自動車はすこしの音もなく動き出した。

 主翁は倒れてしまった。


「気がいた、気が注いた、気が注いた」

 悲痛な女の喜び声を聞いて主翁は眼を開けた。女房がじぶんの顔をのぞき込んでいた。

「お前さん気がついたね、気もちはどうだね」

 主翁は合点がてんがいかなかった。主翁は眼をはっきり開けて四辺あたりを見まわした。枕頭まくらもとには心安い隣家の下駄屋げたやの主翁や、荒物屋あらものやの主翁などが二三人坐っていた。

「ぜんたいどうしたんだ、俺には判らねえが」

「では、気もちが好いのだね」

「なんともないよ、どうしたのだ」

「お前さんが表の戸を開けに往って、ひっくりかえったきりで、判らなくなったから、お隣の方に来てもらったり、お医師いしゃを頼んだりして、大騒ぎしていたのだよ」

 主翁ていしゅはそれではあの書生とおやしきへ往っていたことは夢であったのかと思いだした。そう思うと主翁は安心してしまった。

「そうか、そうか、俺は、また、変な、とほうもない夢を見ていたのだ」

 しかし、主翁はそのとほうもない夢のことは話さなかった。


 その日の昼ごろになって桐島きりしま伯爵が歿くなったと云うことが聞えて来た。豆腐屋の主翁はそれを聞いて真青まっさおな顔をした。

 年が明けて春になったところで、桐島伯爵の未亡人と運転手が鎌倉の海岸で変死した。豆腐屋の主翁はその時分から気が変になった。






底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会

   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行

底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社

   1934(昭和9)年

※「微暗うすくらい」と「微暗うすぐらい」の混在は、底本通りです。

入力:川山隆

校正:門田裕志

2012年5月22日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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