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菜の花月夜

片岡鉄兵





 巨大な高原だ。どこまでも拡がる裾は菜の花で、盛り上つて、三里北の野末に、日本海が霞んで見える。淡彩の青の中に、ポッチリ泛んだのが隠岐の島だ。

 菜の花月夜の季節が来た。

「菜の花月夜ぢやけん、今に誰かが狐に騙されるぢやろ」

「助平が一番騙され易いさうぢや」

「一ぺん、別嬪の狐に出会うて見たいわい」

 村の若い衆は農閑期の気安さに夜が更けるまで、さまよひ歩いた。

 日本海が大口開けて吐く靄は、月に濡れた菜の花盛りの、高原目掛けて押し寄せた。されば此のおぼろに乗じて狐も跳梁しよう······草のいきれと花の吐息とは、靄に溶けた月光の中にしのぶ狐の脂粉を思はせた。

 だが、狐に用心してゐる間に、もつと恐しい欺瞞の計画が、地主とその手先きとの手で実行される日が来た。

 小作人たちは、どうも昔のやうに云ふことを聞かなくなつて来た。野放図な奴は、地主に口答へするばかりか、かげでは不隠な[#「不隠な」はママ]悪口も云つてゐる。要するに、小作人たちは次第に「悪化」する気配だ。で、これは村のために良くない事だ、と地主の秋山の胸は考へる度にギクリとするのだ。

「わしは昔がなつかしいよ。村全体が一家のやうに丸く治まつてゐた昔がなア。わしが大きな家族の主人で、みんなは俺の子だつた、それほど良うなづいて、仲良う働いて呉れたのに||今はどうぢや。小作料が高いの、人間は平等ぢやなぞと抜かして、屁理窟ばかりこね居るわい。それぢやア百姓は立つて行けんぞな」

 地主の秋山は嘆息して、「わしの不徳だが」と言ひ添へた。

 お可哀想な御主人さま、農村の美風をどうして昔に取り返さうかと悲しんで居なさると思ふと、秋山の番頭みたいに、米の検見や小作米の取立てを勤めてゐる山口は一つどうしても智慧袋をしぼらねばならぬ破目だつた。

 で、山口は好いことを考へついた。

「小作人共には、酒を飲ませちやるに限りますわい」

「ふむ。費用はどの位ぢやらう」

「まア張り込みなされ。若旦那の婚礼が宜しうござりましよ。早う嫁ごを捜して、この農閑期のうちに、盛大な式をあげなされ、その時、うんと飲ませちやつて、荒つぽい奴らの気持を柔らげちやりなされ」

「うん、よし、嫁を早う捜せ」

 番頭は、しめたと思つた。仲人料も貰へるしといふ肚だつた。そして、早速嫁捜しに取りかゝつたが||花嫁はやがて見つかつた。

 その婚礼の日取りが、菜の花月夜の最中に当るのだつた。



 婚礼の夜が来た。

 地主の息子といふのが、少々抜けた若者だつた。今頃は娘つこだつて、親が勝手に取決めた婿は一応悲しい顔で否認するのが常識なのに、地主の息子正吉は、一遍の見合ひをする暇もなく早々に取決められた縁談に対して、懐疑的な嘆息ひとつしなかつた。

 彼はたゞ嬉しいのだ。

 地主の邸の庭さきに、小作人から選抜された声自慢が花嫁をお迎ひする人足として、集つてゐた。これらの若者は、声自慢でもあるし、また村の不平分子の精鋭でもあつた。彼らに酒をうんと飲ませて、地主と小作人との親睦を計るのが、今日の嫁取りの大きな目的の一つでもあつた。

 さて、菜の花月夜だ。

 黄色な月夜である。日本海から押し寄せて来る靄で、おぼろにかすむ月夜である。

えこと、しやがるなア」

 庭さきに屯して、若者たちは、ニヤリ/\と花嫁のきりやうの予想話だ。

「ほれ見い、あの態を······

 母家の縁側に、もはや紋服を飾つた花婿正吉が立ち現れたが、すぐ又障子の中に消えてしまつた。

「さつきから、何度あそこへ出たり入つたりしとるんぢや」

「待ちどほしうて耐らんのぢやろ」

「俺はまた、早う飲みたいわい」

「芸妓は、もう来とるぞ」

「ハヽヽ」と、何か猥褻なことを云つて、みんな一度に笑つた。

 台所口から、盛に煙が立ちのぼつた。門と母家の間の空地は、無数の提灯で昼のやうに明るかつた。その月と溶け合つた淡い影の中を手伝ひの女たちが賑やかに右往左往した。邸中の隅々から、笑ふ声やはしやいで罵る声が、ひつきりなしに起つた。

