伊井蓉峰の弟子に石井
孝三郎と云う
女形があった。絵が好きで
清方の弟子になっていた。あまり好い男と云うでもないがどことなく味のある顔をしていた。
下廻で
田舎を歩いていた時、
某町で楽屋遊びに来る十七八の

な女を見つけた。それは
髪結をしている唖女であった。下廻で宿屋に往けないので小屋に
寝臥していた石川はその女と関係して夫婦約束までした。
そのうちにそこの芝居は終って、一座は次の町へ往くことになった。いたる処で女をこしらえてそれを煙草の吸殻を捨てるように捨てて往くのを権利のように思っている社会ではあるし、女房を養う腕はなし、そのうえ唖ではとても将来をともにすることができないので石川もたかをくくっていると、はたの者が
岡焼半分に、石川は他に
佳い女があるので、捨てて往くつもりだと云ってたきつけた。たきつけられた女はその
夜おそく石川の
許へ来たが、来るなり石川に
打ってかかった。石川はやっと女をなだめて、ともに
伴れて往くことにして
黎明を待って出発した。そして、
立場に往ったところで
夜が明けた。
夜が明けると女は着がえの一枚も持っていないことに気が
注いた。女は
衣服と
杖頭を
執って来ると云って石川を待たしておいて引返した。石川は
後でまた女のことを考えてみたが、どうしても唖の女を
伴れて往くことはできないので、女に場所を知らしてないのを
幸にしてそのまま逃げて目的の町へ往った。
その時の芝居は旧派と新派の合同芝居で、開場の日は旧派が青い帽子に新派が赤い帽子を
冠て、車に乗って町まわりをした。そして、
某川の川原へ往ったところで、石川は小便がしたくなったので車をおりた。川原には五六人の者が集まっていた。石川は何んだろうと思って傍へ往ってみた。そこには水死人があって
菰をかけてあった。石川は好奇心にかられてその
端をめくってみた。
壮い女の
仰向けになった死体であった。石川は一眼見てのけぞるほど驚いた。それは
己が捨てて来た唖の女ではないか。石川は急いで車に乗って一行の
後を追ったが、
酷い熱が出て芝居ができないようになった。病気では小屋に寝てもいられないので、三人の仲間の借りていた
饂飩屋の二階へ寝かしてもらったが、そのうちに夜になって仲間は芝居に往った。石川が一人で電気の暗い
室の中に寝ていると、へだての
襖がすうと
開いて入って来た者があった。饂飩屋の家族が来たものだろうと思ってみると、それは
彼の唖の女であった。ぼうとしていた石川は、おや、やって来たのかと思ったところで、女はするすると、傍へ来て
蒲団の
襟に手をかけた。
石川はその時になってはじめて女の死んでいたことを思いだした。石川ははっと思って女を入れまいとしたが女はもう中へ入った。石川は
怕くてしかたがなかったが、女がべつに
怨むようなことも云わないので、やっと安心して女のするままになっていた。そして、
何かの機会に気が
注いてみると、夢が覚めたようになって女は傍にいなかった。
唖の女は翌晩もその翌晩も翌翌晩も病床に来て夫婦の道を
行った。石川は困ってそのことを
中間にざんげして、
「おれは、女の
祟りで死ぬる、おれの
衣服の
襟に三四円入っている、死んだら故郷へ知らしてくれ」
と云ったが間もなく回復した。その石川は関東大震災の前後に物故した。