 かすむ月は中天に在る。

「然し」と若者の一人の良三が云つた。「山口の野郎は、何と考へても好い気味ぢやないか」

「今頃は、うん/\唸つてけつかろ」

「おかげで今夜は酒がうまいぞ」

 その通りだつた。番頭と云ふよりは仲人の山口が、今夜急性胃腸カタルで、どうしても此のかんじんな婚礼に立ち会へないと云ふのは、確かに「酒をうまく」することにちがひなかつた。

 山口は三四町はなれた自宅で、ウン/\呻いてゐるのだつた。「お嫁さんの家の御紋は下り藤ぢや。川下から、下り藤の定紋のついた提灯の行列が来たら、それが花嫁さんと思へ||そして、間違ひなく、お迎ひに出るんだぞ」

 それだけの下知をしておいて、山口はひとり淋しく、自分の家で唸つてゐるのだつた。

 やがて空なる月の在りかは、三里川下の町から来る花嫁の行列がもう到着してもよささうな時刻である。



 地主の家に手伝ひに行かない者は、みんな村境のあたりへ出て行つて、わい/\騒いでゐた。声自慢の人足に選抜されそこなつた若者は、お酌取りに選ばれ損つた娘つこを月の下で物色してまはつた。おなみ婆さんは地主の今の旦那の婚礼の時の模様を、誰彼となしに、くどくどと物語つてゐた。若い弓三は、往来の向う側の群の中にお吉を見つけて、ニヤリとした。お吉は、白い額をこちらへ向けたまゝ、眉ひとつ動かさなかつた。弓三は、じれつたくなつて、

「おい!」と呼んだ。それから、何か、からかつた。お吉が罵りかへした。おのれ、と云つて、弓三は往来を突つ切つて、お吉の方へ突進した。お吉は群衆のうしろの方へ逃げる。弓三が追つかける。お吉をかこんで、娘たちが密集した。そこへ弓三が飛び込む。キャッと叫ぶ。

「どうした、どうした」と他の若者たちが馳せつける。

「みんな気が荒うなつとるぞな」と、年寄たちが眉をひそめて嘆息した。

「来た!」

 その時、土橋の上から、子供たちが叫んだので、人々は俄かに緊張して、路の両側に突つ立つた。

「どこい||ほんまかな?」

「来た、来た!」

「おりよ、仰山な提灯ぢや」

 川下から、土手づたひに、夥しい提灯の行列が来る。まさしく嫁入り行列だ。

「下り藤かどうか、分らん」

 誰かが云つた時、土橋を一人の男がまつしぐらに走つて来た。

「皆さん、下り藤です」

 男は伝令の役で、そのまゝ、二三町さきの地主の家まで飛んで行つた。

 ころげるやうに、邸の門へ駈け込むと、大声あげた。

「見えました、見えました、下り藤の定紋ぢや!」

「ようし!」

 仲人代理の三浦といふ村会議員と、親戚総代の一組の夫婦とが、紋付袴で立ち現れた。声自慢の選手、十人の若者が立上つた。

 仲人代理を先に立てて、彼らはいとも厳粛な気持で、村境の方へ押し進んだ。

 その時、花嫁の行列は、下り藤の提灯に飾られながら、もう土橋の彼方にまで差しかゝつてゐた。

 箪笥、長持、七荷の荷物のあとに、花嫁とその一行の俥がなが/\と続いてゐた。

 来る者と、迎ひの者とは、土橋を渡つたところで、互ひに行き会つた。

「これは、これは、お目出度いお着きでござります。お迎へに罷り出ました」

「御苦労様でござります」

 行列はしばらくためらふ。と、声自慢の人足たちが、嫁取り唄を一度に唄ひ始めた。



どこか/\と尋ねて来れば

 此所は恋しい婿の里


 花嫁の行列の人足が、声自慢の声を張り上げた。すると、すぐ、花婿の方の人足が、それに答へて声自慢の声を合唱した。


来るか/\と迎へて見れば

 花も恥ぢらふ花嫁ご


 嫁取り唄のやり取りの内に、花嫁の荷は、来た人足の肩から、迎へた人足の肩へ移された。おぼろな月の下に、薄絹の角かくしも怪しく震えて、花嫁は俥上に白い顔をうつむけてゐた。これは全く、花も恥ぢらふその容色だ。行列は声自慢と声自慢の唄のやり取りのうちに、しづしづと進み始めた。

 土橋をわたつていよ/\村に入ると、路の両側に待ち構へてゐた群衆は、歓声をあげて、用意してゐたみやこの花(げんげの花)を、俥上の花嫁めがけて、一斉に投げかけた。

 おぼろに霞む菜の花月夜で、日本海から押しのぼつて来た靄の中、げんげの花は紅く、あたゝかい雪のやうに、花嫁の上に降りかゝつた。花嫁は、降りかゝる花を払ひ落す力もなく、うす絹の角かくしを花びらで染めながら、白粉の月かげも痛々しく眼をとぢた。

 行列は、ゆらり/\と、唄と歓呼と花との中を、坂の上の地主の邸さして進んで行つた。

 群衆は、どこまでも追つて行きながら、あらん限りの花を投げた。げんげが足りなくなると、路ばたの畑から菜の花を折つて投げた。落ち散る花は荒々しい人足の足に踏まれて、行列のすぎ去つたあとの路上に、点々として、白い靄の底に光つてゐた。

 そこらあたりはしつとりと青い植物の匂でしめつた。

 やがて行列は、地主の大きな門の中に吸ひ込まれた。唄は止んだ。花嫁と付添ひの肉親や親戚たちは、この地方の風習として、縁側から、座敷の中へ消えて行つた。

 村の群衆は、なだれを打つて木戸口から庭園の中へ躍り込んだ。

「こりやアまア、皆さん、ようこそ見にござつた」

 地主の家の挨拶として、下男が出て来て、庭を埋めた群衆にお辞儀した。

「お嫁さんのお土産代りに、まア一杯お上んなさいませえ」

 花嫁方の付添ひの一人が、大きな瓢を持つて、下男のあとにつゞいた。そして、群衆の誰彼に木盃を渡し、酒を波々ついでは、順々に飲ませて行つた。

 両方の人足共は、「御苦労でござんした」と互ひにいたはりながら、裏の離れで洗足を使ひ、そこの座敷に通つて行つた。祝言後の大宴会までには時間がある。その間のつなぎにとて、酒が出る||嫁取り唄はもう済んだ。今度はひとつ安来ぶしでも···



 で、少し酔ひもまはつたら、安来ぶしでも、と人足たちが上機嫌にお世辞のやり取りしてゐる頃||

 庭園の中では、群衆が、奥座敷の障子のあくのを、今か今かと待つてゐた。

 地方の風習で、祝言の前に、花嫁を座敷に坐らせ、障子をひらいて庭前の村人に見て貰はねばならぬ。群衆は、それを見るまでは立ち去らない。

 障子が開いた時、群衆は一時に鳴りをひそめた。それは全く、芝居のやうにきれいだ! 打掛を着た花嫁を中にして、両親、仲人たちがズラリと並んで、庭に向いてゐる。明るい燈火の中に、花嫁の姿は輝くやうだつた。先刻おぼろな月の下で見た彼女を、花も恥ぢらふと見たが、これはもう一そ太陽も星も恥ぢらふであらう眩しさだ。忙しい台所の手伝ひ人たちも、仕事を打棄うつちやらかして庭に走つて来た。誰も彼も、一目見ただけであつと感嘆の声をあげたまゝ、唾をのみこんだ。

 輝かしい夢は一瞬間だつた。音もなく、障子はしまつてしまつた。

「好えなア」

 ほつとしたやうに、人々は叫んだ。障子がしまつても、誰も立ち去らうとはしなかつた。

 障子の中では、座をかへて、其処に花婿がはの人々も立ち現れた。席がきまつた。男蝶女蝶の盃が生物のやうに、座の中央へ舞ひおりた。

 外では、群衆はやうやく諦めて庭を立ち去り始めてゐた。そして裏の方から、賑かな安来ぶしの声が、風にゆらめく菜の花のやうに、ゆつたり聞え始めて来た。

えなア」

「好え」

 群衆の若い者たちは、そこいらにうろ/\して、何かざれかけられるのを待つてゐる娘たちを眺めるのも、はかなすぎるやうな気持で、ぞろ/\門の方へ引つ返して行つた。

「ちゃア、りやア! 人の嫁さんに惚れんさつたんか」

「誰も惚れやせんがな。好えけん、好え云うとるだけぢやがな」

「それでも、眼の色がちがふ」

「どあはうが」

 いつもなら、からかつて来る娘の、背中の一つも叩かう所だが、今はそれをする元気も出ない若い衆だつた。たゞ白い花のやうな美しい幻が、ゆら/\と眼の前にゆらめいて消えなかつた。

 が、群衆が、門の所まで行つた瞬間だつた。人々は愕然とした。坂路を、こちらへ近づく嫁入り唄。

 人々は門の所へ駈けつけて見た。これは何うしたことだ。まさしく嫁入り行列が、賑かな唄と提灯とに飾られて、坂路をこちらへ上つて来る。

 その提灯の紋が、下り藤だ||



「大事ぢや、大事ぢや!」

 声をはり上げて叫びながら、両手を挙げて、下男は中庭を鶏のやうに走つた。月と提灯とで、昼のやうに明るい庭を突つ切つて、離れの入口から、ころげ込むやうにして飛び込んだ。

「大事ぢや!」

「どがいしんさつた?」

 双方の人足共は、安来ぶしをやめて、一斉に赤い顔を振り向けた。

「どがいも、こがいも、ないわい、出てみんさい。もう一つ来よつた、嫁入りぢや!」

「もう一つ?」

「門の下まで来とる、下り藤の定紋ぢや」

「なに?」

「それア、狐ぢや。菜の花月夜ぢやけん」

 惜しい盃だが、一先づ其所へ捨てて人足たちは立上つた。それつと許りに、離れを飛び出すと血相かへて門の方へ走つて行つた。

 邸の中は大騒ぎだつた。菜の花月夜の狐めが、騙しに来た。その大掛かりな行列が、其所の坂の下まで来てゐると云ふので、台所の女たちは、恐しさに立ちすくむ者もあつた。

 下男は、裏口から飛び出すと、すぐ近くの山口の所へ注進に走つた。

 門の所へは、村人や人足たちの群衆が、団子のやうになつて、もみ合ひながら、坂を上る行列を見おろしてゐた。


どこか/\と、たづねて来れば······


 嫁入り唄は、ゆるやかな海嘯のやうに、次第に近寄つて来た。

「畜生、来て見やがれ!」

 門の所で待ち構へた群衆は、半ば逃げ腰でかまへながら、互ひに元気をつけ合つた。一人の若者は、ふと思ひついて、台所へとつてかへした。

「火箸ぢや、火箸ぢや! 火箸を焼くんぢや!」

 彼は、台所の女共を叱りつけるやうにして叫んだ。伝説によれば菜の花月夜の狐は、焼火箸をお尻にあてると、忽ち正体を現して逃げ失せると云ふのであつた。

 然し、狐の行列は、今、門の前に到着した。

「お嫁さまのお着きでござります」

 一人の徒士の男が、進み出て、半分皮肉な調子で群衆に呼びかけた。

「何所のお嫁さんで、ござるかな?」

 門の中の群衆の一人が、咎めるやうに云つた。

「知れたことぢや。御当家へお越し入れぢや、この村ぢや、お嫁入りのお迎ひも出されぬしきたりか?」

 群衆はしいんと沈黙した。狐にしては、あまりに真に迫つた行列だ。下り藤の定紋打つた提灯の海、荷物、打ちつゞく俥||花嫁はおぼろな月の下で、白々と花咲いてゐる······すると、

「どうぢや、どうぢや!」

 と、焼火箸を槍のやうに引つさげた若者が、勇気に溢れて戻つて来た。



 俄嵐のやうな、戸外の騒ぎに、祝言の席では、花嫁も、花婿も、親戚たちも、ぽかんとして互ひの顔を見合せた。

 いつも、しとやかに、うつむいて居なければならぬ花嫁も、つい顔をあげて耳を聳てた。花婿は、その顔に見とれて外の喧騒を忘れた。三々九度の最初の盃の前に酌の少女がしづかに進んで、花嫁を無言で促したが、彼女は盃を取上げようともせずに、ぽかんとしてゐた。花婿はにやりとした。

「ちよつと」

 地主は酌の少女に、しばらく待てと云ふ合図をしておいて立上つた。そして、障子をあけて、廊下の方に出て行つた。

「あの||

 花嫁の母親が、花婿の間の抜けた顔が可笑しくなつて笑ひたいのに困つて、傍の親戚の一人を顧みて何か囁いた。

 で、そのまゝ、彼らにとつては永い一時ひとときが、窮屈な沈黙のうちに過ぎた||

 その間に、地主は庭下駄をつゝかけて、門の方へ走つて行つた。焼火箸を持つた若者が、台所から戻つて来て、騒ぎが一層緊張した時だつた。

「待て、待て!」

「旦那! ごらんの通りぢや」

「ふむ」

 地主は呻いて立ちすくんだ。もう一つの花嫁の一行が到着した。これは一体何事であらう? 地主の頭は混乱した。

 が、その時、今日急性胃カタルと疝気とで寝てゐた仲人の山口が、寝衣の上に、ほうしよの紋付を羽織つて、頑丈な肩に背負はれながら、坂路を上つて来てゐた。

「お待ちんさい、お待ちんさい!」

 坂路を急ぎながら、山口は声をしぼつた。

「えらい間違ひぢや! 皆さん、えらい間違ひぢや!」

 祝言の席ではいつまでも地主が帰つて来ないので、手持無沙汰にすつかり疲れてしまつた。

「あの||

 再び花嫁の母親が行儀よく身をねぢて親戚の一人を顧みた時だつた。廊下にあわたゞしい足音がして障子がガラリと開いた、ほうしよの紋付を羽織つた山口が敷居の上に崩れるやうに坐ると押し潰れたやうに平伏した。

「誠に皆さん、済みません事でござります。只今、本当の花嫁さまがござつたので······その||

「何です?」と花嫁方が坐り直すのを、

「いや、それは」と、山口はあわてて押しとゞめて、「何事も、私がわるいのぢや、こなたへお輿入れの花嫁さまは······いや、何と断つて好いやら、私はもう分りませんわい。こなたは、秋山家でござります」



「こなたが秋山家であるのは、能う承知しとる、秋山家に嫁入りして来たのぢや、それが何でいけんのぢや?」と、花嫁の親は真赤になつて詰め寄つた。

「秋山家に······」と仲人の山口は呆れた顔だつた。「いつたい······貴方さまは、尾高の水島さんで······

「尾高の水島? 知らん、わしらは能義郡の母里村の者ぢや、母里の遠藤ぢや。今日が日取りと決めておいて、今更ら怪しからんことを云ひなさる」

「でも······

「こなたが秋山家でないと云ひなさるか?」と声が烈しくふるへた。

「秋山家ぢやと、初めから云つとりますがな」

「そんなら何が、いけんのぢやな?」

「こなたは、母里の遠藤さんと御婚約がありませんもん」

「なにう云ふんなら! 安来の島崎を仲にしてあんなに呉れえ/\と云うといて······

「安来の島崎いふ人う、知らん」と山口は呟いた。

「わしらの娘は、何ぼでも貰ひ手があるのに、何ちふことなら、江尾の秋山ともあらうものが何ちふことなら!」

「分りました。それで分りました。これやア、えらいことぢやつた、江尾の秋山さんなら違ひますでな。こなたは、溝口の秋山家でござるぞなア」

「なに、違ひましたか?」

 これは全く、大きな間違ひだつた。この嫁入り行列は、二里奥の江尾村の秋山家と、溝口村の秋山家とを取りちがへて来たし、迎ひの人足は遠藤家の行列を、下り藤の定紋ゆゑに、水島家の行列と思ひちがへ迎へて入れたのだつた。

 其所で、俄かに、折角祝言の座にまで坐つた嫁入りの一行が、再び立上つて、行列の仕直しをしなければならぬと云ふ仕儀になつた。

「皆さん、済みません、済みません、えらいこと間違ひました。わるう思はんで下されませなア」

 山口は人足達の所へも詫りに行かねばならなかつた。

「ありや、ありや」

「どつちが狐か分らんがな」

 再び草鞋を締め直して、人足たちはぶつ/\騒めいた。村の群衆は、新たに来た花嫁に撒きかける花をとりに、畑の方へ走り去つた。間ちがひの嫁入りの一行は、やがて列を立て直して門を出るし、あとから来た行列は、門の中へと入つて来た。

 今度来た花嫁の顔が、中庭の明りの中に曝されてゐる。それは又、先き程の花嫁とは何といふ違ひだらう。

「なつとらんぞ、これや」

 と、花を投げかける群衆も、肚の中では地主の倅めが好い気味だと笑つた。

 気の抜けたやうな月かげの下で、気の抜けたやうな嫁入り唄だ。



 二度目の花嫁と祝言の座に向ひ合つた時、そして、先刻と同じやうに、男蝶女蝶の盃がしづかな生物のやうに舞ひおりた時、花婿は、俄かに腹立たしくなつた。強く引き緊めた帯と袴との下で、腹の中があつく煮える程、うらめしくなつた。

 こんな顔をして入つて来た嫁女が怨めしかつた。こんなのを捜して来た山口が、怨めしかつた。そんな山口を信用してゐる父親が、怨めしかつた。

 糞! 人を何だと思つてるんだ!

「お父つあん、ちよつと」

 花嫁が土器かはらけを取上げて、銚子の酒を受けてゐる時、正吉は突然父を促すと、スウッと立上つて次の部屋に行つた。

 みんな、あつけに取られた。

 父親が渋い顔をして、倅のあとから立つて行くと、次の間の、うす暗い隅で、倅の眼が青黒く光つてゐた。

「いけりやアせんがな!」と、倅は云つた。

「何が?」

「あんなの!」

「あれか? けど、今更ら······

「わしは、祝言しませんけん」

「何なら! あはう。早う行かう、気に入らんのなら、半年ほどしていなしたら好えがな」と半分は宥め、半分は叱つた。

「いなしたら好えけど、初めのがわしは欲しいけん。あれを呼び戻してつかはさい!」

「あれはお前、江尾の秋山の嫁さんぢやアがな」

「知らん、知らん! 江尾に行かんまに、早う呼び戻して来てえ」

「そがいな無理があるか!」

 たうとう父親は怒つてしまつた。そしていきなり息子の肩を、羽二重の羽織の上からむづと掴んだ。

「早う来い!」

 祝言の席へ、引張り込むやうに力をいれた。

 母親が心配して、立つて来た。

「何うしとりんさる?」

「これが、あはうを云ひ出して困るがな。先の嫁を、呼んで来て呉れ云ふんぢや」

「ありやアりやア? そのいな事が||無茶ぎり云ふ」

「早う行け!」

 父親は、声をひそめて厳粛に叫んだ。倅は怨めしさうな眼をチラリと投げたが、諦めたやうに、祝言の席へ帰つて行つた。

「縹緻が悪うござんすけんなア」

 母親は、良人の耳もとへ囁いてニヤリとしたが、明るい祝言の座へかへると、再びつんと澄まして扇子を持ちなほしながら、

「あの、では」と、銚子の少女に盃ごとを始めるやうに合図した。



 祝言は済んだ。

 広間では、賑かな宴会が始まつた。

 花嫁と花婿は、奥の六畳の屏風の中に引つ込み、その肉親や親戚が休息に退くと、宴会の席は、村の者と、双方の人足とだけになつた。酒と騒ぎは、これから本式だ!

 人足と人足との唄くらべ、芸くらべ、やけに響く三味線、奥の屏風の中まで、それが手に取るやうに聞こえた。

 床盃が済むと、屏風の中は二人きりになつた。

 二人とも黙つてゐた。

 安来ぶしが済んで、小原ぶし。誰かが余程しつこい悪戯をしてるらしく、キャッ、キャッと、芸者の悲鳴が聴えて来る。

 お婿さんは黙つたまゝ立上つて部屋を出て行つた。

 父親が差配の山口と何か小声で話してゐる所へ、倅が長襦袢ひとつで、姿を現した。

「お父つあん、負へん、おへん! どのいしても、あんなのしんぼう出来ませんけん」

「今になつて、どうすれア。寝え、寝え」と、父親は取合ふまいとした。

「山口!」と倅はすこし青白めて差配を睨み据ゑた。「お前、あんまりぢや。わしに、あんなヒョンなの押しつけても、わしア、知らんけん」

 花婿は荒々しく立上つて、宣言するやうに二人に云つた。

「明日は、あの嫁いなしてつかはさい、それがいけねえやア、わしア死ぬる!」

 そして、ぷいと、部屋の外に出て行つた。

「おどれ、どこい行く?」

 父親は罵りながら、障子の所から、倅の行方を睨んだ。倅は廊下を、奥とは反対の方へ行つて、いつもの自分の部屋に入つてしまつた。

「どのい、せうにい?」

 父親は、ほと/\困つたやうに山口を顧みた。が、急に腹立たしさうに声を荒らげて、

「山口! お前の責任ぢや!」と叫んだ。

「違ひますわい!」

「嘘うつけえ。お前の責任ぢや」

「痛々、痛ア、ちよつと待つてつかはさい。腹がハシつて来ました······

 山口はぢつと腹を片手で押へながら、うつ伏せになつてゐた。が、急に身を起すと、ポン、と膝を打つた。

「分つた! これや、怪しからん。行列を取りちがへて迎へ入れたのはなア、あれア、みな百姓共が、わざとした事でせうぞい」

「本当か?」

「こなたを困らせちやらう思うて、百姓が、企んだ仕事ぢや」

「なに」

 地主の眼は見る/\吊り上つた。


アラ、エッサッサア||


 又もや安来ぶしだ。その声は、地主を嘲る小作人の声のやうに地主の耳に響いた。

「よし、山ア取上げちやれ!」


アラ、エッサッサア||




 地主の差配の山口が、おのれの手抜かりは棚に上げて、何も彼も小作人たちの罪になすりつけてしまつた。

 地主は、主だつた者の田を取上げると云つて、怒つてゐる。

 よし、怒るなら、怒れ!

 俺らは、俺らで、相談しよう。

 まだ、片づかぬ年貢問題を、婚礼の酒でごまかさうとした地主だ。俺らは、もつとのことで柔かくなるところだつた。

 俺らは、べつぴんの狐には騙されてやるかも知れぬ。だが、あの慾深な地主には誰が騙されるものか。

 菜の花月夜の狐に騙されたのなら、笑ひ事で済む。けれども、地主に騙されたら、俺らア、この上何で食うて行くのだ。

 輝やかな昼だ。菜の花の上に太陽が踊り狂つてゐる。花と太陽の海が、巨大な高原を眩しく拡げてゐる。三里さきには青い日本海だ。そして、隠岐の島は霞の中に泛んでゐる。

 不幸な地主の邸の門から、昨夜来た花嫁の行列が、しほしほとして出て行つた。俥の上の人々は面を伏せた。荷物のゆとうは色さめて見える。

 行列は菜の花畑の間を縫うて、橋に出た。そして川下へ、土手づたひに、日の降りそゝぐ中をいつまでも、黙々として行つた。

 みんな集れ。

 昨夜は嫁入り唄や安来ぶしで、酒くさくほどけてゐた百姓たちの顔が、今日は騙されそこなつた後の、憎悪と闘志とで引きしまつてゐた。

 みんな集れ。

 若い良三が、百姓の家の軒から軒へ、走つてまはつた。

 もう四五十日もしたら苗代になる。そしたら、地主の奴、きつと立禁と来るに違ひないのだ。

 俺らは、俺らで相談するためにみんな集れ!

 良三は今こそハッキリと百姓たちに「敵」を意識させるにいゝ機会だと、百姓の家から家へ飛んで走つた。

 みんな集れ!

 あちらの家からも、こちらの家からも、百姓が飛び出して来た。

 森の中からも。桑畑の中からも。

 来る、来る、みんな来る。橋の上を三人づれが来る。水車の前を一人走つてゐる。あちらの家からも、此方の家からも、飛び出して来る。

 百姓だ、百姓だ、百姓だ。

 みんな味方。

 敵は||坂の上の邸にゐる。ひつそりと、日光の中に、その邸の甍が光つてゐた。

||昭和四年三月||






底本:「花の名随筆3 三月の花」作品社

   1999(平成11)年2月10日初版第1刷発行

底本の親本:「片岡鉄兵全集」改造社

   1932(昭和7)年8月発行

入力:岡村和彦

校正:noriko saito

2011年1月11日作成

2011年2月22日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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